第14証言 哀しミゼール
文字数 8,401文字
第14証言 哀しミゼール
回想――ローサの回想
→あのひとは激昂して胸ぐらをつかみ、うちの身体をテーブルから引き下ろして、思い切り怒鳴りつけました。
「ふざけるなよ!!! いくらお前が親父に酷いことされたからって、こんな国も自分も投げ出すようなことをして復讐になんかなるわけないだろ!!」
「ほっといてよおおおおおお。うちは頭がおかしいんだからあああああああああああああああああ」
あのひとの腕の中で藻搔きました。このまま頭を床に打ち付けて死んでしまえばええって。こんな小国 もなくなってしまえばええって。
あいつがつくりあげた国なんて、滅茶苦茶になって、ばらばらになって地図から消えてしまえばええから。
「なあ。朝から夜中まで遊び続けて、統治者の仕事もほっぽり出した挙げ句、こんな薬にまで耽ってさ……あんたがこんなで国が傾いたら、国民はどうなる?巷衢 で暮らしてるやつらはどうなるんだよ。責任はとれるのかよ?」
「だってぇ…」
ソレは忘れるための薬でした。現在のことも、過去のことも忘れてしもうてええから。瓶一つ買うだけで山一つの身代が失くなる、そんな代償すら心地よくて。でも、そんなうちにあのひとは熱っぽく語りかけてきてくれはって。
「お前がほんとうにオッディアのことをどうでもいいと思ってるなら、俺に寄越せよ。お前の憎む親父が創り上げたものを、俺がこの国から跡形もなくしてやる。
ただし、既往 よりもっとよい方向に創り直すって方法でだ! 厳しい規律をやめて、それでいてもっと平和で暮らしやすい理想の国にしてやる」
こんなうちに謂てくれました。無駄な出費と、意味のないパーティで
、父親が死んでから娘は頭がおかしいと評判になって、いまではもう誰もうちとまともに話そうとすらしないのに(話を聞いてくれるのは、派手な帽子の雇われ道化師と、おべっかをして権力に恋々とする詐欺師たちだけ)、せやのにあのひとは救いの手を差し伸べてくれはりました。
あのひとだけは荒廃したこの館で、精一杯うちと向き合って。救いの手を差し伸べようとなさってました。
父の呪縛から解き放とうとしてくれはりました。
ファミリア連合国王、救世主、異世界から来たという変わったひと。大陸とは混ざらない文化からきた妖精のように魅力的なあのひと。
米
「もしもすべての国が同じ法律、商習慣やしきたりのルールに則って生活できたら、とても便利だろう?
だからファミリアでもできるだけそうしたい。ただし、ちょっとした落とし穴がある。
同じルールに統一するってことは、それが当たり前になって改善点が見えにくくなる。
重要なのは差延なんだ、差延からこそひとは何が適切か判別できる」
うちが生まれ育った旧城のバルコニーのうえで、あのひとと向き合ってお話しました。あれはうちが薬の後遺症からも、ほとんど立ち直った頃。
「つまりきみの国――オッディアは、ちょっとだけ違うルールで運用していくってことだ。
たとえば大抵の国では、商人が煙草を売ることに関して細かく規律している。専売制ってやつだ。でもそれを自由にしてみたら?
いいんじゃないか? ひとつくらいそんな緩い国があっても。
ローサって、どっちかと言えば奔放な雰囲気のほうがあってる気がしないか?
何者にも妨げられない不羈の気風っていうかさ。
この国はローサの国なんだから、俺はそういう風になってほしいなって」
「でもそんな国、うまくいかないんとちゃうの?」
「それがうまく行ったりするから不思議なんだよ。ドラコニアンルールで拘束するより、
公権力の果たす役割を必要かつ最小限にとどめておくほうがかえって上手くいく妙があるわけだ。
もうファミリア全土ですでに浸透している文化があるから、あまりにおおそれた改革はできないけど、つねづね思ってる」
「はえ……」
「もちろん、オッディアひとつだけが変わったルールで統治されることによって、
却ってこの国ひとつが損をするような事態も起こりかねないけど、そのときはファミリア全土が尊い実験を率先して引き受けてくれたお礼として
オッディアにしかるべき補償でもって報いることは言うまでもないさ」
「本当にそんなに自由にしてええの?」
「というか、」
彼は頭を掻いて。
「オッディアの大部分の重大な法律や規則って、既にローサが撤廃してるじゃないか。憶えてないのか?」
と言いはりました。うちは、目をまん丸くして
「うーん。そやったっけ?」
と呆けてみせました。そやったかもしれまへん。
「ああ。最初は大混乱だったらしいぞ。でも、混乱は続かなかった。究竟ルールってのは草の根から生まれてくるもんだ。
先代の王がとり決めた法律がすべてなしになっても、古代法だの商習慣だのひっぱり出して、結局は市井はうまくやってるよ」
「ふうん。そう……」
うちが顔を背けたら、彼はちょっぴり後ろめたい顔貌をして。
「なあ、そんな顔してくれるなよ。先代の王…君のお父さんのことはどうしても話題の端に……」
「いや」
うちは首を振りました。「いやいやいや」
「わかったよ。君の亡くなったお父さんのことはもう言わないから! きっぱり誓うから!」
父という言葉が会話について出るたびにうちが泣きそうになるから、あのひとははじめあんまりにも困ってはりました。
最後には、気をつかいすぎるほど気をつかってくれるようになって。申し訳ないと思っとります。
あいつにつけられた傷跡が、いまでも身体と心に深く残って、消えんくて。
何度も、何度も、犯され傷つけられた記憶――国のため、王家のためと言われて、なすがままに蹂躙されて、消えてしまいたいと思いました。
近親相姦を目論んでまで父が遺したかったのは、繁栄し続けるオッディアという国でした。
みずからの娘とのあいだにできた子供が、将来の名君になると信じて疑わんかった父。急病で斃れるまで立派な君主といわれた父。
立派な葬儀と啼泣に送られて、この国のことを最期まで想っていたと民に尊敬された父。
だから、うちはこの国が大嫌いでした。
米
「お館様はねえ、好きなひとはいてはるの?」
あるときうちは尋ねました。どんな奇矯な問いかけも、許されるようなうちでした。あのひとはさ迷いはって。
「うーむ、この世界にはいないな」
引かかる言い回しでそう答えました。
「じゃ、妖精の国には恋人がいてはる?」
「もとの世界でもガールフレンドはいなかったよ、ただ、腐れ縁の幼馴染はひとりいたがな」
「そう」
あのひとはいつもうちの傍にいてくれました。さしあたりは。あのひとがうちの傍にいてくれた日数だけ。この国に滞在するあいだ毎晩はこの別荘館に泊まって、かりそめ、夫婦のような生活になりました。束の間の何もかもほどよい暮らしでした。ほんに、ええ暮しでした。
「ねえお館様、こちへきてウチと一緒に寝てくれはる? 夜通しずっと一緒にいたいんです」
うちは托みました。あのひとはしかつめらしく、
「ファミリア近傍には8つの地域に王妃がいるが、俺はその特定の誰にも肩入れするつもりはない。それでいいか?」
なんて含めて。
「もう、そんな難しいこと言わんといて。ただ一緒に居たいんです。寂しいんですから」
「また急に」
「急やありまへん。お館様、もうすぐお国へ帰ってしまうはずやから……」
あのひとは頭をぼりぼりと掻いて
「嗚呼。まあ一旦帰るが、その手筈だけども、必要とあらばいつでも最優先で戻って来るぞ。正直、ローサが一番気がかりだからな」
と言いました。
「え?」
うちが頬染めて戸惑っていると
「ほかの王妃たちはほっといても自力で何とかなるから平気ってことだよ、ケアしなきゃいけない深刻さとかもないしな。
ローサは……ほっとくと壊れそうなあやうげな感があるっていうか、だから目を離したくはないんだ、ほんとうは」
「…………お館様」
「――もう壊れてるといったほうが正しいかも知れないけどな」
あのひとはそうやって諧謔をとばしました。言う通り、ご明察通り、うちはもう壊れてました。
身体は穢れて、心もばらばらにほつれ、もうとっくに壊れてしまったあとで、その傷口が恐くてとてものぞけずにいる臆病者のぬけがらでしかなくって。
そんなことは互みに知っていて。それでも笑い合いました。
「ひどいわあ」
うちがぶうたれると
「御免々々。さて、きょうは一緒のベッドで添い寝すれば良いんだな?」
あのひとは近寄っておわびのようにうちのことを抱きかかえながら、ベッドまで運びました。夢のようなぬくもり。こんなぬくもりがあるなんて、これまで知らんくて、自然と涙が溢れました。
「……ぐすっ」
「泣いてるのか?」
「ウチは、幸せもんです。だって、お館様のお傍にこうやって抱いて貰えるんですから。ねぇ…」
その夜は永遠のよに幸福がありました。いつまでもいつまでも忘れられない思い出が、結晶のように折り重なりました。
「柔いんだな、ローサは」
ふと、あのひとが感心するように口を開きはりました。
「……ウチのこと、石膏かなんかと思うてはりました?」
「済まない。詰まらんことを謂った」
そうやって音もなく照れ隠しに笑いはって。真闇の中に、かたちのない幸せだけが降り積もってゆきました。
米
あのひとがもういちど館を訪れたとき、もう以前のように独りではなくって。たとえそれが定めとしても、口に出すのが野暮でも、さびしいと言わざるをえませんでした。うちのことをあのひとが昔ほど思って呉れて居ないのは、系として従ってしまう命題やから。
「前みたいに一緒に寝てくれって? いや、それはちょっと……」
頭をぼりぼりと掻いて、ばつのわるそうにするあのひとの姿を、うちは哀れに追いました。
「きょうは小旅行に来たんだ。実はこの国のことを見せてやりたい奴が居てな。でも、すぐに出国するから心配しないでくれ」
あのひとは端的に説明しはりました。遠くに止めてある馬車の影からのぞく、あの小さな陰影は誰やったろう?
噫々――第九王妃の月乃そのひとに違いありません。ノーフォークのお新造で、どこにもない国、それでいて彼に最も近しい領土を統べるひと。
彼の隣りに存 ることをいちばん望まれているひと。この地にいる人間の女王とは一線を画する妖精の女王。あれでは嫉妬する気も失せてまいます。
「ごめんな、でも元気そうで安心したよ。きみの顔を見るまではなんだかんだ心が晴れなかったけど、もう大丈夫そうだ。これからもその調子で頼むぞ」
そう言い残してあのひとは去っておしまいになりました。うちが「いい子」になったから、面倒がかからなくてええって捨てて行ってしまいました。あれ以来ずっとあのひとはただの手紙しか寄越さんくて。
ああ、それならいっそ狂ってしまおうと思いました。もう一度あのひとがやって来たときには、もの狂って壊れたふりをして、思いっきり心配させてやろうって。
狂ってしまって、枉ってひしゃげて毀ってしまえば気も楽やから。
あのひとと初めて会ったとき、うちは館の食卓の上で態と行儀悪く臥てました。周りには大勢の道化師たちと薬で蕩然となった下女たちがおって……狂ったふりをして、毎日かかさず無駄使いをして、財産が底を尽きるのを待ったミゼールの日々。それから密かにうちは同じことをはじめました。
ある日、へんな手紙が届きました。その手紙には、ものすごい額を投資するようなお願いがしてありました。うちは悦んで私財をなげうちました。そんなわけで、いまではオッディア家にはもう資産はまったく残っておりません、使用人も庭師もお抱え料理人もみんな出ていってしもうて、本館は売家になって、気まぐれな道化師ひとりしか雇う金もありません。
逃げなかった下女もひとりだけ残ったけど、あのこは元から頭がおかしくて。
結局うちは血筋の呪縛からは抜け出せなかった身上。こうなってしもうたのは誰の所為でもなく、運命という言葉を使うなら、オッディア家ははじめから滅びる運命だったんです。あのひとは悪くありません、いなくなった月乃お嬢さんも責めるところはございまへん。すべて、オッディア家に伝わる狂った汚らわしい血のせいやから。
父を狂わせて、うちを狂わせたこの血を後生大事に守ってきたオッディア家の忌まわしいしきたりこそが、すべて悪いんやから。もうこの運命は変えることができんのです。誰であっても。
→
目の前で繰り広げられる光景は何とも当惑するものだった。さすがクレイジーハウス。俺は帽子を脱いだ。
だが、月乃だ、俺には彼女のためにやらなければならないことがある。
かつて起こった出来事の手がかりを得るために、ハートのジャックを探し出すのだ。なんとかその計画をひねり出すのだ。
さしも間近にいるこの頭のおかしい女に、その苦労の一端でも伝わればどれほど幸いなことか。
「ハートのジャックって知ってるかな? 人物なんだが。たぶん、本名じゃないぞ」
かんで含めるようにローサへ問いかけてみる。いままでの実績からみて、まともな返答が返ってくるはずもなかったが。
ところがローサはさもなしげに、
「ハートのジャックなら、知っとります。お館様は、彼に用がお有りですの?」
なんて云っとった。は? こんなところで手がかりが見つかるのかよ。いや、かえって紛らわしくていけない。
嘘なら嘘で何の不思議もないような妖姫ローサのこの言葉が事実であって欲しいという願望、
いわば釣り餌が、浮足立った俺に冷静でない判断をさせようとするんだ。ここはひとつ吟味することにしよう。
「ハートのジャックは、職業は何をしている人物か知ってるかな?」
ローサに訊いて、ここで殺し屋とか暗殺者とかいった返答が聞かれれば、ハートのジャックについてかなり核心をついた情報を持っていると認めよう。
反対に自分の髭は剃らない床屋さんとか、縁日のカラフルひよこ売りであるとか答えたら、ハートのジャックについて知らなくて適当に嘘を言っているか、
あるいは彼と面識はあるがその表向きの稼業しか知らないほどの浅い関係しか無いということで、これ以上の質問は諦めることと決める。
「ハートのジャックは、お掃除屋さんとちがいますの?」
お掃除屋さん。返ってきた返答は、また微妙なところを突いてきたという印象だった。
正直このローサという女はよくわからん。言っていることがすべてデタラメでも不思議はないし、それでいて妙に捨てきれないところもある。
お掃除屋さんというのは、もちろん殺し屋の隠語だよな? こんな事に疑問の余地を挟ませないでくれ。
「俺はハートのジャックを探してるんだ。会えると思うか?」
「ちょっと分かりまへんなあ。ウチがジャックさんにお掃除してもろたんは、随分前のことやし…」
ハートのジャックに掃除をしてもらった?
「待て。ハートのジャックに掃除って、お前自分が何を言ってるか分かってるのか?」
ローサは不思議そうな顔をする。
「え? ウチなんかおかしかったやろか?」
「お前、ハートのジャックに誰を掃除してもらったんだよ! 言え!」
そう言って彼女の肩甲骨をつかんでがくがくと揺らす。人間というものは内面の余裕が無くなると、ほんとうにこんな意味不明な挙措をしたくなるものなんだな、と各方面のフィクションに妙に感心してしまう。もちろん何の効果もない。
ところがローサのほうは質問をされて過去を振り返ろうとした途端、頭を抱えてひどく苦痛そうにうずくまる。体を丸めて苦しそうに叫び声を繰り返すその有様は殆ど狂乱といってもよい発作で、
これまでの彼女の頭のおかしい感じを1ローサと定義するなら、この発作は25~30ローサにもあたる。ああ、何を言っているのか、俺まで頭がおかしくなってきてるのか。
ただひとつ確たることは、今の彼女の状態は無理にでも止めないと危険ということだ。
俺はローサを無理やり抱きかかえ、発作が自傷行為へと発展しないように身体の自由に制限をかけてやった。
嗚呼、リバタリアンが糾弾すべきパターナリズムによる消極的自由への介入というわけだ。もちろん俺にとってもノーリスクの行為ではない。場合によっては誤解され、強制わいせつの現行犯で私人逮捕されるおそれもある。
だが俺の詰問という先行行為が引き起こした事態に対して混乱の収拾を放棄するという選択肢はない。俺は手間取りながらもローサを後ろから強く抱きとめて口を抑えた。念の為舌を噛まれないようにだ。
「ううぅーーーーー! ううーーー!」
「わかった、悪かったよ。何だか知らないけども済まん! もう落ち着いてくれ。最後にひとつだけ、ひとつだけ質問いいか?
それさえ答えてくれたら、もういいんだ。お前はハートのジャックに月乃を掃除して欲しいと頼んだか? イエスかノーで答えられる質問だぞ」
「ウチは、はぁ……月乃さんのハナシはなんも知りません。ハートのジャックさんに逢うたんはね、はぁ……もっと前、あいつのとき……」
「あいつって誰だ?」
俺は訊く。ローサは不随意に震顫する身をなんとか抑え込もうと悪戦苦闘しながら、やや長いインターバルのあとにこう絞り出した。
「……グノーランド」
え。たしかグノーランド=ヴァン=オッディリってこいつの父親じゃなかったか?
「だって……」
そうして俺はローサの悲惨な過去を聞き取った。
父親から虐待に近い歪んだ教育を受けたこと。母が急逝したこと、オッディア家にかねて跡取り問題があったこと。
思春期からの虐待に耐えかねた末、貴族階級の間で都合の良い殺し屋として通る「ハートのジャック」に父親の清掃を依頼したこと。
「…きっとお館様はウチのことが嫌いになったに違いありまへん……」
ローサはひどく怯えていた。
「どうしてだ、きみは俺にハートのジャックについて教えてくれたじゃないか。他の王妃は誰も教えてくれなかった……」
素直にいってその貢献はとてもありがたい(スノウやシンディにも見習って欲しい)。
「でも、ウチは人殺しで……」
厳密には人殺しではない。いって殺人の共謀共同正犯である。ローサは先ほどからめそめそと泣いていた。父親の暗殺の話は以前の俺にさえ隠し通していたことらしく(ばれていたかは知らないが)、
いわゆる墓場にまで持っていく秘密にしておくつもりだったらしい。ローサが気に病んでしまわないように、俺は言い含めた。
「いいか、俺はこの事は誰にも喋らない。共有の秘密だ。ハートのジャックに依頼したことがあるなんて、今後とも誰にも言わなくていいし、
何なら忘れてしまえばいい。何も心配することはない。君のことも嫌いになったりはしない。特定の倫理観のもとでの、きみの当時の判断を尊重する」
どんな理屈でもよかった。俺はただひとつの目的のために歩を進めてきた。すなわち、ハートのジャックの窮跡 だ。
いまここでローサの罪を糾弾することではない。そもそも異世界で地球のローカルな座標(x,y,z?,t)に束縛される法律、道徳、常識、倫理を振りかざして何の意味があるだろう?
俺はローサを慰め、励まし、聴罪し、とうとうハートのジャックについての有益な知見を得た。
ローサの情報提供によると、ハートのジャックはファミリア第五王妃であるレッドローズが支配する南方ナチュリア地方の騎士だったらしい。
レッドローズの臣下あるいは部下として忠誠を誓い、敵から国を護る峻厳な騎士というのが表の顔だ。
ところが裏の顔は、女王レッドローズにとって都合の悪い人物を処刑するための処刑具であり、
それがいつか金を積まれればどんな依頼でも引き受ける殺し屋として、なぜか貴族階級の間で広まっていく。
驚いたことにハートのジャックの逸話は貴族社会 出身なら誰でも一度は聞いたことがあるくらいには有名な流言蜚語らしく、
ローサも認知し依頼するまでに大したコストを払わなかった。
綜合すると、スノウがハートのジャックというキーワードを意味深に出したとき、もともと必然的にレッドローズへと辿り着くように仕組まれていたのだ。
ではなぜスノウはレッドローズの名をおくびにも出さなかったのか?(知っていたはずなのに。)それはおそらく、余りにもあからさまと思ったからだろう。
「どうぞレッドローズを疑ってください」と言い出すのは簡単だが、もっと効果的な方法もある。それは勝手に調べさせ、自発的にレッドローズを疑うように仕向けることだ。
だとしたらスノウは俺をコントロールするため、わざとハートのジャックの真相について教えなかったことになる。
さして怒っているわけではないが、城に帰ったらスノウをどんな目に合わせてやろうとしたものだ。しかしこれから向かう先はファミリア城ではなく、ナチュリア国である。
ナチュリア国に赴いて、レッドローズに子飼いの殺し屋の監督責任を問うてやるのが先決だ。其処でハートのジャックも捕まえる。
回想――ローサの回想
→あのひとは激昂して胸ぐらをつかみ、うちの身体をテーブルから引き下ろして、思い切り怒鳴りつけました。
「ふざけるなよ!!! いくらお前が親父に酷いことされたからって、こんな国も自分も投げ出すようなことをして復讐になんかなるわけないだろ!!」
「ほっといてよおおおおおお。うちは頭がおかしいんだからあああああああああああああああああ」
あのひとの腕の中で藻搔きました。このまま頭を床に打ち付けて死んでしまえばええって。こんな
あいつがつくりあげた国なんて、滅茶苦茶になって、ばらばらになって地図から消えてしまえばええから。
「なあ。朝から夜中まで遊び続けて、統治者の仕事もほっぽり出した挙げ句、こんな薬にまで耽ってさ……あんたがこんなで国が傾いたら、国民はどうなる?
「だってぇ…」
ソレは忘れるための薬でした。現在のことも、過去のことも忘れてしもうてええから。瓶一つ買うだけで山一つの身代が失くなる、そんな代償すら心地よくて。でも、そんなうちにあのひとは熱っぽく語りかけてきてくれはって。
「お前がほんとうにオッディアのことをどうでもいいと思ってるなら、俺に寄越せよ。お前の憎む親父が創り上げたものを、俺がこの国から跡形もなくしてやる。
ただし、
こんなうちに謂てくれました。無駄な出費と、意味のないパーティで
、父親が死んでから娘は頭がおかしいと評判になって、いまではもう誰もうちとまともに話そうとすらしないのに(話を聞いてくれるのは、派手な帽子の雇われ道化師と、おべっかをして権力に恋々とする詐欺師たちだけ)、せやのにあのひとは救いの手を差し伸べてくれはりました。
あのひとだけは荒廃したこの館で、精一杯うちと向き合って。救いの手を差し伸べようとなさってました。
父の呪縛から解き放とうとしてくれはりました。
ファミリア連合国王、救世主、異世界から来たという変わったひと。大陸とは混ざらない文化からきた妖精のように魅力的なあのひと。
米
「もしもすべての国が同じ法律、商習慣やしきたりのルールに則って生活できたら、とても便利だろう?
だからファミリアでもできるだけそうしたい。ただし、ちょっとした落とし穴がある。
同じルールに統一するってことは、それが当たり前になって改善点が見えにくくなる。
重要なのは差延なんだ、差延からこそひとは何が適切か判別できる」
うちが生まれ育った旧城のバルコニーのうえで、あのひとと向き合ってお話しました。あれはうちが薬の後遺症からも、ほとんど立ち直った頃。
「つまりきみの国――オッディアは、ちょっとだけ違うルールで運用していくってことだ。
たとえば大抵の国では、商人が煙草を売ることに関して細かく規律している。専売制ってやつだ。でもそれを自由にしてみたら?
いいんじゃないか? ひとつくらいそんな緩い国があっても。
ローサって、どっちかと言えば奔放な雰囲気のほうがあってる気がしないか?
何者にも妨げられない不羈の気風っていうかさ。
この国はローサの国なんだから、俺はそういう風になってほしいなって」
「でもそんな国、うまくいかないんとちゃうの?」
「それがうまく行ったりするから不思議なんだよ。ドラコニアンルールで拘束するより、
公権力の果たす役割を必要かつ最小限にとどめておくほうがかえって上手くいく妙があるわけだ。
もうファミリア全土ですでに浸透している文化があるから、あまりにおおそれた改革はできないけど、つねづね思ってる」
「はえ……」
「もちろん、オッディアひとつだけが変わったルールで統治されることによって、
却ってこの国ひとつが損をするような事態も起こりかねないけど、そのときはファミリア全土が尊い実験を率先して引き受けてくれたお礼として
オッディアにしかるべき補償でもって報いることは言うまでもないさ」
「本当にそんなに自由にしてええの?」
「というか、」
彼は頭を掻いて。
「オッディアの大部分の重大な法律や規則って、既にローサが撤廃してるじゃないか。憶えてないのか?」
と言いはりました。うちは、目をまん丸くして
「うーん。そやったっけ?」
と呆けてみせました。そやったかもしれまへん。
「ああ。最初は大混乱だったらしいぞ。でも、混乱は続かなかった。究竟ルールってのは草の根から生まれてくるもんだ。
先代の王がとり決めた法律がすべてなしになっても、古代法だの商習慣だのひっぱり出して、結局は市井はうまくやってるよ」
「ふうん。そう……」
うちが顔を背けたら、彼はちょっぴり後ろめたい顔貌をして。
「なあ、そんな顔してくれるなよ。先代の王…君のお父さんのことはどうしても話題の端に……」
「いや」
うちは首を振りました。「いやいやいや」
「わかったよ。君の亡くなったお父さんのことはもう言わないから! きっぱり誓うから!」
父という言葉が会話について出るたびにうちが泣きそうになるから、あのひとははじめあんまりにも困ってはりました。
最後には、気をつかいすぎるほど気をつかってくれるようになって。申し訳ないと思っとります。
あいつにつけられた傷跡が、いまでも身体と心に深く残って、消えんくて。
何度も、何度も、犯され傷つけられた記憶――国のため、王家のためと言われて、なすがままに蹂躙されて、消えてしまいたいと思いました。
近親相姦を目論んでまで父が遺したかったのは、繁栄し続けるオッディアという国でした。
みずからの娘とのあいだにできた子供が、将来の名君になると信じて疑わんかった父。急病で斃れるまで立派な君主といわれた父。
立派な葬儀と啼泣に送られて、この国のことを最期まで想っていたと民に尊敬された父。
だから、うちはこの国が大嫌いでした。
米
「お館様はねえ、好きなひとはいてはるの?」
あるときうちは尋ねました。どんな奇矯な問いかけも、許されるようなうちでした。あのひとはさ迷いはって。
「うーむ、この世界にはいないな」
引かかる言い回しでそう答えました。
「じゃ、妖精の国には恋人がいてはる?」
「もとの世界でもガールフレンドはいなかったよ、ただ、腐れ縁の幼馴染はひとりいたがな」
「そう」
あのひとはいつもうちの傍にいてくれました。さしあたりは。あのひとがうちの傍にいてくれた日数だけ。この国に滞在するあいだ毎晩はこの別荘館に泊まって、かりそめ、夫婦のような生活になりました。束の間の何もかもほどよい暮らしでした。ほんに、ええ暮しでした。
「ねえお館様、こちへきてウチと一緒に寝てくれはる? 夜通しずっと一緒にいたいんです」
うちは托みました。あのひとはしかつめらしく、
「ファミリア近傍には8つの地域に王妃がいるが、俺はその特定の誰にも肩入れするつもりはない。それでいいか?」
なんて含めて。
「もう、そんな難しいこと言わんといて。ただ一緒に居たいんです。寂しいんですから」
「また急に」
「急やありまへん。お館様、もうすぐお国へ帰ってしまうはずやから……」
あのひとは頭をぼりぼりと掻いて
「嗚呼。まあ一旦帰るが、その手筈だけども、必要とあらばいつでも最優先で戻って来るぞ。正直、ローサが一番気がかりだからな」
と言いました。
「え?」
うちが頬染めて戸惑っていると
「ほかの王妃たちはほっといても自力で何とかなるから平気ってことだよ、ケアしなきゃいけない深刻さとかもないしな。
ローサは……ほっとくと壊れそうなあやうげな感があるっていうか、だから目を離したくはないんだ、ほんとうは」
「…………お館様」
「――もう壊れてるといったほうが正しいかも知れないけどな」
あのひとはそうやって諧謔をとばしました。言う通り、ご明察通り、うちはもう壊れてました。
身体は穢れて、心もばらばらにほつれ、もうとっくに壊れてしまったあとで、その傷口が恐くてとてものぞけずにいる臆病者のぬけがらでしかなくって。
そんなことは互みに知っていて。それでも笑い合いました。
「ひどいわあ」
うちがぶうたれると
「御免々々。さて、きょうは一緒のベッドで添い寝すれば良いんだな?」
あのひとは近寄っておわびのようにうちのことを抱きかかえながら、ベッドまで運びました。夢のようなぬくもり。こんなぬくもりがあるなんて、これまで知らんくて、自然と涙が溢れました。
「……ぐすっ」
「泣いてるのか?」
「ウチは、幸せもんです。だって、お館様のお傍にこうやって抱いて貰えるんですから。ねぇ…」
その夜は永遠のよに幸福がありました。いつまでもいつまでも忘れられない思い出が、結晶のように折り重なりました。
「柔いんだな、ローサは」
ふと、あのひとが感心するように口を開きはりました。
「……ウチのこと、石膏かなんかと思うてはりました?」
「済まない。詰まらんことを謂った」
そうやって音もなく照れ隠しに笑いはって。真闇の中に、かたちのない幸せだけが降り積もってゆきました。
米
あのひとがもういちど館を訪れたとき、もう以前のように独りではなくって。たとえそれが定めとしても、口に出すのが野暮でも、さびしいと言わざるをえませんでした。うちのことをあのひとが昔ほど思って呉れて居ないのは、系として従ってしまう命題やから。
「前みたいに一緒に寝てくれって? いや、それはちょっと……」
頭をぼりぼりと掻いて、ばつのわるそうにするあのひとの姿を、うちは哀れに追いました。
「きょうは小旅行に来たんだ。実はこの国のことを見せてやりたい奴が居てな。でも、すぐに出国するから心配しないでくれ」
あのひとは端的に説明しはりました。遠くに止めてある馬車の影からのぞく、あの小さな陰影は誰やったろう?
噫々――第九王妃の月乃そのひとに違いありません。ノーフォークのお新造で、どこにもない国、それでいて彼に最も近しい領土を統べるひと。
彼の隣りに
「ごめんな、でも元気そうで安心したよ。きみの顔を見るまではなんだかんだ心が晴れなかったけど、もう大丈夫そうだ。これからもその調子で頼むぞ」
そう言い残してあのひとは去っておしまいになりました。うちが「いい子」になったから、面倒がかからなくてええって捨てて行ってしまいました。あれ以来ずっとあのひとはただの手紙しか寄越さんくて。
ああ、それならいっそ狂ってしまおうと思いました。もう一度あのひとがやって来たときには、もの狂って壊れたふりをして、思いっきり心配させてやろうって。
狂ってしまって、枉ってひしゃげて毀ってしまえば気も楽やから。
あのひとと初めて会ったとき、うちは館の食卓の上で態と行儀悪く臥てました。周りには大勢の道化師たちと薬で蕩然となった下女たちがおって……狂ったふりをして、毎日かかさず無駄使いをして、財産が底を尽きるのを待ったミゼールの日々。それから密かにうちは同じことをはじめました。
ある日、へんな手紙が届きました。その手紙には、ものすごい額を投資するようなお願いがしてありました。うちは悦んで私財をなげうちました。そんなわけで、いまではオッディア家にはもう資産はまったく残っておりません、使用人も庭師もお抱え料理人もみんな出ていってしもうて、本館は売家になって、気まぐれな道化師ひとりしか雇う金もありません。
逃げなかった下女もひとりだけ残ったけど、あのこは元から頭がおかしくて。
結局うちは血筋の呪縛からは抜け出せなかった身上。こうなってしもうたのは誰の所為でもなく、運命という言葉を使うなら、オッディア家ははじめから滅びる運命だったんです。あのひとは悪くありません、いなくなった月乃お嬢さんも責めるところはございまへん。すべて、オッディア家に伝わる狂った汚らわしい血のせいやから。
父を狂わせて、うちを狂わせたこの血を後生大事に守ってきたオッディア家の忌まわしいしきたりこそが、すべて悪いんやから。もうこの運命は変えることができんのです。誰であっても。
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目の前で繰り広げられる光景は何とも当惑するものだった。さすがクレイジーハウス。俺は帽子を脱いだ。
だが、月乃だ、俺には彼女のためにやらなければならないことがある。
かつて起こった出来事の手がかりを得るために、ハートのジャックを探し出すのだ。なんとかその計画をひねり出すのだ。
さしも間近にいるこの頭のおかしい女に、その苦労の一端でも伝わればどれほど幸いなことか。
「ハートのジャックって知ってるかな? 人物なんだが。たぶん、本名じゃないぞ」
かんで含めるようにローサへ問いかけてみる。いままでの実績からみて、まともな返答が返ってくるはずもなかったが。
ところがローサはさもなしげに、
「ハートのジャックなら、知っとります。お館様は、彼に用がお有りですの?」
なんて云っとった。は? こんなところで手がかりが見つかるのかよ。いや、かえって紛らわしくていけない。
嘘なら嘘で何の不思議もないような妖姫ローサのこの言葉が事実であって欲しいという願望、
いわば釣り餌が、浮足立った俺に冷静でない判断をさせようとするんだ。ここはひとつ吟味することにしよう。
「ハートのジャックは、職業は何をしている人物か知ってるかな?」
ローサに訊いて、ここで殺し屋とか暗殺者とかいった返答が聞かれれば、ハートのジャックについてかなり核心をついた情報を持っていると認めよう。
反対に自分の髭は剃らない床屋さんとか、縁日のカラフルひよこ売りであるとか答えたら、ハートのジャックについて知らなくて適当に嘘を言っているか、
あるいは彼と面識はあるがその表向きの稼業しか知らないほどの浅い関係しか無いということで、これ以上の質問は諦めることと決める。
「ハートのジャックは、お掃除屋さんとちがいますの?」
お掃除屋さん。返ってきた返答は、また微妙なところを突いてきたという印象だった。
正直このローサという女はよくわからん。言っていることがすべてデタラメでも不思議はないし、それでいて妙に捨てきれないところもある。
お掃除屋さんというのは、もちろん殺し屋の隠語だよな? こんな事に疑問の余地を挟ませないでくれ。
「俺はハートのジャックを探してるんだ。会えると思うか?」
「ちょっと分かりまへんなあ。ウチがジャックさんにお掃除してもろたんは、随分前のことやし…」
ハートのジャックに掃除をしてもらった?
「待て。ハートのジャックに掃除って、お前自分が何を言ってるか分かってるのか?」
ローサは不思議そうな顔をする。
「え? ウチなんかおかしかったやろか?」
「お前、ハートのジャックに誰を掃除してもらったんだよ! 言え!」
そう言って彼女の肩甲骨をつかんでがくがくと揺らす。人間というものは内面の余裕が無くなると、ほんとうにこんな意味不明な挙措をしたくなるものなんだな、と各方面のフィクションに妙に感心してしまう。もちろん何の効果もない。
ところがローサのほうは質問をされて過去を振り返ろうとした途端、頭を抱えてひどく苦痛そうにうずくまる。体を丸めて苦しそうに叫び声を繰り返すその有様は殆ど狂乱といってもよい発作で、
これまでの彼女の頭のおかしい感じを1ローサと定義するなら、この発作は25~30ローサにもあたる。ああ、何を言っているのか、俺まで頭がおかしくなってきてるのか。
ただひとつ確たることは、今の彼女の状態は無理にでも止めないと危険ということだ。
俺はローサを無理やり抱きかかえ、発作が自傷行為へと発展しないように身体の自由に制限をかけてやった。
嗚呼、リバタリアンが糾弾すべきパターナリズムによる消極的自由への介入というわけだ。もちろん俺にとってもノーリスクの行為ではない。場合によっては誤解され、強制わいせつの現行犯で私人逮捕されるおそれもある。
だが俺の詰問という先行行為が引き起こした事態に対して混乱の収拾を放棄するという選択肢はない。俺は手間取りながらもローサを後ろから強く抱きとめて口を抑えた。念の為舌を噛まれないようにだ。
「ううぅーーーーー! ううーーー!」
「わかった、悪かったよ。何だか知らないけども済まん! もう落ち着いてくれ。最後にひとつだけ、ひとつだけ質問いいか?
それさえ答えてくれたら、もういいんだ。お前はハートのジャックに月乃を掃除して欲しいと頼んだか? イエスかノーで答えられる質問だぞ」
「ウチは、はぁ……月乃さんのハナシはなんも知りません。ハートのジャックさんに逢うたんはね、はぁ……もっと前、あいつのとき……」
「あいつって誰だ?」
俺は訊く。ローサは不随意に震顫する身をなんとか抑え込もうと悪戦苦闘しながら、やや長いインターバルのあとにこう絞り出した。
「……グノーランド」
え。たしかグノーランド=ヴァン=オッディリってこいつの父親じゃなかったか?
「だって……」
そうして俺はローサの悲惨な過去を聞き取った。
父親から虐待に近い歪んだ教育を受けたこと。母が急逝したこと、オッディア家にかねて跡取り問題があったこと。
思春期からの虐待に耐えかねた末、貴族階級の間で都合の良い殺し屋として通る「ハートのジャック」に父親の清掃を依頼したこと。
「…きっとお館様はウチのことが嫌いになったに違いありまへん……」
ローサはひどく怯えていた。
「どうしてだ、きみは俺にハートのジャックについて教えてくれたじゃないか。他の王妃は誰も教えてくれなかった……」
素直にいってその貢献はとてもありがたい(スノウやシンディにも見習って欲しい)。
「でも、ウチは人殺しで……」
厳密には人殺しではない。いって殺人の共謀共同正犯である。ローサは先ほどからめそめそと泣いていた。父親の暗殺の話は以前の俺にさえ隠し通していたことらしく(ばれていたかは知らないが)、
いわゆる墓場にまで持っていく秘密にしておくつもりだったらしい。ローサが気に病んでしまわないように、俺は言い含めた。
「いいか、俺はこの事は誰にも喋らない。共有の秘密だ。ハートのジャックに依頼したことがあるなんて、今後とも誰にも言わなくていいし、
何なら忘れてしまえばいい。何も心配することはない。君のことも嫌いになったりはしない。特定の倫理観のもとでの、きみの当時の判断を尊重する」
どんな理屈でもよかった。俺はただひとつの目的のために歩を進めてきた。すなわち、ハートのジャックの
いまここでローサの罪を糾弾することではない。そもそも異世界で地球のローカルな座標(x,y,z?,t)に束縛される法律、道徳、常識、倫理を振りかざして何の意味があるだろう?
俺はローサを慰め、励まし、聴罪し、とうとうハートのジャックについての有益な知見を得た。
ローサの情報提供によると、ハートのジャックはファミリア第五王妃であるレッドローズが支配する南方ナチュリア地方の騎士だったらしい。
レッドローズの臣下あるいは部下として忠誠を誓い、敵から国を護る峻厳な騎士というのが表の顔だ。
ところが裏の顔は、女王レッドローズにとって都合の悪い人物を処刑するための処刑具であり、
それがいつか金を積まれればどんな依頼でも引き受ける殺し屋として、なぜか貴族階級の間で広まっていく。
驚いたことにハートのジャックの逸話は
ローサも認知し依頼するまでに大したコストを払わなかった。
綜合すると、スノウがハートのジャックというキーワードを意味深に出したとき、もともと必然的にレッドローズへと辿り着くように仕組まれていたのだ。
ではなぜスノウはレッドローズの名をおくびにも出さなかったのか?(知っていたはずなのに。)それはおそらく、余りにもあからさまと思ったからだろう。
「どうぞレッドローズを疑ってください」と言い出すのは簡単だが、もっと効果的な方法もある。それは勝手に調べさせ、自発的にレッドローズを疑うように仕向けることだ。
だとしたらスノウは俺をコントロールするため、わざとハートのジャックの真相について教えなかったことになる。
さして怒っているわけではないが、城に帰ったらスノウをどんな目に合わせてやろうとしたものだ。しかしこれから向かう先はファミリア城ではなく、ナチュリア国である。
ナチュリア国に赴いて、レッドローズに子飼いの殺し屋の監督責任を問うてやるのが先決だ。其処でハートのジャックも捕まえる。