第17話 もうひとつの、金の斧 其の四
文字数 1,883文字
な、七十両かあ……だとしたら、有り金全部はたいてしまうってことだな。
内心そうつぶやきを洩らした佐吉の心に、この店を訪れたときの複雑な心情がふたたびよみがってくる。
有り金全部をはたいたとして、半年後に高価な花嫁衣装を購うだけの銭が、はたして貯まるだろうかという、あの心情がである。
いやいや――だが、佐吉は首を横に振って、むしろ自分に強くこう言い聞かせる。
着の身着のままで、食うことも極力ひかさえすれば、といって、たぶんそれは生半可なことではないのだろうけれど、それでも、まあ、あのおなごのためなら、えんやこらどっこいしょっ、ってぇもんだ、というふうに。
言い聞かせたとたん、佐吉の頬が、ほんの少しゆるんだ。
しかもそれと同時に、店のあるじの頬も、ゆるんだ。
これで、こんやは九条ネギ入りの鴨鍋がいただけるってもんだ――そう思うから、あるじの頬は、だらしなく、ゆるむのであった。
そういうわけで、すっかり懐が寂しくなった、そんな佐吉であった。
それでも佐吉は、食の欲望をそぎ落とし、体裁などもまるで意に介さず、一意専心に斧を振るうという、なんともけなげな日々を送っていた。
そんなある日のことだ――。
いつものように、佐吉は、朝まだきから山に分け入り、その日はめずらしく、泉の畔《ほとり》にある雑木林で、斧を振るっていた。
昼メシも摂らずに、黙々と、斧を振るう。そうこうしているうちに、お日様が、西の空にかたむきかけてくる。
「にしても、腹減ったなぁ……」
思わずつぶやいた佐吉のその、腹の虫が、ぐう~、と音を立てて鳴った。
それも無理はない。
いたって質素な朝餉のみならず、昼メシも摂らずに、一心不乱に、斧を振るっているのだ。となれば、自ずと、腹の虫も騒ごうというもの。
その上、もはや夕さリの刻限を迎えようとしている。だとすれば気合のみでは、到底、腹の虫はおさまらない。何か熱量を加えてやらねば、むしろ獅子身中の虫になりかねないのだ。
ふう~。
肩でひとつ息をついて、額の汗を拭った佐吉は、ぽつり、つぶやいた。
「どうやら、潮時のようだな。この樹木を伐採したら、きょうの作業は仕舞にして、家路につくとするか」
自分にそうささやいた佐吉は、これが最後とばかりに、渾身の力をこめて、手にした斧を「えい!!」と振るった。
その次の瞬間、佐吉は「あ!!」と悲鳴に似た声をあげていた。
手の力は、すでに腹の虫に凌駕されている。そこにもってきて、渾身の力をこめて振ったものだから、金色の斧は、手からすっぽり抜けて泉の中へと「ドボン!!」と、音を立てて落ちてしまったのであった。
「あ、ありゃりゃ、な、なんてこったい……」
そう叫んだところで、後の祭り。
哀れ、おなごに高価な花嫁衣装を着せてやろうとして、有り金全部はたいて贖った金色の斧は、無情にも、泉の底へと沈んでいったのであった。
金色の斧が、泉に落ちて、その余波で広げた波紋。
それが、泉の畔に呆然と立ち尽くす佐吉の足元に、次から次へと、虚しく押し寄せる。さながら、心の傷に塩でもぬるかのように――。
うわああ~。
頭を抱えて、その場にうずくまってしまう、佐吉。
辺りには、小鳥たちの心地よいさえずりだけが、長閑に轟いているばかり――。
どのくらい、畔に、そうやってうずくまっていたのだろう。
やがて佐吉は、ようやっと、われに帰る。すると彼は、金色の斧が落ちた水面に、改めて、うらめしそうな眼差しを投げた。
と、そのとたん、え! な、何? と佐吉はきょとんし、せわしなく、目を瞬いた。
にわかには信じ難かった。それもそのはず。
泉の水面の上に、神々しい光を身に纏った「何」かが、ふわふわ、浮かんでいるのだから。
佐吉は、両手をわなわなとふるわせて、肩で息を切りながら、目を、目ん玉がこぼれ落ちそうになるくらい大きく見開いて、それを見た。
一方、その「何か」も、不思議そうな目をして、佐吉を眺めている。
二つの影は無言のまま、そうやって、しばし対峙していた。
一瞬、居心地の悪い沈黙。
その沈黙を破って、水面の上に浮かんでいる「何」かが、おもむろに口を開いた。
「われは女神じゃ」
は⁈ め、女神……様……。
佐吉は口あんぐり、目ぱちくり。
「そちはなぜ」
と女神が訊く
「大声で叫んだ挙句、そこに、つくばっておるのじゃ? それも、何度もため息を重ねて」
されど、佐吉は、黙っている。ただ、彼はなぜか、その頬を、ぎこちなくほころばせている。
極限状態のなかでは、どうも人は笑うことで、心の均衡を保つものらしい。
つづく
内心そうつぶやきを洩らした佐吉の心に、この店を訪れたときの複雑な心情がふたたびよみがってくる。
有り金全部をはたいたとして、半年後に高価な花嫁衣装を購うだけの銭が、はたして貯まるだろうかという、あの心情がである。
いやいや――だが、佐吉は首を横に振って、むしろ自分に強くこう言い聞かせる。
着の身着のままで、食うことも極力ひかさえすれば、といって、たぶんそれは生半可なことではないのだろうけれど、それでも、まあ、あのおなごのためなら、えんやこらどっこいしょっ、ってぇもんだ、というふうに。
言い聞かせたとたん、佐吉の頬が、ほんの少しゆるんだ。
しかもそれと同時に、店のあるじの頬も、ゆるんだ。
これで、こんやは九条ネギ入りの鴨鍋がいただけるってもんだ――そう思うから、あるじの頬は、だらしなく、ゆるむのであった。
そういうわけで、すっかり懐が寂しくなった、そんな佐吉であった。
それでも佐吉は、食の欲望をそぎ落とし、体裁などもまるで意に介さず、一意専心に斧を振るうという、なんともけなげな日々を送っていた。
そんなある日のことだ――。
いつものように、佐吉は、朝まだきから山に分け入り、その日はめずらしく、泉の畔《ほとり》にある雑木林で、斧を振るっていた。
昼メシも摂らずに、黙々と、斧を振るう。そうこうしているうちに、お日様が、西の空にかたむきかけてくる。
「にしても、腹減ったなぁ……」
思わずつぶやいた佐吉のその、腹の虫が、ぐう~、と音を立てて鳴った。
それも無理はない。
いたって質素な朝餉のみならず、昼メシも摂らずに、一心不乱に、斧を振るっているのだ。となれば、自ずと、腹の虫も騒ごうというもの。
その上、もはや夕さリの刻限を迎えようとしている。だとすれば気合のみでは、到底、腹の虫はおさまらない。何か熱量を加えてやらねば、むしろ獅子身中の虫になりかねないのだ。
ふう~。
肩でひとつ息をついて、額の汗を拭った佐吉は、ぽつり、つぶやいた。
「どうやら、潮時のようだな。この樹木を伐採したら、きょうの作業は仕舞にして、家路につくとするか」
自分にそうささやいた佐吉は、これが最後とばかりに、渾身の力をこめて、手にした斧を「えい!!」と振るった。
その次の瞬間、佐吉は「あ!!」と悲鳴に似た声をあげていた。
手の力は、すでに腹の虫に凌駕されている。そこにもってきて、渾身の力をこめて振ったものだから、金色の斧は、手からすっぽり抜けて泉の中へと「ドボン!!」と、音を立てて落ちてしまったのであった。
「あ、ありゃりゃ、な、なんてこったい……」
そう叫んだところで、後の祭り。
哀れ、おなごに高価な花嫁衣装を着せてやろうとして、有り金全部はたいて贖った金色の斧は、無情にも、泉の底へと沈んでいったのであった。
金色の斧が、泉に落ちて、その余波で広げた波紋。
それが、泉の畔に呆然と立ち尽くす佐吉の足元に、次から次へと、虚しく押し寄せる。さながら、心の傷に塩でもぬるかのように――。
うわああ~。
頭を抱えて、その場にうずくまってしまう、佐吉。
辺りには、小鳥たちの心地よいさえずりだけが、長閑に轟いているばかり――。
どのくらい、畔に、そうやってうずくまっていたのだろう。
やがて佐吉は、ようやっと、われに帰る。すると彼は、金色の斧が落ちた水面に、改めて、うらめしそうな眼差しを投げた。
と、そのとたん、え! な、何? と佐吉はきょとんし、せわしなく、目を瞬いた。
にわかには信じ難かった。それもそのはず。
泉の水面の上に、神々しい光を身に纏った「何」かが、ふわふわ、浮かんでいるのだから。
佐吉は、両手をわなわなとふるわせて、肩で息を切りながら、目を、目ん玉がこぼれ落ちそうになるくらい大きく見開いて、それを見た。
一方、その「何か」も、不思議そうな目をして、佐吉を眺めている。
二つの影は無言のまま、そうやって、しばし対峙していた。
一瞬、居心地の悪い沈黙。
その沈黙を破って、水面の上に浮かんでいる「何」かが、おもむろに口を開いた。
「われは女神じゃ」
は⁈ め、女神……様……。
佐吉は口あんぐり、目ぱちくり。
「そちはなぜ」
と女神が訊く
「大声で叫んだ挙句、そこに、つくばっておるのじゃ? それも、何度もため息を重ねて」
されど、佐吉は、黙っている。ただ、彼はなぜか、その頬を、ぎこちなくほころばせている。
極限状態のなかでは、どうも人は笑うことで、心の均衡を保つものらしい。
つづく