オデット・ノート (5) ★BGM付
文字数 2,494文字
転校そうそう男の子にうなじを撫でられて、ひっぱたいたらなぜかあたしがあやまらされて、次の日「ご機嫌なおった?」って今度は肩を抱かれて、膝蹴りしたら命中しちゃった。でも彼が種なしになっても自業自得だから(なればいいのに)。あたしは昼間、他人の前だと、舌が口にはりついて何も言えなくなっちゃうんだけど、夜泣きながらパパにぜんぶぶちまけて、パパさえわかってくれればもうよかったんだ。パパにもらった大切な
あーやめるやめる。楽しいことを書きます。
ハンブルク。コペンハーゲン。アムステルダム。あたしに人生の意味を教えてくれたのは、オペラハウスとコンサートホールだった。ウィーン。ザルツブルク。インスブルック。バード=イシュル。メルビッシュ。夏の音楽祭。川のほとり、湖のほとり、湖上の。まだ客席の椅子から床に足がとどかないころから、パパはあたしを連れまわした。あたしたちは手を握りあって興奮し、そして打ちのめされて帰ってきて、夜ふけまでしゃべりつづけた。うちの国だって湖はあるんだから、やろうと思えばできるんじゃない、湖上音楽祭? あたしたちは二人ともいいかげんな性格で、お金の計算というものがまるでできなかったから、夢ははてしなくふくらみつづけた。花火もあげない? ヤーパンの花火、すごいらしいよ。どんどん色が変わるんだって。いいね! 何発くらい? 三千発?
バレエもたくさん観せてもらった。あたしは子どもで無知だったから、思ったことをすなおに口にした。だってベジャールもノイマイヤーもピナ・バウシュも、どんなに偉いか知らなかったんだもん。
「どうしてあんなにピクピク動くの?」
「どうして紙を床に落とすの? あれ踏んだら危なくない?」
「どうしていちいち音楽をぶつ切れにするの?」
「どうしてハッピーエンドにならないの?」
パパもあたしも、ハッピーエンドが好きだった。『メリーウィドー』にあたしは夢中になり、ホテルに帰る道々、パパとあたしはダニロとハンナになって手をつないで歌いつづけた(適当だけど)。ハッピーエンドじゃないけど『カルメン』も好きだった。あたしがベッドの上にトランプを広げてせっかくその気になってるのに、ドン=ホセのパパは途中で入ってきちゃって、カルメーン、おれのカルメーン、というラストを歌っちゃってあたしにシーツをかぶせて寝かそうとするから、あたしは暴れて手あたりしだいにいろいろ投げた(ほんとは眠かった)。そして『魔笛』。パパはどうしても夜の女王をやると言って聞かない。地獄の復讐はわが胸に燃えー、死と絶望の炎がわが身をめぐるー、ハッハッハッハッハ。そしてめちゃくちゃにくすぐってくる。笑いすぎてあたしは何度も死にそうになった。
舞台の上にわざわざみにくい、きたないものを観たい人たちって、何考えてるんだろう。あたしには理解できない。あたしは、まぶしいものだけを観たい。手の届かないくらい。
あれは、インスブルック。夏の夜、川ぞいの道。はるかにそびえる峰の稜線。あたしたちの故郷とよく似ている。
演目はパーセルの『妖精の女王』だった。バロックオペラ。柔らかい古楽器の響きと、ころがさないまっすぐな発声。帰り道、パパがまだ気づいてくれないので、あたしは少し離れて歩いた。最初はわざと遅れてみて、それからちょっと走って先に行って、ふりかえった。
まだ気がつかないかなー。
「何」
「ふふふ」
「何」
「もう、つまんない」
あたしは腰に手を当てて、わざとらしくくるっと回って見せた。まあ、たしかにね、例によって時間ぎりぎりになってばたばたして劇場へ駆けつけて、ちゃんと見せなかったあたしが悪いんだけど。
パパの顔に、やっと、不思議そうな表情が浮かぶ。水に落とした一滴の絵の具がふんわりとにじんでいくように、広がっていく。遅いよ。
「そんなような服を、ママも持ってた」
「ママのよ。テオ叔父ちゃまに送ってもらったの」
いわゆる、リトル・ブラック・ドレス。黒一色、シンプルのきわみ。大人になったらあげるってママ言ってくれてたんだから、もらっていいと思う。それに淡水パールのネックレスを三重に巻いてみました。本物の真珠はね、自分でなんて首にかけたくない。そのうちパパか、まだ出逢ってない素敵な彼に、後ろから留め金を留めてもらうの。
「そう」
「うん」
パパは近づいてきて、止まった。あたしにさわっていいものかどうか、迷ってるみたい。
「オディールって呼んでみて」
どうしてそんなことを思いついたのか、自分でもわからない。ふっと口から出てた。
「オディール?」
「オディーリアっていうひとは、世界で一人しかいないでしょ」ママ、見て。あたし、ママの服が着られるようになっちゃったの。「だからオディール」
パパは、いままで一度も見せたことのない、淡い微笑を浮かべた。
★BGM:モーツァルト『魔笛』より「夜の女王のアリア」
娘のパミーナ姫に、恩人を暗殺せよ、さもなくば母娘の縁を切ると迫る名場面です(ハッピーエンドになるから大丈夫だけどね)。演じるはパパの憧れのダムラウ様。「これ男がやっちゃだめなの?」って無理でしょ、女性の高音の限界値なんだから!(笑)
https://www.youtube.com/watch?v=YuBeBjqKSGQ