オデット・ノート (6) ★BGM付

文字数 3,021文字

 これから書く話はあたしの(いまのところ)人生最大の恥で、しかもそれを書くには他にも書かなきゃならない話がいくつかあって、どれから順番に書いたらいいかわからない。紙に箇条書きにしてずっとにらんでるんだけど決まらない。こういうところはパパに似ればよかった。パパは頭の整理の速い人で、買い物メモややることリストの類を作ったことがない。どうしてそういうものが必要なのか理解できないらしくて、いつもメモ片手に店内をうろうろするあたしを不思議そうに見てる。まあ、オルガンが弾けて指揮ができるんだから、きっと脳内に複々線が走ってるのよね。その点、ママとあたしは頭が単線だった。ヴァイオリン譜は一段でいいんだもんねってあたしが自慢したら、でも右手と左手でちがうことするでしょ、ママなんてメロディ思い出そうとすると歌詞忘れるのよ、とのたまったママは、ほんとに大物だった。
 だから、その話じゃなくて。
 ああもう、めんどくさい。決めた。ふつうに本題から書きます。
「オディール、頼みがある」
とパパがまじめな声で言い出すときはたいていろくなことじゃないので、ああ、またか、とあたしはうんざりして、ヴァイオリンを置いて弓のねじをゆるめた。せっかく練習が佳境に入ってきていい調子だったのに。バッハの無伴奏といえばパルティータ二番のシャコンヌが超有名だけど、あの大曲はあたしみたいな小娘にはまだ(おそ)れ多くて、いま弾きたいのは三番のガヴォット。いつかイツァーク・パールマンさんがアンコールで微笑みながららくらく弾いてくださったように、あんなふうに軽やかに、ほがらかに、天使みたいに弾けたら……
 あっさりと天上から地上へ引きずり降ろされたあたしはため息をついて、パパと向かいあって座りながら、あらかじめ用意しておいたメモをテーブルの上にぽんと置いた。攻撃は最大の防御なり。
「何だこれは」
「アンケート。はい(ヤー)いいえ(ナイン)で答えればいいようになってるから」
 あたしの用意した質問項目は以下のとおり。
 1.その女性は、あなたより年上ですか? はい/いいえ
 2.その女性は、テオ叔父ちゃまよりお金持ちですか? はい/いいえ
 3.音楽をやる人ですか(マハト・ズィー・ムジーク)? はい/いいえ
 4.その女性に愛されている確認は、とれていますか? はい/いいえ
 われながらよくできた質問集だと思う、これ。
 あ、状況説明忘れてた。あたしたちは故郷に、なつかしい三つの河の国(ドライフリュッセシュタート)に戻ってきました。去年。突然パパが「戻るぞ」と言い出して戻ってきたんだけど、いまそこ説明する時間ないからまたあとでね。とにかくあたしはめでたく高等音楽院(ムジークホッホシューレ)に編入してもらえて、人生で初めて友だち(人間の)というものもでき、やっと未来が開けて、……
「だから何だこれは。どうしてこういう関連の話だと決めつけるんだ」
「ちがうの?」
「そうだけど」
「でしょ。じゃあ、はい」
 えんぴつを渡すと、パパは真剣に線を引きはじめた。該当しないほうを消していく。
「年下なの」
「うん」
「ふーん、ひさしぶり。でも富豪なんだ」
「お金は関係ない」
「いつもそう言うけど、けっきょくは援助してもらって、そして逃げ出すのパターンだよね」
「言わないで」
「音楽やる人ならよかったね」
「筋がいい。将来有望だ」
「え、教え子?」
うん(ヤー)
「教え子はNGでしょ、今度こそ居場所なくなるよ? まさかあたしと同じ学校?」
ううん(ナイン)
「ならいいけど、ってよくないけど」
 パパのえんぴつは項目4のところで止まって、くるくると円を描いてる。
「なにそれ『はい、カッコたぶん』って。確認とれてないってことじゃない。『いいえ』じゃない」
「だって怖くて訊けないもん」
 ばかなのか、この人。
「それであたしに代わりに訊きに行けっていうのね? つまんない役」
「そうじゃないんだ……どこから話せばいいのか」
 もじもじしているのが素なのか演技なのか、わかりません。油断のならない男。
「問題が山積みなんだよ、いろいろ」
「また? 今回は何?」
「年下だけど若すぎるし、金持ちだけど跡取りだし」
「ふーん。若すぎるってどのくらい?」
「はたち」
「あたしと同い年? 犯罪ぎりぎりじゃない! だめだめ。中国のことわざにもあるよね、『危ない所に行っちゃだめ』って」
「『君子危うきに近寄らず』だな。それ『君子』を省くとたんなる夏休みの標語だな」
「いいじゃない、だいたい合ってたし」
「そうだな。そもそもおれは君子じゃないし」
「ちがう。話がずれた。だから危ない橋渡るのはやめてって、未成年ぎりぎりなんて」
「それどころじゃないもんねー」
「なに自慢してるの」
「最大の難関はね」
「何」
「ふっふっふ」
「じらさないで。何」
「男の子なんだ」
 は?
 ちょっと待って。ちょっと待ってよ——それはさすがに、あたしの予想のはるか斜め上です!!
「だってひと目惚れしちゃったんだもん。どうしても彼を落としたいの」
「はああ?」
「もちろん結婚は考えていない。あくまでプラトニックなラブであって」
「ああそう」
「そもそもの出会いはね」
「聞いてない」
「聞きたくない? 衝撃的だよ」
「怖っ! いちおう聞かせて」
「ある日、湖のほとりでね……はい、ここから先は十ユーロ」
「払いません」
「オディール、態度に真剣みが足りないぞ」
「どっちが?」
「難攻不落なんだよねー彼。なかなか心を開いてくれないの。あと一押しってところ? ああ、もう、じれったいっ」
「中学生?」
「だからね、こうなったらもう先手を打って、既成事実を作るしかないと思ってさ」
「ちょ、待っ、何考えてるの?!」
「彼を誘い出して、眠り薬を飲ませて」
「ディーディー!!」
「もうろうとしているあいだに、婚姻届にサインさせる」
「さっき結婚はなしって言ったじゃない?!」
「おれとじゃない、おまえとだ。おまえが彼と結婚するの」
「はい?」
「そうすれば披露宴のときに、彼のお母さんの隣に座れるじゃない? 頼むよ。このとおり。パパはタキシード姿には自信あるんだ」
 沈黙。
「え、そっち?」
「うん」
「じゃ何、ねらいは、その、お母さん?」
 やられた。なにその嬉しそうな顔。口開けないの。ばかじゃないの、ほんとに。
「ああああああ、もう、そう言ってよ、最初から」
「それじゃつまんないじゃない」
「つまんなくていい。ああびっくりした」あたしもまだまだ修行が足りないな。だってじゅうぶんあり得る、いまの時代、父の再婚相手が自分と同い年の男の子って。
「いい計画だろう? 完璧だな」
「どこが。ピンポイントすぎでしょタキシードって。だいたい、なんであたしがその男の子と」
「彼女、息子命なんだ。おまえが彼と仲よくなってくれれば、パパも彼女とお近づきになりやすい」
「自助努力って発想はないの?」
「手持ちのコマが少ないからなあ」
「あたしコマですか?!」
「ちがった?」
 とりあえずその憧れの君が未亡人だという点を確認して、あたしは胸をなでおろした。人妻はもうかんべんしてほしかったから(「おれは人妻に手を出したことはないよ?」「断れないんだから同じじゃない」)。だけど、本当に、文字どおり、それどころじゃなく、これは父のとんでもない計画のほんの一部、氷山の一角だったということを、あたしは数日後に知ることになるわけです。


★BGM:バッハ「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第三番(ホ長調)より ガヴォット」
https://www.youtube.com/watch?v=1gD-YUC9y80
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登場人物紹介

オデット(愛称オディール)


・この物語の語り手。伯爵家の出身だが、8歳で母を亡くし、父ディートリヒに連れられて欧州各地を転々として育つ。ひとりっ子。
・黒髪、目は濃いブルー。
・ヴァイオリンの腕前はソリスト級。水泳も得意。
・叔父のテオドールと仲がよく、彼所有のヴァイオリンの名器を借りて使用している。
・服はほとんどが白か黒の二択。
・親しい人の前ではのびのびとふるまう反面、極端な人見知りで、外では別人のように不愛想。
・夢中になると前後を見失いがち(自覚あり)。

・人の顔が覚えられない(自覚あり)。

・初恋の相手は愛犬のティート(ゴールデンレトリバー)だった。

・ティート以降は男運に恵まれていない(自己申告)。

ディートリヒ(愛称ディーディー)


・教会音楽家(キルヒェンムジカー)。音楽全般に天才的な才能。楽器はパイプオルガンとピアノ。指揮、編曲もこなし、歌も歌える(バリトン)。
・紫がかった黒髪と黒目。
・幻の名作『白鳥の湖』の復曲にとり憑かれている。

・伯爵家の当主だったが、妻に先立たれてから弟テオドールに家督を譲り、欧州各地を気ままに転々として暮らす。音楽教師と調律の仕事で生計を立てている、ように見えるが、じつは経済観念にとぼしく家計はつねに赤字で、弟からの仕送りに頼っている。

・ひとり娘のオデットを溺愛。ジークフリートにも父親的な愛情を抱き、二人の結婚を画策する。
・つねに他人の予想のななめ上を行く言動で周囲を驚かせる。
・女にもてすぎるため過去にいろいろやらかしてきているらしい。

ジークフリート(愛称シギイ)

   

・バイエルン(南ドイツ語圏)地方に位置する小国の王太子。ひとりっ子。
・長身。髪は赤みがかった金茶色(母似)。
・読書魔でハイパー記憶力の持ち主。
・ピアノが得意。とくに即興と伴奏。
・趣味はバードウォッチング。とくに渓流の小鳥を偏愛。

・自己評価が極端に低く、本人はコミュ障だと思って悩んでいるが、じっさいは聞き上手で愛されキャラ。

・涙もろい。

・なんのかの言ってオデットにはひと目惚れだった(らしい)。

ゲン


・フルネームはシライ・ゲン(白井玄)。ピアニスト。東京出身。

・ベルリンでオデットの伴奏を受け持つ。

・留学は二度目。今回は伴奏ピアノに特化して短期で来ている。

・気配りのできる大人で都会人。オデットがいままで会ったことのないタイプ。悩むオデットを優しく見守る。

・少しずつ形の違う黒のハイネックを何枚も持っている。

・ふだんはメガネ男子。じつは視力はそんなに悪くない。

・じつは酒に強い。ほぼ底なし。

アンネ=ゾフィー


・オデットの祖母。オデットの母オディーリアの母。ヴァイオリニスト。

・早くに離婚し、夫のもとにオディーリアを残して、音楽家として独りで生きてきた。

・数年前から脚の病をわずらい、車椅子生活だが、演奏家としても音大教授としても精力的に活動を続けている。

・オディーリアとディートリヒの結婚を直前まで知らされなかったことに怒り、一時期は断絶するも、オデット誕生を機にあっさり和解。

・幼いオデットにヴァイオリンの手ほどきをした。

エリーザ


・ジークフリートの母。王太子である息子を摂政として支える。息子を溺愛しているが、全体にも気配りのきく、バランスの取れた賢夫人。
・小柄で色白。赤みがかった金髪(息子と同じ)。中年になったいまも絶世の美女。
・若い頃、ディートリヒにピアノを習っていた。
・天真爛漫で明るく、ひじょうに安定した性格で、周囲にとって「錨」のような存在。
・その一方、おちゃめで天然。つぎつぎと無邪気な発言を繰り出しては周囲を驚かせる。

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