オデット・ノート (9)
文字数 1,952文字
本当にいい子なんだもの。泣きたくなるくらい。何を食べさせて育てたらこんないい子ができるんだろうと思うくらい。
彼の見た目がきれいなこととか賢いこととか、そんなの誰でもほめる。そうじゃないの。あの人、もう感動的に、まわりをよく見てる人なのね。なんにも見てないあたしと正反対。よく見てるし聞いてるし、覚えてるし、それがみんなまた整理されてて、いつでも引き出しから取り出せる感じ。自分ではまわりとうまくやっていけないと思って悩んでるけど、それ、まわりがバカなだけだから。彼のせいじゃないから。うちのティートが(ごめんねいつも犬にたとえて)一年でむくむく大きくなっちゃったのに、仔犬のときのベッドでいつまでも寝ようとして、体の四分の三はみ出してたのとそっくり。あの人、自分で思いこんでるより、ずっと大きい人なの。容量が。
学習能力が高いの。
つまり、相手に合わせるのが上手。あたしが先走っちゃってもついてきてくれる。目の前で変わっていってくれる。だからあたしも変わっていける、いっしょに。男の子って(年とってもだけど)なぜか経験豊富なほうが勝ちだと思ってて、そのくせ一度覚えたらずっとそのパターン。何なんだろうあれ。それじゃ経験の意味ないじゃない。そんなの、時と場合と相手によるじゃない? ちゃんと見てよって言いたかった。こうすれば喜ぶはずだって決めつけて、人がぜんぜん喜んでないのに気がついてくれない。彼はそういうことしないの。ほんとにしないの。あたし——キスで夢中になってなかなか次に進めないなんて初めてで、彼も驚いてたけど、あたしも驚いた、これ何?!って。
あの何世紀分かを一気に二人で駆けぬけたような日、どうしても終わらせたくなくて、帰したくなくて、帰してあげなくちゃいけないのに、がまんできなくて、帰らないでって言ってあたしは泣いた。考えたら、男の人にすがりついて泣くとかそれまで誓って一度もしたことないことを彼の前では全部した。嫉妬も。嫉妬なんて一度も本気でしたことなかったのに。たぶんあたしは彼が好きすぎて、これはきっと、こんな幸せはきっと何かのまちがいでそのうち終わるんだと思って息を止めているようなところがどこかにあって、たとえデジレが登場しなくても何か別のものを見つけて、勝手に絶望して、それを口実にこの幸せから逃げだせたらいっそ楽になれると思ってたような気がする。彼自身が気づく前に、あたしが気づいてしまった。お願い、あんな優しい目を他の誰かに向けないで。あたしにわからない謎の言葉で笑いあったりしないで(英語だと思うけど)。だってデジレはどこからどこまで完璧で、あたしよりずっと彼にふさわしくて、男だという以外。だからあたしは自分が女なのがよけいみじめで、この体をどこかに捨ててしまいたいとまで思ったのです。
ねえママ、聞いて
あたしが何に苦しんでるか
パパがあたしにちゃんと考えて行動しなさいって言うの
もう大人なんだからって
モーツァルトが『きらきら星変奏曲』を作ったときは、あのメロディに付いていた歌詞はきらきら星なんて無邪気なのじゃなくて、こんなような歌詞だったそうです。うちのパパはあたしにこんなこと言わないし、だいたいあの人自身がちゃんと考えて行動してない。してないけど、パパはママの分まで、本当にあたしの面倒をよく見てくれた。あたしの着るものをそろえたり、その他女の子に必要なものをそろえたり、ふつうだったら女親にまかせるようなことも、みんなパパがしてくれた。あたしは何でもパパに打ち明けて、恋の相談だってしてた(パパの相談にだって乗ってあげてたし)。だけど、それは、たぶん、ちがって、たんにいままでのはほんとの恋じゃなかったんだと思う。いちばんつらかったとき、パパに何も話せなかった。こんなあたし、見られたくなかったから。パパに。
ねえママ、聞いて
彼があたしを優しい目で見た日から
あたしの心臓は打つたびに尋ねるの
あの人なしで生きていけるの?って
ママがいてくれたら、何て言ってくれたかな、と思う。