第12証言 アナザー・クイーンサイド
文字数 4,712文字
第12証言 アナザー・クイーンサイド
その朝、ぼくははじめてファミリアの統治者と面会した。見も知らない人物、といってもこの3ヶ月間、ずっと塔の下で叫び続けていたお馴染みの人影――たったひとりぼくの為にここまで通い詰めるその様に、
感銘を受け、本当ならもっとはやくに招き入れなければいけなかったのだろう。ぼくは人非人と言われても仕方ない。
彼は年若く、まだ15歳くらいの年齢で、それでいてなかなかの了簡を持ち併せた人物だった。ファミリアの発展について長期的視野を持っていたし、
異界人 とは思えないほどこの世界の地理や慣習に精通していた。それに噂に伝え聞く異界 のふしぎな知識も所有していた。
彼と話すのは面白かった。それからぼくは毎日のように聖下――彼と会うようになった。長い下積みがあったから、会うことにそれほどの恐怖はなくなっていた。
八紘一宇のファミリア連合という青写真に惹きつけられたし、話を聞くたびに理解も好意も深まっていく。きっと、多分、これは通い婚のプロセスなのだろう。
見え透いた政略結婚とみて、算盤尽くの色模様に違いなかったけれど、儚い夢は薄膜のカーテンに浮かび上がって。
「ありがとう。一時はどうなることかと思ったよ」
「あの……ぼくは、その」
「レイチェル妃、別に気を遣うことはないよ。こちらが無理に会ってもらってるんだ。俺はファミリア連合の結束を強めることが本当に重要と考えていて、最初はそのことだったけど、
でも、途中からどうしても会ってみたくなって。気になったんだよな、ここにどんな王女が棲んでるのか、どんな事を考えていて、なんで誰とも会わないかとか考えてさ」
「答えは、もうわかりましたか?」
「ぜんぜん。よかったら聞かせてもらえるか?」
彼はとてもいい人だった。濡れぬ先こそ露をも厭えと、彼を部屋に招き入れてからのぼくはすべて話した。
「ぼくは自分がとても醜い存在であるという信念を持っています。肯定されたためしは誰にも有りませんが」
「だろうな。美人 だし」
「肉体と魂は別次元の存在であるという説を假りるなら、ぼくは魂の評価する基準に従って、こういう信念を持っているのです。
肉体の次元では、おそらくぼくは醜悪ではないのでしょう。さらに興味はありませんが」
ぼくは浮かれてよくないことを色々と喋った。慎みのないことを。それでも想像していたよりは恥ずかしくなかったし、針のように苦痛でもなかった。
彼と疎通することが快だったからこそ、生まれてからのべつ幕なしに感じているぼくの不完全な感覚はそれ自体が不完全であると判って、救われたような気がした。
米
ぼくは聖下を特別に思っている。召使いのハルより、今では聖下のほうがぼくの部屋に出入りしている。だから、聖下もぼくのことを特別に思っていてくれたら嬉しい。
ふたりで塔の上で面会するようになってから一ヶ月、ファミリアとイーヴェニアは密約を結んだ。そうしないと彼はまったくの徒労を踏んだことになり、計画が叶わずに残念な思いをすると思ったから。
それ以上に、このままではぼくは永遠に変わらない、変わりたいと思ったからこそ歴史を前に進めた。皮肉にも。塔に閉じこもる憐れな肉体は置き去りにして、歴史ばかりが前へと進んでいく。
一定の成果を上げたいま、聖下がこのままずっとこの国にとどまってくれる保証はない、はやいうち変わらなければ、ぼくだけがこの塔に取り残されてしまう。聖下と一緒に暮らすこともできないままに。
この日、ぼくの中でとてもエポックメーキングな出来事が起こった。聖下がアクセルロッドを忘れて、そのまま塔の下へロープで降りて帰ってしまったので、ぼくはこれを届けないわけにはいけなくなった。
アクセルロッドはファミリア王家の証で、これが無ければ聖下は王威を喪ってしまう。一日だってこのままぼくの元においては置けないだろう。
やっとぼくに塔の外へ出る運命が巡ってきた、この命題によって宇宙は拡大する。これからきっと外に出なければならない。人生ではじめてその用事ができたから。心臓はこらえきれず早鐘のように高鳴っていた。
一歩、塔の外へと踏み出すと、嫌な暖かで冷やかな空気がぼくを囲い込む。心配そうな眼差しで門扉 のところでうずくまっているハルを置き去りにして(かわいそうに、彼女も塔の外には出られないのだ)、
草露の滴る朝靄の下草をぼくは足早に駆けていった。彼はさっきロープを伝っていったばかり。今すぐ後を追えば、あまり遠出にはならずに追いつける。その背中は小さいながらも、もう視界の中心に見えているから。
いまの状況なんて気にならないくらい、ぼくはひたすら走った。濡れぬ先こそ露をも厭え、と。
あの木陰にたどり着く頃にはすっかり息があがって、もう声を掛けることもかなわないほど疲労していて。そして聖下はぼくの存在に気づくこともなく、もう塔からは見えないような岩陰で、
あの異界人 と歓談を交わしていた。それはぼくの中ではとてもエポックメーキングな出来事だった。
「月乃、待たせたな。もう急いで王城に戻らないといけない時間だろ。このあとすぐイストワールと打ち合わせ、午後は閣議があるんだっけ?」
「そうね、はやく魔法陣に入って。いつもの空間転送で衣装室まで送っていくから」
空間転送? 何を言っているのだろう。もし国を超えるほどの距離を一瞬で移動する魔術を、大魔術師が使えるというなら。もしもそうなら、彼はきわめて効率的に、朝の決まった時刻をつかって、
大臣との会議や国政の片手間に、イーヴェニアを攻略しおおせたことになる。ぼくは、そんな魔術師の存在にも気づかずに、彼が我国 のことだけを考えてくれていると、勝手に早合点して……
「待った、アクセルロッドがないな」
「もう。そんなのどうだっていいでしょ。明日取りに来ればいいんだから」
「そうだな。じゃ、遅れないうちにはやく行こうか。いつも済まん」
「うーん、早起きはたしかに大変だったけど、明日で終わりでしょ? イーヴェニア通いは」
条約を結んでしまったから。
「ありがとう。月乃のおかげだよ、こんな転送魔術が使えるようになるなんて。ほんとうに……天才だ」
「どういたしまして。でもお礼なんて良いよ、佑がわたしをこの異世界 へ召喚してくれた、それだけで十分な貸しになるんだからね」
二人の姿が魔法陣の上で消えたあと、ぼくは胸を押さえてうずくまった。ぼくは騙され、弄ばれ、こんな場所まで引き立てられて、こんなに苦しい責苦まで受けてまで――――なんで。
米
ぼくは聖下のことを愛している。それは変わらない。変わらないままでいい。ファミリアとの友好関係を維持することも、ファミリア連合国の構想も国益に叶ううちは構わない。
子供のように一から十まで覆したくはない。けれども、ぼくは憎んでしまった。月乃というあの魔術師の存在を。聖下の近くにいる異界人 のことを。それが我慢できない。
「もう、ぼくのところには来て呉れなくていいですよ。お忙しいでしょう。それに少しの間だけ、ぼくはひとりになりたいので」
「そ、そうか……? 気をつかってくれてるみたいで、悪いな。でも、またきっと会いに来るからな。今度は部下を引き連れて、正式に王としての立場で訪問すると約束する」
「そうですか。では、楽しみに……ぅう」
「? おい、泣いてるのか?」
「いいえ。聖下、それよりはやく消えてください。ぼくはひとりになりたいんです」
「……ごめん」
その日から彼は途絶えた。それからは一歩も外に出れなかった。
米
あるときぼくは奇妙な手紙を受け取った。それはラティシアと密約を結んで政局を少し奇妙な方向へ動かすことを打診するもので、文面には「ハートのジャック」の文字が踊っていた。
なぜこんな手紙を送ってきたか、その理由は知らない。ただこの意味深なる誘導の結果として、ファミリアとラティシアが交戦状態になるか、威嚇のため2、3度の衝突をするシナリオが考えられた。
イーヴェニアの明確な利益のために結ぶ約束事ではない以上、明白に国民に対する裏切りになるし、何よりすでに条約を結んだファミリアへの裏切りになる。
でもぼくは少しだけ政局を動かすことにした。密約を結んで、それでファミリアを裏切ったことにして。済ませて。そんな腹いせでぼくの……未来が戻ってくることもないのに。
月乃という女の子の訃報を受け取ったのはそれより少し後のことだった。
ぼくの愚かしさにとって幸いなことに、ラティシアとの密約は密約としていつまでも公にならずに、責任が追及されることはなかった。
でも本当は彼にすべて知られているかもしれないと思うと、聖下とまた再会するときのことを考えるのがこの上なく憂鬱になった。
そしてぼくは気が付いた。ぼくはこの塔の上で息が詰まり、すべてを佚ったのだと。
→「ごめんなさい。ぼくはあなたがほんとうの聖下ではないことを知っています。シンディと手紙のやりとりをして。何週間も前から計画のことは聞かされていたんです」
「ああ、なるほど。だから記憶喪失って言われた途端に、俺が入れ替わっていると気付いたわけか」
チェンジリング入れ替わりプロジェクトのことを計画段階から知ってたらしい。うーん。失敗失敗。なんかこれでいけると思ったのが逆に恥ずかしいな。
「でも、あなたが本当の聖下でなくて……よかったかも、知れないです」
レイチェルは複雑そうに口にした。
「なんで?」
「どう顔を合わせていいか、わからなかったから……」
「なんかすごい申し訳無さそうな顔をしていたな。最初。気のせいだったら済まんが」
「かも知れないです」
「もとの俺に対して、何か申し訳無さそうにする理由でもあったのか?」
そういって真剣にまっすぐ射止めて見遣ると、レイチェルは露骨に眼 を逸らした。直近に彼女が遮った話題のことが気がかりになる。
ハートのジャック。もしかして何か知っているのではあるまいな?
「たしかに俺は以前の俺とは違うかもしれないけど、俺はそうは思ってない、この世界 の月乃も、現実世界の月乃と同じように大切だ。
だからこそ許せない、あいつを暗殺するような奴がいたとすれば、絶対に許しちゃいけないんだ」
そんな詮方無い怨嗟の思いをぶつけて見つめたからだろうか、レイチェルはいまや自信なく、小刻みに震えていた。
震えに相反してマントルピースの炎は護摩のように柱をあげ、ますます燃え尽きるのを急いでいるように感じられる。
「おい」
ちょっと怒気にも似た口調が悪かったのか、呼びかけられるとレイチェルはカーテンの影に隠れ入った。そこから半身を出して窺うが、その麗姿も今や半分は自らの長い髪から隠れのぞいているようなありさまだ。
さながらアルマジロの如き防衛体制である、でも部屋からは出られないから、これが精一杯の防衛なんだと考えると少し悲しくもなる。俺は啖呵をきった。
「この塔にずっと引きこもり続けてるような奴のことを、俺が第一容疑者として疑うわけがないだろ。安心しろよ。
たが、何か話すべきことがあるなら、正直に話したほうがいいぞ」
とだけいった。それで室内ははしばらく静かだ。やましいことを白状するなら好き勝手にしてくれと、俺は押し黙って構えるだけだった。
「ごめん……なさい」
恐ろしく永い沈黙を挟んで、やがて最後に幽霊のようなか細い声で、レイチェルが反応を示した気がした。
しかしだが、彼女は今やカーテンに完全に覆い隠れて、何も様子を伺うことはできない。仕方がない。ここは一旦は引き上げることにしよう。
その朝、ぼくははじめてファミリアの統治者と面会した。見も知らない人物、といってもこの3ヶ月間、ずっと塔の下で叫び続けていたお馴染みの人影――たったひとりぼくの為にここまで通い詰めるその様に、
感銘を受け、本当ならもっとはやくに招き入れなければいけなかったのだろう。ぼくは人非人と言われても仕方ない。
彼は年若く、まだ15歳くらいの年齢で、それでいてなかなかの了簡を持ち併せた人物だった。ファミリアの発展について長期的視野を持っていたし、
彼と話すのは面白かった。それからぼくは毎日のように聖下――彼と会うようになった。長い下積みがあったから、会うことにそれほどの恐怖はなくなっていた。
八紘一宇のファミリア連合という青写真に惹きつけられたし、話を聞くたびに理解も好意も深まっていく。きっと、多分、これは通い婚のプロセスなのだろう。
見え透いた政略結婚とみて、算盤尽くの色模様に違いなかったけれど、儚い夢は薄膜のカーテンに浮かび上がって。
「ありがとう。一時はどうなることかと思ったよ」
「あの……ぼくは、その」
「レイチェル妃、別に気を遣うことはないよ。こちらが無理に会ってもらってるんだ。俺はファミリア連合の結束を強めることが本当に重要と考えていて、最初はそのことだったけど、
でも、途中からどうしても会ってみたくなって。気になったんだよな、ここにどんな王女が棲んでるのか、どんな事を考えていて、なんで誰とも会わないかとか考えてさ」
「答えは、もうわかりましたか?」
「ぜんぜん。よかったら聞かせてもらえるか?」
彼はとてもいい人だった。濡れぬ先こそ露をも厭えと、彼を部屋に招き入れてからのぼくはすべて話した。
「ぼくは自分がとても醜い存在であるという信念を持っています。肯定されたためしは誰にも有りませんが」
「だろうな。
「肉体と魂は別次元の存在であるという説を假りるなら、ぼくは魂の評価する基準に従って、こういう信念を持っているのです。
肉体の次元では、おそらくぼくは醜悪ではないのでしょう。さらに興味はありませんが」
ぼくは浮かれてよくないことを色々と喋った。慎みのないことを。それでも想像していたよりは恥ずかしくなかったし、針のように苦痛でもなかった。
彼と疎通することが快だったからこそ、生まれてからのべつ幕なしに感じているぼくの不完全な感覚はそれ自体が不完全であると判って、救われたような気がした。
米
ぼくは聖下を特別に思っている。召使いのハルより、今では聖下のほうがぼくの部屋に出入りしている。だから、聖下もぼくのことを特別に思っていてくれたら嬉しい。
ふたりで塔の上で面会するようになってから一ヶ月、ファミリアとイーヴェニアは密約を結んだ。そうしないと彼はまったくの徒労を踏んだことになり、計画が叶わずに残念な思いをすると思ったから。
それ以上に、このままではぼくは永遠に変わらない、変わりたいと思ったからこそ歴史を前に進めた。皮肉にも。塔に閉じこもる憐れな肉体は置き去りにして、歴史ばかりが前へと進んでいく。
一定の成果を上げたいま、聖下がこのままずっとこの国にとどまってくれる保証はない、はやいうち変わらなければ、ぼくだけがこの塔に取り残されてしまう。聖下と一緒に暮らすこともできないままに。
この日、ぼくの中でとてもエポックメーキングな出来事が起こった。聖下がアクセルロッドを忘れて、そのまま塔の下へロープで降りて帰ってしまったので、ぼくはこれを届けないわけにはいけなくなった。
アクセルロッドはファミリア王家の証で、これが無ければ聖下は王威を喪ってしまう。一日だってこのままぼくの元においては置けないだろう。
やっとぼくに塔の外へ出る運命が巡ってきた、この命題によって宇宙は拡大する。これからきっと外に出なければならない。人生ではじめてその用事ができたから。心臓はこらえきれず早鐘のように高鳴っていた。
一歩、塔の外へと踏み出すと、嫌な暖かで冷やかな空気がぼくを囲い込む。心配そうな眼差しで
草露の滴る朝靄の下草をぼくは足早に駆けていった。彼はさっきロープを伝っていったばかり。今すぐ後を追えば、あまり遠出にはならずに追いつける。その背中は小さいながらも、もう視界の中心に見えているから。
いまの状況なんて気にならないくらい、ぼくはひたすら走った。濡れぬ先こそ露をも厭え、と。
あの木陰にたどり着く頃にはすっかり息があがって、もう声を掛けることもかなわないほど疲労していて。そして聖下はぼくの存在に気づくこともなく、もう塔からは見えないような岩陰で、
あの
「月乃、待たせたな。もう急いで王城に戻らないといけない時間だろ。このあとすぐイストワールと打ち合わせ、午後は閣議があるんだっけ?」
「そうね、はやく魔法陣に入って。いつもの空間転送で衣装室まで送っていくから」
空間転送? 何を言っているのだろう。もし国を超えるほどの距離を一瞬で移動する魔術を、大魔術師が使えるというなら。もしもそうなら、彼はきわめて効率的に、朝の決まった時刻をつかって、
大臣との会議や国政の片手間に、イーヴェニアを攻略しおおせたことになる。ぼくは、そんな魔術師の存在にも気づかずに、彼が
「待った、アクセルロッドがないな」
「もう。そんなのどうだっていいでしょ。明日取りに来ればいいんだから」
「そうだな。じゃ、遅れないうちにはやく行こうか。いつも済まん」
「うーん、早起きはたしかに大変だったけど、明日で終わりでしょ? イーヴェニア通いは」
条約を結んでしまったから。
「ありがとう。月乃のおかげだよ、こんな転送魔術が使えるようになるなんて。ほんとうに……天才だ」
「どういたしまして。でもお礼なんて良いよ、佑がわたしをこの
二人の姿が魔法陣の上で消えたあと、ぼくは胸を押さえてうずくまった。ぼくは騙され、弄ばれ、こんな場所まで引き立てられて、こんなに苦しい責苦まで受けてまで――――なんで。
米
ぼくは聖下のことを愛している。それは変わらない。変わらないままでいい。ファミリアとの友好関係を維持することも、ファミリア連合国の構想も国益に叶ううちは構わない。
子供のように一から十まで覆したくはない。けれども、ぼくは憎んでしまった。月乃というあの魔術師の存在を。聖下の近くにいる
「もう、ぼくのところには来て呉れなくていいですよ。お忙しいでしょう。それに少しの間だけ、ぼくはひとりになりたいので」
「そ、そうか……? 気をつかってくれてるみたいで、悪いな。でも、またきっと会いに来るからな。今度は部下を引き連れて、正式に王としての立場で訪問すると約束する」
「そうですか。では、楽しみに……ぅう」
「? おい、泣いてるのか?」
「いいえ。聖下、それよりはやく消えてください。ぼくはひとりになりたいんです」
「……ごめん」
その日から彼は途絶えた。それからは一歩も外に出れなかった。
米
あるときぼくは奇妙な手紙を受け取った。それはラティシアと密約を結んで政局を少し奇妙な方向へ動かすことを打診するもので、文面には「ハートのジャック」の文字が踊っていた。
なぜこんな手紙を送ってきたか、その理由は知らない。ただこの意味深なる誘導の結果として、ファミリアとラティシアが交戦状態になるか、威嚇のため2、3度の衝突をするシナリオが考えられた。
イーヴェニアの明確な利益のために結ぶ約束事ではない以上、明白に国民に対する裏切りになるし、何よりすでに条約を結んだファミリアへの裏切りになる。
でもぼくは少しだけ政局を動かすことにした。密約を結んで、それでファミリアを裏切ったことにして。済ませて。そんな腹いせでぼくの……未来が戻ってくることもないのに。
月乃という女の子の訃報を受け取ったのはそれより少し後のことだった。
ぼくの愚かしさにとって幸いなことに、ラティシアとの密約は密約としていつまでも公にならずに、責任が追及されることはなかった。
でも本当は彼にすべて知られているかもしれないと思うと、聖下とまた再会するときのことを考えるのがこの上なく憂鬱になった。
そしてぼくは気が付いた。ぼくはこの塔の上で息が詰まり、すべてを佚ったのだと。
→「ごめんなさい。ぼくはあなたがほんとうの聖下ではないことを知っています。シンディと手紙のやりとりをして。何週間も前から計画のことは聞かされていたんです」
「ああ、なるほど。だから記憶喪失って言われた途端に、俺が入れ替わっていると気付いたわけか」
チェンジリング入れ替わりプロジェクトのことを計画段階から知ってたらしい。うーん。失敗失敗。なんかこれでいけると思ったのが逆に恥ずかしいな。
「でも、あなたが本当の聖下でなくて……よかったかも、知れないです」
レイチェルは複雑そうに口にした。
「なんで?」
「どう顔を合わせていいか、わからなかったから……」
「なんかすごい申し訳無さそうな顔をしていたな。最初。気のせいだったら済まんが」
「かも知れないです」
「もとの俺に対して、何か申し訳無さそうにする理由でもあったのか?」
そういって真剣にまっすぐ射止めて見遣ると、レイチェルは露骨に
ハートのジャック。もしかして何か知っているのではあるまいな?
「たしかに俺は以前の俺とは違うかもしれないけど、俺はそうは思ってない、
だからこそ許せない、あいつを暗殺するような奴がいたとすれば、絶対に許しちゃいけないんだ」
そんな詮方無い怨嗟の思いをぶつけて見つめたからだろうか、レイチェルはいまや自信なく、小刻みに震えていた。
震えに相反してマントルピースの炎は護摩のように柱をあげ、ますます燃え尽きるのを急いでいるように感じられる。
「おい」
ちょっと怒気にも似た口調が悪かったのか、呼びかけられるとレイチェルはカーテンの影に隠れ入った。そこから半身を出して窺うが、その麗姿も今や半分は自らの長い髪から隠れのぞいているようなありさまだ。
さながらアルマジロの如き防衛体制である、でも部屋からは出られないから、これが精一杯の防衛なんだと考えると少し悲しくもなる。俺は啖呵をきった。
「この塔にずっと引きこもり続けてるような奴のことを、俺が第一容疑者として疑うわけがないだろ。安心しろよ。
たが、何か話すべきことがあるなら、正直に話したほうがいいぞ」
とだけいった。それで室内ははしばらく静かだ。やましいことを白状するなら好き勝手にしてくれと、俺は押し黙って構えるだけだった。
「ごめん……なさい」
恐ろしく永い沈黙を挟んで、やがて最後に幽霊のようなか細い声で、レイチェルが反応を示した気がした。
しかしだが、彼女は今やカーテンに完全に覆い隠れて、何も様子を伺うことはできない。仕方がない。ここは一旦は引き上げることにしよう。