オデット・ノート (11)

文字数 2,626文字

 編入試験には受かってしまったけど、まわりは世界中から来ててみんな超絶うまいし、ガッツがちがうし、あたしは自分が田舎者だなって思い知らされて、なんて言うんだっけ、そう、萎縮(いしゅく)してた。勝負の世界、一握りの人しか生き残れない、それはわかる。ドラマや小説に出てくるのはそういう勝者だけ。勝者が勝ち上がっていく物語だけ。でも、音楽って、芸術って、そういうもの? スポーツとはちがうのに、もともとは勝つことが目的じゃないのに。それに、コンクールに出られるのは若いときだけで、そのあとの人生はコンクール

をして生きていくことになる。勝っても勝たなくてもそれは同じ。
 パパは若いころ一度だけ、オルガンのコンクールに出てみたことがあるそうです。結果は二位。決勝戦(ファイナル)の途中で、弾きながら、ふっと、どうしてこんなことしてるんだろう? ぜんぜん楽しくない、と思っちゃったんだって。それじゃ勝てないよね。パパらしいな。あたしは——あたしは、もっとだめ。逆にバトルモードのギアが入りすぎてしまう。ゲンもやんわり指摘してくれた、そんな攻撃的になっちゃいけないって。わかってるの。あたしが不必要に獰猛(どうもう)になるのは気が小さいせい、なんというか、周りとの距離をとるのが下手なのです。デジレやゲンはすごいよ、外国にいて、どうしたらあんなふうになれるんだろう、透明な戦闘スーツを着こなして、親しい人とは親しく、そうでない人はそれなりに流して、堂々と渡りあっていくなんて。あたしはいつでもむき出しになっちゃうから怖くて、必死で身がまえてる。緊張のあまり爪や牙が皮膚をつき破って出てきて怪物になって暴れてしまいそうになる。いまのはちょっと大げさだった。
 むしろあたしは、陸に上げられてしまったウーパールーパーみたいな、まぬけな生き物かもしれません。ウーパールーパーって、いつまでもカエルにならないオタマジャクシみたいなものなんだって。そしていつも冷たいきれいな水が必要で、めんどくさいやつなのです。だけどごめんなさい、ウーパールーパーにカエルになれ、強くなれ、灼熱の陸に上がって生きていけって言っても無理でしょ? 水の中にいちゃだめですか? あたしが安心してあたしらしくいられる場所に。そこであたしはあたしの音楽でまわりの人たちを喜ばせて、パパやファニイや——シギイと——生きていきたい。またいっしょに弾きたい、アンサンブルのみんなと——彼と。コンサートをしたり、CDを出したり、彼があんなに弾けるって知ったらきっと国じゅうの人が喜ぶし——パパの長年の夢の音楽祭、実現したい、みんなで、外国からもお客さまが聴きに来てくれるようにすればシギイの外貨獲得大作戦にも協力できて——だめ、何考えてもかならずシギイ、シギイのこと。まず仲直りしなきゃなのに。だけど、彼も、ふるさとの他の誰も、自分が賞を取るための練習なんてしていない、あの人たちはその先へ行ってる、あたしがこうして迷ってるあいだに『白鳥の湖』蘇演プロジェクトはもう進んでしまってる、あたしだけが、とり残されてる。
 帰りたい。
 あの湖と、ヴァイオリンと、彼。あたしの人生に必要なのはその三つだけ。そのうち二つが、いま、欠けてる。

 ヴァイオリン科の主任教授は窓辺に座って、待っていてくれた。車椅子だけど薄紫(モーヴ)のスーツをきりりと着こなして、豊かな白髪を肩にたらして。あたしの憧れの女性、アンネ=ゾフィー。お祖母さま。
 あたしの顔を見て、口もとがちょっと動いた。笑いをこらえてる。
「おや、まあ。ここへ来てから初めてじゃない? 約束の時刻にまにあったのは」
 あたしは目をふせて、息をととのえました。走ってきたのとはずかしいのとで、顔がほてって、つらい。
「合格おめでとう、オデット。がんばってくれてよかったわ。孫だからひいきしたと言われても困るから」
「いろいろありがとうございました。フィガロのチケットも」
「あら、ばれちゃった?」
「シライ氏に聞きました」
「正直な男」笑うと、目が細くなる。「それで、どうするの?」
 あたしはうつむいて黙ってた。答えは出てるけど、言い出す勇気がない。
 グランドピアノのふたが少し開いていて、中から金色の光がもれてくるような気がした。
「あなたを手もとに置いて、育てたかったのだけれど」お祖母さまは車椅子を動かして、ゆっくりあたしに近づいてきた。「無理みたいね。オディーリアも手もとに置いておきたかったけれど、飛んでいってしまった。同じね。そうね、そもそも、あなたのお祖父さまのもとを飛びだして、ひとりで勝手に生きてきたのはわたしなのだから、自業自得ね。お父さまはお元気?」
「はい」
「こないだいただいたお手紙では、お元気ではなさそうだったわよ。心配のあまり死にそうなご様子だったわよ。あとは頼みますみたいな。そうしたらこの世に思い残すことはありませんみたいな」
「ばかなんです」
「いい男じゃない。もっとこっちへ来て」
 お祖母さまのそばに、あたしはひざまずいた。
「あなた、本当に、オディーリアそっくりね。抱かせて。いい子ね。いい髪。ねえ、わたしね、知ってると思うけど、あなたのお父さまとお母さまの結婚に大反対してね。結婚式で、ひとことも口をきかなかったの。ゆるせなかったのよ、わたしに相談もなしに勝手に決めちゃったから。それだけ。ばかなことをしたわ」
「相談、なかったんですか?」
「なかったわよ。ひとことも。いきなり結婚式の招待状よ。ひどいじゃない。恋人がいることも知らされてなかったのに、赤ちゃんが、つまりあなたができちゃったって、そんな素敵なこともっと早く教えてほしかったわよ、わたしだけがのけ者なんて、まあ言いにくかったんでしょうけど、それでも。頭に来て、電話でどなりあったわ。わたしたち、よくどなりあったけど、あの電話がいちばんひどかった。長距離なのに無言がつづいて、切るわよって言うと、ちょっと待ってよママってまた始まるの。もううんざり」
 いっしょに暮らしたら悲惨だったかもしれないわね、とお祖母さまは笑った。あの子はわたしの言うことなんか聞きはしないし、わたしもあの子の言うことは聞かなかったし。でもいいのよ。いちばん大切なのは、あの子が、幸せになってくれたということ。そしてあなたが、こんないい子に育ってくれたということ。
 いつでも戻っていらっしゃい。戻ってこないのだろうけど。
 たまには思い出してね。
 わたしのこと。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

オデット(愛称オディール)


・この物語の語り手。伯爵家の出身だが、8歳で母を亡くし、父ディートリヒに連れられて欧州各地を転々として育つ。ひとりっ子。
・黒髪、目は濃いブルー。
・ヴァイオリンの腕前はソリスト級。水泳も得意。
・叔父のテオドールと仲がよく、彼所有のヴァイオリンの名器を借りて使用している。
・服はほとんどが白か黒の二択。
・親しい人の前ではのびのびとふるまう反面、極端な人見知りで、外では別人のように不愛想。
・夢中になると前後を見失いがち(自覚あり)。

・人の顔が覚えられない(自覚あり)。

・初恋の相手は愛犬のティート(ゴールデンレトリバー)だった。

・ティート以降は男運に恵まれていない(自己申告)。

ディートリヒ(愛称ディーディー)


・教会音楽家(キルヒェンムジカー)。音楽全般に天才的な才能。楽器はパイプオルガンとピアノ。指揮、編曲もこなし、歌も歌える(バリトン)。
・紫がかった黒髪と黒目。
・幻の名作『白鳥の湖』の復曲にとり憑かれている。

・伯爵家の当主だったが、妻に先立たれてから弟テオドールに家督を譲り、欧州各地を気ままに転々として暮らす。音楽教師と調律の仕事で生計を立てている、ように見えるが、じつは経済観念にとぼしく家計はつねに赤字で、弟からの仕送りに頼っている。

・ひとり娘のオデットを溺愛。ジークフリートにも父親的な愛情を抱き、二人の結婚を画策する。
・つねに他人の予想のななめ上を行く言動で周囲を驚かせる。
・女にもてすぎるため過去にいろいろやらかしてきているらしい。

ジークフリート(愛称シギイ)

   

・バイエルン(南ドイツ語圏)地方に位置する小国の王太子。ひとりっ子。
・長身。髪は赤みがかった金茶色(母似)。
・読書魔でハイパー記憶力の持ち主。
・ピアノが得意。とくに即興と伴奏。
・趣味はバードウォッチング。とくに渓流の小鳥を偏愛。

・自己評価が極端に低く、本人はコミュ障だと思って悩んでいるが、じっさいは聞き上手で愛されキャラ。

・涙もろい。

・なんのかの言ってオデットにはひと目惚れだった(らしい)。

ゲン


・フルネームはシライ・ゲン(白井玄)。ピアニスト。東京出身。

・ベルリンでオデットの伴奏を受け持つ。

・留学は二度目。今回は伴奏ピアノに特化して短期で来ている。

・気配りのできる大人で都会人。オデットがいままで会ったことのないタイプ。悩むオデットを優しく見守る。

・少しずつ形の違う黒のハイネックを何枚も持っている。

・ふだんはメガネ男子。じつは視力はそんなに悪くない。

・じつは酒に強い。ほぼ底なし。

アンネ=ゾフィー


・オデットの祖母。オデットの母オディーリアの母。ヴァイオリニスト。

・早くに離婚し、夫のもとにオディーリアを残して、音楽家として独りで生きてきた。

・数年前から脚の病をわずらい、車椅子生活だが、演奏家としても音大教授としても精力的に活動を続けている。

・オディーリアとディートリヒの結婚を直前まで知らされなかったことに怒り、一時期は断絶するも、オデット誕生を機にあっさり和解。

・幼いオデットにヴァイオリンの手ほどきをした。

エリーザ


・ジークフリートの母。王太子である息子を摂政として支える。息子を溺愛しているが、全体にも気配りのきく、バランスの取れた賢夫人。
・小柄で色白。赤みがかった金髪(息子と同じ)。中年になったいまも絶世の美女。
・若い頃、ディートリヒにピアノを習っていた。
・天真爛漫で明るく、ひじょうに安定した性格で、周囲にとって「錨」のような存在。
・その一方、おちゃめで天然。つぎつぎと無邪気な発言を繰り出しては周囲を驚かせる。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み