オデット・ノート (9)

文字数 1,952文字

 あたしは彼が好きで好きでほとんど崇拝してるのです。チェーホフの『かもめ』にあったと思うけど、彼の歩いた地面にキスしたいくらい好き。どうしてあんな素敵な人があたしを好きになってくれたのかわからない。うーん、ちょっとちがうな。あたしは、まあ、目を合わせた瞬間好きになってもらえる確率はかなり高い(パパの娘だから)。でも、ゲットしてもキープできなければだめなので、そのキープが、つまりずっと好きでいてもらえる確率が、どうしようもなく低い(それも、パパの娘だから)。だから、どうして彼があたしを「いまもまだ」好きでいてくれるのかが、わからなくて、とほうにくれてしまうのです。
 本当にいい子なんだもの。泣きたくなるくらい。何を食べさせて育てたらこんないい子ができるんだろうと思うくらい。
 彼の見た目がきれいなこととか賢いこととか、そんなの誰でもほめる。そうじゃないの。あの人、もう感動的に、まわりをよく見てる人なのね。なんにも見てないあたしと正反対。よく見てるし聞いてるし、覚えてるし、それがみんなまた整理されてて、いつでも引き出しから取り出せる感じ。自分ではまわりとうまくやっていけないと思って悩んでるけど、それ、まわりがバカなだけだから。彼のせいじゃないから。うちのティートが(ごめんねいつも犬にたとえて)一年でむくむく大きくなっちゃったのに、仔犬のときのベッドでいつまでも寝ようとして、体の四分の三はみ出してたのとそっくり。あの人、自分で思いこんでるより、ずっと大きい人なの。容量が。
 学習能力が高いの。
 つまり、相手に合わせるのが上手。あたしが先走っちゃってもついてきてくれる。目の前で変わっていってくれる。だからあたしも変わっていける、いっしょに。男の子って(年とってもだけど)なぜか経験豊富なほうが勝ちだと思ってて、そのくせ一度覚えたらずっとそのパターン。何なんだろうあれ。それじゃ経験の意味ないじゃない。そんなの、時と場合と相手によるじゃない? ちゃんと見てよって言いたかった。こうすれば喜ぶはずだって決めつけて、人がぜんぜん喜んでないのに気がついてくれない。彼はそういうことしないの。ほんとにしないの。あたし——キスで夢中になってなかなか次に進めないなんて初めてで、彼も驚いてたけど、あたしも驚いた、これ何?!って。
 あの何世紀分かを一気に二人で駆けぬけたような日、どうしても終わらせたくなくて、帰したくなくて、帰してあげなくちゃいけないのに、がまんできなくて、帰らないでって言ってあたしは泣いた。考えたら、男の人にすがりついて泣くとかそれまで誓って一度もしたことないことを彼の前では全部した。嫉妬も。嫉妬なんて一度も本気でしたことなかったのに。たぶんあたしは彼が好きすぎて、これはきっと、こんな幸せはきっと何かのまちがいでそのうち終わるんだと思って息を止めているようなところがどこかにあって、たとえデジレが登場しなくても何か別のものを見つけて、勝手に絶望して、それを口実にこの幸せから逃げだせたらいっそ楽になれると思ってたような気がする。彼自身が気づく前に、あたしが気づいてしまった。お願い、あんな優しい目を他の誰かに向けないで。あたしにわからない謎の言葉で笑いあったりしないで(英語だと思うけど)。だってデジレはどこからどこまで完璧で、あたしよりずっと彼にふさわしくて、男だという以外。だからあたしは自分が女なのがよけいみじめで、この体をどこかに捨ててしまいたいとまで思ったのです。

 ねえママ、聞いて
 あたしが何に苦しんでるか
 パパがあたしにちゃんと考えて行動しなさいって言うの
 もう大人なんだからって

 モーツァルトが『きらきら星変奏曲』を作ったときは、あのメロディに付いていた歌詞はきらきら星なんて無邪気なのじゃなくて、こんなような歌詞だったそうです。うちのパパはあたしにこんなこと言わないし、だいたいあの人自身がちゃんと考えて行動してない。してないけど、パパはママの分まで、本当にあたしの面倒をよく見てくれた。あたしの着るものをそろえたり、その他女の子に必要なものをそろえたり、ふつうだったら女親にまかせるようなことも、みんなパパがしてくれた。あたしは何でもパパに打ち明けて、恋の相談だってしてた(パパの相談にだって乗ってあげてたし)。だけど、それは、たぶん、ちがって、たんにいままでのはほんとの恋じゃなかったんだと思う。いちばんつらかったとき、パパに何も話せなかった。こんなあたし、見られたくなかったから。パパに。

 ねえママ、聞いて
 彼があたしを優しい目で見た日から
 あたしの心臓は打つたびに尋ねるの
 あの人なしで生きていけるの?って

 ママがいてくれたら、何て言ってくれたかな、と思う。

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登場人物紹介

オデット(愛称オディール)


・この物語の語り手。伯爵家の出身だが、8歳で母を亡くし、父ディートリヒに連れられて欧州各地を転々として育つ。ひとりっ子。
・黒髪、目は濃いブルー。
・ヴァイオリンの腕前はソリスト級。水泳も得意。
・叔父のテオドールと仲がよく、彼所有のヴァイオリンの名器を借りて使用している。
・服はほとんどが白か黒の二択。
・親しい人の前ではのびのびとふるまう反面、極端な人見知りで、外では別人のように不愛想。
・夢中になると前後を見失いがち(自覚あり)。

・人の顔が覚えられない(自覚あり)。

・初恋の相手は愛犬のティート(ゴールデンレトリバー)だった。

・ティート以降は男運に恵まれていない(自己申告)。

ディートリヒ(愛称ディーディー)


・教会音楽家(キルヒェンムジカー)。音楽全般に天才的な才能。楽器はパイプオルガンとピアノ。指揮、編曲もこなし、歌も歌える(バリトン)。
・紫がかった黒髪と黒目。
・幻の名作『白鳥の湖』の復曲にとり憑かれている。

・伯爵家の当主だったが、妻に先立たれてから弟テオドールに家督を譲り、欧州各地を気ままに転々として暮らす。音楽教師と調律の仕事で生計を立てている、ように見えるが、じつは経済観念にとぼしく家計はつねに赤字で、弟からの仕送りに頼っている。

・ひとり娘のオデットを溺愛。ジークフリートにも父親的な愛情を抱き、二人の結婚を画策する。
・つねに他人の予想のななめ上を行く言動で周囲を驚かせる。
・女にもてすぎるため過去にいろいろやらかしてきているらしい。

ジークフリート(愛称シギイ)

   

・バイエルン(南ドイツ語圏)地方に位置する小国の王太子。ひとりっ子。
・長身。髪は赤みがかった金茶色(母似)。
・読書魔でハイパー記憶力の持ち主。
・ピアノが得意。とくに即興と伴奏。
・趣味はバードウォッチング。とくに渓流の小鳥を偏愛。

・自己評価が極端に低く、本人はコミュ障だと思って悩んでいるが、じっさいは聞き上手で愛されキャラ。

・涙もろい。

・なんのかの言ってオデットにはひと目惚れだった(らしい)。

ゲン


・フルネームはシライ・ゲン(白井玄)。ピアニスト。東京出身。

・ベルリンでオデットの伴奏を受け持つ。

・留学は二度目。今回は伴奏ピアノに特化して短期で来ている。

・気配りのできる大人で都会人。オデットがいままで会ったことのないタイプ。悩むオデットを優しく見守る。

・少しずつ形の違う黒のハイネックを何枚も持っている。

・ふだんはメガネ男子。じつは視力はそんなに悪くない。

・じつは酒に強い。ほぼ底なし。

アンネ=ゾフィー


・オデットの祖母。オデットの母オディーリアの母。ヴァイオリニスト。

・早くに離婚し、夫のもとにオディーリアを残して、音楽家として独りで生きてきた。

・数年前から脚の病をわずらい、車椅子生活だが、演奏家としても音大教授としても精力的に活動を続けている。

・オディーリアとディートリヒの結婚を直前まで知らされなかったことに怒り、一時期は断絶するも、オデット誕生を機にあっさり和解。

・幼いオデットにヴァイオリンの手ほどきをした。

エリーザ


・ジークフリートの母。王太子である息子を摂政として支える。息子を溺愛しているが、全体にも気配りのきく、バランスの取れた賢夫人。
・小柄で色白。赤みがかった金髪(息子と同じ)。中年になったいまも絶世の美女。
・若い頃、ディートリヒにピアノを習っていた。
・天真爛漫で明るく、ひじょうに安定した性格で、周囲にとって「錨」のような存在。
・その一方、おちゃめで天然。つぎつぎと無邪気な発言を繰り出しては周囲を驚かせる。

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