第3話 魔法の声 後編

文字数 2,400文字


 
 それから、「♪もういくつ寝ると」が,もういくつも、何度も何度も、繰り返された。
 そして季節は「あっという間」が、あっという間に、いやおうなしに移ろっていく。 
 やがて、ぼくは大学に進学する。それから、卒業後、そこそこの企業に就職できるという幸運に、ぼくは恵まれる。 
 かつて祖父ちゃんに諭されたように、両親の言うことをちゃんと聞いて、おりこうさんにしていたかどうか。それは、ちょっと怪しい。 
 いや、それより、祖父ちゃんのその言いつけなんて、もはやすっかり忘れかけてすらいた。そういう不遜なぼくだった。
 それでも、ぼくなりにけなげに仕事にいそしんでいると、はからずも一人の素敵な女性に巡り逢えるという幸運に、ぼくは恵まれてすらいた。
 彼女は、視線の高さ、モノの感じ方の温度とかが似通ってよいるという、ぼくにはもったいないくらいの素敵な女性だった。 
 最初は、ぼくと彼女との二人ではじめた小さな暮らし。それがやがて、三人になり四人になり、いまでは、なんと、それが五人にまで膨らんでいるという、大きな暮らしに。そういう僥倖にも、ぼくは巡り合えていたのだ。 
 
 もう年末に近い、そんなある日のことだった――。 
 その晩、街を、厳しい寒波が容赦なく襲って、凍てつく風がわが物顔で舗道をびゅうびゅうと音を立てて吹き渡っていた。 
 そんな中、仕事を終えたぼくはコートの襟を高く立てて、吐く息を白くさせながら、足早に、家路を急いでいた。 
 やがてやっと、わが家にたどり着く。 
 やれやれ――安堵した息さえも寒さに震えて、白く、儚く揺れていた。
「よし、ひとっぷろ浴びて、凍えた身体と心を温めるとしよう」
 そうつぶやいたぼくは何気なく、凍てついた眼差しをわが家のガラス窓に投げた。 
 見ると、レースのカーテン越しに、部屋の明かりが朧げながら目に入る。 
 奥さんと三人の子どもたちの温もりが溶けた安らかな明かりが、うっすらと……。 
 ぼくは耳をそっとそばだてる。 
 奥さんと子どもたちの屈託のない笑い声――それが、ガラス窓をすり抜けて、賑やかに、心地よく、そして何より、いとおしく、ぼくの耳にふれる。 
 わが家にいる安心感が、まるで魔法のように、寒さで凍えた身体と心の芯までもほんわかと暖かくほぐしてくれる。 
「ぼくって、ほんとうに幸せ者だなぁ」
 声に出してつぶやくと、自然と、頬がゆるんだ。
 するとまさにそのときだった。
 温もりで満たされた胸のうちに、「何か」が、ストーンと落ちてきたのは――。 
 
 それは、そこはかとなく切なくて、それでいて、なんともいえず懐かしい、そんな不思議な「何か」だった。 
 その「何か」がストーンと胸のうちに落ちてきた次の瞬間、胸がキュンと締めつけられた。
 うん⁈ なんだろう? この悩ましい感覚は……。 
 ガラス窓が、揺れる。胸に熱いものが込み上げてくる。
 ふと、ぼくはもう一度、揺れるガラス窓にそっと耳をそば立てた。
「あ! この声!!」
 つぶやいたとたん、ある風景が、ぼくの脳裏に蘇った。
 遠い昔、空の彼方へと旅立って逝った祖父ちゃん。その祖父ちゃんと、濡れ縁で交わした会話。その風景が、鮮やかに――。
 祖父ちゃんはあの日、ぼくにこう言ったのだ。
「赤い糸さえ見つかれば、それと夜、ベッドのなかでチョメチョメする。するとやがて、その結果として、あれなんじゃ……」
 それを聞いたぼくは、けげんそうな顔をして、祖父ちゃんに訊いたものだ。
「え⁈ それと夜、ベッドのなかで、何が、なんて? ねえ、祖父ちゃん、何が、なんて?」
 祖父ちゃんはあの日、目を泳がせながら、しどろもどろに言った。
「え……ああ、まあ、そこんところは、なんじゃ……と、とにかくじゃ、いずれ、坊も、大人になる。するとそのとき、それと、何したら、あれじゃ……」 
 祖父ちゃんはあの日、そこで言い澱んだ。でもぼくは、懸命に尋ねた。
「ねえ、それと、何したら、あれじゃ……の、そのあとは何? ねえ、祖父ちゃん、教えてよ」  
 ところが、祖父ちゃんはあの日、「あれじゃ」のあとは口をつぐんで、いっこうに答えようとしなかった。 
 それでも、ぼくは「あれじゃのあとは、何? ねえ、祖父ちゃん、教えてよ」と、執拗に尋ねるのだった。 
 でも祖父ちゃんは、結局、その答えを教えずじまいで、遠い空の彼方へと旅立って逝った。 
 祖父ちゃんがあの日、言いかけてやめた、「あれじゃ」のあと――。
 ただ、あの日の記憶だけは、いまでも心のどこかに、しっかりと張り付いている。
 
 ぼくは突然、考える。
  あ! そっか、そういうことか。
 ぼくははたと、膝を打つ。
 これが、まさしく「あれじゃ」のあとじゃないのか、そう確信して――。 
  
 あの日以来、ずっと藪の中に隠れて姿を現せなかった、その正体。
 それが今宵、とうとう、ベールを脱いだ。 
 ふとぼくは、天を仰ぐ。
 都会の夜空に、とりわけ煌びやかにきらめく、ひとつ星。
 それに向かって、ぼくは満面の笑みを浮かべて私語きかける。
「祖父ちゃん、ようやくわかったよ。あの日、祖父ちゃんが、ぼくに教えようとしていたことが、やっとね」   
 運命の『赤い糸』で結ばれた、素敵な彼女。やがて、奥さんになった彼女と二人で紡いだ、いとおしくて、かけがえのない宝物。そう、三人の子どもたち。 
 その家族が奏でる、凍てついた身体と心の芯までもほんわか暖めてほぐしてくれる、そんな温もりのある――素敵な声。
「ぼくって、ほんとうに幸せ者だなぁ」
 思わずそんなことばが唇からこぼれ落ちてくる、そうさせるこれこそが、まさに『魔法の声』だったんだ。
 そうだよね、祖父ちゃん。  
 キラッ!!  
 都会の夜空に、とりわけ煌びやかにきらめく、ひとつ星。
 星になった祖父ちゃんが、そうじゃ、坊、とうなずいてくれた、ような気がした。 
 
 
おしまい
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