第19話 もうひとつの、金の斧  其の六

文字数 2,056文字

 佐吉の目には当惑と驚愕が浮かんでいた。
 そうした眼差しをしたままで、佐吉はしばし、泉の水面をぼんやりと眺めていた。
 といって、いくら眺めていたところで、もはや泉の底に沈んでしまった、あの金色の斧が戻ってくるわけでは毛頭ない。
 それより、いつまでも、そうやって不可逆的な泉の波紋を眺めていると、かなしさとか、さびしさとか、そして何より、どうしょうもないくやしさとかが、いや増すばかり。
 そうすれば、いくら世故のつらさに馴れている佐吉でも、さすがに心が折れるというもの。
 いくらなんでも、それではつらいから、佐吉はその目を、西の空へとそらした。
 美しい残照だった。
 空が焼け焦げてしまうのではないかと思われるほど、西の空に浮かぶ一朶の雲が、真っ赤に染まっていた。
 さながら、そこから疎外でもされたかのように、白い小さな雲が、ぽつんと浮かんでいる。
 それを見ていると、こみ上げてくるものが佐吉にはあった。と思う間もなく、その雲が小さく揺れた。追いかけて、目尻から一筋の涙が頬を伝わった。それが、どうも、導火線になったらしい。
 堰を切ったように、佐吉の目から、とめどなく、大粒の涙が、こぼれ落ちてくるのだった。
 
 女神のあまりにひどい仕打ちに打ちひしがれ、佐吉は泉の畔で、ひとしきりむせび泣いていた。
「おや⁈」
 そんな中、初老の男が、ひょっこりと姿を現した
「そこにいるのは、佐吉ではないか」
 だしぬけに、その男が声をかけた。
 佐吉はぎょっとした。驚いた小動物らしく、彼は肩をぴんくと跳ね上げ、目を泳がせながら、おずおずと声の方に首をめぐらせた。
 な、なあんだ――見たとたん、張りつめていた緊張の糸が、ぷつんと音を立てて切れた。それと同時に、頬のこわばりも、ふっとゆるんだ。 
 声をかけてきたのは、だれあろう、この泉のほど近くにある古刹の、そこの和尚であった。
 実はこの和尚、佐吉にとっては、親も同然、という人物。
 はかなくも、佐吉の両親は彼がまだ三つのときに、馬車にはねられ、その尊い命を落としていた。
 ある日突然、いちどきに、両親を失ってしまった佐吉少年。しかも彼には、ほかに身寄りがなかった。となれば、佐吉が、すっかりうろたえてしまったのは言うまでもない。
 それを、和尚が不憫に思った。何分、和尚と言えば、仏に仕える身。むろん、そのような者が、不条理の傍らを黙って通りすぎるわけにはいかない。それが、道理というもの。
 というわけで、不憫な佐吉を、和尚が寺で引き取り、独り立ちできるようになるまで、甲斐甲斐しく、養育してくれたのだった。
 はからずも、和尚はいま、街に買い物に向かう途中であった。そんなとき、佐吉を見かけた。
「おい、佐吉。そこで、何をしておるんじゃ」
 そう声をかけた和尚は、いつもと変わらぬ柔和な表情で、佐吉のほうに歩み寄った。
「は、はあ……」
 が、佐吉の返事は、どこか煮え切らない。
「なんじゃ、いつものお前らしくないないのう。だいたい、おまえ、斧も持たずに、こんなところで、いったい、何をしておったんじゃ」
 佐吉は黙っている。
 だが、こうして、いつまでも口を閉ざしていても埒が明かないし、まして、変に勘ぐられてしまう懸念すらある。
 そう佐吉は思うから、「じ、実は……」と観念したように、これまでのいきさつを、「かくかくしかじかで」と和尚に語って聞かせるのだった。
 
「なるほどのう……」
 それを聞いた和尚は、いかにも同情するような顔と口調で、「そりゃあ、とんだ災難じゃったのう、佐吉」と浮かない眉をひそめて言うと、「にしても、女神様ともあろうお方が、なにゆえ、そういう態度をとられたんかのう」としきりに首をひねり、よもや、と内心何かをふと察し、ことばを、こうつづけた。
「ひょっとして、虫の居所が悪かったのかもしれんのう。何かのっぴきならぬ事態が、突然、女神様に生じてしまってのう」
「む、虫の居所が悪かった? 何かのっぴきならぬ事態が生じて……ですか?」
「ふむ、そうじゃ」
「で、では、和尚様は、こう言われるのですか? 女神様に、何かのっぴきならぬ事態が生じた。それで、虫の居所が悪かった。その割を、たまたま、わたしがくってしまった、と」
「まあ、そんなところじゃないかのう」
「そ、そんなあ……それじゃあ、その辺のガキんちょが駄々をこねているのと、なんら変わりはないじゃないですか」
 そう気色ばむ、佐吉。
「あのお方は、いやしくもカミサマですよ。はたして、そのようなお方が、われわれ人間と同様に感情剥き出しの振る舞いをなさるものでしょうか?」
 佐吉が、和尚に、そう疑問を投げかける。
「ふむ……」
 この佐吉の心中は察するにあまりある。が、和尚は、あくまでも育ての親。妥協は許さない。
 少し間をおいて、和尚が口を開く。
「まあ、それが、カミサマのカミサマたる、所以なんじゃよ、佐吉」
「……」
 佐吉は黙って、上目づかいで、和尚をジッと見つめている。
 何を言っているのか、さっぱり合点がいかぬ、ということだろう。
 
つづく
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