オデット・ノート (4) ★BGM付

文字数 3,027文字

 サンタクロースを何歳まで信じてたか、という話だけど、あたしの場合ちょっと事情がちがって、最初からサンタクロースはパパだって知ってた。ただし、パパのサンタクロースはクリスマスイヴのお昼過ぎにはもうプレゼントを持ってきてくれて、つまりあたしは世界じゅうでいちばん先にプレゼントがもらえる特別な子どもで、パパはそれから教会へ行ってオルガンを夜中まで弾いて、そのあと世界中の子どもたちにプレゼントを配りに行って帰ってきて、次の朝の十時にはまたオルガンを弾いてた。だから、クラスメートたちが赤い服やトナカイの話をしてるのを聞いて、あなたたち本当に何も知らないのねってあたしはひそかにあきれてました。
 クリスマスプレゼント、楽しみだったはずなんだけど、そのわりには何をもらったか覚えていません。あれが欲しいこれが欲しいとねだった記憶もありません。だって家には大人たちのための素敵な物がたくさんあって、子ども用のおもちゃよりだんぜん面白そうだったから、あたしは年中無休でその探索にいそしんでいたのです(「いそしむ」で合ってるよね)。おじいちゃま(父方)秘蔵のチェスセットをジャムだらけの手でいじってべとべとにしちゃったのもあたしです。その節はごめんなさい、おじいちゃま。でもジャム(たしかあんず)はよけいで、あたしはあの駒たちを使って壮大なファンタジーを展開してたのです。黒の王さまと白の女王さまが恋に落ちて、黒の女王さまが嫉妬して、黒の王さまと白の女王さまはそれぞれ黒と白の馬に乗って夜明けに脱出して、草原(じゅうたん)の上をどこまでも駆けていくの、パカラッパカラッって。すごいでしょ、すごくない? よく考えると白の王さまの立場ないけど。とにかく、これにこりたママは、あたしがよちよち走り出す前につかまえて濡れタオルで手を拭きあげる、という習慣を身につけました。おかげであたしはパパのピアノをべとべとにせずにすんだし、おばあちゃま(母方)のヴァイオリンもべとべとにせずにすみました。おばあちゃまがあたしの手を自分の手でつつんで、ヴァイオリンの上で動かしたら、ものすごくきれいな音が出て、あたし(たしか三歳)はいっぺんで夢中になって自分はヴァイオリンが弾けるんだと信じてしまいました。だからあたしが欲しい欲しいとさわいだ数少ない物の一つがヴァイオリンで――ねえぜったい信じてないでしょ。あたし何でも欲しがる強欲女と思われてません? ほんとちがうから。あたしが人生で心の底から欲しいと思ったものは二つしかなくて、その一つめがヴァイオリンです。初めてミニサイズのヴァイオリンを持たせてもらったときも、ママがちゃんと手を拭いてくれたからべとべとにしなくてすんでよかった。あ、でもそれ、さっきも言ったようにテオ叔父さま所蔵です。あたしべつに持ち主じゃなくてもいいの、自由に弾かせてもらえるなら。これはきっと、パイプオルガンという基本的に「所有」できない楽器を愛しているパパの影響。
 欲しいと思ったもの二つめの話。一度、今年のプレゼント何がいい?と訊かれて、弟!と言ったら、パパはちょっと考えこんで、今年はまにあわないけど来年でもいい?と言うからいいよと言ったら、その年はティートが来ました。ゴールデンレトリバーの仔犬です。ティートとあたしはすぐに意気投合して、あたしがヴァイオリンで『きらきら星』を弾くとティートはそばに来て歌うし(モーツァルトの変奏曲バージョンね。あれピアノ曲だけどヴァイオリン用になってるのがあるの)、あたしは本気で神さまにお願いして神さまがティートを人間の男の子にしてくれたら、彼と結婚するつもりでいました。だから次の年、弟をもらう話は正直あたし忘れてたんだけど、ママが一度入院して退院して帰ってきて泣いて、パパがなぐさめて、本当は弟が来るはずだったんだけど来られなくなった、という説明を受けました。そのときあたしがティートを抱きしめて考えたのは、あたしが、ティートを好きになりすぎて、新しい弟のことを忘れちゃってたから、弟は悲しくなって来なくなったのかもしれない。あたしは好きになりすぎる。夢中になりすぎる。そして誰かを傷つける。それがいけないんだ。冷たい呪いのようにあたしの背骨を走り抜けたその思いは、前後はいろいろまちがってたけどじつは真実を突いてました。頬に涙がこぼれ、ティートは暖かい舌でその涙をなめてくれて、あたしはパパとママと会えなかった弟に泣きながら心の中であやまって、神さまにもあやまって、ティートを人間にしてくれなくてもあたしはティートと結婚するからいいですと祈りました。
 その後、たしか二年後か三年後、あたしはティートを裏切ることになります。ティートはもう男盛りの素敵な犬になっていて、あたしがどうして彼を捨てていくのか理解できませんでした。でもパパとティートの二択だったらパパを取るしかない。パパと手をつないで、背を向けて歩きだしたら、すきゅーん、すきゅーん、とティートの声がしました。あんなに大きな体に似合わず、仔犬のときと同じ声で泣いているのでした。思わずふりかえって、ティート!と呼んだら、ティートもたまらずわんわんと泣きました。玄関のテラスの白い階段の前で、ティートの首輪をテオ叔父ちゃまがしっかりと押さえてくれていて、そのとき衝撃だったのは、ティートとテオ叔父ちゃま、そっくり。それを見て、あたしは自分が何を捨てていこうとしているのかを悟った。もう、天の啓示。それは、こうして言葉にするとえらそうだけど、つまり、家庭。地に足のついた幸せ。あれからいろんな学校に編入したけど、どのクラスにも一人はテオ叔父さまのタイプがいて、あたしはかならずその子を好きになり、でもそれは恋じゃなくて、こういう男の子に恋してあわよくば結ばれるような女の子に生まれてきたかったという、ほのかな絶望というか。向こうもわかってて、そういう子はあたしの半径1メートル以内にはぜったい入ってこない。目を合わせてもちょっと笑うだけで、ティートみたいに飛びついてきてはくれないのです。人間だからね。
 いよいよヴァイオリンのフルサイズを借りるというときに一度だけ家へ、いまはテオ叔父さまが住んで管理してくれているあの家へ帰りました。ティートもテオ叔父さまも年を取っただけで、ぜんぜん変わらなかった。それからまた四、五年たったから、ティートはもっとおじいさんになって、歩きかたももうのそのそで、目もよく見えないらしいです(白内障)。それでもやっぱり陽気でご機嫌なところは変わらないみたい。だから正直に告白すると、あたしはサンドラ叔母さまが嫌いなのじゃなくて、たんに、うらやましいだけ。あの日あたしは視線を、ティートから、手をつないだ父の横顔にもどして、この(ひと)と生きていくかぎり、あたしに《ふつうの幸せ》はあり得ない。そうよ、サンドラ叔母ちゃま、あり得ないの。だけどその代わりあたしには、《ふつうじゃない幸せ》が約束されてる。どう、うらやましいでしょう? と思ったのでした。そしてティート、本当にごめん。


★BGM:モーツァルト「きらきら星変奏曲」ヴァイオリン・バージョン(まさか動画があるとは!(嬉)ピアノ伴奏ではなくてヴァイオリンとヴィオラのデュオだけど、それも素敵。)
https://www.youtube.com/watch?v=bW8SyQfRHWo
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登場人物紹介

オデット(愛称オディール)


・この物語の語り手。伯爵家の出身だが、8歳で母を亡くし、父ディートリヒに連れられて欧州各地を転々として育つ。ひとりっ子。
・黒髪、目は濃いブルー。
・ヴァイオリンの腕前はソリスト級。水泳も得意。
・叔父のテオドールと仲がよく、彼所有のヴァイオリンの名器を借りて使用している。
・服はほとんどが白か黒の二択。
・親しい人の前ではのびのびとふるまう反面、極端な人見知りで、外では別人のように不愛想。
・夢中になると前後を見失いがち(自覚あり)。

・人の顔が覚えられない(自覚あり)。

・初恋の相手は愛犬のティート(ゴールデンレトリバー)だった。

・ティート以降は男運に恵まれていない(自己申告)。

ディートリヒ(愛称ディーディー)


・教会音楽家(キルヒェンムジカー)。音楽全般に天才的な才能。楽器はパイプオルガンとピアノ。指揮、編曲もこなし、歌も歌える(バリトン)。
・紫がかった黒髪と黒目。
・幻の名作『白鳥の湖』の復曲にとり憑かれている。

・伯爵家の当主だったが、妻に先立たれてから弟テオドールに家督を譲り、欧州各地を気ままに転々として暮らす。音楽教師と調律の仕事で生計を立てている、ように見えるが、じつは経済観念にとぼしく家計はつねに赤字で、弟からの仕送りに頼っている。

・ひとり娘のオデットを溺愛。ジークフリートにも父親的な愛情を抱き、二人の結婚を画策する。
・つねに他人の予想のななめ上を行く言動で周囲を驚かせる。
・女にもてすぎるため過去にいろいろやらかしてきているらしい。

ジークフリート(愛称シギイ)

   

・バイエルン(南ドイツ語圏)地方に位置する小国の王太子。ひとりっ子。
・長身。髪は赤みがかった金茶色(母似)。
・読書魔でハイパー記憶力の持ち主。
・ピアノが得意。とくに即興と伴奏。
・趣味はバードウォッチング。とくに渓流の小鳥を偏愛。

・自己評価が極端に低く、本人はコミュ障だと思って悩んでいるが、じっさいは聞き上手で愛されキャラ。

・涙もろい。

・なんのかの言ってオデットにはひと目惚れだった(らしい)。

ゲン


・フルネームはシライ・ゲン(白井玄)。ピアニスト。東京出身。

・ベルリンでオデットの伴奏を受け持つ。

・留学は二度目。今回は伴奏ピアノに特化して短期で来ている。

・気配りのできる大人で都会人。オデットがいままで会ったことのないタイプ。悩むオデットを優しく見守る。

・少しずつ形の違う黒のハイネックを何枚も持っている。

・ふだんはメガネ男子。じつは視力はそんなに悪くない。

・じつは酒に強い。ほぼ底なし。

アンネ=ゾフィー


・オデットの祖母。オデットの母オディーリアの母。ヴァイオリニスト。

・早くに離婚し、夫のもとにオディーリアを残して、音楽家として独りで生きてきた。

・数年前から脚の病をわずらい、車椅子生活だが、演奏家としても音大教授としても精力的に活動を続けている。

・オディーリアとディートリヒの結婚を直前まで知らされなかったことに怒り、一時期は断絶するも、オデット誕生を機にあっさり和解。

・幼いオデットにヴァイオリンの手ほどきをした。

エリーザ


・ジークフリートの母。王太子である息子を摂政として支える。息子を溺愛しているが、全体にも気配りのきく、バランスの取れた賢夫人。
・小柄で色白。赤みがかった金髪(息子と同じ)。中年になったいまも絶世の美女。
・若い頃、ディートリヒにピアノを習っていた。
・天真爛漫で明るく、ひじょうに安定した性格で、周囲にとって「錨」のような存在。
・その一方、おちゃめで天然。つぎつぎと無邪気な発言を繰り出しては周囲を驚かせる。

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