オデット・ノート (4) ★BGM付
文字数 3,027文字
クリスマスプレゼント、楽しみだったはずなんだけど、そのわりには何をもらったか覚えていません。あれが欲しいこれが欲しいとねだった記憶もありません。だって家には大人たちのための素敵な物がたくさんあって、子ども用のおもちゃよりだんぜん面白そうだったから、あたしは年中無休でその探索にいそしんでいたのです(「いそしむ」で合ってるよね)。おじいちゃま(父方)秘蔵のチェスセットをジャムだらけの手でいじってべとべとにしちゃったのもあたしです。その節はごめんなさい、おじいちゃま。でもジャム(たしかあんず)はよけいで、あたしはあの駒たちを使って壮大なファンタジーを展開してたのです。黒の王さまと白の女王さまが恋に落ちて、黒の女王さまが嫉妬して、黒の王さまと白の女王さまはそれぞれ黒と白の馬に乗って夜明けに脱出して、草原(じゅうたん)の上をどこまでも駆けていくの、パカラッパカラッって。すごいでしょ、すごくない? よく考えると白の王さまの立場ないけど。とにかく、これにこりたママは、あたしがよちよち走り出す前につかまえて濡れタオルで手を拭きあげる、という習慣を身につけました。おかげであたしはパパのピアノをべとべとにせずにすんだし、おばあちゃま(母方)のヴァイオリンもべとべとにせずにすみました。おばあちゃまがあたしの手を自分の手でつつんで、ヴァイオリンの上で動かしたら、ものすごくきれいな音が出て、あたし(たしか三歳)はいっぺんで夢中になって自分はヴァイオリンが弾けるんだと信じてしまいました。だからあたしが欲しい欲しいとさわいだ数少ない物の一つがヴァイオリンで――ねえぜったい信じてないでしょ。あたし何でも欲しがる強欲女と思われてません? ほんとちがうから。あたしが人生で心の底から欲しいと思ったものは二つしかなくて、その一つめがヴァイオリンです。初めてミニサイズのヴァイオリンを持たせてもらったときも、ママがちゃんと手を拭いてくれたからべとべとにしなくてすんでよかった。あ、でもそれ、さっきも言ったようにテオ叔父さま所蔵です。あたしべつに持ち主じゃなくてもいいの、自由に弾かせてもらえるなら。これはきっと、パイプオルガンという基本的に「所有」できない楽器を愛しているパパの影響。
欲しいと思ったもの二つめの話。一度、今年のプレゼント何がいい?と訊かれて、弟!と言ったら、パパはちょっと考えこんで、今年はまにあわないけど来年でもいい?と言うからいいよと言ったら、その年はティートが来ました。ゴールデンレトリバーの仔犬です。ティートとあたしはすぐに意気投合して、あたしがヴァイオリンで『きらきら星』を弾くとティートはそばに来て歌うし(モーツァルトの変奏曲バージョンね。あれピアノ曲だけどヴァイオリン用になってるのがあるの)、あたしは本気で神さまにお願いして神さまがティートを人間の男の子にしてくれたら、彼と結婚するつもりでいました。だから次の年、弟をもらう話は正直あたし忘れてたんだけど、ママが一度入院して退院して帰ってきて泣いて、パパがなぐさめて、本当は弟が来るはずだったんだけど来られなくなった、という説明を受けました。そのときあたしがティートを抱きしめて考えたのは、あたしが、ティートを好きになりすぎて、新しい弟のことを忘れちゃってたから、弟は悲しくなって来なくなったのかもしれない。あたしは好きになりすぎる。夢中になりすぎる。そして誰かを傷つける。それがいけないんだ。冷たい呪いのようにあたしの背骨を走り抜けたその思いは、前後はいろいろまちがってたけどじつは真実を突いてました。頬に涙がこぼれ、ティートは暖かい舌でその涙をなめてくれて、あたしはパパとママと会えなかった弟に泣きながら心の中であやまって、神さまにもあやまって、ティートを人間にしてくれなくてもあたしはティートと結婚するからいいですと祈りました。
その後、たしか二年後か三年後、あたしはティートを裏切ることになります。ティートはもう男盛りの素敵な犬になっていて、あたしがどうして彼を捨てていくのか理解できませんでした。でもパパとティートの二択だったらパパを取るしかない。パパと手をつないで、背を向けて歩きだしたら、すきゅーん、すきゅーん、とティートの声がしました。あんなに大きな体に似合わず、仔犬のときと同じ声で泣いているのでした。思わずふりかえって、ティート!と呼んだら、ティートもたまらずわんわんと泣きました。玄関のテラスの白い階段の前で、ティートの首輪をテオ叔父ちゃまがしっかりと押さえてくれていて、そのとき衝撃だったのは、ティートとテオ叔父ちゃま、そっくり。それを見て、あたしは自分が何を捨てていこうとしているのかを悟った。もう、天の啓示。それは、こうして言葉にするとえらそうだけど、つまり、家庭。地に足のついた幸せ。あれからいろんな学校に編入したけど、どのクラスにも一人はテオ叔父さまのタイプがいて、あたしはかならずその子を好きになり、でもそれは恋じゃなくて、こういう男の子に恋してあわよくば結ばれるような女の子に生まれてきたかったという、ほのかな絶望というか。向こうもわかってて、そういう子はあたしの半径1メートル以内にはぜったい入ってこない。目を合わせてもちょっと笑うだけで、ティートみたいに飛びついてきてはくれないのです。人間だからね。
いよいよヴァイオリンのフルサイズを借りるというときに一度だけ家へ、いまはテオ叔父さまが住んで管理してくれているあの家へ帰りました。ティートもテオ叔父さまも年を取っただけで、ぜんぜん変わらなかった。それからまた四、五年たったから、ティートはもっとおじいさんになって、歩きかたももうのそのそで、目もよく見えないらしいです(白内障)。それでもやっぱり陽気でご機嫌なところは変わらないみたい。だから正直に告白すると、あたしはサンドラ叔母さまが嫌いなのじゃなくて、たんに、うらやましいだけ。あの日あたしは視線を、ティートから、手をつないだ父の横顔にもどして、この
★BGM:モーツァルト「きらきら星変奏曲」ヴァイオリン・バージョン(まさか動画があるとは!(嬉)ピアノ伴奏ではなくてヴァイオリンとヴィオラのデュオだけど、それも素敵。)
https://www.youtube.com/watch?v=bW8SyQfRHWo