第64話

文字数 4,645文字

 物事には、順序がある…

 それと、同じように、年の功がある…

 私には、なぜ、このときに、葉尊から、葉問に、切り替わったか?

 それが、謎だった…

 謎だったのだ…

 歳の功と言ったのは、私が、この葉問より、年上だから…

 葉問は、葉尊と、同じ…

 29歳…

 私は、それより6歳年上の35歳だ…

 だから、当然ながら、私の方が上…

 人生経験も、キャリアも上…

 だから、なんの理由もなく、葉尊から、葉問に切り替わるわけはない…

 ここで、葉問に切り替わった理由があるはずだ…

 私は、それを、考えた…

 そして、その理由を考えたとき、考えられるのは、二つ…

 一つは、葉尊を助けるため…

 葉尊は、あのとき、変な顔をしていた…

 なんとも、複雑な表情をしていた…

 だから、もしや、あのままでいたら、葉尊が、とんでもない行動をしてしまうのでは?

 葉尊が、暴走、あるいは、暴発してしまうのでは?

 葉問が、そう、気付いて、葉尊から、葉問に、変わった可能性が、ある…

 そして、もう一つは、この葉問が、なにかを掴んでいる可能性もある…

 だから、それを、教えるべく、私の前に現れた可能性もある…

 私は、その二つの可能性を考えた…

 そして、どちらが、より、可能性が、高いか、考えた…

 そして、気付いた可能性は、バニラだった…

 この葉問は、バニラ推し…

 今、明らかに、バニラを推している…

 もしかしたら、それが、なにか、関係があるのではないか?

 ふと、気付いた…

 だから、

 「…バニラ…バニラ・ルインスキーか?…」

 と、私は、言った…

 わざと、言った…

 「…たしかに、いい女さ…」

 私は、言った…

 「…おまけに、若い…男たるもの、バニラを抱きたいヤツも、いっぱいいるはずさ…」

 私は、言って、わざと、

 「…そうだろ? …葉問…」

 と、言った…

 が、

 葉問は反応しなかった…

 が、

 反応しないのが、かえって、怪しかった…

 「…葉問…オマエの狙いは、なんだ?…」

 私は、言った…

 が、

 当然、葉問は、答えんかった…

 だから、私は、

 「…オマエの狙いは、バニラじゃないのか?…」

 と、言った…

 カマをかけたのだ…

 「…どういう意味ですか? …お姉さん?…」

 「…主客転倒さ…私の護衛にバニラが、つくのでは、なく、本命は、バニラ…バニラ・ルインスキー…案外、サウジアラビアの前国王は、バニラのファンじゃないのか?…」

 私が、言うと、葉問の顔色が、変わった…

 明らかに、ぎこちない表情に変わった…

 「…図星だな!…葉問!…」

 私は、断言した…

 自信を持って、断言した…

 すると、だ…

 「…見事です…お姉さん…」

 と、葉問が、私を褒めた…

 が、

 私は、その手には、乗らんかった…

 まだ、なにか、あると、睨んだのだ…

 だから、

 「…それだけじゃないな…」

 と、私は、続けた…

 「…まだ、なにか、隠しているな…」

 「…それは、ご想像に、お任せします…」

 葉問が、苦笑した…

 が、

 私は、そんな葉問を許さんかった…

 「…逃げるんじゃないさ…」

 私は、力強く、言った…

 「…オマエは、いつも、逃げる…肝心のときは、逃げる…」

 私は、言った…

 「…ボクが、逃げる?…」

 「…そうさ…たしかに、私は、オマエに世話になったことは、何度も、あったさ…でも、だ…オマエは、用事が、すむと、すぐに、消える…つまり、逃げるのさ…」

 私は、力強く、断言した…

 すると、だ…

 葉問が、笑った…

 実に、楽しそうに、笑った…

 「…たしかに、そうかも、しれない…」

 と、言って、笑った…

 「…でも、そんなことを、言う、お姉さんは、なんだか、ボクを好きそうですね?…」

 と、続けた…

 そして、その言葉は、この矢田トモコにとって、痛い質問だった…

 この矢田トモコにとって、禁断の質問だった…

 なぜなら、この矢田トモコは、葉問が、好き…

 夫の葉尊より、葉問が、好き…

 なにより、葉問の方が、葉尊より、信頼できる…

 葉尊より、信用できる…

 それが、大きかった…

 実に、大きかった…

 だから、困った…

 どう、返答していいか、どうか、わからず、困った…

 だから、私が、悩んでいると、太郎が、

 「…キー…」

 と、鳴いた…

 まるで、私に、助け船を出すが、如く、

 「…キー…」

 と、鳴いたのだ…

 私は、太郎の鳴き声を、聞いて、

 「…これが、答えさ…葉問…」

 と、言った…

 「…この猿の鳴き声が、答え? どういう意味ですか? …お姉さん?…」

 「…私にとって、太郎が、一番さ…一番は、オマエでも、葉尊でも、ないのさ…」

 「…」

 「…たしかに、オマエは、少しばかり、いい男さ…葉尊と違って、腕っぷしも強く、頼りになるさ…なにより、この矢田のピンチのときは、何度も、出てきてくれて、助けてもらったさ…」

 「…」

 「…でもさ…それでも、葉問…オマエは、太郎には、及ばんさ…太郎には、敵わんさ…太郎が、今の私にとって、一番さ…」

 私は、言った…

 力強く、言った…

 私の言葉に、葉問は、黙った…

 黙って、考え込んだ…

 それから、少しして、

 「…お姉さん…」

 と、私に、話しかけた…

 「…なんだ?…」

 「…その猿を信頼するのは、構いません…ですが、心の底から、信頼するのは、どうかと、思います…」

 「…なんだと?…どうして、信頼しては、マズい…太郎は、私の恩人さ…猿だから、恩猿さ…それを、どうして、信頼しては、マズいんだ?…」

 「…その猿の持ち主…」

 「…太郎の持ち主だと?…」

 「…その猿の持ち主の意図が、わかりません…」

 「…意図だと?…」

 「…そうです…この猿は、当たり前ですが、野生の猿ではない…誰かに、飼われていたことは、明白です…どんな意図があって、お姉さんに預けたのか? その意図が、わかりません…」

 葉問が、考え込みながら、言った…

 私は、それを、聞いて、

 …同じだ!…

 と、思った…

 リンダと同じだと、思った…

 リンダも、先日、同じことを、言った…

 この太郎の持ち主が、突然、現れ、太郎に、

 「…なに、なにを、しなさい…」

 と、命じたとする…

 真逆に、私は、それを、止めるべく、

 「…そんなことを、しちゃダメさ…それは、ダメなことさ…」

 と、太郎に、言ったとする…

 そのときに、太郎は、私と元の飼い主のどっちの言うことを聞くか?

 そう、私に、言った…

 そして、それは、考えても、みんことだった…

 この矢田が、考えても、みんことだった…

 リンダは、さらに、そんな状況で、

 「…もし、このお猿さんが、お姉さんの指示を無視して、元の飼い主の言うことを、聞けば、お姉さんは、ショックを受ける…案外、それが、相手の目的だったりして…」

 と、笑った…

 が、

 私は、当然、笑えんかった…

 だが、同時に、それは、あり得ることだと、思った…

 突拍子もないことだとは、思えんかった…

 思えんかったのだ…

 だから、今、言った葉問の言葉が、私の心に刺さった…

 まるで、ナイフが、私の大きな胸に刺さったようだった…

 血が出る寸前だった…

 私の心の中で、血が溢れ出る寸前だった…

 もし、そんなことがあれば、ショック…

 いや、

 ショックと言う言葉では、軽い…

 おおげさに、言えば、この矢田が、立ち直れんほどのショックを受けるに違いなかった…

 私は、これまで、35年生きて、これほど、動物に夢中になったことは、なかった…

 この太郎ほど、夢中になったことは、なかった…

 まさに、太郎は、息子…

 この矢田トモコの息子だった…

 やはり、この歳まで、子供が、できんのが、いけなかったのかも、しれん…

 なにしろ、半年前に、結婚したばかりだ…

 だから、太郎が、私の前に現れ、私を助けてくれたとき、滅茶苦茶、嬉しかったし、なんだか、自分の子供のように、思えてきた…

 よく、子育てが、終わった、夫婦が、犬や猫と、いったペットを飼うのと、似ている…

 子育てが、終わって、子供たちが、成長して、家を、出る…

 すると、夫婦二人きりになる…

 そこへ、犬や猫を飼えば、それが、夫婦二人の新たな子供になる…

 おまけに、犬や猫は、人間ではないから、成長しない…

 だから、言葉は、悪いが、永遠の子供…

 それが、いい…

 それと、同じかも、しれん…

 私は、思った…

 思ったのだ…

 すると、葉問が、

 「…お姉さん…」

 と、私に話しかけてきた…

 「…なんだ?…」

 「…今、ボクが言ったことを、肝に銘じて下さい…」

 「…肝に命じろだと?…」

 「…そうです…」

 「…オマエが、言うのは、わかるさ…だがな、葉問…」

 「…なんですか? …お姉さん?…」

 「…私は、この太郎に助けられたさ…この太郎が、いなければ、私は、生きてゆけんかったさ…だから、太郎に恩があるさ…その恩を私は、忘れんさ…」

 「…」

 「…誰かに、受けた恩を忘れたり、その恩を仇で返しちゃダメさ…神様は、それをジッと見てるさ…いや、見ているのは、神様だけじゃないさ…周りの人間もしっかり見ているさ…気付かないのは、本人だけさ…」

 「…」

 「…天にツバする者は、そのツバが、自分に戻って来るものさ…だから、しちゃ、ダメさ…」

 私は、言った…

 一気に言った…

 葉問は、私の言葉を、黙って聞いていた…

 黙って、ジッと、私の言葉を聞いていた…

 そして、私が話し終えると、考え込んだ…

 ジッと考えこんだ…

 私は、待った…

 ジッと、葉問が、なにを言うか、待った…

 そして、口を開いた葉問が、言ったのは、

 「…やはり、お姉さんは、優しいんですね…」

 だった…

 「…他人に受けた恩を忘れない…だから、リンダもバニラも、お姉さんを好き…葉尊すら、手が出せない…」

 …葉尊すら、手が出せんだと?…

 どういう意味だ?

 聞きたかったが、聞けんかった…

 葉尊の話題は、デリケートすぎた…

 この矢田にとって、デリケートすぎた…

 私が、そんなことを、考えていると、

 「…いずれにしろ、お姉さん…その猿は、誰かが、意図的にお姉さんに預けたに、決まっています…いずれ、その猿の飼い主が、お姉さんの目の前に現れるでしょう…そのときに、なにが、起きるか、わかりませんが、覚悟だけは、しておくことです…」

 「…覚悟だと?…」

 「…そうです…」

 葉問は、そういうと、すぐに、消えた…

 あっと言う間に、葉尊に、戻った…

 それは、私の膝の上に乗った太郎が、

 「…キー…」

 と、鳴いて、慌てて、私の膝の上から、逃げ出したことで、わかった…

 太郎は、葉尊を嫌いだったからだ…

 葉問から、葉尊に戻ったことで、

 「…どうしました? …お姉さん? なにか、ありましたか?…」

 と、葉尊が、聞いた…

 私は、

 「…なんでもない…なんでもないさ…」

 と、答えた…

 いつものことだった…

 「…そうですか…」

 と、葉尊が、答える…

 これも、いつものことだった…

 葉尊としては、私の返答が、納得いかんことは、わかっているが、あえて、突っ込まない…

 これも、いつものことだった…

 いつものことだったのだ…

 
 その夜、私は、夢を見た…

 誰か、長身の女が、太郎を連れてゆく…

 太郎が、私を振り返って、哀し気に、

 「…キー…」

 と、鳴いた…

 まるで、私に別れを告げるようだった…

 最初、女の顔は、見えんかった…

 背中しか、見えんかった…

 が、

 私が、

 「…太郎、行っちゃダメさ…」

 と言うと、女が振り向いた…

 その顔は、アンナ…

 あのアンナだった…

               
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