七年の年月(1)

文字数 916文字

 七年の年月(としつき)は人を変える。
 源義興は、七年の間に南朝方の大将になっていた。
 彼は上野新田庄に帰った後、観応の擾乱と呼ばれる北朝の内乱に乗じ挙兵した。彼はその時、蜂起軍の大将に祀り上げられている。
 嫡子の弟、新田義宗ではない。中先代の乱を起こした最後の執権北条高時の遺児北条時行でもない。彼が大将だった。
 義興は七歳の時、北畠顕家の奥州軍に加わっている。その彼を、後醍醐天皇は態々召して、声を掛けてくれていたのだ。後醍醐天皇に認められた若武者、そういう過去の出来事によって彼は大将になれた。彼が後醍醐天皇に目通り出来たのは、新田義貞の息子だったからに他ならない。つまり、故人となった父の威光により義興は大将となった。
 だが、弟と蜂起して参戦したこの武蔵野合戦で、彼は鎌倉を奪取し、その地位が決して父の七光りだけではないことを証明する。結果、弟義宗が宿敵足利尊氏破られた為、尊氏によって鎌倉は奪還されてしまうのであるが、彼の名声はこの戦い機に一気に高まった。
 彼は自分を非凡な大将だと思っている。それは結果に裏打ちされた自信であった。
 彼は非力ではないが、人並み以上の腕力を持っていた訳ではない。伝説の射手那須与一の様に弓の名人だと云う訳でもない。彼はただただ恐れ知らずに闘っていただけだった。
 大将が先陣を切って敵の只中に跳び込めば、兵士は嫌でも追い駆けずにはいられない。彼の才能はそれだけだった。敵は彼の、そしてそれを追いかける兵士の突進に動揺し、混乱し、実力を発起することなしに義興軍に蹂躙された。彼は数人を斬り捨てれば良いだけだった。
 彼も弓に狙われることはあった。しかし近づく義興に対し、慌てた敵は弓を冷静に引き絞れなかった。もし敵が短い強弓で鉄杭を撃ったなら、彼は助かることは出来なかったに違いない。だが、彼らの弓は長くて引き易い長弓だった。そして矢は軽くて細い竹製だった。その方が矢は遠くまで届く。そうした方が自分の大将にアピールすることが出来る。しかし、それでは彼を狙う余裕が作れない。狙っても彼を傷つけるまでには至らない。
 考えずに突き進む。その無茶な突進だけが彼の戦果の理由であった。
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