第15話 もうひとつの、金の斧  其の二

文字数 2,917文字

 しばらくの間、佐吉は、どこか遠くを見るような目をして、道具屋のとば口にぼんやりと立っていた。
 これを、不審に思った店のあるじが、「佐吉どん」と声をかけた。
「なんだか、ぼーとされて……いったい、どうなすったんですかな」
 え⁈
 ハッとして、佐吉は我に返った。
 店のあるじが慇懃なものごしで、佐吉に歩み寄り、こう尋ねた。
「きょうは何か、ご用があって、当店にまいられたんじゃなかったですかな、佐吉どん?」
「あ、そ、そう……そうでした」
 いまさらのように、思い出した佐吉が言う。
「じ、実は、そのう、お、斧を……」
「ええ⁈   お、斧?」
 あるじが、せわしなく、目を大仰に瞬く。無理もない。斧は、樵にとって、命の次に大事なものだからだ。
「それは、とりもなおさず、いま、お使いになられている斧が、寿命を迎えられたということですかな、佐吉どん」
「ええ、その通りです」
「さ、さようでございますか……それは、さぞやお困りのことでしょう。だとしたら、早急に、新しい斧を贖う必要がありますな」
 心配そうな口ぶりとは裏腹に、あるじの表情は、どこか嬉々としている、ようにも見えた。
「そ、そうなんです。購う必要があるんです……で、ですが……」
 佐吉は言いよどむ。
「ですが……って、佐吉どん」
 いくらなんでも、それは解せない、という感じで、あるじが言う。
「商売道具の斧が使いものにならないのでしょう。でしたら、あすから、いえ、働き者の佐吉どんのことですので、きょうからの仕事に支障をきたすでしょうに。なのに、その煮え切れない態度。働き者の佐吉どんらしくありませんなあ……」
 腑に落ちないという顔をして、あるじが首をかしげる。
 ほどなく、「あ、ひょっとして」と、あるじが手をうった。
「いま、使っている斧が寿命を迎えたので、当店に、新しい斧を購いにきた。けれども、店に一歩足を踏み入れたとたん、何かの理由で心変わりがした――そういうふうに察するのですが、佐吉どん、いかがですかな?」
「は、はあ……」
 佐吉は力なくうなずく。
「あ、でも、購うことは、購うんです。いや、むしろ購わなければならないんです。なので、こうして、ここに足を運んでいるのですから……」
「なら、何の問題もないじゃないですか……」
 さすがにあるじはムッとする。彼の物言いが、なんとなくつっけんどんになっていた。
 あ、こりゃあ、やばいぞ……。
 佐吉は内心うろたえる。
 いつまでも、こうして煮え切れない態度をとっていたら、そのうち、あるじから愛想つかされ、斧を売ってもらえなくなるぞ、そう思って。
 
 佐吉は、いまさらのように、自分はなぜ、この道具屋に足を運んでいるのか、その理由を考えた。それは言うまでもなく、おなごのためではなかっのか、というふうにも、その考えは及ぶのだった。
 考えれば考えるほど、佐吉は、何一つ、情けないものはなかった。
 当代随一の花嫁衣装を、好いたおなごに着せてやろうという一心で、ただひたすら斧を振るってきた。そうすれば、心の底から、おなごが笑ってくれるのではなかろうか、と佐吉は思っていた。
 だというのに――眉をひそめて、佐吉はくちびるを噛む。煮え切らない態度をとっている自分が、あまりに情けなかったからだ。
 逡巡などしている暇はないのだ。とにかく、斧だ。まずは斧を購わなければ話しにならない。
 そう佐吉は自分に強く言い聞かせると、ふと目の前にある大きな棚に目をやった。なかには、数多の斧が陳列されている。
 お! あれは⁈
 なかんずく、ひときわ輝を放っている斧があった。刃先が、銀色に輝く斧だ。見るからに、切れ味鋭そうな斧に、佐吉には見えていた。
 だとしたら、そうとう値が張るのだろう……目を凝らして、佐吉は恐る恐る、値札を見た。
 金 30両也――値札に、そう記してある。
 その価格を認識した上で、佐吉は、棚のなかに陳列されてある他の斧にも、いちおう、目を通した。やはり、この銀の斧が一番高価であった。それもさることながら、とりわけ切れ味が良さそうにも見えた。
 
 そう見えたとたん、思わず安堵の息が洩れていた。とともに、すっかり拍子抜けすらしていた。
 なぜなら、ついさっきまで煮え切らない態度をとっていた自分が、あまりにも馬鹿らしく思えてしかたなかったからだ。
 なんのことはない、三十両で用が足りるという。
 ならば――無意識のうちに、佐吉の頬がほころぶ。
 これまで、寸暇を惜しんで、仕事に勤しんだ結果として蓄えた銭は、七十両。
 それを踏まえて、佐吉は内心胸算用する。
 くしくも、呉服屋の店先に吊るしてある一番高価な花嫁衣装も、七十両。この斧を購うと、残金は、四十両となる。となれば、あと用意する金額は、三十両。半年あれば、三十両くらいは、それはたしかに大変な金額ではあるが、それでも、まあ、なんとかならない額ではないだろう。
 そう佐吉はたかをくくって、ほくそえむのだった。
 
 店のあるじは一方、さっきから、ぽかーんと口を開けて、佐吉の様子を窺っていた。
 煮え切らない態度をしていたかと思えば、こんどは、にわかに頬をほころばせている。
 あるじにしては、何が何だかさっぱり合点がいかず、思わずそのような顔になっていたのだ。
 もっとも、だれしもが、ヒトの心の事情を察することはできない。そのヒトがいま、どのような心の事情を抱えているのか。それを、詳細に察することなど――。
 もちろん、このあるじも、その例外であるはずがない。
 したがって、このあるじが、そのような顔をしてしまうのも無理はない。
 ただ、このあるじは決定的にオプティミストだった。なので、楽観的に、こう考えてしまう。
 間違いなく、佐吉どんは、あの銀の斧を見て、表情を一変させていた。しかも見たとたん、その瞳には陽性の光が宿っていた。だとしたら佐吉どんは、まちがいなく、あの銀の斧を贖うのにちがいない、というふうに。
 いずれにせよ、この道具屋にとって、三十両もの売り上げは、非常に稀有なことである。
 ふふ、こんやは、ひさしぶりに鴨鍋にしよう。もちろん、美味しいネギを入れて。
 垂涎で、頬をほころばせる、そんなあるじであった。
 
「あるじ」
 瞳に陽性の光を宿したまま、佐吉が言う。
「この棚に陳列してある斧をざっと見回したところ、あの銀の斧が、一番切れ味が良さそうにみえるんだが、どうだろうか?」
「さすがは、佐吉どんです。お目が高い」
 ますます、頬をほころばせて、あるじが応える。
「たしかに、この棚に陳列されているなかでは、あの銀の斧が一番高価で、切れ味も抜群でしょうな」
 うん⁈
 あるじの、このことばを聞いた佐吉は一瞬、けげんそうな顔をした。
 この棚に陳列されているなかでは――ということは、この店には、まだほかにも、あれより高価で、切れ味の良好な斧がある、ということだろうか?
 その疑問を、佐吉は、あるじにぶつけた。
「ええ、おっしゃる通りでございます。ほんに如才ない方ですなあ、佐吉どんは」
 ますます、あるじは頬をほころばせると、「いましばらくお待ちくださいまし、佐吉どん」と言って、弾む足取りで、店の奥へと消えていった。

 
つづく
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