オデット・ノート (12)-2

文字数 2,824文字

 お庭の見えるお部屋に通されたら、光の中に、本物の王妃さまがいました。ブルーのリボンを斜めがけにこそしていなかったけれど、ローブ・デコルテに長手袋でこそなかったけれど、上品なレースのアンサンブルの、カレンダーの中のと同じ人。
 そのポートレイトが、生きて動き出した、と思ったら、王妃さまのほうから近寄って来られて、それも、なんだか、つつつ、というか、ちょっと小走り?
「まあ」お顔を輝かせて、両手をきゅっと握っておいでです。わくわく、という感じで。「まあ、あなたが、あなたが」そしてシギイを見上げて、嬉しそうに、
「このかたが、カワセミちゃんね?」
 カ……、
 カワセミ?
「母上。ちょっと」シギイの手がお母さまの肩をむずとつかんで、引っぱっていきました。そのまま向こうで声を殺してささやきあっています。
「お願いだから今日はよけいなこと言わないでって言ったでしょう!」
「だって言ってたじゃない、ぼくのカワセミちゃんって。見た目宝石なのに、獲物をたたきつけて丸呑みにするところがたまりませんって」
「やめて」
「オオカミちゃんは言っちゃいけないって言われたけど、カワセミちゃんも?」
「どっちもだめ!」
「あなた的には『最愛の人』って意味なんでしょ?」
「世間的には伝わりにくいですから。ていうか伝わらないですから」
「だって本物見るの初めてなんですもの、感激よ、生きて動いてる。お写真よりもっとかわいいのね」
「それはそうなんですけど、あ、ちょっと母上、まだ話終わってません!」
「あのね」王妃さまはもうあたしの前に戻ってらしてました。「そうね、ごめんなさい、わたくし夢中になりすぎて、いやだわ、まだご挨拶もしてなかったわね。今日はいらしてくださって本当にありがとう。そしてこの子のこと、ね、本当に、本当にありがとう。わたくしね、ずっと心配してたの、このままだとこの子のお嫁さんに来てくださるかたなんて一生あらわれないんじゃないかしらと思って。そしたらあなたみたいに素敵なかたが」
「母上、その話、まだですから!」
「あらそうなの? どうして?」
「どうしてって、どうしてじゃありません、段階ってものが。とにかくちょっと黙っててくださいませんか。母上は黙っててくだされば完璧なんですから」
「えー、でも、今日はわたくしがオデットさんとおしゃべりしたくてお招きしたのよ。そんなにいやなら、あなたがどこかへ行ってらっしゃい、ジークフリート」
「いやです。いないすきに何を言われるかわからない」
「まあ、どうして? 格好をつけても、どうせもうすぐ家族になるのだからわかっちゃうじゃない。ね、オデットさん」
「だからその話はまだだって」
 想像してたのとぜんぜんちがいました。まあどうして?あらどうして?っていう、王妃さまの破壊力、絶大。シギイはとうとう顔をおおってソファに倒れこんで沈没しちゃうし、あたしは笑いすぎて涙が出て、そう、あたし、ちょっと泣きました。何ていうか、真珠みたいなかた。王妃さま、もしもあたしなんかを娘にしていただけるのなら、あたしママの分まで王妃さまを、一生大切にします。
 そう。それと、パパのこと。
 最後にちょっと書かせて。ほんとにあの男——もう。やられた。なーにが「お近づきになりたい」よ。最初から王妃さまありきだったんじゃないの。
 パパがあたしに引き合わせてくれたのがあたしの星の王子さま(プティ・プランス)だった段階で、パパの好きなひとの息子だっていう話はフィクションだったんだとあたしは思いこんでしまったんだけど、なんとその設定は生きていて、しかもとんでもなく長いスパンの話だったのでした。パパだって心の奥底の秘密はあたしなんかに打ち明けてなかったのだ。「わたくしね、じつはね、若いときにね、ふふふふはずかしいわ、あなたのお父さまに憧れていたの」って王妃さまが言い出したときのあたし、もう驚くとか驚かないとかそんなレベルじゃなくて。
「ええええええええ!!」
「そうなんだって」シギイ、ため息まじり。知ってたの?!
「あんな、あんな父のどこがよかったんですか?」
「あら、全部よ」うわー。「でもね、昔の話だから、お父さまもとっくにお忘れだろうと思っていたのね。そしたらあれはいつかしら、去年の今ごろ? 突然、ふっとお見えになって」
 残された時間を考えたら、会いたくなった。会ってもゆるされると思ったんです。——そう、言ったそうです。
 ぬけぬけと。
 なーにが「残された時間」よ。
 パパの《不治の病》話にはシギイも一度引っかかってるので、ここでくりかえすのは本当はずかしいんだけど、それまで風邪一つ引かず(仮病以外ね)虫歯も一本もなかったパパが、あのときいたのはウィーンだったかな、なんだか頭痛がすると言い出して。原因不明の微熱もあって、目も鼻も痛くて。それでお医者さまに行ったらものすごくしょんぼりして帰ってきて、あたしも胸がざわざわして、どうだった?って訊いたら、ぽつんと
「花粉症だって」
 笑いすぎて死にかけた。そんなに落ちこむ話かなと思ったけど、本人は心底なさけなかったみたい。
 そのあと、きゅうに浮き浮きしだしたから、これは何かたくらんでるなと思ったのね。そしたらほら、帰るぞって言い出して、ドライフリュッセシュタートに。
 おれももう歳だなと思ってさ。余命いくばくもないなと。せいぜい四十年か五十年? まあ、おまえたちよりは短いよ。だろ? 残された時間がかぎられてるっていうのは事実だろう。だからもう、ね、がまんしないことにしたんだ。え、ひどいな、いままで何かがまんしたことあった?って、あるよ。たぶん。いや、あると思う。どうかな。
「彼女はね、エリーザは、パパが生涯をかけて愛した、たった一人の女性なんだ」
「ママは?」
「ママは別だ」
「じゃ二人じゃない。1たす1は2でしょ。パパ小学校出てる?」
「ちがうんだな。あー、わかってないな。1たす1が2にならない時空があるの。これは非ユークリッド幾何学なの」
 何言ってるか意味不明だけど、どうせたぶん適当。
 わかってる。パパ、ありがとう。愛してる。あたし、パパの娘で幸せでした。いままではパパがあたしのすべてだったけど、これからは彼「も」あたしのすべてだから、あたしもその非ユークリッド幾何学で1たす1が2にならない時空で生きていくからよろしくね。で、あとは彼がプロポーズしてくれればいいだけなんだけど、どうして男って、言うなら言う、言わないなら言わないでさっさとしないかなー。この点についてはあたし王妃さまと意気投合して、そうよね!ですよね!って手を取りあって盛りあがっちゃった。
「シギイ、今年の夏、何か予定ある?」
「まだとくに決めてないけど、どうして?」
「じゃ、結婚しよっか」
「——え?」
「あ、大丈夫、まかせて。教会の予約はあたしがしておくから」
「ええええ??」
 ついでにパパたちの分も予約しておこうか? ね、パパ。



——オデット・ノート 完——

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登場人物紹介

オデット(愛称オディール)


・この物語の語り手。伯爵家の出身だが、8歳で母を亡くし、父ディートリヒに連れられて欧州各地を転々として育つ。ひとりっ子。
・黒髪、目は濃いブルー。
・ヴァイオリンの腕前はソリスト級。水泳も得意。
・叔父のテオドールと仲がよく、彼所有のヴァイオリンの名器を借りて使用している。
・服はほとんどが白か黒の二択。
・親しい人の前ではのびのびとふるまう反面、極端な人見知りで、外では別人のように不愛想。
・夢中になると前後を見失いがち(自覚あり)。

・人の顔が覚えられない(自覚あり)。

・初恋の相手は愛犬のティート(ゴールデンレトリバー)だった。

・ティート以降は男運に恵まれていない(自己申告)。

ディートリヒ(愛称ディーディー)


・教会音楽家(キルヒェンムジカー)。音楽全般に天才的な才能。楽器はパイプオルガンとピアノ。指揮、編曲もこなし、歌も歌える(バリトン)。
・紫がかった黒髪と黒目。
・幻の名作『白鳥の湖』の復曲にとり憑かれている。

・伯爵家の当主だったが、妻に先立たれてから弟テオドールに家督を譲り、欧州各地を気ままに転々として暮らす。音楽教師と調律の仕事で生計を立てている、ように見えるが、じつは経済観念にとぼしく家計はつねに赤字で、弟からの仕送りに頼っている。

・ひとり娘のオデットを溺愛。ジークフリートにも父親的な愛情を抱き、二人の結婚を画策する。
・つねに他人の予想のななめ上を行く言動で周囲を驚かせる。
・女にもてすぎるため過去にいろいろやらかしてきているらしい。

ジークフリート(愛称シギイ)

   

・バイエルン(南ドイツ語圏)地方に位置する小国の王太子。ひとりっ子。
・長身。髪は赤みがかった金茶色(母似)。
・読書魔でハイパー記憶力の持ち主。
・ピアノが得意。とくに即興と伴奏。
・趣味はバードウォッチング。とくに渓流の小鳥を偏愛。

・自己評価が極端に低く、本人はコミュ障だと思って悩んでいるが、じっさいは聞き上手で愛されキャラ。

・涙もろい。

・なんのかの言ってオデットにはひと目惚れだった(らしい)。

ゲン


・フルネームはシライ・ゲン(白井玄)。ピアニスト。東京出身。

・ベルリンでオデットの伴奏を受け持つ。

・留学は二度目。今回は伴奏ピアノに特化して短期で来ている。

・気配りのできる大人で都会人。オデットがいままで会ったことのないタイプ。悩むオデットを優しく見守る。

・少しずつ形の違う黒のハイネックを何枚も持っている。

・ふだんはメガネ男子。じつは視力はそんなに悪くない。

・じつは酒に強い。ほぼ底なし。

アンネ=ゾフィー


・オデットの祖母。オデットの母オディーリアの母。ヴァイオリニスト。

・早くに離婚し、夫のもとにオディーリアを残して、音楽家として独りで生きてきた。

・数年前から脚の病をわずらい、車椅子生活だが、演奏家としても音大教授としても精力的に活動を続けている。

・オディーリアとディートリヒの結婚を直前まで知らされなかったことに怒り、一時期は断絶するも、オデット誕生を機にあっさり和解。

・幼いオデットにヴァイオリンの手ほどきをした。

エリーザ


・ジークフリートの母。王太子である息子を摂政として支える。息子を溺愛しているが、全体にも気配りのきく、バランスの取れた賢夫人。
・小柄で色白。赤みがかった金髪(息子と同じ)。中年になったいまも絶世の美女。
・若い頃、ディートリヒにピアノを習っていた。
・天真爛漫で明るく、ひじょうに安定した性格で、周囲にとって「錨」のような存在。
・その一方、おちゃめで天然。つぎつぎと無邪気な発言を繰り出しては周囲を驚かせる。

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