第1話 行き合いの雲
文字数 2,029文字
ぼくが暮らしているマンションのすぐ前には、まっすぐに進めば、やがて、最寄り駅へと通じる、わりと大きな遊歩道がある。
ある週末の昼下がり――。
その遊歩道の木漏れ日透かす木 の下陰 を、ぼくは奥さんと二人で、仲良く、逍遥していた。
すると突然、後方から「あ!」という、どこか悲鳴に似たような声がした。
え⁈ なに?
すっかりうろたえて、ぼくは慌てて、後ろを振り返った。
見ると、年端のいかない女の子が目に入る。
今にも泣き出しそうな表情を浮かべ、彼女はかなしげな眼差しで、上空を見上げていた。
その視線の行方を、ぼくも目で追う。
思わずぼくも「あ!」と彼女と同じような声を上げてしまう。
赤い風船――。
夏の名残がにじんだ風に乗って、ふわふわ、ふわふわ、たゆたうながら、天高く昇ってゆく。
そっか、かなしいよな。くやしいよな。そしてなにより、せつないよな……きみのその、ちっちゃな手から、するりと抜けちまったんだな。
彼女の心情に寄り添うことなく、あくまでも無情に、どんどん、空に昇ってゆく、赤い風船――。
女の子のその、せつなさや、くやしさや、かなしさなぞ、まるで歯牙にもかけず、やがて赤い風船は、一朶の雲と一つになろうとしている。
くしくも、その空には、行き会いの雲――。
秋風に乗って流れてきた雲と夏の名残を惜しむ雲とが交錯するかのように、天空で、自然の妙味を紡いでいる。
「めっきり秋の気配だな……」
その雲を見上げながら、ぼくは、ぽつんとつぶやく。
「ほんとにね」
背中に、奥さんの相づちが、優しく、そっと触れる。
ゆっくりと天空に昇る赤い風船同様に、過ぎ去ってゆく時もそれを惜しむかのように、ゆったりと流れていく。
う〜ん!
行き合いの雲に向かって、ぼくは両手を大きく突き上げる。と同時に、思いっきり背伸びする。そして、鼻孔から胸のうちに、秋の香りをうんと吸い込む。
ふう〜 いい気持ちだ。
小さな幸福感が、ぼくの頬を、だらしなく、ふっとゆるめる。
あ、ごめん――そのとき、ぼくはふと、気づく。女の子の大きな不幸に……。
苦笑交じりに、ぼくは内心ちょこんと彼女に首 を垂れていた。
その首を挙げたと同時に、ゆるんだぼくの頬を、心地よい風が優しく撫でていった。
秋の味覚――この雰囲気のせいにちがいない。
それが、いやしいぼくの脳裏に、そういう単語をいやおうなしに連れてくる。
するともういけない。
「今日の晩酌の肴は、そうだなぁ……うん、松茸。そう、それでいこう」
気がついたら、ぼくはもう、そう口走っていた。
その瞬間、妻の尖った視線がぼくの背中にぐさり突き刺さった、ような気がした。その痛みに、ぼくは思わずうろたえてしまう。
たぶんその視線には、妻のこんな本音が、くっきりとにじんでいるのだろう。
やれやれ、あなたの稼ぎで、よくも、そんな大それたことが口にできたもんだわ。あな、恐ろしや、というふうに……。
ふと脳裏に浮かんだことばを後先考えずに、つい口走る。それがぼくの、いつもの悪い癖である。
それで彼女に、しばしば、たしなめられてきた。だというのに、てんで、こりないのだから世話はない。
「な〜んてね……冗談だよ、冗談。あははは……」
バツが悪いのを、ぼくは笑ってごまかそうとした。でも、さすがに気がさす。
ここは、なにか気の利いた言葉のひとつでも口にして、この場をなんとか取り繕わねば――。
そんな強迫観念に駆られたぼくは内心、秋といえば、秋といえば、とつぶやいて懸念に首をひねる。
やがて、ぼくは、はたと膝を打つ。
うん、これなら――まんざらでもない考えが脳裏に浮かんだぼくは、上っ調子で口を開く。
「それより、あれだ。秋と言えば、やっぱ、庶民の味方、秋刀魚だ。うん、それにかぎる。ほんとうは、さっき、そう言おうとしたんだよね……と、とにかく、今日の晩酌の肴はそれ、それにしよう」
これで、妻の観心を得られたんじゃないの――。
ぼくはそうほくそ笑みながら、悠然と歩き出そうとした。だが――。
さっきとはと違って、今度は、こんな皮肉口調のことばが、ぐさり、ぼくの背中を突き刺したではないか。
「やれやれ、仕事以外のことは、からっきしうといんだから……あのねえ、今や秋刀魚は、すっかり高級魚に様変わりしちゃったの。だから、もはや松茸同様に秋刀魚も庶民の高嶺の花なの。なので、もちろん、それも却下ね」
え⁈ そ、そうなの――なんだよ、これじゃ、やぶへびじゃん……。
カア カア カア――。
行き合いの雲の下、どこかで、烏が喧しく鳴いた。
なんだよ、おまえまで、ぼくを莫迦にすんのかよ。えーい、こうなったら、こうしてくれる。
道端に転がっている、小さな石ころ。
思いきり、ぼくは蹴飛ばそうとした。
が、なんのことはない、見事な、空振り。
すんでのところで、すっころびそうに――。
カア カア カア
あ! またしても、こんちくしょうめ……。
おしまい
ある週末の昼下がり――。
その遊歩道の木漏れ日透かす
すると突然、後方から「あ!」という、どこか悲鳴に似たような声がした。
え⁈ なに?
すっかりうろたえて、ぼくは慌てて、後ろを振り返った。
見ると、年端のいかない女の子が目に入る。
今にも泣き出しそうな表情を浮かべ、彼女はかなしげな眼差しで、上空を見上げていた。
その視線の行方を、ぼくも目で追う。
思わずぼくも「あ!」と彼女と同じような声を上げてしまう。
赤い風船――。
夏の名残がにじんだ風に乗って、ふわふわ、ふわふわ、たゆたうながら、天高く昇ってゆく。
そっか、かなしいよな。くやしいよな。そしてなにより、せつないよな……きみのその、ちっちゃな手から、するりと抜けちまったんだな。
彼女の心情に寄り添うことなく、あくまでも無情に、どんどん、空に昇ってゆく、赤い風船――。
女の子のその、せつなさや、くやしさや、かなしさなぞ、まるで歯牙にもかけず、やがて赤い風船は、一朶の雲と一つになろうとしている。
くしくも、その空には、行き会いの雲――。
秋風に乗って流れてきた雲と夏の名残を惜しむ雲とが交錯するかのように、天空で、自然の妙味を紡いでいる。
「めっきり秋の気配だな……」
その雲を見上げながら、ぼくは、ぽつんとつぶやく。
「ほんとにね」
背中に、奥さんの相づちが、優しく、そっと触れる。
ゆっくりと天空に昇る赤い風船同様に、過ぎ去ってゆく時もそれを惜しむかのように、ゆったりと流れていく。
う〜ん!
行き合いの雲に向かって、ぼくは両手を大きく突き上げる。と同時に、思いっきり背伸びする。そして、鼻孔から胸のうちに、秋の香りをうんと吸い込む。
ふう〜 いい気持ちだ。
小さな幸福感が、ぼくの頬を、だらしなく、ふっとゆるめる。
あ、ごめん――そのとき、ぼくはふと、気づく。女の子の大きな不幸に……。
苦笑交じりに、ぼくは内心ちょこんと彼女に
その首を挙げたと同時に、ゆるんだぼくの頬を、心地よい風が優しく撫でていった。
秋の味覚――この雰囲気のせいにちがいない。
それが、いやしいぼくの脳裏に、そういう単語をいやおうなしに連れてくる。
するともういけない。
「今日の晩酌の肴は、そうだなぁ……うん、松茸。そう、それでいこう」
気がついたら、ぼくはもう、そう口走っていた。
その瞬間、妻の尖った視線がぼくの背中にぐさり突き刺さった、ような気がした。その痛みに、ぼくは思わずうろたえてしまう。
たぶんその視線には、妻のこんな本音が、くっきりとにじんでいるのだろう。
やれやれ、あなたの稼ぎで、よくも、そんな大それたことが口にできたもんだわ。あな、恐ろしや、というふうに……。
ふと脳裏に浮かんだことばを後先考えずに、つい口走る。それがぼくの、いつもの悪い癖である。
それで彼女に、しばしば、たしなめられてきた。だというのに、てんで、こりないのだから世話はない。
「な〜んてね……冗談だよ、冗談。あははは……」
バツが悪いのを、ぼくは笑ってごまかそうとした。でも、さすがに気がさす。
ここは、なにか気の利いた言葉のひとつでも口にして、この場をなんとか取り繕わねば――。
そんな強迫観念に駆られたぼくは内心、秋といえば、秋といえば、とつぶやいて懸念に首をひねる。
やがて、ぼくは、はたと膝を打つ。
うん、これなら――まんざらでもない考えが脳裏に浮かんだぼくは、上っ調子で口を開く。
「それより、あれだ。秋と言えば、やっぱ、庶民の味方、秋刀魚だ。うん、それにかぎる。ほんとうは、さっき、そう言おうとしたんだよね……と、とにかく、今日の晩酌の肴はそれ、それにしよう」
これで、妻の観心を得られたんじゃないの――。
ぼくはそうほくそ笑みながら、悠然と歩き出そうとした。だが――。
さっきとはと違って、今度は、こんな皮肉口調のことばが、ぐさり、ぼくの背中を突き刺したではないか。
「やれやれ、仕事以外のことは、からっきしうといんだから……あのねえ、今や秋刀魚は、すっかり高級魚に様変わりしちゃったの。だから、もはや松茸同様に秋刀魚も庶民の高嶺の花なの。なので、もちろん、それも却下ね」
え⁈ そ、そうなの――なんだよ、これじゃ、やぶへびじゃん……。
カア カア カア――。
行き合いの雲の下、どこかで、烏が喧しく鳴いた。
なんだよ、おまえまで、ぼくを莫迦にすんのかよ。えーい、こうなったら、こうしてくれる。
道端に転がっている、小さな石ころ。
思いきり、ぼくは蹴飛ばそうとした。
が、なんのことはない、見事な、空振り。
すんでのところで、すっころびそうに――。
カア カア カア
あ! またしても、こんちくしょうめ……。
おしまい