第22証言 ナイトツアーの終わり
文字数 2,299文字
第22証言 ナイトツアーの終わり
馬車はあぜ道沿いに颯爽と走る。ここはレアリア――シンディの母国だ。途中インテンジア、プライミア、ラシオニアにも寄ったが、それは割愛する。
それらと比べても何とも牧歌的なこの地方は、遠景には峨峨たる翠緑の山脈が聳え立ち、近景には大勢の人々が農作業に勤しんでいるのが見える。ミレーの落ち穂拾いのように。
「あれは何をやっているんだ?」
「はい。旦那様が地球 から伝えた、ノーフォーク農法をおこなっています」
シンディが真隣で説明する。なんでも俺が最初に異世界転生してやって来たとき、カバンには学校で使ったいくつかの教科書を詰め込んでいて、
社会の資料集に載っていたノーフォーク農法はいまやこの世界では農業のバイブルになっているのだとか。
他にも中学数学の教科書のコラムにはしり書き程度で載っていたゲーム理論の定理だとか、人物コラムのラマヌジャンの項にある分けのわからないπの近似式だとかが数学の分野で研究されたり
(流石に三平方の定理くらいはこの世界でも既に発見されていた)、
ほかにも理科の図表付き教科書はたいへん好評でその分野の学者たちがまさに宝庫だといって滂沱たる涙を流したとか、そんなことをシンディは並べててて分かりやすく最後まで説明してくれた。
ちなみに生憎と今回の俺はこちらへ転生するときそういったテキストの類は持ち合わせなかった。
今の年代なら高校レベルの知識をインポートすることもできたのに、実に残念な話だ。逆に言えば、過去の俺はそういった巡り合わせまで持っていたと言える。
「それにしても、これから会う魔術師だが――」
馬車に揺られながら俺は呟く。
「――男なのか?」
「いいえ、ソフィアという魔女で、召喚魔術の専門家です」
シンディは応答する。召喚魔術のうちで異世界に関わるものは、あの月乃(異世界の月乃)でさえ習得ができなかったほど専門性が高く適性者が限られる特異な領域だという。
現存する唯一ともいえるその大家であるソフィアは、1回チェンジリングを請け負うごとに一生安泰で暮らせるような莫大な金額の報酬を支払われるので、
しまいには強盗に入られるのが怖くなってすべての資産をどこかへ手放してしまい、今では爪に火をともす極貧の生活をしているとか。
そのかわり困ったときにはいつでもファミリア王家、並びにレアリア王家の両家から好きなだけ支援を受けられるという約束にもなっている。
そうして人里から遠い庵に住む。賢い生き方だと思う。
「うーん、何か話すべきかな。どんな性格だろう……」
「ソフィアさんは現地語しか解らないですし、こちらに翻訳魔法の用意がないので、会話はできないと思います。私が通訳に入れば可能ですが。
性格は私にも分かりません、あまり交流する機会は無いので」
「そうか」
高名な魔女ときいて蘇生術について色々話をしてみたかったが、今回は諦めることにする。
やがて馬車はソフィアがそのどこかに棲んでいるという山系のとある山の麓で止まった。
「今夜は山登りかな」
「ソフィアさんに降りてきてもらいましょう」
「どっちでも。たけど、今から少し手紙を書いてもいいか?」
「構いません。明朝までここで休憩することと致しますから。ソフィアさんには使者を送ります」
シンディ付の従者たちが鳩合し、幄が立てられると、俺はすぐに懐から筆をとりだして、もう書き慣れた地球とは少し紙質の異なる幾枚かの白紙の便箋に、金釘流免許皆伝の逞しいカリグラフィーを刻みつけることにした。
タイトルは……いや、タイトルなんて付けなくていい。ただ、手紙を書かなければいけないことだけは確かだ、宛先はもう一人の俺、そう、俺のチェンジリングに宛てて。
…………
手紙を書き終わった頃には暗夜だった。
焚き火の傍で、シンディは手足を温めている。山の近くで流石に寒い。朝には霧が出そうな雰囲気もある。しかし、この世界へやってきたときは真冬だったが、
今では季節は大分暖かい方向へと傾きつつある。幸いなことだ。その時間の経過に感無量という気持ちをおのずと割り当てたくなる。
ふと、今頃地球でもうひとりの俺は何をやっているのだろうと疑問を懐く。
高校にはちゃんと通学しているのか、それとも仮病でも使い家に籠もって久しぶりのゲームでも存分に満喫しているのか、それは向こうの世界へ帰ってみるまでわからない。
だがどちらであろうと、別段には困らない。いや、高校へ真面目に通って部活に入り活躍し、テストは満点続きで不良とは殴り合って親友なんてことを勝手にやられていたほうがどちらかと言えば困る。
何せファミリアの王となった男だ。それくらいの気概で現実世界をドライブしていても何ら不思議ではない。
「なあ、シンディ」
俺は焚き火にあたっている第二王妃シンディへ、最後の別れを告げるために呼びかけた。
「今までありがとう」
「旦那様、過ぎたお言葉です。私にはそのような言葉を引き受ける資格がございません……」
シンディはそういって顔を背ける。それがどのような操作によって実現したかは割愛するが、俺はシンディと顔を向き合わせてこう言ってやった。
「あやまちは過ぎたことだ。俺にはこの異世界での旅はたいそう楽しかったよ。魔王なんて倒してないし、世界を救ってもいないけど。でも、これまでの人生に影を落としていたひとつのわだかまりが解けた。だから感謝したいんだ、させてくれ」
そう言うとシンディは顔を赤らめた。彼女にはもうひとりの俺がいるわけだが、ちょっとはこの俺のことも思い直してくれただろうか。まあそれはいかでもよし。もう夜も更けるのでテントに入って眠ることにする。手紙はシンディに渡しておく。
馬車はあぜ道沿いに颯爽と走る。ここはレアリア――シンディの母国だ。途中インテンジア、プライミア、ラシオニアにも寄ったが、それは割愛する。
それらと比べても何とも牧歌的なこの地方は、遠景には峨峨たる翠緑の山脈が聳え立ち、近景には大勢の人々が農作業に勤しんでいるのが見える。ミレーの落ち穂拾いのように。
「あれは何をやっているんだ?」
「はい。旦那様が
シンディが真隣で説明する。なんでも俺が最初に異世界転生してやって来たとき、カバンには学校で使ったいくつかの教科書を詰め込んでいて、
社会の資料集に載っていたノーフォーク農法はいまやこの世界では農業のバイブルになっているのだとか。
他にも中学数学の教科書のコラムにはしり書き程度で載っていたゲーム理論の定理だとか、人物コラムのラマヌジャンの項にある分けのわからないπの近似式だとかが数学の分野で研究されたり
(流石に三平方の定理くらいはこの世界でも既に発見されていた)、
ほかにも理科の図表付き教科書はたいへん好評でその分野の学者たちがまさに宝庫だといって滂沱たる涙を流したとか、そんなことをシンディは並べててて分かりやすく最後まで説明してくれた。
ちなみに生憎と今回の俺はこちらへ転生するときそういったテキストの類は持ち合わせなかった。
今の年代なら高校レベルの知識をインポートすることもできたのに、実に残念な話だ。逆に言えば、過去の俺はそういった巡り合わせまで持っていたと言える。
「それにしても、これから会う魔術師だが――」
馬車に揺られながら俺は呟く。
「――男なのか?」
「いいえ、ソフィアという魔女で、召喚魔術の専門家です」
シンディは応答する。召喚魔術のうちで異世界に関わるものは、あの月乃(異世界の月乃)でさえ習得ができなかったほど専門性が高く適性者が限られる特異な領域だという。
現存する唯一ともいえるその大家であるソフィアは、1回チェンジリングを請け負うごとに一生安泰で暮らせるような莫大な金額の報酬を支払われるので、
しまいには強盗に入られるのが怖くなってすべての資産をどこかへ手放してしまい、今では爪に火をともす極貧の生活をしているとか。
そのかわり困ったときにはいつでもファミリア王家、並びにレアリア王家の両家から好きなだけ支援を受けられるという約束にもなっている。
そうして人里から遠い庵に住む。賢い生き方だと思う。
「うーん、何か話すべきかな。どんな性格だろう……」
「ソフィアさんは現地語しか解らないですし、こちらに翻訳魔法の用意がないので、会話はできないと思います。私が通訳に入れば可能ですが。
性格は私にも分かりません、あまり交流する機会は無いので」
「そうか」
高名な魔女ときいて蘇生術について色々話をしてみたかったが、今回は諦めることにする。
やがて馬車はソフィアがそのどこかに棲んでいるという山系のとある山の麓で止まった。
「今夜は山登りかな」
「ソフィアさんに降りてきてもらいましょう」
「どっちでも。たけど、今から少し手紙を書いてもいいか?」
「構いません。明朝までここで休憩することと致しますから。ソフィアさんには使者を送ります」
シンディ付の従者たちが鳩合し、幄が立てられると、俺はすぐに懐から筆をとりだして、もう書き慣れた地球とは少し紙質の異なる幾枚かの白紙の便箋に、金釘流免許皆伝の逞しいカリグラフィーを刻みつけることにした。
タイトルは……いや、タイトルなんて付けなくていい。ただ、手紙を書かなければいけないことだけは確かだ、宛先はもう一人の俺、そう、俺のチェンジリングに宛てて。
…………
手紙を書き終わった頃には暗夜だった。
焚き火の傍で、シンディは手足を温めている。山の近くで流石に寒い。朝には霧が出そうな雰囲気もある。しかし、この世界へやってきたときは真冬だったが、
今では季節は大分暖かい方向へと傾きつつある。幸いなことだ。その時間の経過に感無量という気持ちをおのずと割り当てたくなる。
ふと、今頃地球でもうひとりの俺は何をやっているのだろうと疑問を懐く。
高校にはちゃんと通学しているのか、それとも仮病でも使い家に籠もって久しぶりのゲームでも存分に満喫しているのか、それは向こうの世界へ帰ってみるまでわからない。
だがどちらであろうと、別段には困らない。いや、高校へ真面目に通って部活に入り活躍し、テストは満点続きで不良とは殴り合って親友なんてことを勝手にやられていたほうがどちらかと言えば困る。
何せファミリアの王となった男だ。それくらいの気概で現実世界をドライブしていても何ら不思議ではない。
「なあ、シンディ」
俺は焚き火にあたっている第二王妃シンディへ、最後の別れを告げるために呼びかけた。
「今までありがとう」
「旦那様、過ぎたお言葉です。私にはそのような言葉を引き受ける資格がございません……」
シンディはそういって顔を背ける。それがどのような操作によって実現したかは割愛するが、俺はシンディと顔を向き合わせてこう言ってやった。
「あやまちは過ぎたことだ。俺にはこの異世界での旅はたいそう楽しかったよ。魔王なんて倒してないし、世界を救ってもいないけど。でも、これまでの人生に影を落としていたひとつのわだかまりが解けた。だから感謝したいんだ、させてくれ」
そう言うとシンディは顔を赤らめた。彼女にはもうひとりの俺がいるわけだが、ちょっとはこの俺のことも思い直してくれただろうか。まあそれはいかでもよし。もう夜も更けるのでテントに入って眠ることにする。手紙はシンディに渡しておく。