第62話

文字数 4,038文字

…偉いことになったさ…

 …大変なことになったさ…

 私は、思った…

 思ったのだ…

 そして、事態の重大さが、なぜか、突然、わかった…

 冷静に考えれば、わかることだったが、つい、自分に酔って、忘れてしまっていた(笑)…

 …どうする?…

 …どうする? 矢田?…

 そんな声が、どこからか、聞こえてきた気がした…

 が、

 当然、そんな声は、どこからも、聞こえてくるはずがない…

 その声は、私の声だった…

 この矢田の心の声だった…

 そして、その声に気付くと、私は、ビビった…

 心の底から、ビビった…

 どうして、いいか、わからんほど、ビビった…

 …逃げるか?…

 一瞬、そんな声も、この矢田の中から、聞こえてくる気がした…

 …いっそのこと、この場から、逃げ出すか?…

 とも、考えた…

 真剣に考えた…

 が、

 できんかった…

 できんかったのだ…

 なにしろ、つい、先日、あのバカ、バニラと、大喧嘩をして、この家から逃げ出して、戻ったばかりだ…

 それが、また、この家から、逃げ出すことは、できんかった…

 さらに言えば、サウジアラビアの前国王の招待を拒むことも、できんかった…

 それでは、非礼…

 礼を欠く…

 礼を失する…

 だから、

 …どうする?…

 と、悩んだ…

 この招待、受けねば、ならん!…

 が、

 冷静に考えれば、考えるほど、危険!…

 実に、危険だ!…

 私は、そんなことを、考えて、腕を組んだ…

 つい、腕を組んで、

 「うーん…」

 と、声を出して、悩んだ…

 同時に、目を閉じた…

 私の細い目を閉じた…

 それから、何度も、何度も、

 「…どうする?…」

 「…どうする?…」

 と、自分に問いかけた…

 自分自身に問いかけた…

 私が、うんうん唸っていると、それを、助けたのは、太郎だった…

 いきなり、私の膝の上に、太郎が、乗ったのだ…

 そして、私に心配するな、というように、私の頬を太郎が撫でた…

 私は、それを、知って、カーッと、目を開いた…

 まるで、覚醒したように、私の細い目を、開いた…

 「…そうだった!…太郎、オマエがいたさ!…」

 と、私は、呟いた…

 「…オマエが、いれば、私はなにも怖くないさ!…」

 私は、言った…

 「…どこに、行っても、怖くはないさ…太郎、オマエが、私を守ってくれるさ…」

 私は、言って、思わず、太郎を抱き締めた…

 太郎を力いっぱい抱き締めた…

 私に抱き締められた太郎は、

 「…キー…」

 と、鳴いた…

 その声は、悲鳴だか、嬉し鳴きだか、よくわからんかった…

 私が、力いっぱい太郎を抱き締めたから、太郎が、苦しかったかも、しれんからだ…

 あるいは、太郎は、頭がいいから、私の心が、わかったかも、しれん…

 私が、嬉しかったから、太郎を抱き締めたのが、わかったのかも、しれんかった…

 太郎は、言葉は、悪いが、所詮は猿…

 人間ではなく、猿だから、ホントのことは、わからん…

 太郎の胸の内は、わからん…

 が、

 私は、嬉しかった…

 太郎が、悩む私の元にやって来たことが、嬉しかった…

 そんなことを、考えながらも、ふと、私の視線に、葉尊の顔が、入った…

 すると、だ…

 葉尊が、実に、奇妙な顔をしていた…

 実に、奇妙な表情をしていた…

 なんと表現したら、いいか、わからん…

 なんといっていいかは、わからん…

 が、

 少なくとも、喜んでは、いない…

 嬉しがっては、いない…

 なんとも、言えん表情だった…

 同時に、こんな葉尊の顔を、以前、見たことが、あるように、思えた…

 どこかで、見たような気がした…

 それは、どこか?

 考えた…

 すると、とっさに、思い出したのは、私とリンダの勝負のときだった…

 私が、リンダと、書道の勝負をしたときだった…

 私が、勝てば、葉尊から、手を引くと、いう条件で、私は、リンダと、決闘をした…

 書道の勝負を、した…

 リンダは、葉尊の幼馴染(おさななじみ)…

 そんな幼馴染(おさななじみ)の葉尊が、勝手に、日本のどこの馬の骨とも、わからん女と結婚するのは、許さん! と、リンダが、ハリウッドから、乗り込んできたのだ…

 その勝負は、大勢のひとが、集まる会場だったから、当然、葉尊も、いた…

 すでに、私と結婚していたからだ…

 そこで、偶然、見たのが、葉尊の表情だった…

 一瞬だったが、葉尊が、今と同じ表情をした…

 なんともいえん表情をした…

 そして、なんで、そんな表情をしたのか?

 と、問えば、

 …余計なことをするな!…

 と、でも、言いたかったのでは、ないだろうか?

 私と葉尊の結婚は、プロモーション…

 台湾の企業が、日本の誰もが知る、総合電機メーカーを買収したために、日本人の反感を和らげるための、プロモーション…

 同時に、台北筆頭の名前を、日本人に知ってもらうためのプロモーションだった…

 だから、余計なことをするな!

 と、葉尊は、リンダに言いたかったのかも、しれん…

 あるいは、リンダが、来ることで、私の存在が、クローズアップされたが、そこまで、することはない、と、言いたかったのかも、しれない…

 ハリウッドのセックス・シンボルである、リンダ・ヘイワースが、登場することは、嫌でも、話題になる…

 が、

 そこまでは、しなくていい…

 そんな気持ちだったのかも、しれない…

 だから、葉尊は、なんともいえない複雑な表情をした…

 そういうことだったのかも、しれない…

 が、

 だとしたら、今、なぜ、葉尊は、そんな表情をしたのか?

 考えてみれば、疑問だった…

 考えてみれば、謎だった…

 だから、葉尊の心が、わからんかった…

 いや、

 もしかしたら、今度の件…

 サウジアラビアの前国王が、この矢田を招待する件…

 この件が、葉尊の予想を遥かに、超える一件だったからではないだろうか?

 ふと、気付いた…

 自分が、画策したわけでもなく、突然、やって来た案件…

 しかも、相手は、サウジアラビアの前国王という大物…

 とてもではないが、制御不能というか…

 葉尊の手に負える相手ではない…

 だからに、違いない…

 ふと、思った…

 思いながら、だったら、この矢田は、どうする?

 この矢田トモコは、

 …どうする?…

 と、もう何度目だか、わからんほど、考えた…

 すでに、葉尊の援助は、期待できん…

 だとなれば、葉尊の実父、葉敬にしても、同じ…

 いかに、台湾の大実業家といえども、手が出せん…

 なにしろ、相手は、サウジアラビアの前国王…

 とてもではないが、おいそれと、手が出せる相手ではない…

 と、

 そこまで、考えて、気付いた…

 サウジアラビアの前国王というと、とんでもないお偉いさんに、思えるが、それは、あのアムンゼンの父親に過ぎん…

 あの小人症のアムンゼンの父親に、過ぎん!

 と、気付いたのだ…

 要するに、あのチビの父親だ…

 私は、気付いた…

 ならば、恐れるに、足らん…

 なぜなら、この矢田は、あのアムンゼンと仲がいい…

 だから、あのアムンゼンに、仲介してもらえばいい…

 ふと、気付いた…

 なにしろ、この矢田とアムンゼンは、マブダチ=親友というか…

 なぜか、私は、あのアムンゼンに気に入られているからだ…

 理由は、わからん!

 わからんが、気に入られている…

 そういうことだ…

 と、

 それに、気付いて、安心していると、渡しの膝の上に乗っていた太郎が、またも、

 「…キー…」

 と、鳴いた…

 …そうさ!…

 …太郎、オマエもさ!…

 私は、思い出した…

 この太郎も、また、アムンゼンのお気に入りだった…

 そして、この太郎が、なぜ、アムンゼンのお気に入りなのかは、わかる気がした…

 それは、太郎が、猿にも、かかわらず、頭が、良いからだと、気付いた…

 あのアムンゼンは、小人症…

 本当は、30歳だが、3歳にしか、見えない…

 だから、猿の太郎に、自己投影をしているというか…

 おそらく、猿の太郎を見て、自分を見ているように、思っているのかも、しれない…

 太郎は、頭が、いいが、猿…

 猿に、過ぎん…

 同じように、アムンゼンもまた、いかに、頭脳が、優れていても、外見は、3歳の子供にしか、見えん…

 だから、同病相憐れむというか…

 太郎を好きだったのかも、しれん…

 きっと、太郎を見て、自分を見ている気持ちになったかも、しれんからだ…

 と、そこまで、考えて、気付いた…

 この矢田と太郎は、最強のコンビだということに、気付いた…

 共に、あのアムンゼンのお気に入り…

 だとすれば、サウジアラビアの前国王も、この矢田と太郎を見て、悪いようには、せんだろう…

 なにしろ、息子のアムンゼンのお気に入りだ…

 そして、その情報は、すでに、前国王の耳にも、届いているだろう…

 なにしろ、この矢田を招待するのだ…

 この矢田が、どんな人間か、事前に、調査しているに、違いないからだ…

 それは、日本の天皇陛下を、見れば、わかる…

 天皇陛下、主催の園遊会で、天皇陛下が、お声をかける方々は、事前に、決められ、その方々が、どんな業績を残されたのか、事前に、側近の者たちから、教えられている…

 そうでなければ、話ができないからだ…

 まさか、一般人のように、偶然、どこかで、知り合って、話をして、仲良くなったというわけには、いかない…

 日本の政治家も、同じ…

 例えば、日本の総理大臣が、他国の首相なり、大統領に会うときも、同じ…

 どんな家に生まれ、どんな経歴を持っているか?

 事前に調べた上で、会う…

 そうでなければ、その人間の政治信条、ものの見方や、考え方がわからないからだ…

 それと、同じで、お偉いさんは、皆、事前に会う人間の情報を調べ上げる…

 アムンゼンの父親も例外ではないだろう…

 サウジアラビアの前国王も例外ではないだろう…

 と、

 そこまで、考えると、勝機が、見えた気がした…

 勝機=希望が、見えた気がした…

 同時に、太郎が、鳴いた…

 「…キー」

 と、鳴いた…

 これは、もしや、勝利の雄たけびか?

 私は、思った…

 思ったのだ(笑)…

               
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