第4話 悪夢 前編

文字数 2,241文字



「あっ、そうそう」
 朝食後、挽きたての珈琲を美味しく啜っていると、急に思い出したように妻の陽子がぼくの顔を見て言った。
「あたしね、朝方、夢を見たのよ」
 それが、よほど嬉しかったとみえる。ひときわはしゃいだ様子で、彼女はそうつぶやいた。
 まあ、それも無理はない。
 なにしろ、彼女は「わたしさ、めったに夢を見ないんだよね」と、すごく残念そうにため息ついて、「ねえ、どうしてだと思う」と何かとぼくにしつこく尋ねていたのだから。
 ぼくはそのたびに、「なんでだろうな」と神妙な顔をして彼女の心情に寄り添っていたものだ。
 なんと、その彼女が夢を見たというではないか。
 だとしたら、「そっか、それはよかったね」と何の躊躇もなく、すべからく喜んであげるべきところだ。
 そうだというのに、ぼくは「ふうん、よかったね……」と、むしろ、ムスッとした顔ですげない返事をしていた。
 あら⁈
 当然ながら、彼女は、何よ⁈ そのリアクション? というふうに、一瞬けげんそうな表情を見せる。
 それでも、彼女は胸のつかえがおりたのがよほど嬉しかったらしく、すぐに、すっきり笑って、「うん、よかったわ。でも、あれよね。めったにないことがあると、ひょっとして、空から槍が降ってきちゃったりしてね」とおどけて見せた。
 それを聞いたぼくは意地悪く、「ほんとうに降ってくるんじゃない」と憎まれ口を叩く。
 けれども、そのぐらいのことでは、よほど嬉しかった満足の情は薄れないようだ。
 それより、彼女は「ねえ、ねえ、どんな夢か知りたくない」と、あっけらかんと尋ねてくる。
「え、あ、うん……」
 一瞬、意表を突かれたぼくは目が泳いで、思わず絶句。
 やむなく、ぼくは黙って内心憎まれ口を叩く。
 キミの夢の内容なんて聞きたくもないさ、というふうに。
 けれどすぐにぼくは臍を嚙む。
 かくも、つれない態度ばかり取っていると、そのうち、彼女の怒りが爆発した挙句、そうとうな辛酸をなめるんじゃないか、そう思って。
 なんとしてでも、それだけは避けなければ――そう自分に、強く、ぼくは言い聞かせる。
 なにしろ、彼女を怒らせると、おしっこをちびりそうになるなくらい、おっかないのだから。
 そういった強迫観念に駆られたぼくは、にわかに愛想笑いを浮かべて、「じゃ、じゃあ、教えてもらおっかな」とおべっか交じりの口調で言った。
 それを聞いた陽子はふたたびすっきり笑って、「あら、そうぉ、しかたないなぁ。じゃあ、教えてあげるね」となんだかお仕着せがましく言って、朝方見たという夢について、得々と語るのだった。

「あたしね、昨日、銀座のデパートに買い物に行ったの。そしたらね、はからずも様々な売り場で、いろんな愉快な目に合えたの。たとえば、三階の洋服売り場ではね、かねて欲しかった毛皮のコートが半額で売ってたりとか、地下の食品売り場ではね、本日に限り国産ウナギが半額だったりとか、ほかにもいろいろあったんだけど、とにかく、そういう愉快な場面がパッチワークのように縫い合わされて出来上がった、そんななんともいえず素敵な夢だったのよ」
 いかにも感に耐えないという面持ちで、陽子はそう言うと、何度も何度も、うんうんとうなずくのだった。
「ふうん、それはよかったね……」
 ところが、ぼくはもう、さっきの反省をすっかり忘れて、またしても、ムスッとした顔つきですげない返事をしてしまった。
 あ! ヤバイ。
 が、後の祭り――。
「な、なによ、もう!!」
 それを見かねたように、とうとう、陽子の堪忍袋の緒が切れた。
「さっきからの、その冴えない顔つきといい、そのすげない返事といい、わたしが夢を見たことについて、何か文句があるわけ!!!」
 ものすごい剣幕で、陽子が捲し立てる。
 ヒ、ヒエッ! おっかねえ!! ほんとうに、おしっこちびりそう――。
 たぶんぼくは、すっかりうろたえて、いっそうひどく冴えない顔つきをしているのだろう。
 
 それにしても、ぼくはなぜこうも彼女につれない態度を取っているのか。
 もちろん、理由がある。
 それというのも、ぼくは最近、彼女とは真逆の……それは、とりもなおさず、ひどい悪夢を、それも、やたら目覚めの良くない悪夢ばかりを見ていたからだ。
 それでぼくは、眠りについても全然深い眠りにつけずにいたし、そのせいで、朝眠りから覚めても、なんだかひどく気分が優れなかったりした。

 それでは、どのような悪夢をぼくが見ていたかというと、それは凡そ、こんな感じ――。
 たとえば、仕事で大きなミスをしでかし、上司に「おい、こら、なにやってくれるんだあ、おまえ!」と頭ごなしに怒鳴られると同時に、握り拳で机の上を思い切りドーンと叩かれて、その音にみっともないくらいおののき、すごく怯えているという情けない場面だったりとか、あるいは、青春時代、淡い恋心を抱いていた女の子にある日、勇気を出して、「つきあってください、おねがいします」と深々と頭を下げたのに、「ごんめなさい。あなた、わたしのタイプじゃないので」とにべない言い方であっさり断られるという、なんとも惨めったらしい場面だったりとか、とにかく、どれもこれも、穴があったら思わず入りたくなるような、そんな悪夢だった。
 そういうわけで、ぼくは、陽子がすっきり笑ってるのが、くやしくてしかたないし、どうしょうもなく腹立たしいし、そして何より、なんだかやりきれないから、それで、いじけて冴えない顔つきをしていたのだった。


つづく
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