第50話

文字数 4,442文字

 「…そんなことは、ないさ…」

 私は、怒鳴った…

 「…太郎は、そんな訓練なんて、受けてないさ…太郎はただ、私が好きなだけさ…」

 私は、顔色を変えて、怒鳴った…

 怒鳴ったのだ…

 そして、その影響をもろに受けたのは、太郎…

 私が、抱いたままの太郎は、私が、怒鳴ったものだから、明らかに、戸惑っていた…

 ビクビクとして、左右に、首を振っていた…

 私は、それを見て、

 「…すまんかったさ…太郎…」

 と、太郎に詫びた…

 「…オマエを怯えさせて、すまんかったさ…」

 と、何度も、太郎に詫びた…

 もはや、太郎は、私の宝物だった…

 太郎なしには、私の人生は、成立せん…

 それほど、太郎に、惚れ切っていた…

 惚れ切っていたのだ…

 それを、見て、またも、

 「…フーン…」

 と、バニラが言った…

 「…お姉さんたら、その猿にメロメロね…」

 「…メロメロで、悪いか!…」

 私は、太郎を抱きながら、バニラに言った…

 私にとって、太郎は、恩人…

 いや、

 猿だから、恩猿だった…

 その太郎を悪く言うヤツは、許せんかった…

 誰であっても、許せんかった…

 まして、相手が、バニラだったから、なおさらだった…

 「…でも、それが、相手の狙いかも?…」

 「…なんだと? 相手の狙いだと? …どういう意味だ?…」

 「…今、お姉さんは、この猿に首ったけ…心を奪われている…」

 「…それが、どうした?…」

 「…もしかしたら、それが狙いかも?…」

 「…どういう意味だ?…」

 「…この猿に、首ったけのお姉さんの前に、元の持ち主が現れるとする…すると、この猿が、お姉さんの元から離れて、嬉しそうに、元の飼い主の元へ走る…きっと、それを見ただけで、お姉さんは、ショックを受けるわ…」

 バニラが、言った…

 私が、思いもせんことを言った…

 いや、

 もしかしたら、心のどこかで、今、バニラが、言ったことを、想定していたかも、しれん…

 なぜなら、以前、リンダが、同じようなことを、言ったからだ…

 「…お姉さんの元に、このお猿さんの元の飼い主が現れて、このお猿さんに、なになにをしろ、と命じる…真逆に、お姉さんは、そんなことは、しては、ダメと、制止する…そのとき、このお猿さんは、どっちの命令を聞くかしら?…

 と、言ったからだ…

 だから、ボンヤリと、頭の隅にあった…

 が、

 そこまでは、思わんかった…

 ただ、この太郎の持ち主が、太郎の目の前に現れただけで、太郎が、その元の持ち主のところに、走って行くことは、想像もできんかった…

 できんかったのだ…

 そして、それを、思うと、私は、落ち込んだ…

 見るも無残に、落ち込んだ…

 このバニラが言ったことは、ありえん話では、なかったからだ…

 この矢田が、ここまで、太郎に惚れこんでいるのにも、かかわらず、太郎は、元の飼い主を選んだとする…

 それは、ありえん話では、なかったからだ…

 私が、落ち込んだ姿を見て、バニラが、

 「…案外、これが、目的かもね…」

 と、笑った…

 「…どういう意味だ?…」

 「…お姉さんを落ち込ませることが、目的かも…」

 「…なんだと?…」

 「…世の中には、誰かに、ぶたれたり、殴られたりすることよりも、心が落ち込むことがある…それを、狙ったのかも…」

 「…なんだと?…」

 「…お姉さんを見て、恋愛にそっくりだと、思った…」

 「…どういう意味だ?…」

 「…お姉さんは、その猿に首ったけ…」

 「…それが、どうした? …悪いか?…」

 「…それが、人間の男だったら、どう?…」

 「…なんだと? …人間の男だと?…」

 「…お姉さんが、ある男に首ったけになる…男もお姉さんが好き…だから、傍から見れば、相違相愛…そこへ、その男の元カノが、現れる…そして、元カノの姿を、見た男は、お姉さんを捨てて、一目散に、元カノの元へ走る…」

 「…」

 「…それと、同じ…」

 ゆっくりと、バニラが、言った…

 実に、意味深に、バニラが、言った…

 私は、ショックのあまり、卒倒しそうだった…

 あまりも、ショックだった…

 が、

 ありえん話では、なかった…

 むしろ、十分、ありえた話だった…

 が、

 その話を聞いて、ひとつ、気付いたことがある…

 一体、そんなことを、して、なんの意味があるかと、いうことだ…

 だから、私は、バニラに、

 「…オマエのいうことは、わかるさ…」

 と、言った…

 「…でも、そんなことをして、なんになる? …一体、どんな目的があって、そんな真似をするんだ?…」

 「…それは、わからない…」

 「…わからないだと?…」

 「…でも、ひとつだけ、言えることは、ある…」

 「…それは、なんだ?…」

 「…お姉さんを落ち込ませることができる…」

 「…私を落ち込ませることだと?…」

 「…案外、それが、目的かも…」

 「…そんなことをして、なんになる? …私を落ち込ませて、どうする?…」

 「…それは、私にも、わからない…でも、それが、目的なら、かえって意味深ね…」

 「…なんだと?…」

 「…だって、お姉さんを、落ち込ませて、なんの意味があるの? でしょ? …だから、それが、目的なら、かえって、意味深…その背後になにがあるのか、もっと、わからなくなる…」

 バニラが言った…

 私が、考えもせんことを、言った…

 私は、それを、聞いて、三人寄れば文殊の知恵と言う言葉を、思い出した…

 やはり、他人に、聞けば、思いがけない発想があるというか…

 自分には、思いもつかないことを、言ってくれる…

 バニラは、バカだが、バカなりに、私には、考え付かんことを、言ってくれる…

 だから、私は、素直に礼を言った…

 「…バニラ…オマエは、バカだが、たまには、まともなことを、言うな…」

 と、褒めてやった…

 が、

 バニラは、私の誉め言葉が、気に入らんかったらしい…

 「…なんだ、その言い草は!…」

 と、なぜか、怒った…

 「…なんだ? …オマエ、その態度は…私は、今、オマエを褒めてやったんだゾ…」

 「…それが、ひとを褒める言葉か!…」

 「…だから、オマエは、バカなんだ…これは、私なりの誉め言葉だ…」

 「…なんだと?…」

 「…顔以外は、なにもないと思っていたオマエを、今日は、褒めてやったんだ…ありがたいと、思え…」

 私は、怒鳴った…

 怒鳴ったのだ…

 が、

 なぜか、バニラは、ありがたいとは、思わん様子だった…

 明らかに、不機嫌になった…

 それから、ボソボソと、

 「…だから、こんなクソチビを守るなんて、嫌だって言ったんだ…それを葉敬が…」

 と、言った…

 だから、私は、頭に来た…

 頭に来て、

 「…そんなに嫌なら、帰れば、いいさ…オマエなんかに、守ってもらわなくても、構わんさ…」

 と、怒鳴った…

 「…オマエなんかに、守ってもらわなくても、大丈夫さ…自分の身は、自分で、守るさ…」

 私は、大声で、怒鳴った…

 すると、意外なことが、起こった…

 バニラが、途端に、

 「…そんなわけには…」

 と、小さく呟いたのだ…

 「…そんなわけには、いかない…」

 「…どうして、いかないんだ?…」

 「…葉敬に頼まれたから…」

 「…お義父さんに頼まれたからだと?…」

 「…そう…」

 以外にも、いつも強気なバニラが、まるで、少女のように、はにかんだような表情で、言った…

 「…葉敬の言葉には、逆らえない…」

 バニラが、ほんのりと、顔を赤らめて、言った…

 私は、それを、見て、驚いた…

 バニラのそんな顔は、滅多に、見たこともなかったからだ…

 なにより、ほんのりと、上気した顔は、ビックリするほど、美しかった…

 これまで、いつも、強気なバニラしか、見たことがなかったから、まるで、恋をしたような少女の顔をしたバニラは、美しかった…

 バニラは、元々は、美人…

 誰が、見ても、美しい…

 が、

 行動が、はすっぱな女というか…

 いわゆる、ヤンキー系だから、つい、その美しさを忘れてしまう…

 オラオラ系だから、つい、その美しさよりも、野蛮な言動に、目が、いってしまう…

 が、

 今のように、まるで、はにかんだような表情を見せると、バニラ本来の美しさが、際立つというか…

 まるで、別人のように、美しく思えた…

 この矢田ですら、つい、ホの字になったとうか…

 思わず、見とれた…

 が、

 それは、この矢田だけでは、なかった…

 私に抱かれた太郎が、いきなり、私の元から離れ、バニラに抱き着いたのだ…

 「…キャー! なに?…」

 と、バニラが、大声を上げた…

 「…なに、どういうこと?…」

 バニラが、パニクって、叫んだ…

 私は、その光景を見て、

 「…オマエが、悪いのさ…バニラ…」

 と、言ってやった…

 「…悪い? …なにが、悪いの?…」

 「…オマエが、美し過ぎるから、悪いのさ…」

 私は、断言した…

 「…エッ? …どういうこと?…」

 「…今、オマエが、お義父さんの名前を口にしたとき、オマエは、気付かんだろうが、まるで、恋する少女のようだったゾ…」

 「…ウソ?…」

 「…ホントさ…ウソじゃないさ…」

 「…」

 「…それで、オマエが美しくなった…」

 「…私が、美しく?…」

 「…恋する女は、いつも、同じさ…普段よりも、美しくなる…恋をすれば、女は美しくなると、昔から、言われてるだろ?…」

 「…そんな…お姉さん…」

 バニラが、はにかんだ…

 「…そして、太郎は、その美しさを、見逃さんかったということさ…」

 「…どういうこと?…」

 「…太郎は、オスさ…」

 「…オス?…」

 「…そうさ…だから、美人に弱いのさ…」

 「…美人に弱い?…」

 「…太郎は、オマエの美しさに、惹かれたのさ…」

 「…私の美しさに…」

 バニラは、言いながら、足元の太郎を見た…

 「…抱いてやれ…バニラ…」

 私は、言った…

 「…抱き上げてやれ…バニラ…」

 私は、重ねて言った…

 が、

 バニラは、動かんかった…

 明らかに、戸惑っていた…

 どうして、いいか、わからん様子だった…

 が、

 太郎は、バニラよりも、一枚も二枚も上手だった…

 いきなり、バニラに抱き着いたのだ…

 さっきは、ダメだったが、今度は、反射的に、バニラは、太郎を抱えた…

 抱えざるを得ない状況だった…

 私は、それを見て、この太郎は、

 …面食い…

 だと、気付いた…

 女たらしの面食いだと、気付いた…

 が、

 それでいいと、私は、思った…

 言うなれば、太郎は、私の息子だった…

 私の血の繋がった子供だった…

 断じて、夫や恋人ではない…

 だから、太郎が、私以外の女が、好きでも、問題がなかった…

 むしろ、太郎が、面食いであることが、嬉しかった…

 女を見る目があると、思ったのだ…

 さすがは、太郎…

 私の息子だと、思ったのだ…

 私は、いつのまにか、足を広げ、腕を組み、太郎を見ていた…

 バニラに抱かれた太郎を見ていた…

 それは、我ながら、微笑ましいというか、鼻の高い光景だった…

 自分の息子が、絶世の美女に抱かれている…

 なんとも、微笑ましい光景だった(笑)…

               
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み