門をくぐるまで

文字数 736文字

 義興はそれ以上何も訊かず、少女の手を引いて彼女の屋敷の前まで連れて行った。彼にしてみれば、こんな人混みの中を歩いて、何時敵に正体を見破られるかと冷や汗が止まらない。それでも、この少女を一人帰す訳にはいかなかった。先程の奴らが未だこの少女を狙っているかも知れないのだ。
 彼の緊張の糸はこれ以上持たない……と思われた時、少女が屋敷はあれだと指差した。
「そうか。では、ここからは一人で行くのだぞ」
「お礼くらいさせてください。父母も喜びます」
「いや、あれは公家の屋敷。其方(そなた)は公家の娘御であったか。わしは作法も何も知らない田舎者。礼を失するに違いない。わしはここで其方(そなた)が門をくぐる迄見送る。走って行くが良い」
「ありがとうございます」
「それから、今後は一人で町へは出ぬことじゃな」
「はい、あまりに退屈であったので、つい少しくらいならと……」
 叱られていると感じ、少女は上目遣いで彼を見たのだが、彼は怒ってなどおらず、ニッコリと微笑んでいた。
「もう二度と致しません。本当に、ありがとうございました」
「うむ。では、さらばじゃ」
 少女は走っては振り返り、走っては振り返り、そして屋敷の門を潜っていった。義興はそれを見届けると、その場をそそくさと立ち去ったのである。
 それは、彼は故郷上野で挙兵する一年程前のことであった。
 少女はその後、一人で屋敷から出ることはなかった。しかし、攫われこそしなかったが、彼女は幸せになれはしなかった。
 貧乏公家であった彼女の父は、娘を売るしか、もう生計を立てる手立てがなくなってしまったのだ。彼女は売られた。それはこの七年後、彼女が十六になった時のことである。彼女を買ったのは、竹沢という東国の武士であった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み