オデット・ノート (10) ★BGM付

文字数 2,234文字

 ベルリンであたしの伴奏についてくれたのは、日本人の男性だった。名前はゲン。ファーストネームがゲン、苗字はたしかシライとかヒライとか。伴奏ピアノに特化して習いに来てた、短期で。あたしは仮登録で、編入試験をひかえてたから、留学生どうしということで学校側が組んでくれたみたい。
 あ、あたしベルリンでは完全に異邦人だったから。言葉も南部とちがうし、だいたい、凄い大都市。パパと来たことはあったけど、旅行で泊まるのと暮らすのは別。とにかく建物が高くて道路が広くて車が多くて人が多くて窓が汚くて、着いた翌日にあたし過呼吸を起こしました。怖いよー。寮のベッドの上で体を折り曲げて泣きながら、これで死んでお墓に埋められるならもっときれいな服持ってくるんだったとか考えてた。ばかみたい。
 ゲンのほうがよっぽどベルリン慣れしてた。留学、二度めなんだって。トキオ(東京)はベルリンよりもっと大きいんだって。どういうこと? 宇宙規模?
「ちょっと休憩しようか」
 ソナタ、何度も途中で止まっちゃって、とうとうゲンに言われた。合わない。テンポが。わかってる、あたしのせい。
 グミ食べる?って言うから、いまはいいって言ったら、そう、って言って、しまっちゃった。自分は食べないの? もしかしてあたしのために買ってきてくれたのかな。優しい人。
「合わせるけどね」声、笑ってる。優しい。「もちろんぼくがきみに合わせるんだけど、これロンドソナタでかけあいでしょ。しかも冒頭はピアノのほうが先に出る。いちおうぼくがテンポ作ってるんだから、それちゃんと聞いて」
「ごめんなさい」
「走りすぎ」
「わかってる」
「それにこれさ」声の中の、笑いの含有率、上昇。「友だちの結婚祝いに贈った曲でしょ、作者が。そんな泣き叫ぶようなヴァイオリンじゃないよ」
 セザール・フランクのヴァイオリンソナタ、イ長調(アードゥア)、第四楽章。オルガンの分野で音楽史に輝かしい貢献を残した人だけど、こんな素敵なヴァイオリンの曲も作ってくれてる。軽やかで透明で、ときどきふっとどこへ行くかわからなくなるハーモニー。中間部で突然あらわれる嵐みたいなピアノの連打。でもここ、そんな本気で悲劇的に盛り上げるとこじゃないでしょ、とゲン。このあと雨が上がって、虹を作るための嵐だからさ。ああ、なんか、大人。同い年くらいなのにと思ってたら、もう二十八歳なんだって、びっくり。東洋人ってすごく若く見える。さりげなく手をもんでるからどうしたのって訊いたら、じつはパパ・フランクって超人的に手が大きかった人で、この曲も一オクターブ半くらい平気でつかまなきゃいけないから大変なんだって。知らなかった。そんな苦労ぜんぜん言ってくれないんだもの。こういうのがサミュライ(武士)魂なのかな。
 気分転換にって、オペラに連れ出してくれた。きみのために苦労して手に入れたチケットだよ、って言えたらかっこいいんだけど、もらいものの招待券でごめんね、だって。笑っちゃった。正直な人。トレードマークの黒のハイネック、今日はなんだか、すごく、きれいに見える。どうして。ジャケットがお洒落だから? それともいつもより、近くで見てるから?
「眼鏡、しなくていいの?」
「うん、眼鏡はピアノ弾くときだけ」
 満席の大劇場の三階席の右のほうの端、でもよく見えたし聞こえた。大好きなモーツァルト、『フィガロの結婚』。パンクな衣装(ショッキングピンクや白黒の大きな水玉)と品のない演出(脱いだり腰振ったり)でなければもっとよかったのに。——ゲンはあきれてた。ラスト、浮気が発覚したアルマヴィーヴァ伯爵が「ゆるして」って歌って、伯爵夫人が「ゆるします。わたし、すなおな性格だから」って歌って、仲直りしたとき、あたしが大泣きしちゃったから。
「そんな泣く話? これ」
「だって、ゆるしてって言って、ゆるしてもらえたから」
 何があったか知らないけど、って笑われた。一度お国に帰ったら? で、きみがあやまる立場ならさっさとあやまったほうがいいし、ゆるす立場ならゆるしたほうがいい。とにかく、ぼくにもう、あんな泣きのヴァイオリンの伴奏させないで。迷惑だから。ただでさえ手が疲れる曲なんだから。ね。お嬢さん。
 シェリーを一杯飲んだら、酔っちゃった。帰り道。濡れた舗道。彼の肩に頭を乗せてみた。
「ゲン」
「うん?」
「あたしをトキオに連れてって」
「いいけど、ぼく奥さんいるよ?」
「だよね。聞いた」
 ああ、あたし、何やってるんだろう。
 曇ってたけど、雲の上には、お星さまがいっぱいあるのかなと思いました。帰りたい、夜空の澄んだあの町に。ゲンはあたしのほっぺにおやすみのキスをするふりをして、あれ、ちょっとずれちゃったってふりをして耳たぶ……から首……に……キス……しました! しかもそこで寸止め! あたし日本人男性(ヤパーナー)のイメージ劇的に変わった。あいつそうとう遊んでる。あたしが子どもだから相手にされなかっただけよ。別れぎわ、ふりむいて、くすっと笑ってたもの。


★BGM:フランク「ヴァイオリン・ソナタ 第四楽章」お二人ともすごく素敵。
https://www.youtube.com/watch?v=jxR8L-kmpyI
モーツァルト『フィガロの結婚』より「伯爵夫人、ゆるしたまえ」~フィナーレ
イギリスの古城でおこなわれているサマー・フェスティバルの映像です。素敵!
https://www.youtube.com/watch?v=g9_rMX-0khY
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登場人物紹介

オデット(愛称オディール)


・この物語の語り手。伯爵家の出身だが、8歳で母を亡くし、父ディートリヒに連れられて欧州各地を転々として育つ。ひとりっ子。
・黒髪、目は濃いブルー。
・ヴァイオリンの腕前はソリスト級。水泳も得意。
・叔父のテオドールと仲がよく、彼所有のヴァイオリンの名器を借りて使用している。
・服はほとんどが白か黒の二択。
・親しい人の前ではのびのびとふるまう反面、極端な人見知りで、外では別人のように不愛想。
・夢中になると前後を見失いがち(自覚あり)。

・人の顔が覚えられない(自覚あり)。

・初恋の相手は愛犬のティート(ゴールデンレトリバー)だった。

・ティート以降は男運に恵まれていない(自己申告)。

ディートリヒ(愛称ディーディー)


・教会音楽家(キルヒェンムジカー)。音楽全般に天才的な才能。楽器はパイプオルガンとピアノ。指揮、編曲もこなし、歌も歌える(バリトン)。
・紫がかった黒髪と黒目。
・幻の名作『白鳥の湖』の復曲にとり憑かれている。

・伯爵家の当主だったが、妻に先立たれてから弟テオドールに家督を譲り、欧州各地を気ままに転々として暮らす。音楽教師と調律の仕事で生計を立てている、ように見えるが、じつは経済観念にとぼしく家計はつねに赤字で、弟からの仕送りに頼っている。

・ひとり娘のオデットを溺愛。ジークフリートにも父親的な愛情を抱き、二人の結婚を画策する。
・つねに他人の予想のななめ上を行く言動で周囲を驚かせる。
・女にもてすぎるため過去にいろいろやらかしてきているらしい。

ジークフリート(愛称シギイ)

   

・バイエルン(南ドイツ語圏)地方に位置する小国の王太子。ひとりっ子。
・長身。髪は赤みがかった金茶色(母似)。
・読書魔でハイパー記憶力の持ち主。
・ピアノが得意。とくに即興と伴奏。
・趣味はバードウォッチング。とくに渓流の小鳥を偏愛。

・自己評価が極端に低く、本人はコミュ障だと思って悩んでいるが、じっさいは聞き上手で愛されキャラ。

・涙もろい。

・なんのかの言ってオデットにはひと目惚れだった(らしい)。

ゲン


・フルネームはシライ・ゲン(白井玄)。ピアニスト。東京出身。

・ベルリンでオデットの伴奏を受け持つ。

・留学は二度目。今回は伴奏ピアノに特化して短期で来ている。

・気配りのできる大人で都会人。オデットがいままで会ったことのないタイプ。悩むオデットを優しく見守る。

・少しずつ形の違う黒のハイネックを何枚も持っている。

・ふだんはメガネ男子。じつは視力はそんなに悪くない。

・じつは酒に強い。ほぼ底なし。

アンネ=ゾフィー


・オデットの祖母。オデットの母オディーリアの母。ヴァイオリニスト。

・早くに離婚し、夫のもとにオディーリアを残して、音楽家として独りで生きてきた。

・数年前から脚の病をわずらい、車椅子生活だが、演奏家としても音大教授としても精力的に活動を続けている。

・オディーリアとディートリヒの結婚を直前まで知らされなかったことに怒り、一時期は断絶するも、オデット誕生を機にあっさり和解。

・幼いオデットにヴァイオリンの手ほどきをした。

エリーザ


・ジークフリートの母。王太子である息子を摂政として支える。息子を溺愛しているが、全体にも気配りのきく、バランスの取れた賢夫人。
・小柄で色白。赤みがかった金髪(息子と同じ)。中年になったいまも絶世の美女。
・若い頃、ディートリヒにピアノを習っていた。
・天真爛漫で明るく、ひじょうに安定した性格で、周囲にとって「錨」のような存在。
・その一方、おちゃめで天然。つぎつぎと無邪気な発言を繰り出しては周囲を驚かせる。

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