オデット・ノート (12)-1

文字数 1,719文字

 やっと、やっと、とうとう電車が中央駅(ハウプトバーンホフ)まで来たら、プラットフォームの端に立ってる彼が見えた。あたしからは彼がよく見えたのに、外から中は見えなかったらしくて、通り過ぎる窓のむこうで流れ星をさがすようなせつない目をしていて、あれ見たらもうあたし嬉しくて泣きそうであれあたしの彼ですって全車両に叫びたくなって荷物をつかんで飛びだしていこうとしたらまだ開ききってないドアに激突して、痛かった。だってドア開くの遅い。ベルリンの自動ドアなんて電車停まる前から開いてるのよ(うそ)。
 ゆるすゆるさないなんてもう無理、もう限界。あたし自分で自分の首しめてただけ、五ヶ月も意地はって。ばかみたい。あたしさえ『フィガロ』の伯爵夫人みたいに大人だったら、初めから全部笑い話ですんだのに。だいたい何あの電話、夜中の二時。心の準備も何もないよ。発信者の表示はパパなのに、出たらシギイで、苦しそうな声でいきなり「ぼくを封印してくれ」って——あれで落ちない女、いる? もうやだ。本人自覚ないみたいだけど彼すごすぎる、これだけじらしてからの不意打ちなんて。あたしあのあと何日も思い出すたびにベッドにダイブして枕抱いてころがってました。幸せすぎて死ぬ。ばかでしょ。
 苦しみの日を終わりにできるのは愛だけ。さあ花火を上げましょう、ってフィガロたちはフィナーレで歌う。シギイとあたしも心の湖の上に、たくさんたくさん、花火を上げた。三千発。
 春がそこまで来てた。
 クロッカスって地面から生えた電球みたいよねって言ったら、シギイはちょっと考えて、そうかもって言ってくれた。はじめ、紫のほう想像しちゃったんだって。そうじゃなくて黄色のほうね。
「自分では覚えてないんだけど、ぼく子どものとき、食べようとしたことあるらしいんだ」
「クロッカスを?」
「うん。ヒヤシンスも。ばかだったの」
 もうー。そんなかわいい映像あったら、百万回は再生されちゃうね。誰か早くタイムマシンを発明してくれないかな。ちっちゃいシギイに会いに行ってみたい。
 仲直りできたのはよかったんだけど、それから、なんだか、いろいろ、話が、進んで、彼のお母さまが一度お会いしたいわって仰って、好きな人のお母さんってだけで緊張するのに、よりによって、王妃さまなのです。全国民の憧れの的。あたし、自分の名前オデットだけど、本当は王妃さまのほうがずっと白鳥姫のイメージにぴったりだと思うのね。あのご成婚のときのお写真の、ちょっとうつむいた首のラインの美しさとか、ほんのり微笑まれた口もとの愛らしさとか、女のあたしがいま見てもくらくらする。そんな人の前に出なきゃいけないなんて拷問でしょ? どうしたらいい? シギイは「いつものままのきみでいいから」って言ってくれて、それから考えて、「あ、でも、ちょっと、——」
「ひかえめに、だよね?」
「いや、うん、——」
「気合い入れすぎないようにっていうか」
「うん、えーと、——うん」
 ああどうしよう。何着たらいい? 髪型は? 彼はあたしがベルリンから着いたときのツインテールがいたくお気に召したらしくて、あれにしたらいいよって言うんだけど、あれは何ていうか、あのとき限定の特別仕様だったのに、やっぱり男ってなんだかんだ言ってかわいいのが好きなのね。でもシギイはあれで落とせても、お母さまに通用するとは思えない。きっと逆効果。ファニイに相談したら、お嬢さまっぽい服貸してあげるって言うから期待してたら、ごめんファニイ、サイズ大きすぎた。うん。
 考えたら、人前に出るための服ってほとんど自分で買ったことがない。発表会のときのドレスはみんなママのおさがり。
 けっきょく、白いボウタイのシャツブラウスとフレアスカートにして、『ローマの休日』みたいなの。これならまちがいないよってファニイも太鼓判を押してくれたんだけど、あたし緊張のあまりずっと手汗をハンカチで拭いてました。悲しすぎ。大きなお屋敷に住んでた記憶は八歳までで、社交界デビューするはるか前にドロップアウトして適当な人生を歩んできたから、天井があんなに高いだけであたし雰囲気にのまれて、足がすくんで……彼のほうがずっと緊張してるのに気づかなかった。
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登場人物紹介

オデット(愛称オディール)


・この物語の語り手。伯爵家の出身だが、8歳で母を亡くし、父ディートリヒに連れられて欧州各地を転々として育つ。ひとりっ子。
・黒髪、目は濃いブルー。
・ヴァイオリンの腕前はソリスト級。水泳も得意。
・叔父のテオドールと仲がよく、彼所有のヴァイオリンの名器を借りて使用している。
・服はほとんどが白か黒の二択。
・親しい人の前ではのびのびとふるまう反面、極端な人見知りで、外では別人のように不愛想。
・夢中になると前後を見失いがち(自覚あり)。

・人の顔が覚えられない(自覚あり)。

・初恋の相手は愛犬のティート(ゴールデンレトリバー)だった。

・ティート以降は男運に恵まれていない(自己申告)。

ディートリヒ(愛称ディーディー)


・教会音楽家(キルヒェンムジカー)。音楽全般に天才的な才能。楽器はパイプオルガンとピアノ。指揮、編曲もこなし、歌も歌える(バリトン)。
・紫がかった黒髪と黒目。
・幻の名作『白鳥の湖』の復曲にとり憑かれている。

・伯爵家の当主だったが、妻に先立たれてから弟テオドールに家督を譲り、欧州各地を気ままに転々として暮らす。音楽教師と調律の仕事で生計を立てている、ように見えるが、じつは経済観念にとぼしく家計はつねに赤字で、弟からの仕送りに頼っている。

・ひとり娘のオデットを溺愛。ジークフリートにも父親的な愛情を抱き、二人の結婚を画策する。
・つねに他人の予想のななめ上を行く言動で周囲を驚かせる。
・女にもてすぎるため過去にいろいろやらかしてきているらしい。

ジークフリート(愛称シギイ)

   

・バイエルン(南ドイツ語圏)地方に位置する小国の王太子。ひとりっ子。
・長身。髪は赤みがかった金茶色(母似)。
・読書魔でハイパー記憶力の持ち主。
・ピアノが得意。とくに即興と伴奏。
・趣味はバードウォッチング。とくに渓流の小鳥を偏愛。

・自己評価が極端に低く、本人はコミュ障だと思って悩んでいるが、じっさいは聞き上手で愛されキャラ。

・涙もろい。

・なんのかの言ってオデットにはひと目惚れだった(らしい)。

ゲン


・フルネームはシライ・ゲン(白井玄)。ピアニスト。東京出身。

・ベルリンでオデットの伴奏を受け持つ。

・留学は二度目。今回は伴奏ピアノに特化して短期で来ている。

・気配りのできる大人で都会人。オデットがいままで会ったことのないタイプ。悩むオデットを優しく見守る。

・少しずつ形の違う黒のハイネックを何枚も持っている。

・ふだんはメガネ男子。じつは視力はそんなに悪くない。

・じつは酒に強い。ほぼ底なし。

アンネ=ゾフィー


・オデットの祖母。オデットの母オディーリアの母。ヴァイオリニスト。

・早くに離婚し、夫のもとにオディーリアを残して、音楽家として独りで生きてきた。

・数年前から脚の病をわずらい、車椅子生活だが、演奏家としても音大教授としても精力的に活動を続けている。

・オディーリアとディートリヒの結婚を直前まで知らされなかったことに怒り、一時期は断絶するも、オデット誕生を機にあっさり和解。

・幼いオデットにヴァイオリンの手ほどきをした。

エリーザ


・ジークフリートの母。王太子である息子を摂政として支える。息子を溺愛しているが、全体にも気配りのきく、バランスの取れた賢夫人。
・小柄で色白。赤みがかった金髪(息子と同じ)。中年になったいまも絶世の美女。
・若い頃、ディートリヒにピアノを習っていた。
・天真爛漫で明るく、ひじょうに安定した性格で、周囲にとって「錨」のような存在。
・その一方、おちゃめで天然。つぎつぎと無邪気な発言を繰り出しては周囲を驚かせる。

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