第10章・冬の閑暇

文字数 6,181文字

 リズルの帰還は伯父を愕かせ、伯母を怒らせた。婚約中に戻されるとは、何という恥晒しだというのだ。だが、伯父の弱々しい笑みを見ると、どれ程父が伯父に対して文句を言ったのか分るというものであった。
 父は遠征から戻ると、家にリズルがいるのを見て相当、愕いたようであった。だが、余り感情を見せずに頷いて見せただけだった。後になって母が質問責めにあったと聞いた。
 弟妹たちは諸手を挙げてリズルを歓迎した。皆、ひと夏の間に随分と成長したように感じられた。末弟のヘイウィルもこの夏に戦士の館に入っており、家は閑散としていた。
 ヴィリアは唯論、リズルの帰還を喜んでくれた。両親の承諾を得て、リズルの元へ泊りにも来た。子供達は皆、広間の暖炉の側で寝るのだが、ヴィリアと話をしようにも、トーヴァが聞き耳を立てているのが分る状態では深い話も出来なかった。そこで交易島での生活の話をしたが、皆すぐに飽きてしまったようだった。
 リズルが戻った事は、すぐに島全体に知れ渡ったようだった。どういう訳か、雪が降り始める迄に三人も求婚者が現れた。だが、それを父は全て門前払いした。リズルにはそれが有り難かった。
 再び島での日常が帰って来た。
 ヴィリアと刺繍をし、機を織っては服に仕立てる。森に罠を仕掛けて兎を捕り、弓で海鳥を射る。料理の手伝いをし、厳冬への準備を進める。
 そんな忙しい日々の中で、ふと気付けば、再びあの男の事を考えている自分がいた。
 イースには悪い事をしたと思った。愛せなかったのはリズルのせいではなかったとしても、あの日、リズルが勝手に城砦を抜け出さなければあの人に出会う事もなく、納得ずくでイースと結婚したであろう。イースが自分を愛してくれていたのならば、何時しか自分も、あの男程ではないにしても、イースを愛するようになっていただろうに。それなりの家庭を築いていたであろうに。
 自分の我儘勝手な行動が、どれ程多くの人を傷付け、迷惑を掛けたのか、考えたくはなかった。だが、考えねばならない事でもあった。
 イースを始めとして、領主夫妻、ミア、シエラ。両親に伯父夫妻、祖父。そして、あの人。
 皆、自分の為に色々と骨を折ってくれた。殊に領主夫妻には様々に散財させてしまった。北海の者に関わるのは懲り懲りだと思った事だろう。
 その借りを返すには、どうすれば良いのだろうか。母は、リズルが幸せになる事でそれは収まるのだと言った。だが、それでは余りにも虫が良過ぎはしないかと思うのだった。神々に祈る際に、こっそりとイース達の幸せを願う事しか、今は出来なかった。再びイースに愛する人が現れて、幸せになってくれれば良いと祈らずにはいられなかった。
 一人になる為に、リズルはあの浜に行った。もう大きくなったトーヴァはこの浜で遊ぶ事はなくなったので、人目を気にする必要もなかった。泣いて目が赤くなっても、潮が目に入ったのだと言い訳をすれば良い。
 灰色に荒れる北海に、海神に、リズルは全てを任せるしかなかった。人間の力では、最早どうしようもないと思った。あの男について分っているのは鷲の戦士である事と容姿のみ。あの時は名を知らぬ方が良かったが、今ではそれが最も大きな障壁であった。
 島に帰って以来、リズルは集落へ赴く事はなかった。皆の好奇の目が耐えられなかったし、伯母に見付かると厄介であったからだ。だから、ヴィリアが訪ねてくれるのが有り難かった。
「スヴェルトさまはまた、求婚者を追い返されたのですってね」
 炉辺で刺繍をしながら、ヴィリアが言った。「これで四人目でしょう。まあ、あなたが交易島に行ってしまってしばらくはスヴェルトさまも荒れていらしたし、今はまだ、手許に置いておきたいのでしょうね」
「いいのよ、別に」リズルは新しい布を探しながら言った。「あなたのところもそうなのでしょう」
(うち)は――違うから」ヴィリアは肩を竦めた。「誰だって気に入らないのだわ」
 リズルは笑った。ヨルドは変わってはいない。
「でも、このままという訳にもいかないでしょう」
 ヴィリアの言葉に、リズルは動きを止めた。「だって、あなたは交易島の婚約を断ってきたのでしょう。皆が放ってはおかないわ。来年の族長集会で、北海の皆が知るわ」
 そのような噂が流れている事を知った。向こうで何かをしでかして帰された、ではない事は感謝すべきなのかもしれない。
「別にそんなのじゃないわ」どう説明すれば良いのか、リズルにも分らなかった。「北海が懐かしくて病気になってしまったから、婚約を解消されて帰って来たのよ」
 結局は、母がそう言うのが無難だと言った事を言うしかなかった。だが、それもまた、真実だ。
「あなたはやっぱり、北海に住むべき人なのね」
 ヴィリアは笑った。「でも、良かったわ。わたし、あなたがいない間、寂しくてたまらなかったのよ」
 それはリズルとて変わらなかった。どれ程友人を求めようとも、秘密を抱えたままでは本当の友人は出来なかったからだ。
「でも、あなた変わったわね」ヴィリアは声を落とした。「誰か、好きになったんじゃなくて」
 リズルは顔が赤くなるのを感じた。
「やっぱりね、でも、それは婚約者の方ではなかったのでしょう」
 ヴィリアの目は誤魔化せなかった。リズルは黙っていたが、ヴィリアは構わずに続けた。「あなたが話したくなったら、話してくれたらいいわ。無理には訊かないから、安心して」
 ヴィリアに悟られたという事は、母も当然気付いているだろう。リズルはどうしたら良いのか分らなくなった。あの納屋での一件を知られたように思った。
 別にヴィリアには隠すような事ではないようにも思われた。だが、どうしてもあの男の事は言えなかった。もう少し時が経てば、何事もなかったかのように話す事が出来るのかもしれないが、今は、まだ、傷口から血が流れ続けている。この傷が癒えたら――癒える事があるなら、笑って話せるようになるだろう。それまで、ヴィリアも母も黙っている人だ。
 自分は恵まれている。
 リズルは改めて思った。
 母やヴィリアだけではない。交易島でも人に恵まれていた。なのに、自分のした事と言えば、恩を仇で返すような事をしただけ。
 どうしても、そこへと戻ってしまう。あの日、あの夜に。あの緑の目へと。
 冬の間はゆっくりと時間が過ぎた。リズルには緩慢すぎる程であった。全てが雪に覆われてしまうと、冬ごもりだった。この冬はリズルがいない事を想定して準備が行われていたが、長居の客に備えて、一人二人増えても一応は不自由なく過ごせるようになっていた。
 集落までの道は海沿いの崖であったので、毎日の雪かきが欠かせなかった。奴隷としてこの家に連れて来られた男だけでなく、女やリズル達も力を合わせなくてはならなかった。その後で出される蜜酒は身も心も暖めてくれた。葡萄酒を懐かしがる事はリズルはなかった。やはり、蜜酒や麦芽酒(エール)の方がリズルには合っていた。
 族長の館に滞在している詩人(バルド)が物語や詩を吟じに来たり、戦士達が飲みに来たりと、毎冬のように繰り返される事に変わりはなかった。年頃の娘に与えられる筈の部屋はなかったが、リズルはそれでも満足だった。船団長でもある巨熊(きょゆう)スヴェルトの娘に手出しをすれば何が待っているのか皆承知していたので、酔っぱらい達が広間で共に夜を過ごそうとも安心していられた。
 忙しい日々を送りながらも、リズルの心には大きな穴が開いていた。追っても追っても近付く事のない夢に、枕を濡らす事もあった。たった一度の出会いで、と人は言うかもしれない。だが、恋い慕う心に変わりはなかった。いや、日が経つにつれ、その気持ちはつのるばかりであった。
 家族もヴィリアも、リズルをそっとしておいてくれた。それをしないのは伯母のみであった。婚約を破棄されたという噂が出ぬ内に早々に次の婚約を決めてしまえと言うのだ。今ならば若い男の中から幾らでも選べるであろうと。
 その提案を、父は即座に却下した。リズルはいたいだけ家にいれば良い、そのような噂で怖気付くような者には用はない、と不機嫌に答えた。
 そこで一悶着あったが、結局は父が勝った。自分の娘の事は自分が決めるのだと突っぱねたからだ。過去に何があったのかはリズルは知らなかったが、本当に馬が合わない二人だった。
 父はむっとして伯母を送り出した後、リズルに、かつて言ったように相手は自分で選んで良いのだと言った。そのように言う父親が少ない事を知っているリズルは、感謝しかなかった。父には自分が運命に出会ったという事を話す気はなかったが、母から何かを聞いているのではないかという気持ちも起こった。しかし、そんなはずはないと思い直した。母はそのような事はしない。父がリズルの事を考え、理解してくれているからだろう。
 冬の厳しい間は浜へ行く事が出来なかった。狭い浜には大きな波が打ち寄せ、危険であったからだが、リズルは、一つ安寧の場所を失った気分だった。その代わりの場を探す事も出来ず、リズルの心は低い曇天の北海の空のように一向に晴れなかった。そうして、リズルは十七歳となった。
 北海に帰る事が出来てリズルは良かったと思った。交易島の冬がどうであれ、心慰められるものではなかったはずだ。
 やがて風の向きが変わり、雪のゆるむ時がやって来た。日も長くなり、晴れる日も多くなった。海も穏やかさを取り戻しつつあった。
 まだ早いが、やがて北海にも夏が来る。その思いはリズルの心を少しは奮い立たせた。いつまでも哀しみに浸っているわけにはいかなかった。新しい一歩を、いつかは踏み出さねばならないのだ。
 リズルは哀しみを癒やし、海神に祈る為にではなく、新たに生き直す力を得る為に、久し振りに浜に降り立った。潮風に身を晒し、遙かな水平線に目をやると、生きよう、という気持ちが湧き上がって来た。一生を一人で過ごす事になるだろうが、あの思い出があれば生きて行けるだろう。今度、ヴィリアが来たら全てを話そうとリズルは思った。ひと冬という時間が必要であったが、ようやく自分にその準備が出来た。長い長い物語になるだろうが、友は全てを聞いてくれるだろう。理解してくれるかどうかは分らない。それでも、リズルの心を理解しようとしてくれるだろう。それは大きな慰めとなって、これからの人生を歩む大きな糧となってくれるに相違ない。
 母は――母は、リズルが運命に出会った事を気付いてはいるだろう。だから、それ以上話す事はないと思った。薄情な娘だと(はた)からは思われるかもしれない。だが、語らずとも分かり合える母娘の関係でもあった。
 その日の夕刻も、リズルは海を見に浜に降りた。随分と夏の気配が濃くなってきていたが、まだまだ北の涯の島は氷に閉ざされているだろう。北海を船が行くのはもう少し先の事になるだろうが、確実に夏は近付いて来ていた。商人達はそろそろ交易の支度を始めているようであったし、畑の土おこしの準備も始まっていた。
 別の集落から交易品を運んで来たのであろうか、珍しくもその日は入船があった。そして、空には海鷲も飛んでいた。海鷲を見ると、リズルはどうしてもあの男の事を考えずにはいられなかった。これから一生の間、それは続く事になるのかもしれない。いつか、この胸を締め付けられるような想いと共に見なくても良い日が来るのだろうかと、思わずにはいられなかった。
 ぼんやりとリズルは海を眺めた。
 海神は恐ろしくはない、本当はとても慈悲深い存在なのだと母は言っていた。だが、この島ではそれは異端の考えだ。母の育った北の涯の島では大神よりも海神の方に信仰が篤い。その為か、リズルや弟妹もそうであった。海が荒れて困った時に人身御供に美しい奴隷が差し出される事があったが、母はそれを否定し、この浜で別の方法で祈りを捧げていた。どちらの祈りが聞き届けられたのかはリズルには分らなかった。だが、リズルも何かの折には海神に祈るようになっていた。
 海は今日は穏やかであった。そんな時の海の色はリズルの目と同じ青い色をしていた。祖父の目もそうであった。祖父に会いたいとリズルは思った。何も話さなくても良いと祖父は言ったが、全てを知って欲しかった。父では分らぬ心の機微を、祖父ならば汲み取ってくれるだろう。もしかしたら、集会であの人を見掛けた事があるのかもしれない。
 そう思ってリズルは、はっとした。そうだ、あの時には自分の事で精一杯で気付かなかった。あのような不思議な鷲を連れているのならば、祖父も知っていたのかもしれない。また、集会でこれから出会うのかもしれない。族長船の乗組員ではなくとも、あの特徴的な鷲は、西の涯の島でも特殊であろうから、同じ島の戦士達は知っていよう。同じ集会に参加するとは言っても、父には言えなかった。気恥ずかしさもさることながら、もし、この冬の間にあの人の結婚が決まっているような事があれば、どうなるか知れたものではなかったからだ。
 リズルは泣きたかった。だが、涙は出なかった。
 運命でありながら、最初から縁のない人だったのだ。
 集会の際に訪れる祖父にそのような話ができるだろうか。そのような暇があるだろうか。何時だって、どうしてこう、自分の行動と判断は間違っているのだろうか。
 リズルの頭上を、大きな海鷲が鳴きながら飛んで行った。そろそろ、家に戻らなくてはならない。父も戻り、食事の始まる頃合いだった。
「ここにいらっしゃったのですね」
 深い男の声に身体が震えた。知らぬ声ではなかった。だが、そんな事は有り得ないとリズルは思った。
「リズル殿」
 名を呼ばれてリズルはゆっくりと振り向いた。
 片時も忘れる事の出来なかった優しい顔がそこにあった。
 リズルの脚が、力をなくした。すんでのところで、男がリズルを支えた。
「大丈夫ですか」
 男の存在の大きさに、リズルは声を出す事も出来なくなって小さく頷いた。そして、身体はまだ震えていたが自分の脚でしっかりと立った。
「どうして、ここへ」
「貴女の事を忘れたとでも仰言るのですか。私の鷲に言付けをなさったのに」
 あの鷲に託した想いは、確かにこの人に届いていたのだ。
「貴女が誰であるのか、その時に悟りました。だが、我々の後に島に戻って来た商人が、交易島の領主の息子が婚約を解消したという話を持って帰って来ましたので、私が、今、ここにいるのです。占い師も早く行動するのが吉と言いましたし」
「なぜ…」
 あのように酷い事をしたのにと、リズルは続けられなかった。
「恋の形見にと思っていた物に、希望が持てたからです。貴女の父上には、きちんと六人の立会人を伴ってお目に掛かって参りました。貴女次第だと仰言った――私と、結婚して頂けましょうか」
 男はリズルの両手を取った。その顔が、涙で滲んだ。哀しみの、ではない。
「泣かないで」
 男は言い、リズルの額にそっと唇付けた。優しい声と仕種に、リズルの涙は止まらなかった。
「リズル殿――」
 問うように男がリズルの顔を覗き込んだ。美しい緑の目に見つめられ、リズルは頷く事しか出来なかった。
「失礼。そう言えば、私はまだ、名乗ってはおりませんでしたね」男は笑った。
「私はオルヴ。碧鷲(へきしゅう)ヴェリダスの長子オルヴと申します」
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