第8話 折り句バージョン【ふ・る・さ・と】前編 

文字数 1,342文字


 
  【ふ】るさとの空が、黄昏色に染まっている。でも西の空は、まだ明るい。
 美しい残照だな――そうつぶやいたとたん、胸が鈍くうずいた。
 懐かしい風景だった。
 心が落ち着く風だった。
 この場所に戻ってきて、ぼくは、ようやく人心地つくことができた。
 いまにして思えば、この旅は長いようで、それでいて、短い旅だったような気もする。
 瞳を閉じる。
 瞼の裏に、昨日までの旅の情景が、くっきりとよみがえる。
 そう、旅のはじまりは、こんな感じだった。
 
 【る】ろうの旅に出てみたい。
 ぼくはある日突然、そういう衝動に駆られてしまった。
 それは喫茶店で、ある雑誌に目を通していたときのことだった。
 その中に掲載されたコラムに、思わずぼくは心を揺り動かされていた。
『自分探しの旅』
 そういう、タイトルのコラムだった。
 人はどこから来て、どこに行くのか。
 人生は旅であり、「未知のものへの漂泊」である。
 ある哲学者はその著書で、そういうふうに述べて、こう結んでいるのだと、このコラム氏は綴っている。
 自分とは、いったい、何者なのか? 
 どこに向かって旅をしているのか?
 できるだけ若いうちに、その答えを見つける旅をしよう。
 ただし、その答えは、鏡のように機能する他者の客観的な『目』を通してのみ、明白になるのである。
 それを前提に、「未知のものへの漂泊」をしよう。
 ――と、そのように。
 
 どこに向かって旅をしているのか?
 できるだけ若いうちに、その答えを見つける旅をしよう――それを目にしたぼくは、流浪の旅に出てみたい、いや、出なくてはならないんだ、というような強迫観念に駆られてしまったのだ。
 そのためには、「未知のものへの漂泊」をしなければならい、とコラム氏は言う。
 とはいえ、それは、どのようにすればいいのか?
 しきりに、首をひねってみても、決定的に凡庸な男であるぼくに、その答えなどは見つかるはずもなかった。
 ひょっとして――突然、ぼくは考える。 
 どこでもいいから、旅に出さえすれば、その答えが見つかるんじゃないだろうか、というふうに。
 いまにして思えば、これは、あまりに安易な考えだった、とぼくは忸怩たる思いを抱いている。 
 ただ、そのときは、そういう衝動に駆られ、むしょうに、旅に出たくなってしまったのだ。
 というわけで、ふと気がつくと、ぼくはもう、ふるさとをはなれ、あてどない旅に出ていたのだった。だが――。
 
 【さ】がしものは、なかなか、見つからなかった。現実は、そんなに甘くないということだ。
 現に、東の村でだれかに満面の笑みを浮かべて挨拶してみても、あるいは、西の街で愛想笑いを浮かべてだれかに手を振ってみても、だれもみなそっぽを向いて、ぼくの前を風のように通りすぎていくばかり……。
「自分とは、いったい、何者か?」
 結局のところ、その答えを教えてくれる人は、だれ一人として見つからなかった。
 いや、それどころか、ある街などでは、よそ者として邪険にあつかわれ、むしろ、愚痴ばかりをつぶやいて今日一日が暮れていったり、または、眠れぬ夜ばかりを数えて日々は過ぎていったりした。
 これでは、自分探しの旅どころの騒ぎではない。
 そんな弱音すら、ぼくは吐くようになっていたのである。

つづく
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