オデット・ノート (1)

文字数 2,016文字

 ギムナジウムで大好きだった歴史のシュッツ先生が仰ってた。もちろんあたしの〈大好き〉は先生には伝わってなかったと思うけど(この「好きが伝わりにくい」というのはパパゆずりだと思う)、小柄で足が短くて頭の薄い先生の、ちょっとはずかしそうに語るジョークはじつは天下一品で、あたしは最前列から二列目の右のはじっこで、聞いてないふりをしながらいつもちゃんと聞いてた。
 歴史の資料ということについてお話しします、と仰ったのだった。初回の授業だったかもしれない。ほんとに最初の最初。
「例えばですね。ここに、二人の男がいたとしますね。一人は大変なモテ男。もう一人は、まったくモテない男だったとしましょう」先生の声は優しくて、アルトサックスみたいないい響きだった。でもそれに気がついていたのはたぶんあたしをふくめて数人しかいなかった。「この二人がですね、日記をつけたとしましょう。モテ男くんにとっては、たくさんの女性に追いかけまわされるのは日常茶飯事なので、そんなことは日記には書かないのですね。しかも彼は面倒くさがり屋かもしれない。雨が降ったとか、学食(メンザ)で何を食べた、うまかった、なんてことを書いただけで寝てしまうかもしれません。かたや、モテない男くんがですね、ある日ですね、たまたま、ある女性と目が合った。その女性がですね、たまたま、にっこりと微笑んだとしましょう」みんなもっとちゃんと聞こうよ。これもしかしてものすごく面白い話だよ。「その晩、モテない男くんは、えんえんと日記に書くだろうと思いませんか。彼女の微笑み。その瞳の輝き。どんなに優しく手を振ってくれたか。もしかしてそれは、彼の後ろにいる別の人に振っていたのかもしれないのにね」
 シュッツ先生はさわがしい教室を見渡して、ふっと哀しそうに微笑まれました。ねえみんな聞こうよ! あたしは叫び出したかったけど、それもすごく失礼な気がして、じっと先生の次の言葉を待ちました。
「それからね」先生は目を伏せて、もうほとんど誰に言うともなくという感じで、静かに。「それから……ですね、そう、百年たったとしましょう。二冊の日記が残った。かたや、天気と学食の話しか書かれていない日記。かたや、女の人に優しくされた話がえんえんと書かれている日記。
 百年後のぼくらは、どちらがモテる男だったと思うでしょうね?」
 あのときシュッツ先生が、もう少し、あとほんの少しだけ広めに視線をパンしてくれていたら、まばたきしないで見つめているあたしと目が合ったはず。
 先生。すごいです、それ。なんか……、めちゃくちゃすごいです。
 ごめんなさい、そのあとのお話、覚えてない。あたしは泣きそうになってたんです。真実って、消えるんだ。歴史って、みんな残骸かもしれないんだ。どうしよう。あたしが十数年生きてきて、いまから何年か知らないけど生きていくこと、ママのこと、パパのこと、みんな、百年後にはどこに行っちゃうの? あたしたちが知ってると思ってる過去のことの、どれくらいが真実なの? 何パーセント? ゼロ? 助けて。あたし、どうしたらいい。
 それでもあたしは生きていて、パパも生きていて、ママも、生きていた、それは確かなこと。はげしい滝の流れを自分の手だけで止めようとするみたいな行為だけど、あたしは、今日から、うそをつかない人生を、送ろうと思いました。あたしは真実の証人になろう。ちょっと意味がわからない、自分でも。でもとにかく、あたしは、できるだけ正確に見て、聞いて、できるだけ正確にそれを誰かに伝えるんだ。誰に。どうやって。わからないけど。あたし文章書くの苦手だしどうなるかわからないけど、やってみる。
 さしあたって(こういうとき言うよね、「さしあたって」って。ちがうかな)ここに書いておきたいのは、パパもママも若いころ、とってももてたらしいということ。
 あれ? なんかもっと大事なこと書こうと思ってたのに、いきなり忘れた。
 そうそう。パパもママもめんどくさがり屋だから、もてた話なんてぜんぜん日記に書いてないということ。だいたい日記が残ってないということ。こういうとき、ママの日記が出てきたりして、で、娘のあたしが読んだりして、若いころのママの秘密を知ったり、パパとママの、何、なれそめっていうの、そういうのを知ったりするとテレビドラマとか映画とかになりやすいと思うんだけど、ぜんぜん日記が残ってないからだめじゃない。しょうがないからあたしの覚えてることだけ書くと、
あたし:パパ、どうしてママと結婚したの?
パパ:パパはもてたからね。五歳のときからずーっとママに、どの女の人をお嫁さんにしたらいいか相談に乗ってもらってたんだけど、ある日気がついたら、もうママしか残ってなかったんだ。
あたし:ママ、どうしてパパと結婚したの?
ママ:知らないうちに教会を予約されちゃってたの。
——どっちもどっちだけど、僅差でママの勝ちって気がする。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

オデット(愛称オディール)


・この物語の語り手。伯爵家の出身だが、8歳で母を亡くし、父ディートリヒに連れられて欧州各地を転々として育つ。ひとりっ子。
・黒髪、目は濃いブルー。
・ヴァイオリンの腕前はソリスト級。水泳も得意。
・叔父のテオドールと仲がよく、彼所有のヴァイオリンの名器を借りて使用している。
・服はほとんどが白か黒の二択。
・親しい人の前ではのびのびとふるまう反面、極端な人見知りで、外では別人のように不愛想。
・夢中になると前後を見失いがち(自覚あり)。

・人の顔が覚えられない(自覚あり)。

・初恋の相手は愛犬のティート(ゴールデンレトリバー)だった。

・ティート以降は男運に恵まれていない(自己申告)。

ディートリヒ(愛称ディーディー)


・教会音楽家(キルヒェンムジカー)。音楽全般に天才的な才能。楽器はパイプオルガンとピアノ。指揮、編曲もこなし、歌も歌える(バリトン)。
・紫がかった黒髪と黒目。
・幻の名作『白鳥の湖』の復曲にとり憑かれている。

・伯爵家の当主だったが、妻に先立たれてから弟テオドールに家督を譲り、欧州各地を気ままに転々として暮らす。音楽教師と調律の仕事で生計を立てている、ように見えるが、じつは経済観念にとぼしく家計はつねに赤字で、弟からの仕送りに頼っている。

・ひとり娘のオデットを溺愛。ジークフリートにも父親的な愛情を抱き、二人の結婚を画策する。
・つねに他人の予想のななめ上を行く言動で周囲を驚かせる。
・女にもてすぎるため過去にいろいろやらかしてきているらしい。

ジークフリート(愛称シギイ)

   

・バイエルン(南ドイツ語圏)地方に位置する小国の王太子。ひとりっ子。
・長身。髪は赤みがかった金茶色(母似)。
・読書魔でハイパー記憶力の持ち主。
・ピアノが得意。とくに即興と伴奏。
・趣味はバードウォッチング。とくに渓流の小鳥を偏愛。

・自己評価が極端に低く、本人はコミュ障だと思って悩んでいるが、じっさいは聞き上手で愛されキャラ。

・涙もろい。

・なんのかの言ってオデットにはひと目惚れだった(らしい)。

ゲン


・フルネームはシライ・ゲン(白井玄)。ピアニスト。東京出身。

・ベルリンでオデットの伴奏を受け持つ。

・留学は二度目。今回は伴奏ピアノに特化して短期で来ている。

・気配りのできる大人で都会人。オデットがいままで会ったことのないタイプ。悩むオデットを優しく見守る。

・少しずつ形の違う黒のハイネックを何枚も持っている。

・ふだんはメガネ男子。じつは視力はそんなに悪くない。

・じつは酒に強い。ほぼ底なし。

アンネ=ゾフィー


・オデットの祖母。オデットの母オディーリアの母。ヴァイオリニスト。

・早くに離婚し、夫のもとにオディーリアを残して、音楽家として独りで生きてきた。

・数年前から脚の病をわずらい、車椅子生活だが、演奏家としても音大教授としても精力的に活動を続けている。

・オディーリアとディートリヒの結婚を直前まで知らされなかったことに怒り、一時期は断絶するも、オデット誕生を機にあっさり和解。

・幼いオデットにヴァイオリンの手ほどきをした。

エリーザ


・ジークフリートの母。王太子である息子を摂政として支える。息子を溺愛しているが、全体にも気配りのきく、バランスの取れた賢夫人。
・小柄で色白。赤みがかった金髪(息子と同じ)。中年になったいまも絶世の美女。
・若い頃、ディートリヒにピアノを習っていた。
・天真爛漫で明るく、ひじょうに安定した性格で、周囲にとって「錨」のような存在。
・その一方、おちゃめで天然。つぎつぎと無邪気な発言を繰り出しては周囲を驚かせる。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み