第11章・支度

文字数 14,842文字

 それからは、何もかもが変わった。二人で家に戻ると、扉の前にはオルヴの言ったように鷲の島の戦士達が六人いた。母は皆に蜜酒を振る舞っていたが、リズルとオルヴが帰って来たのを見ると全員を広間に誘った。
 広間では、父が不機嫌な顔で蜜酒の杯を傾けていた。母は暖炉に薪をくべ、トーヴァは父の前に料理を運んでいた。
 リズルはオルヴに導かれて父の前に歩を進めた。
「スヴェルト殿、お嬢様には求婚を承知して頂きました」
 六人の立会人からは、おお、という声が上がった。だが、父の表情は変わらず、母が持って来た新しい杯を黙ってオルヴに渡した。
「頂きます」
 オルヴは一息に杯を干した。これで、婚約は親の承認を得た事になった。
「結納財についてのお話しをしなければなりませんが」
「それは女房とやってくれ」父は低い声で言った。「俺はそう言った事は苦手だ」
 困ったように母はオルヴに微笑みかけた。立会人の一人が書き付けを母に渡した。
 オルヴはそのまま、父の隣に腰掛けた。慌ててトーヴァがその前にも食事の支度をする。
 リズルは台所へ下がった。そこでは、皆が大わらわで働いていた。急な事で肉の塩抜きは間に合わず、慌てて鶏を締めていた。いきなり七人の客をもてなさなくてはならないのだ。麵麭も大忙しで焼かれ、取り敢えずの干し肉が用意されていた。
「お姉さま、あの方と婚約なさったのね」
 トーヴァが目をきらめかせて興奮気味に言った。「すごいわ、あの方がお姉さまの運命なのね」
 リズルが答える暇もなく、トーヴァは用意された食べ物を持って出て言った。
「お嬢さま、おめでとうございます」
 イズリグが言い、他の使用人も頭を下げた。イズリグはリズルが産まれる前から仕えてくれている。その笑顔に、リズルは自分は本当に婚約を交わしたのだと思った。
 今度は代理人がやって来たのではない。本人が、正式に六人の立会人を連れて、まだ荒れる北海を渡って来たのだ。生命賭けで。
「ありがとう」
 リズルは言ったが、心臓はどきどきとしていた。
 オルヴ。鷲の島の族長の長子――次期族長。
 戦士としてはどこかおっとりとした仕種も、大人の振る舞いも、全てそこから来るものであったのか。
 台所から首を伸ばし、リズルはこっそりとオルヴを覗き見た。
 北海の男としては平均的な身長だが、立会人の誰よりも細身だった。そして、冬の間ずっと切ってはいなかったような髪は一つに束ねられていたが、女のように背中の中程にまで伸びていた。身に着けている物は頭の先から足の先まで新品のようであった。腰に下げたやや細身の長剣の鞘の革には見事な型押し模様が施されていたが、長年の潮に洗われたようになっており、愛用している事が知れた。恐らく、片刃の小太刀もそうなのだろう。父のように簡単に剣をへし折ってしまう人の方が珍しいのかもしれない。それを吊っている革の帯には不思議な白い刺繍が施してあった。
 緑と薄茶色の縞の胴着はとても似合っていた。リズルがあれを織るとなると、結構な時間が掛かるように思われる程に、手の掛かった物であった。独身であるから、母親が織った物なのだろうか。それとも、妹か。いずれにしても、敷居は高そうだった。
 結納財の話が終わったのか、母が台所にやって来た。リズルは大人しく食事の支度をするふりをした。
「リズル、あなたはオルヴどのの近くに控えなさい。婚約したのだから、お世話もしなくてはならないでしょう。わたしとトーヴァとは立会人の方のお世話で手一杯ですからね」
 母の言葉に、リズルはそっと溜息をついた。オルヴの側にいるだけならまだ良い。だが、あの父もいるのだ。
 オルヴは不機嫌そうな父を横に、それでも黙って静かに食事と酒を摂っていた。うろたえた様子はなかった。不思議な光景であった。父の方が何処とはなしに落ち着かない様子であった。
 やはり、族長の長子ともなると違うのだろうかとリズルは思った。
 リズルが二人の杯を満たすと、オルヴが口を開いた。
「丁度良かった、式のお話しを父上にしようと思っていた所でした」
「式はそちらの島で行うのだろう」
 ぶすりとして父は言った。
「ええ、我々は年に一度、夏至祭の時に一族全ての結婚を執り行います。しかし、占い師はリズル殿を迎えるのならば早い方が良いと申しております」
「それはどういう意味だ」
「来年の今頃に、迎え船を遣わせます」
「では、夏至祭までそちらに厄介になるという事か」
 リズルの脳裏に交易島での事が甦った。父もそうだったようだ。
「婚約期間中にそちらに十日以上厄介になるのは、不吉だ」
「そう言う者もおりましょうが、(わたくし)共の占い師は、長い期間を持つ方が吉と出たと申しており、それに従いたいと思うのですが」
 父は唸った。助け船を求めるように母の方を見たが、母は接待で忙しそうだった。
「ならば仕方がない。だが、万が一、そちらから婚約を破棄するような事があれば、生命で償うだけの覚悟はあるのだな」
 オルヴは長剣を目の前に差し出した。
「誓って」
 その真剣な目に、父は気圧されたようであった。リズルもそうだった。大人しそうな容姿であったが、有無を言わせぬ迫力があった。
 この夜は族長の館に招かれているというので、食事が終わるとにオルヴと六人は立ち上がった。
「では、明日」
 オルヴの言葉に、リズルは微笑んだ。
「夏の間に、結納財を持ってもう一度訪れます」
 明日には、もう出発してしまうのだ。一抹の寂しさがリズルの心に興ったが、すぐにそれを振り払った。何時になるにせよ、この夏にもう一度会えるのだから、それで良しとしなくてはなるまい。この冬中に心変わりをしなかった人だ、安心して待てば良いのだ。
 戸口まで送って行くと、屋根の上から巨大な鷲がオルヴの肩に舞い降りた。あの白子だった。
「月乃」オルヴは鷲に声を掛けた。「リズル殿、私の鷲、月乃です」
 赤い目がじっとリズルを見た。この珍しく美しい鷲に再び会えた事をリズルは喜んだ。
「貴女の事が好きなようだ」
 リズルは鷲に向かって微笑みかけた。雌雄の判別はリズルには付かなかったが、リズルもこの鷲の事が好きになっていた。
 鷲の戦士達が去ると、トーヴァは興奮したように喋り始めた。あのような間近で鷲の戦士達を見る事はまず、出来ないからだろう。
 翌日、リズル達は港にオルヴを送りに行った。
「恐らく、遠征前に再訪する事になるでしょう」オルヴが言った。「それまで、元気で」
「あなたも」
 リズルはオルヴを見つめて言った。何度見ても見飽きない顔だった。それほど感情が豊かな訳ではなかったが、穏やかな表情を見ていると、こちらの心まで平らかになるようであった。
 そうして、鷲の戦士達は去った。
「さあて、今日から忙しくなるわよ、覚悟なさい」
 母の言葉に、リズルは我に返った。「お嫁に行くための支度をしなくてはね」
 リズルはその事をすっかりと忘れていた。


 交易島に持って行った支度品の数は大した事はなかったが、これに加えて正式に用意をしなくてはならない物も沢山あった。オルヴやその家族の為の反物もそうだった。そこに一生分とも言われる布類に結婚の衣裳も必要だ。それを用意しておかなくてはならない。その他の道具類は何とかなるにしても、リズルにとっての問題は結局は手仕事だった。
 母もトーヴァも手伝ってくれる事になったが、それでも大仕事であった。
「まったく、女って、損だわ」
 リズルはヴィリアにこぼした。「男が用意する物に較べると、ずっと手間がかかるのだし」
「でも、男の方は機織り機を作らなくてはならないのよ」
 ヴィリアは笑った。
「組み立てるだけでもいいんでしょう。なら、やっぱり女の方がやる事が多いわ」
「家を建てたり、結納財の為の資金を集めるのも大変よ」
 最近、長兄の結婚の決まったヴィリアは言った。
 リズルは溜息をついた。ヴィリアにはオルヴを送った後の砂浜で会い、全てを話した。愕いたように話を聞いていたヴィリアは、全てを聞き終えるとリズルに抱きついた。そして何故か泣きながら祝福をしてくれたのだ。
 女らしいヴィリアに話が決まった時には、このような愚痴はこぼさないだろうと思いながらもリズルは針を動かした。布巾ひとつにしても、このように何かしらの模様を刺繍しなくてはならないのは厄介であった。
「お相手の方を遠目で見たのだけれど、お似合いだったわ」
 ヴィリアの言葉に、リズルは赤くなった。
「少し年上の方なのね」
「この夏で二十五歳って聞いたわ」
「落ち着いていらっしゃったから、もっと年上の方だと思ったわ」
「わたしもよ」
 実際、年齢を聞いた時には愕いた。三十くらいだと思っていたからだ。二十五であるならば、結婚が遅い事は遅いが、父の事を考えれば遅すぎるというのでもない。問題は年齢差よりも心の成長差だとリズルは思っていた。
「あの人は大人なの。わたしはまだ、それに較べれば子供だわ」
「あなたもずいぶんと成長したのではなくて」ヴィリアは真剣な顔で言った。「あんなことがあったのだし」
 交易島へ行った事を言っているのだ。
「それでもよ」
 交易島での全てをヴィリアが知っている訳ではなかった。納屋での一件はやはり、話せない。リズルは思い出して赤面した。
「大丈夫よ、皆、十七や十八で結婚するのですもの。でも、いろいろ経験しただけあって、あなたの方がわたしなんかよりずっと、大人だわ」
 ヴィリアの言う事も分らないではなかった。だが、皆の結婚相手というのも若い。どちらも子供のようなものだ。ヴィリアの長兄は二十三になるが、それでも遅いと言われるのだから、推して量るべしだ。ヴィリアをいじめていたような連中が、今では結婚相手として浮上しているのだ。
「わたしも結婚するなら、そのくらい年上の人がいいわ」
 ヴィリアが針を止めて言った。「若い男なんて、ろくなものではないわ」
 この友人の中にも、いじめられたという思い出は苦く残っているようであった。
 リズルはヴィリアをまじまじと見た。
 金色の髪に青い眼という典型的な北海人だが、母親に似て少し線が細い。父親のヨルドも男前だからか、目立ちはしないが非常な美人だ。子供の頃はその可愛らしさからか、男の子にも女の子にもいじめられていた。今でも娘達の仇敵のような感じである。そして、若い男からは熱い視線を送られる。だが、本人は全くそのような事を気にする所がなかった。それがまた、娘達の嫉妬心を掻き立てるようであった。
 手仕事も好きで、性格も大人しい。北海の女としては少々物足らないところもあるが、気の強い北海の女に囲まれて育った者には新鮮に映るようだった。
「あなたがそんな風に考えていたとは思わなかったわ」
 リズルは言った。
「あなたが交易島に行ってから、色んな人が申し込みに来たの。それでお母さまが真剣に考えるようにって」ヴィリアは肩を竦めた。「だから、考えたのよ」
 このようにして大人になって行くのだ、とリズルは思った。誰しもいつまでも無垢な子供のままではいられない。寂しくもあったが、それが成長するという事なのだ、自然の摂理なのだ。
 家ではリズルは布を織らなくてはならなかった。こればかりは誰かが変わるという事は出来ない。持参する布の良し悪しで婚家での扱いが変わるとは思わなかったが、下手な物を持って行くのは恥ずかしかった。特にオルヴの胴着は良く出来ていた。あれと較べられるのだから、性根を据えて掛からねばならなかった。
 リズルの持参する反物が出来上がるまでは、家族の衣服は我慢して貰わねばならない。まだまだ成長途中の弟達には必要な物であったので、リズルも急がなくてはならなかった。全部で十疋と言われた時にはさすがに目眩がしたが、仕方なかった。
 まだそこに、竪機(たてはた)で織る綴織や敷物も必要だった。一家を構えると言うのがどういう事なのかを、自分は本当には分ってはいなかったとリズルは思った。
 支度する物の量に較べて、時間が少なすぎるのではないかとリズルは思った。今迄にきちんとしていなかったから慌てる事になるのだと母からは叱られた。トーヴァはきちんと出来ているようであったので、反論できなかった。今この間にも、オルヴは家を建てているのだと言われてぐうの音も出なくなった。終いに、母もまずは小物から織りましょうと言うくらいに、リズルの腕は酷かった。
 気が付けば、再び族長集会が近付いて来た。
 祖父達がやって来ると、母は早速リズルの結婚の話をした。皆は喜んでくれた。祖父はオルヴを知っていたようで、父と二人で長い間話していた。その話の内容は分らなかったが、話し合いの後、父の頑なであった態度が和らいだようにリズルには感じられた。そして、祖父はリズルを抱き寄せ、幸せになれると受け合ってくれた。その暖かな胸はあの交易島から帰る船での思い出とも重なり、リズルは泣きそうになった。
 着々とは行かなかったが、準備は進んだ。リズルの毎日は支度の事で埋められていた。弟三人が新月にしか戻らぬと言う寂しさも感じる事なく、日々は過ぎて行った。
 そして、遂に鷲の島から結納財を積んだ船がやって来た。

 鷲の島からの船がやって来たという報せを受けた時、リズルは心臓が爆発しそうになった。正装にすぐに着替えるようにと母に言われ、支度をした。母もトーヴァも正装に身を包み、慌てて帰って来た弟達も着替えさせられた。父はゆっくりとその後から戻ったが、母に急かされていた。
 ややあって、戸口に問う者があった。イズリグが戸を開けると、以前に立会人として来た戦士達とオルヴが入って来た。オルヴの髪は、初めて会った時のように肩より少し長いまでに切られていた。
 父は広間の上座に陣取っている。リズルと母、弟妹はその横に立っていた。
「鷲の島の族長ヴェリダスの子オルヴ、ここにスヴェルト殿の御息女リズル殿の結納財を持ち参上致しました」
 正装のオルヴは、父の前に進み出るとその前に跪いて言った。
 父は頷き、オルヴが立会人に合図をすると戸口から荷物が次々と運び込まれた。書状が読み上げられると、一つ一つ、卓の上に並べられていった。
 布や装飾品、武器など、様々な物があった。銀貨もだ。これは婚家に納められるものだが、殆どはリズルの財産となる。万が一、婚姻に到らなくとも、結納財は返す必要もない。その多さと豪華さに、リズルは目眩がする思いであった。これと同等の持参財を持って、リズルは嫁に行くのだ。
 持参財については心配ないと母は言った。交易島からの結納財は全て銀であったので、それで様々な道具や装飾品を揃える事が出来る、と。交易島からの物を使うのは余り良い気持ちはしなかったが、破談になった事を何時までも気に病んでいても仕方がない、さっさと使い切ってしまう方が良いと母は言った。
 全ての荷物が運び込まれると、オルヴは母に向かって会釈した。母は微笑み、頷いた。確認はこれで終わりだ。後は、集落の人々への結納財の披露目だった。
 伯母を先頭に、人々が広間に入って来た。伯母は一つ一つの品を値踏みをするような目で見ていた。だが、他の人達とて好奇心は同じようだった。族長の後継者に島の者が嫁ぐのは、リズルの従姉以来だった。正直、リズルは従姉の結納財がどうであったのか、その時のは関心もなかったので憶えてはいなかった。だが、伯母の不機嫌そうな顔を見るに、従姉よりも良いのだろうと思わずにはいられなかった。
 ヨルド一家もやって来た。ヴィリアはオルヴを見ると、リズルを隅に連れて行ってそっと囁いた。
「あの方が、あなたの良い人なのね」
 リズルは赤くなった。
 不思議そうな顔をして自分達を見るオルヴに、リズルはヴィリアを紹介した。
 オルヴはあの魅力的な笑みをヴィリアに向けた。
「素敵な笑みね」
 隙を見てヴィリアがリズルに微笑みかけた。「あなたが好きになるのも分るわ」
「あなただって」
 リズルは言った。ヴィリアは笑った。ヴィリアには、夏至祭で出会った他の集落の戦士で相思の男がいる事をリズルは知っていた。何度も家に求婚の為に訪れているが、未だにヨルドは首を縦には振らないらしい。だが、来年の夏至祭には結婚するのではないかとリズルは思っていた。
「わたしはいいのよ。ゆっくり待つつもりだから」
「あんまり待っていたら、相手はお爺さんになってしまうわよ。十も年上なんだから」
 ヴィリアは笑った。伯母がそれを見咎めて睨んだ。二人は顔を見合わせて肩を竦めた。やはり、友は良いものだった。
 帰り際に、人々はリズル達に祝いの言葉を述べていった。伯母は、まるで自分がここを取り仕切っているかのような顔をしているが、今日一日だけの事だと思うと、我慢も出来た。両親もそうなのだろうかとリズルは思った。オルヴはそんな伯母にもにこやかに対している。それはとても忍耐のを必要とする事のようにリズルには思えたが、オルヴは何事でもないかのような風体だ。そして伯母も満更ではない様子であった。
 不思議な人だとリズルは思った。誰もが伯母の機嫌を取ろうとして失敗するものを、それを難なくやってのけている。あの笑みは、誰をも虜にしてしまうのだろうか。
「奥方さまがご機嫌だなんて、珍しいわね」
 ヴィリアもその事に気付いたようだった。
 夕刻になり、人出もなくなったところで、一旦荷物は片付けて食事となった。家族全員が揃うのは久し振りであった。だが、リズルの弟達は皆、鷲を見たがり、オルヴは月乃を据えて見せていた。
「さあ、何時までもお客さまを空腹にしてはいけないわ」母が痺れを切らしたように言った。「夕餉にしましょう」
 リズルとトーヴァは母と共に料理を男達に供した。今日は船の到着から準備していたので、本当の御馳走を出す事が出来て、母はほっとしたようであった。豚や羊、そこに魚という非常に豪華な食卓であり、リズルの弟達は実に良く食べた。父も無口ではあったが、健啖なところは変わりなかった。蜜酒の杯も重ねられ、次第に全員が酔っていった。その中でも、オルヴは節制をしているようであった。それは婚約者の家にいるという緊張ばかりではないように思えた。この人の持つ元来の性質が、飲みすぎや食べ過ぎをさせないのであろうとリズルは思った。かといって、堅苦しい訳ではない。杯を勧められれば飲むし、食べるのもゆっくりではあるがしっかりと摂っている。ただ、全てにおいて過剰すぎる北海の戦士らしくはない、というに過ぎない。自制心の働く人なのだろう。祖父もそうだ。
 やがて、夜も更けて行き、鷲の戦士達の辞する時が来た。泊まって行くようにと母は勧めたが、婚約者の家に泊まるのは儀礼に反するとして、オルヴは酔っ払った仲間を起こして去る準備を始めた。
「リズル、そこまでお見送りをしなさい」
 母が言った。夜空には月が明るく輝いており、灯りは不要であった。
 男達は両親にもてなしの礼を言い、ぞろぞろと戸口に向かった。リズルはその後から着いていった。見送りは外の木戸までだ。
 男達は上機嫌なようだった。リズルはその後ろを少し遅れて歩いた。オルヴがそれに気付いてリズルに並んだ。
「今日は何もお話し出来ませんでしたね」
 その言葉にリズルは頷いた。
「でも、しかたありません。お客様も多かったのですし、儀式のようなものですもの」
「貴女にお会いしたかった」
 オルヴは言い、足を止めた。「島の距離が恨めしい」
 リズルは愕いてオルヴを見た。ぐいと肩を摑まれたと思うやその腕の中にいた。
「次にお目に掛かるのは半年も先だ。毎日、貴女の事を想っております」
 その言葉に、リズルは何と返せば良いのか分らなかった。気の利いた一言が出なかった。それでも、オルヴはリズルを抱き締めていた。ようやく身を離した時、リズルは泣きそうになった。どうしても、言葉が出なかった。明日には、自分の島へとこの人は帰ってしまう。それなのに、何も言えないのは情けなかった。
「では、ここで」
 オルヴはリズルの額に唇付けた。子供扱いをされているとリズルは感じた。そして、自分の想いを伝えたいと思った。リズルはオルヴの頬に両手をあて、ゆっくりと唇付けた。オルヴの身体が硬くなった、だが、すぐに再び腕がリズルを抱いた。
 永遠とも一瞬とも思える時間だった。唇が離れると、二人は見つめ合った。
「明日、港で」
 オルヴは言い、再びリズルの額に唇付けた。
 その姿が見えなくなるまで見送ると、リズルは家に戻った。
「遅いっ」
 父の声が飛んだ。
「皆さま酔っ払っていらっしゃったですもの、ねえ」母が言った。「あの道は危ないですから」
 父は不機嫌そうに顔を背けた。何をしていたのか、ばれてしまったように感じてリズルはさっさと厨房に退散した。そこで残り物の食事を済ませた。広間に戻った時には既に父の姿はなく、弟達が寝支度をしていた。リズルは自分の寝具を取り出すと寝椅子に広げた。
「姉上、まだここでお休みなのですか」
 すぐ下の弟のリフルが愕いたように言った。十六になったこの弟は、最近では新月の日でも滅多に家に戻らなかった。戦士の館で過ごす事の方が圧倒的に多くなっていた。
 普通は娘の場合、年頃になると一人部屋を与えられる。そうでなくとも、年上の娘に求婚者が現れた時点で女部屋へと移るものだ。
「いいのよ、別に。誰に迷惑をかける訳でもなし」
「わたしは早く移りたいわ」
 トーヴァが不満そうに言った。「でも、お姉さまがここでいいとおっしゃるのなら、しかたないわ」
「これじゃあ、母上が勧められても泊まってはいらっしゃれない」
 リフルが言った。「間違いがあったら、大変でしょうが」
「そんな怖い物知らず、いはしないわよ」
 リズルは平然と答えたが、心の中は平静ではいられなかった。
「大丈夫よ、お兄さま」トーヴァが言った。「お泊まりになるのだったら、わたしたちは別の部屋で休む事になっていたの」
 それよりも――とトーヴァは言った。
「間違いって、何を間違えるの」
 リズルとリフルは顔を見合わせて赤くなった。二人には意味が分っているが、年下の者に説明するのは難しかった。やいのやいのと年下の者達が言う。それを一喝したのはイズリグだった。
「いい加減にお休みなさいませ」
 産まれた時から世話になっている女の叱り声に、皆は黙り込んだ。そして静かに寝支度にかかった。
 一つ屋根の下にオルヴが寝るという事を想像すると、どきどきとした。寝起きは良いのだろうか。寝乱れた髪はどんな感じなのだろうか。寝顔は。
 とりとめもない事を考えている内に、リズルは眠りについた。
 翌日、鷲の戦士達の見送りに行くと、月乃がリズルの後を付けるようにして飛んだ。
「あいつは、本当に貴女の事が好きなようだ」
 オルヴは空を見上げて笑った。「島へ来たら、あいつの相手をしてやってはくれませんか」
 リズルは頷いた。オルヴの何もかもが完璧だった。恐ろしくなる程であった。優しい言葉に仕種、そのどれを取っても文句の付けようがなかった。我儘な自分が、このままこの人の妻になれるのだろうかという思いが、リズルの中に湧き上がった。
「では、次には我が島で」
 そう言ってオルヴは船に乗り込もうとした。その胴着の裾を、リズルは思わず、引いた。
 無作法な事だった。はっとしてリズルは手を離した。そして赤くなって俯いた。
「何か――」
 オルヴは不審そうに首を傾げた。
「あの…」リズルは思い切って言う事にした。「こんな軽率なわたしで、本当によろしいのですか」
 一瞬、オルヴの目が見開かれた。だが、すぐに柔らかな笑みに変わった。
「貴女だからこそ、ですよ」
 オルヴの手が、リズルの頬に触れた。「何も心配する事はありません。貴女だからこそ、私は妻にと望んだのです」
 リズルはその笑みにどきりとした。元々が柔和な顔なせいか、その微笑みは男に見た事がない程に優しかった。更に顔が赤くなるのを感じたリズルは、慌てて目を伏せた。
「え…遠征からの無事なお帰りをお祈りしておりますわ」
 ようやくそれだけを言った。
「鷲神の祝福があらんことを」
 オルヴは言い、船に乗り込んだ。そうして、鷲の戦士達は去って行った。


 父が遠征に行ってしまうとすぐに、リズルとトーヴァは二人だけの女部屋に移った。どうやら、それに反対していたのは父のようであった。何時までも子供扱いしていたかったのだと母は言った。
「このような機会がないと、別部屋にはできないわ」母は笑った。「全く、あなたたちのお父さまときたら、あなたたちにはいつまでも子供でいてほしい人だから。男の子は早く大きくなれだのなんのと、本当に我儘なんだから」
 トーヴァは別部屋になる事を殊の外、喜んだ。今は兄弟全てが戦士の館に行ってしまっているとは言え、客が来た時には酔っ払いの鼾の中で一人で寝なくてはならない事も多かったからだ。
 弟達のいる戦士の館では、独り身の戦士達が大広間の長椅子で雑魚寝をしているという。世話をする奴隷もいるが、殆どの事は自分達でやらねばならない。見習達にとっては、それは遠征に向けた訓練でもあった。
 リズルの支度は、最終段階へ入っていた。小物類は先に済ませたので、大物を冬の間に仕上げてしまわなくてはならない。北の涯の祖母から何疋かは送って貰ってはいたが、それは大半は婚礼衣装を始めとしたリズルの衣装に変わる。どれもが素晴らしい布地で、オルヴの服を仕立てたい程であった。祖母は、この島では今でも語り継がれている伝説の織り()であった。奴隷であったものを、族長集会の際に祖父が見染めて連れ帰ったのだった。
 自分の織った物を祖母の物と較べると、糸の太さはともかくとして、荒さが目立った。糸紡ぎからして苦手であったので、リズルの紡いだ糸には節も多い。絹のようにそれが味になるような生地ならばともかく、羊毛では恥ずかしかった。しかし、これが今の自分なのだった。それを見せなくては向こうに行った時に困るというものだ。
「とにかく、布を織りためなくてはね」
 母は言った。
 そうは言っても簡単ではない事は、リズルも母も分っていた。毎日家に閉じこもって機を織るのは気が狂いそうだった。婚家への土産にする為に嫁の織った布は支度には欠かせない。美しい出来の方が良いに決まっていた。だが、こればかりは誰にも代わっては貰えない。叱咤されながらでも、数を織らなくてはならなかった。その中から出来の良い物を選ぶのが最適と思われた。
 オルヴの事を考えると、リズルの胸は高鳴ると同時に沈んだ。まだまだ子供の自分に対して、オルヴは大人すぎるのではないか、と思う事もあった。恐らく、オルヴはリズルが家庭的な女でなくとも気にはしないであろう。しかし、それでは困る。八つも年下の嫁だから仕方がない、というのでは余りにも情けなさ過ぎる。ヴィリアなどはリズルと同じ歳だが、織物も刺繍も申し分ない。全ての支度品を自信を持って持参するだろう。そのようになれれば良かったのに、とリズルは思わずにはいられなかった。
「人のことをうらやましがっているひまがあったら、手を動かしなさい」
 母は何でもお見通しだった。トーヴァが横でくすくすと笑った。この妹は嫁入り支度には苦労しなさそうであった。今は、リズルの刺した刺繍の仕立てをしてくれている。
 冬の靴下や肌着は母が編んでくれていた。唯論、これもオルヴの分はリズルの仕事であった。
 とにかく、自分の分は一生分とは言わないまでも、それに近い分が必要だと母は言った。結婚すれば、夫の衣服一式を全て新調する気持ちでいなくてはならないし、子が産まれたら自分の事どころではなくなるというのだ。
 オルヴとの子供の事を思うと、リズルは密かに赤くなった。まだまだそのような事を考えるのは早い、と思った。だが、結婚をすればいつかはやってくる問題であった。オルヴは次期族長であるから、後継ぎは何としても必要であった。もし、自分に子が出来なければ、オルヴが他の女を囲う事も容認しなくてはならなくなる。それは御免だとリズルは思った。
 オルヴとの生活を想像する事は中々に難しい事ではあった。それは、交易島でイースとの生活を想像するのとはまた、違った難しさであった。
 それは、恋しているから。
 自分の中でそう囁くものがあった。
 恋と愛とは似て非なるもの。自分はまだオルヴを愛するに至ってはいない。恋しているに過ぎない。
 結婚までに、オルヴへの気持ちに変化は訪れるのだろうか。それは良い方へと向かうのか。リズルの心は混乱した。
 そして、オルヴは。
 リズルが鷲の島へと渡ってから結婚までは、日がある。その間に、オルヴの心に変化が生じないと誰が言えるだろうか。実際のリズルを知って、オルヴの心は離れたりしないであろうか。
 不安が、今頃になってリズルの心に生じ始めた。
 運命の人だから、と思っていた。だが、それが相思相愛を意味しない事を、リズルは祖父や母から聞いて知っていた。今は、確かに互いに恋をしているのかもしれない。だが、それが愛に昇華すると、冷めないと誰に言えるだろうか。確信を持てる者はいるまいと思われた。
 愛よりも恋の方が冷めやすい。リズルにはそういう印象があった。だから、自分達の間にあるこの想いが恋である事が恐ろしかった。この冬に間にでもオルヴの気が変わってしまったらどうしようとさえ、思った。
 だが、そのような想いをヴィリアに打ち明けても、一笑されただけであった。相手の人と自分を信じなさいと、却ってたしなめられた。ヴィリアのように同じ島の違う集落の男が相手ならば、連絡を取り合う事も出来て安心していられよう。だが、オルヴは遠く離れた鷲の島にいるのだ。遠征から無事に帰れたのかどうかも分らない。
 その事をヴィリアに言うと、ヴィリアは少し拗ねた。遠征に相手が出ていっているのはヴィリアも同様であった。そして、父親も同じ船団だ。どのような事になっているのか、帰って来るまで知る術はない。相手は歳が歳だからヴィリアを諦めはしないであろうが、ヨルドは頑なな男だった。
 ふた月にも及ぶ遠征から父達が帰ったのは、それから暫く後の事であった。リズルはヴィリアと共に浜で皆を迎えた。成果は上々であったらしく、父はご機嫌だった。
 帰還の日は全ての戦士が族長の館に集い、分配を受ける。リズルがそっとヴィリアの様子を窺うと、父の副官であるヨルドと二人の兄の無事な姿を見付けても、その顔からは不安の表情が消えなかった。
 他の船からも続々と戦士達が降りてくる。
 その内の一人がヴィリアに向かってほんの少し、手にした斧を上げた。
 ヴィリアに安堵の表情が浮かんだ。
「あの人が、あなたのいい人なのね」
 リズルはヴィリアに言った。その男は特に大柄という訳でもなく、金色の髪は白っぽく、それ程男前とは言えなかった。
「思ったよりも、男前ではないのね」
 ヴィリアは笑った。
「それより心よ。心は誰よりも男前よ」
 ヴィリアらしいかもしれないとリズルは思った。男の子達にいじめられて来たヴィリアには、顔の良し悪しよりも大切なものがある事が分っているのだ。
「聞いていたよりも若く見えるわね」
 それを聞いてヴィリアは嬉しそうであった。
「オルディの子、白髪(しろがみ)のアダルよ」
 その名に聞き覚えはなかったが、リズルは微笑んだ。ヴィリアが好きになった相手ならば、間違いはないだろう。
「それで、小母さまは何ておっしゃっているの」
「お父さまを説得してくれてはいるのだけれど…」
 この遠征で、何かが変わっていれば良いがとリズルは思った。一族の中で名を馳せた戦士ではないとしても、何かしらの美点をヨルドが見出すきっかけになってくれれば良いが、と。
 本格的な冬を前に、冬支度と嫁入り支度を同時に行う事になったが、リズルは冬支度からは外された。それだけ、嫁入り支度が遅れているという事でもあった。
 母と二人で彫金師の所へ行って持参する装飾品を頼んだり、鍛冶屋で新郎への贈り物である長剣を頼んだりと、他の用事も多かった。装飾品は滅多に着ける機会はないであろうが、財産としては必要な物であった。
 着々と準備は進んでいた。だが、リズルの心は冬の曇天のように晴れなかった。
 本当に自分はオルヴの家族に受け入れて貰えるのか。
 家長同士の話し合いの中で決められた結婚ではなかった。オルヴの一存で決められたものだ。族長の後継者として独り者の二十五歳というのは結構、(とう)が立っている。仕方がないという気持ちで決められたのではないだろうか。リズルは交易島での婚約を破棄されて島に戻った。それは、北海では出戻りに近い物がある。そんな娘を、本当に嫁に欲しがっているのだろうか。
 日が経つにつれ、リズルの中での不安は大きくなって行く一方であった。
 迎え船の代わりに断りの船が来る夢を見た。
 不安に押し潰されそうになって夜半に目醒める事もしばしばであった。
 そんなある日、ヴィリアが息を切らしてやって来た。その顔は輝いていた。
「リズル、聞いて」
 ヴィリアはリズルに抱きついた。「やったわ」
「ヨルドどのが、許してくださったのね」
 リズルは笑った。昨日、父と母が話していたのを小耳に挟んだのだ。小姑になる前に嫁にやってしまえとヨルドに言ってやったのだ、と父が言っていた。
「そうよ、わたし、アダルと一緒になれるの」
 ヴィリアと共にリズルは喜んだ。ヴィリアの幸せは、リズルの幸せでもあった。
 二人はトーヴァを避けて、寒かったが外で話した。
「ああ、リズル、わたし、どれだけアダルを愛しているのか、ようやく知った気がするの。今までのは恋だったわ」
 ヴィリアのようにはっきりとそう言い切れれば、どれ程よいだろうかとリズルは思った。
「それで、結婚はやっぱり、夏至祭になるの」
「そうね、それが一番だろうって。お兄さまの結婚も行われるし、他の人もいるでしょう。集落全体にお祝いしてもらうようなものですもの」
 夏至と収穫祭は島での結婚の日と言っても良かった。
「あなたは夏至よりもずっと前に出発してしまうけれど、お式は同じ夏至でしょう」
 ヴィリアの言葉にリズルは頷いた。
「どうしたの、何か、あったの」
 やはり、ヴィリアの目は誤魔化せなかった。
「わたしは、あなたのように確信が持てないの」
「何の確信が持てないというの」
 リズルは言い淀んだ。だが、何時までも一人で悩んでいても仕方がなかった。
 思い切ってリズルは自分の不安を伝えた。ヴィリアはそれを聞くと、深く物思いに沈んだようであった。
「あなたの不安は分らないでもないわ」ヴィリアは言った。「わたしだって、同じようなものだわ。お父さまがずっと、反対だったでしょう。それで、今になって許されても、あちらではどう思われているのか、分らないのですもの」
 そうだ、戦士階級の女は、親類でもいない限り他の集落へ行く事も殆どないのだ。それに、手紙をしたためようにも女は当然の事ながら、男でさえもまともに書ける者は少ない。アダルが書けても、ヴィリアは読めないのだ。
「恋だろうと愛だろうと、気にしちゃだめよ」ヴィリアは強く言った。「あなたはあの人のことが好きなんだし、あの人だってそうだわ。ひと冬我慢されたのよ、それは簡単なことではないわ。それを疑ってはいけないわ」
 そうだ。ひと目見て恋して――それだけで、オルヴはリズルの事を忘れなかった。求婚に来てくれたではないか。いかに占い師の言葉があったにしても、まだ荒れる北海を渡ってここまで来てくれたではないか。その心を疑ってはならない。
「ありがとう、ヴィリア」
 リズルは心からそう言った。


 鷲の島から迎えの船が来る前に、何とかリズルの支度は終わった。それの披露目の時には、やはり伯母が一番乗りだった。粗さがしをするような目で見られるのは嫌であったが、拒否する事は出来ない。リズルはびくびくとしながら何か言われるのではないかと、脇に控えていた。
 花嫁はもっと甘やかされるのではなかったのかと思いながら、ぎりぎりまでかかった自分の家事の才能のなさに絶望するのだった。
 それでも、伯母は何も言わなかった。その事だけでもリズルはほっとした。他の人々はリズルの手の綺麗な事を褒めてくれたが、多分にお世辞が含まれているだろうと思った。
 オルヴの家族に贈る布、装飾品や武器。オルヴの為の布や武具、リズルの衣装と装飾品。新生活で必要となる布や敷物、綴織り…全てを並べると壮観だった。これ程の物を母やトーヴァの力を借りてでも自分が作ったのだと思うと、少しの自信にも繋がった。一家を構えるようになれば手伝って貰う訳にはいかないのは、同じ島に嫁入りしようとも同じ事だ。
 そうして、鷲の島の迎え船を待つ準備は整った。
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