オデット・ノート (12)-2
文字数 2,824文字
そのポートレイトが、生きて動き出した、と思ったら、王妃さまのほうから近寄って来られて、それも、なんだか、つつつ、というか、ちょっと小走り?
「まあ」お顔を輝かせて、両手をきゅっと握っておいでです。わくわく、という感じで。「まあ、あなたが、あなたが」そしてシギイを見上げて、嬉しそうに、
「このかたが、カワセミちゃんね?」
カ……、
カワセミ?
「母上。ちょっと」シギイの手がお母さまの肩をむずとつかんで、引っぱっていきました。そのまま向こうで声を殺してささやきあっています。
「お願いだから今日はよけいなこと言わないでって言ったでしょう!」
「だって言ってたじゃない、ぼくのカワセミちゃんって。見た目宝石なのに、獲物をたたきつけて丸呑みにするところがたまりませんって」
「やめて」
「オオカミちゃんは言っちゃいけないって言われたけど、カワセミちゃんも?」
「どっちもだめ!」
「あなた的には『最愛の人』って意味なんでしょ?」
「世間的には伝わりにくいですから。ていうか伝わらないですから」
「だって本物見るの初めてなんですもの、感激よ、生きて動いてる。お写真よりもっとかわいいのね」
「それはそうなんですけど、あ、ちょっと母上、まだ話終わってません!」
「あのね」王妃さまはもうあたしの前に戻ってらしてました。「そうね、ごめんなさい、わたくし夢中になりすぎて、いやだわ、まだご挨拶もしてなかったわね。今日はいらしてくださって本当にありがとう。そしてこの子のこと、ね、本当に、本当にありがとう。わたくしね、ずっと心配してたの、このままだとこの子のお嫁さんに来てくださるかたなんて一生あらわれないんじゃないかしらと思って。そしたらあなたみたいに素敵なかたが」
「母上、その話、まだですから!」
「あらそうなの? どうして?」
「どうしてって、どうしてじゃありません、段階ってものが。とにかくちょっと黙っててくださいませんか。母上は黙っててくだされば完璧なんですから」
「えー、でも、今日はわたくしがオデットさんとおしゃべりしたくてお招きしたのよ。そんなにいやなら、あなたがどこかへ行ってらっしゃい、ジークフリート」
「いやです。いないすきに何を言われるかわからない」
「まあ、どうして? 格好をつけても、どうせもうすぐ家族になるのだからわかっちゃうじゃない。ね、オデットさん」
「だからその話はまだだって」
想像してたのとぜんぜんちがいました。まあどうして?あらどうして?っていう、王妃さまの破壊力、絶大。シギイはとうとう顔をおおってソファに倒れこんで沈没しちゃうし、あたしは笑いすぎて涙が出て、そう、あたし、ちょっと泣きました。何ていうか、真珠みたいなかた。王妃さま、もしもあたしなんかを娘にしていただけるのなら、あたしママの分まで王妃さまを、一生大切にします。
そう。それと、パパのこと。
最後にちょっと書かせて。ほんとにあの男——もう。やられた。なーにが「お近づきになりたい」よ。最初から王妃さまありきだったんじゃないの。
パパがあたしに引き合わせてくれたのがあたしの
「ええええええええ!!」
「そうなんだって」シギイ、ため息まじり。知ってたの?!
「あんな、あんな父のどこがよかったんですか?」
「あら、全部よ」うわー。「でもね、昔の話だから、お父さまもとっくにお忘れだろうと思っていたのね。そしたらあれはいつかしら、去年の今ごろ? 突然、ふっとお見えになって」
残された時間を考えたら、会いたくなった。会ってもゆるされると思ったんです。——そう、言ったそうです。
ぬけぬけと。
なーにが「残された時間」よ。
パパの《不治の病》話にはシギイも一度引っかかってるので、ここでくりかえすのは本当はずかしいんだけど、それまで風邪一つ引かず(仮病以外ね)虫歯も一本もなかったパパが、あのときいたのはウィーンだったかな、なんだか頭痛がすると言い出して。原因不明の微熱もあって、目も鼻も痛くて。それでお医者さまに行ったらものすごくしょんぼりして帰ってきて、あたしも胸がざわざわして、どうだった?って訊いたら、ぽつんと
「花粉症だって」
笑いすぎて死にかけた。そんなに落ちこむ話かなと思ったけど、本人は心底なさけなかったみたい。
そのあと、きゅうに浮き浮きしだしたから、これは何かたくらんでるなと思ったのね。そしたらほら、帰るぞって言い出して、ドライフリュッセシュタートに。
おれももう歳だなと思ってさ。余命いくばくもないなと。せいぜい四十年か五十年? まあ、おまえたちよりは短いよ。だろ? 残された時間がかぎられてるっていうのは事実だろう。だからもう、ね、がまんしないことにしたんだ。え、ひどいな、いままで何かがまんしたことあった?って、あるよ。たぶん。いや、あると思う。どうかな。
「彼女はね、エリーザは、パパが生涯をかけて愛した、たった一人の女性なんだ」
「ママは?」
「ママは別だ」
「じゃ二人じゃない。1たす1は2でしょ。パパ小学校出てる?」
「ちがうんだな。あー、わかってないな。1たす1が2にならない時空があるの。これは非ユークリッド幾何学なの」
何言ってるか意味不明だけど、どうせたぶん適当。
わかってる。パパ、ありがとう。愛してる。あたし、パパの娘で幸せでした。いままではパパがあたしのすべてだったけど、これからは彼「も」あたしのすべてだから、あたしもその非ユークリッド幾何学で1たす1が2にならない時空で生きていくからよろしくね。で、あとは彼がプロポーズしてくれればいいだけなんだけど、どうして男って、言うなら言う、言わないなら言わないでさっさとしないかなー。この点についてはあたし王妃さまと意気投合して、そうよね!ですよね!って手を取りあって盛りあがっちゃった。
「シギイ、今年の夏、何か予定ある?」
「まだとくに決めてないけど、どうして?」
「じゃ、結婚しよっか」
「——え?」
「あ、大丈夫、まかせて。教会の予約はあたしがしておくから」
「ええええ??」
ついでにパパたちの分も予約しておこうか? ね、パパ。
——オデット・ノート 完——