第14章・不信

文字数 19,523文字

 手習いの分が済んでしまうと、リズルはエイラの勧めで鷲の訓練に使う疑似餌を作る事にした。様々な形があるという事であったが、その中でリズルは海鳥の形を選んだ。鷹匠が小鳥を模した鳥の翼を束ねた物で訓練する様は目にした事があった。それを革で作れば良いのだ。その模様を羽軸(うじく)刺繍で飾るのがこの島では一般的だそうだ。細い釘で革に穴を開ける方法も教わった。疑似餌本体は中に羊毛を詰め、蝋引きした麻糸で縫い合わせる。
 エイラによるオルヴの弟達の準備も着々と進んでいるようだった。肩に当たる部分は特に革が分厚いために、あらかじめ縫い目に合わせて穴が開けられていた。それを二本の針を使ってエイラは器用に縫ってゆく。まるで馬具や防具を作る時のようだった。その事をエイラに言うと、笑った。
「やっぱりそうよね。でも、これは女の仕事なのよね」
 肩に固定する幅広の革紐部分には、羽軸の刺繍が施される。鷲神の文様を中心として刺される、とエイラは言った。
「全てに鷲神なのですね」
 リズルは感心して言った。
「鷲あってのこの島ですもの。鷲神のご加護がなくては」エイラは言った。「それに、鷲神は大神の一つの姿なのですもの」
 北の涯の海神とは違うのだとリズルは思った。
「五年に一度の鷲神の大祭をご覧になるといいわ。今年がそうだから」エイラの頬がほんのりと赤くなった。「海鷲の戦士と鷲神の巫女とが行う儀式は、それはもう、美しいものよ」
 リズルには想像もつかなかった。大神の祭りは毎年夏至と冬至に行われるが、それとは違うのだろうかと思った。
「普段は戦士長が中心なのだけれど、今度の大祭ではオルヴが代わるでしょうね」
「なぜ、今回はオルヴさまなのでしょうか」
「島の後継者と正式に認められて最初の大祭だからよ。オルヴは月乃の事もあって、十八では認められなかったの」
「でも、正戦士には認められたのですよね」
「それとは別のようね。わたしはその辺りの事情には詳しくはないのだけれど」
 月乃は長生き出来るかどうか分らなかった、と言ったオルヴの言葉が思い出された。今でも、そう思う者はいるのだろう。
「でもね、結婚すれば人の見る目も変わるわ。やはり男は結婚してこそ一人前と言われるのですもの」
 では、女は。とリズルは問いたかった。女はどうすれば一人前と見做されるのだろうか。十二で裳着の儀式を終えれば大人と同じ扱いを受ける。だが、正直言って子供だ。今から思えば、十六歳の自分も子供だった。十八になって、何が変わっただろうか。相変わらず軽率な言動を繰り返している。結婚すれば、何かが変わるのだろうか。子供を産めば変化があるのだろうか。
「もし――」リズルは言った。「もし、月乃が亡くなってしまったら、オルヴさまはどうなるのです」
「戦士ではいられないわ。族長ではいられるかもしれないけれど、後継者としては無理だわ。でもね、鷲を亡くした戦士はその後、長生きはできないと言われているのよ」
 リズルは愕いた。では、月乃がオルヴの命運を握っているのだ。
「大丈夫よ、月乃は。だって、もう十年以上生きたわ。最初は持って二、三年だろうと言われていたから」
 エイラの言葉も慰めにはならなかった。一人と一羽は運命のように生きるのだ。その間に、リズルは割り込む形になるのか。
「野生では白子の鷲はいないわ。それは、親が育てないからと言われているの。でも、月乃はオルヴが育てたわ。どれだけ生きるのか、それは誰にも分らないの」
 リズルは、自分には覚悟が必要なのだと言われているような気がした。交易島のイースが二十歳まで生きられないと言われたと聞いた時よりもずっと、それは衝撃的だった。
 疑似餌が出来上がると、リズルは月乃にそれを与えてみたくなった。頃合いを見計らって、オルヴに月乃を訓練場に連れて来てくれるように頼んだ。
「貴女からの呼び出しとは、嬉しい限りです」
 オルヴだけではなく、アルヴィとエルグも鷲と共に来た。やはり、二人きりで会うのは無理なようだった。
「どうしてもついて来ると言うものですから、申し訳ありません」
 オルヴは言った。
「二人きりで会おうなんて、無理ですからね」エルグが言った。「この間、二人きりで森へ行かれたでしょう。母が兄をその事で叱りましてね。兄から目を離さぬようにと言われているのです」
 オルヴはリズルを見て弱々しく微笑んだ。二十五にもなって母親に叱られるといった事を、弟の口から発せられるのが気恥ずかしかったのだろう。また、目付役として弟達を付けられるのも。
「リズル殿――とは随分と古風な名ですが、やはり、あのリズルなのでしょうか」
 アルヴィが訊ねた。結局、リズルという名はそういう所で人々の関心を買う事になる。
「はい、古謡の女戦士です」
 年上の義弟というのも、何だか変な気分だった。
「スヴェルト殿はあの詩がお好きなのですか」
「好き、というのは少し違うと思いますが――女戦士、というのが気に入っていたようですが」
「私は好きではないなあ」エルグが言った。「だって、悲劇でしょう」
「戦いの場面は人気がありますがね」
 アルヴィが取りなすように言った。「結末はいただけない」
 過去に生きた人の生涯を覆すことは出来ない。リズルという名が時代遅れな事も分っていた。だが、父のくれた名だ。
「リズル殿はリズル殿だ。古謡の他にも、過去には何人ものリズルという名の女性がいたはずだ。その全てが悲劇だったとは言えまい」
 オルヴが弟達に言った。
「それはそうです」
 さすがにエルグも慌てたようだった。そして、腰の小物入れから、いそいそと疑似餌を取り出した。
「よし、吹雪、行け」
 飛ぶな、とリズルは思わす心の中で念じた。それが通じたのか、エルグが疑似餌を投げても吹雪は飛ばなかった。
「おかしいなあ」
 エルグは呟き、アルヴィは笑った。
「よく見ていろ、凍牙(とうが)、お前だ」
 アルヴィは疑似餌を投げたが、凍牙も動かない。
「何だ、機嫌が悪いのか」
 二羽は素知らぬ顔で主人とは目を合わせようとはしなかった。
 仕方なく、二人は投げた物を拾いに行った。その後頭部目がけて、少し苛立ったリズルは自分の作った疑似餌を投げた。見事にエルグに命中した。
「痛いなあ兄上、酷い事をなさる」
 ちらりとオルヴを見上げると、呆気にとられたような顔をしていた。が、すぐに高らかに笑うと言った。
「人の恋路の邪魔をする奴は、だ」
「何が邪魔ですか、こちらだって仕方なしに監視しているんですからね」
 恋路。
 リズルは顔が赤くなるのを感じた。オルヴは恋だと言ってくれた。自分はまだ、見捨てられてはいなかったのだ。集会のあった島で、誰かを見付けた訳ではなかったのだ。
 二人が藪の中を探している間に、オルヴは月乃にリズルの投げた物を取りに行かせた。
「中々、やるね」
 にっとオルヴが笑んだ。「その調子だ」
 そして、ゆっくりとリズルに唇付けた。優しく。
「鷲が君を見ている」
 唇が離れると、オルヴが言った。「君の命令を待っているようだ」
 まさか、と思ったが、月乃だけではなく凍牙も吹雪もリズルを見つめていた。
「飛ばせるのなら、腕を振ってみると良い」
 リズルはオルヴに頷き、腕を振ってみた。すると、三羽の鷲は飛び立ち、二羽は主人の許へ行った。
「君は不思議な娘だ。まるで、鷲神の巫女だな」
「鷲神の巫女とは、何ですか」
 エイラもそのような人々の事を言っていた。
「鷲神の巫女とは、鷲神に仕える女達の事だ。どのうような鷲でも巫女には懐く。君はこの島に生まれていたら、鷲神の巫女になっていたかもしれないな。それにしても、あのように言う事をきくのは初めて見た」
 崇拝するような響きがその口調には含まれていた。鷲神の巫女とは、それだけ大きな存在なのだろう。そのような存在になっていたのかもしれないと言われるのは嬉しい事ではあったが、同時に寂しくもあった。巫女になっていたかもしれない存在だからこそ、オルヴはリズルを放し難くなるのではないか、という思いが湧き起こって来たからだ。月乃が自分に懐くのは、自分がそのような特性を持っていたからなのだろうか。
「巫女なら結婚はできませんわ」
 少し意地悪な気持ちになってリズルは言った。
「この島では、鷲神の巫女は結婚できるのだよ」
 オルヴはにっこりと笑った。
 ならば、その中に月乃が懐いた人がいてもおかしくはない。それでも、月乃は自分を選んでくれたのか。
「君の力は特に強いようだな」
 ようやく戻って来た弟達を迎えながらそっとオルヴは囁いた。「月乃だけでなく、あの二羽も虜にするとは」
 自分は鷲神の巫女の資格があるからこそ、鷲が恐ろしくはなかったのだろうか。イースの隼、嵐号が懐いたように思えたのも、それでだったのだろうか。
「巫女の力は隼にも及ぶのですか」
 オルヴはふと動きを止めた。
「それは、どう言う意味かな」
 北海では隼を狩りに使う者はいない。殆どが、鷹だ。
「特に意味はありません」
 リズルはどきりとした。オルヴの緑の目が一瞬、鋭い光を帯びたように思えたからだ。交易島での事を思い出したというのがばれたのだろうか。おっとりしているようで、オルヴは族長の後継者である。人間の観察には鋭い所もあるに違いない。それに、交易島の話題は前にこの人を怒らせた。
「それならば良いのだが」
 その言葉は、殆ど呟きのようなもので、リズルは注意していなければ聞き逃したであろうと思われた。
 二人が戻ってくると、もう、リズルは鷲達に念じるのは止めた。そういう力があるにしても、遊びで使うものではないからだ。三人は疑似餌を放り投げては鷲に空中で取らせていた。隼に較べると降下の速度は遅かったが、大きな翼を広げて疑似餌に摑みかかる姿は圧巻だった。
「わたしにも、鷲は扱えるのでしょうか」
 リズルはオルヴに訊ねてみた。
「――やってみたいと本気で考えているのですか」
 二人の弟の手前、再びオルヴの口調は変わってしまった。「唯の好奇心からなら止めておいた方が良いでしょう」
「唯の好奇心ではありません」リズルは言った。「ずっと、考えていた事なのです」
「それは、肩に据えたい、という事でもあるのですか」
「はい」
 オルヴは少し考える風であったが、やがてエルグに声を掛けた。
「エルグ、お前が昔使っていた肩当てをリズル殿に貸してはくれないか」
「えっ」
 二人は同時に叫んだ。そして顔を見合わせた。
「リズル殿に鷲を据えられるのですか」疑わしげにアルヴィが言った。「女人(にょにん)には難しいのではないでしょうか」
「覚悟はできておられる」
 エルグは頷いて道具を取りに走り出した。
「本気ですが、リズル殿」アルヴィが心配そうに言った。「鷲は大きいし重いですよ。月乃なら二貫目半はあるでしょうに。怪我をしてしまいますよ」
「本人にそれだけの覚悟があるのなら、構わないではないか」
 オルヴは言った。
 案外早くエルグは戻って来た。持って来た肩当てをオルヴがリズルの肩に乗せると、ずっしりとしていた。革紐を締めて貰うと、鷲達が興味深げに自分の方を見ている事にリズルは気付いた。三羽共に翼を胴体から浮かせて足踏みをしている。
「月乃」
 オルヴが呼んだ。
 月乃はオルヴの差し出した腕の籠手に止まった。
「最初は月乃が良いでしょう」
 ゆっくりとオルヴは月乃をリズルの肩に移した。その身体は思ったよりも重かった。確かに二貫目半はありそうだった。
「姿勢を正して」
 オルヴが言った。
 何とか背筋を伸ばすと、鷲の温かな腹が頭にあたった。目を横に移すとがっしりとした大きな鉤爪が肩にあった。
「月乃」リズルは言った。「月乃」
 月乃の顔がリズルの横に来た。思わずリズルは手を伸ばし、その顔に触れた。月乃は自分から手に顔を擦り付けてきた。
「よし、そこまでだ」
 オルヴの声がした。「こちらへ」
 月乃が飛び立った――と、髪がぐいと引っ張られた。鋭く月乃が啼く。髪に爪が引っ掛かったようだった。
「待て、待て」
 オルヴが慌てたように声を掛けた。だが、月乃は恐慌を来したのか暴れた。
 思わずリズルは鋏を取り出していた。髪が引っ張られて痛いのは痛かったが、それよりも月乃が心配だった。
「切ってっ」
 リズルは為す術もなく立ち尽くす二人の弟に向かっては鋏を突き出して叫んだ。
 オルヴが月乃を支えた。そして、絡まった髪をざっくりと切った。
 鋭い叫び声が聞えた。
 ほっとしたリズルがそちらを見ると、奥方が口に手を当てて立ち尽くしていた。皆の動きが止まった。
「あなたたち、一体、なにを…」
「大丈夫です、母上」オルヴが言った。「それほど切った訳ではありませんから」
「そういうことではありません」
 奥方はオルヴに噛み付いた。「女性の髪を切るなど、この子は」
「わたしが切ってくださいとお願いしたのです」
 リズルは慌てて言った。「オルヴさまは悪くありませんわ」
「もっと他にやりようがあったでしょうに」
 オルヴの小太刀で切られた髪は、やはり武器の手入れが良いのか綺麗に揃っていた。
「月乃は大丈夫ですの」
 リズルはオルヴに訊ねた。
「大丈夫だ、心配ない」
「リズルさんに鷲を据えるなど、どうしてそのような事を――」
「母上、今は黙っていて下さい」
 オルヴはそう言うと、地面に月乃を仰向けにして脚に絡まった髪を切り刻み始めた。
「わたしが髪を編んでいなかったせいで…」
 リズルは泣きたくなった。
「貴女のせいではありません」
 オルヴがどのように言おうと、リズルの責任だった。鷲を据えさせて欲しいと言わなければ、このような事にならなかったはずだ。髪を編んでいれば、爪に絡まるような事も起ならなかったであろう。奥方がオルヴを責めるのは間違っていると思った。
「これで良い」
 ほっとしたようにオルヴは言い、月乃を止まり木に戻した。
「エルグがなにやらこそこそしていると思ったら、オルヴ、あなたが付いていながら、何ということをしてくれたのです」
 奥方がオルヴに言った。
「いいえ、奥方さま、オルヴさまは悪くはありません、わたしがわがままを言ったから――」
「いいえ、リズルさん」奥方は言った。「オルヴは年長なのですから、どのような事態になるのかをきちんと想定しておかなくてはなりませんわ。それなのに、あなたの髪が…」
「髪は伸びますわ」
「結婚式が控えているというのに、オルヴ、リズルさんに恥をかかせたいのですか」
 困ったようにオルヴはリズルを見た。そんなにみっともない事になっているのだろうかとリズルは少し不安になったが、すぐに思い直した。ここでオルヴに恥をかかせてはならない。
「編み込んでしまえば分りませんわ」
 リズルは言った。いつも自分の髪を編んでくれる奴隷には出来ないかもしれないが、一人でなら簡単な編み込みならば何とかなる。
「とにかく、鷲は駄目ですからね」
 奥方は言った。
「済まなかった」
 奥方が行ってしまうとオルヴは言った。「綺麗な髪だったのに」
「いいえ、わたしがわがままを申したからです」
 リズルは小さな声で言った。
「リズル殿のせいではありませんよ」アルヴィが言った。「まさか、爪が髪に絡まるなど、誰も思いはしなかったのですから」
 しかし、オルヴは弟達の前で奥方に叱られてしまった。
 リズルは三人に背を向けると軽く髪を()かし、手早く髪を編んだ。身支度しているところを見られるのは恥だったが、この際、仕方がなかった。
「どうです、これで分らないでしょう」
「御見事」
 エルグが言った。「それだと、何処を切ったのか分りませんね。式もそれで誤魔化せるでしょう」
 結婚式までに伸びる訳もなく、苦肉の策だったが仕方がない。
「貴女はもう、館に戻った方が良いでしょう」オルヴは言った。「母が貴女を待っていると思いますから」
 邪険にされた訳ではなかったが、早くこの場から去ってくれと言われているように思えた。月乃の一大事であったのだし、弟達の前で恥をかかされたのだから分らないでもなかった。
 リズルは泣きたいのをこらえて館に向かった。
 館では今し方の出来事を奥方がエイラに話していた。
「まあ、リズルさん、災難でしたわね」
 エイラが心配そうに言った。
「ええ、でも、わたしが悪いのですから」
「いいえ、悪いのはオルヴですよ」まだ怒りが収まらない様子で奥方が言った。「まったくもう、お嫁さんを何だと思っているのかしら。鷲の遊び相手ではないというのに。お館さまにもきつく言っていただかなくては」
「そこまでなさらなくても」
 リズルは言ったが、奥方はもう心を決めているようであった。エイラは仕方がないと言いたげに首を振った。
「族長に申し上げるほどの大事ではありませんわ」リズルは言った。「わたしの髪くらいで」
「リズルさんは優しい方ね」奥方はとろけそうな顔でリズルに向き直った。「でも、あんな乱暴なこと、許してはいけないわ」
 優しいのではない。元はと言えば、自分が原因だったのだ。それを奥方が勘違いしている。それでオルヴが族長からきつく叱られるような事があれば、オルヴに嫌われてしまうのではないだろうかという思いもあった。それが一番恐ろしかった。
 勘違いの上に勘違いを重ねられるのも困ったものだった。リズルの顔付きは全体が小作りな為に、非常に大人しい人間に見られるのも難点だった。交易島で出会ったオルヴはそうでない事を知っているが、奥方やエイラは知らない。また、知られるのも恥ずかしかった。交易島での事は、二人が知っていれば良い事だ。
 何とか奥方を思いとどまらせようとしたが、エイラが首を振っていたように翻心させるのは無理なようだった。
 リズルは困ってしまった。おちおち刺繍もしていられなかった。かと言って部屋に逃げ帰る訳にもいかなかった。
 夕刻近くになって、オルヴ達兄弟が館にやって来た。そして挨拶もそぞろに族長の部屋に消えた。叱られている、とリズルは思った。そのような意図が自分になくとも、こうして人に迷惑を掛けてしまう事もあるのだとリズルは痛感した。オルヴと一緒になるのであれば、もっと自分の言動の結果を考えなくてはならないと思った。
 夕餉は七人揃って摂る事になった。奥方の機嫌は相変わらず悪く、アルヴィとエルグも心なしか大人しかった。それを盛り立てようとするかのように、エイラが夏の交易の話を持ち出した。
「今年の交易はオルヴはいらっしゃいますか」
「私は――」オルヴは余り気乗りしない様子で答えた。「私は今年は行かない」
「兄上は御結婚なさって間なしになりますものね」エルグが言った。「集会にも出られたのだし、余り島を空けるのも、新郎としてはいただけないでしょう」
 アルヴィが肘でエルグを突いた。リズルはその意味に思わず赤くなって俯いた。
「アルヴィとエルグは行くから、何か欲しい物があれば二人に言付(ことづ)けると良いですよ」
 オルヴの言葉に、エイラは少し考える風であったが、やがて言った。
「いいえ、特には。去年と同じ物をお願いできれば、と思いますわ」
「去年の事は忘れました」エルグは言った。「まだ日はありますし、ぎりぎりまで考えておいて下さい」
「絹地や糸だったなあ」アルヴィは思い出そうとするかのように天井を見上げて言った。「その他は石鹸、だったかな」
「あなたたちだけだと不安だわ」
 奥方は言った。「きっと、忘れてくるわね」
「なら、書き付けを下さい」
 エルグはむっとしたように言った。「だったら忘れはしませんよ」
 さすがは族長家だった。文字を読めるのだ。
「あなたは見るのを忘れそうだから、アルヴィに頼みます」
「信用ないなあ」
「いつまでもそんなふうだからです」
 奥方はぴしゃりと言った。「正戦士なのですから、もっと大人になりなさい」
「大丈夫ですよ、母上、こいつは絶対に髭を剃られて戻って来ますから。そうすれば恥ずかしさで自覚も出来るでしょう」
 皆は笑ったが、リズルには意味が分らなかった。
「正戦士になって初めての遠征の帰りに身支度が最も遅かった者は、髭を剃り落とされるのだよ」
 そっとオルヴがリズルに囁いた。
 耳に唇が付きそうな近さであったので、リズルはまた赤くなって俯いた。
「内緒話とは余裕ですね、兄上」エルグが言った。「貴方の弟が恥をかくと言われているというのに」
「恥の一つもかかないと大人になれないという事だ」
 オルヴの言葉に再び皆が笑った。
「頼まれたっても交易島から土産は買って来ませんよ、兄上には。リズル殿は別ですが」
 皆が自分を見た事にリズルは気付いた。
「わたしは――別に何も」
 急に言われて思い付かなかった。それに、持参した羊毛や糸が沢山あった。
「リズル殿には兄上さえいれば、何もいらないという事ですかね」
 エルグがそう言い、リズルは真っ赤になって俯いた。逃げ出したいくらいだった。
「揶揄うな」
 オルヴが言った。
「気にする事はありませんよ。エルグは貴女と同じ年齢だと言っても子供ですから」
 その言葉にエルグはむっとしたようだった。
「そんな事を言うのでしたら、初夜に窓の下に行きますよ」
 もう、耐えられないと思った。リズルは立ち上がると真っ赤になった頬に手を当てて部屋に戻った。後ろから、族長がエルグを叱りつける事が聞えて来たが気にならなかった。リズルは寝台に突っ伏した。
「リズル殿、リズル殿」ややあって部屋の外からオルヴの声がした。「エルグの下世話な冗談は叱りつけておきました。機嫌を直して下さい」
 冗談――冗談なのか。集落の男達がそのような事をしているという話は聞いた事があった。あながち冗談とも思えなかった。だが、オルヴを困らせるつもりはリズルにはなかった。
 そっと扉を開けると、そこには心配そうな顔のオルヴが立っていた。
「大丈夫ですか」
 そう言いながらも、オルヴは部屋の中に入って来た。そして、背後の扉を閉めた。
「大人げない真似をしてしまいました」
 リズルは謝った。
「いや、大人げないのはあいつの方だ」
 オルヴは延びた前髪を掻き上げて言った。「全く、下世話な事を言う。少し叱られれば、あいつも懲りるだろう」と、リズルに向き直った。「泣いていたのか」
 リズルは頭を振った。まともにオルヴの顔を見ることが出来なかった。
「リズル」
 深い声に、気付くとオルヴは目の前にいた。
 

 翌朝、リズルは皆の前に出たくない気分であったが、そういう訳にもいかず、朝餉の為に広間へ向かった。
 そこには既に族長と奥方がおり、リズルは膝を沈めて挨拶をした。
「おお、リズル殿」族長はリズルを見ると言った。「昨日はエルグが不躾な真似をいたしました。きつく叱っておきましたので、お気になさらないと宜しいのですが」
「わたしも、大人げないまねをしたしました」
「その話はもうよろしいではありませんか」奥方が言った。「粥を持ってこさせますから、席にお着きになって」
 リズルは余り食欲はなかったが、席に着いた。
「裁縫も刺繍も一段落つきましたし、今日は自由におすごしになって」
 奥方の言葉は有り難かった。苦手な手仕事から解放されるのはほっとしたし、そろそろ一人で過ごす時間も欲しくなっていた所であった。
「おはようございます」
 エイラがやって来た。エイラは今日も晴れ着の刺繍をすると言った。結構、複雑な刺繍であったが、手の早いエイラはもう終わりそうであった。
 リズルが何とか粥を食べていると、オルヴがやって来た。その顔をまともに見られなくてリズルは俯いて小さな声で挨拶をした。
「朝餉は済ませたの」
 奥方がオルヴに訊ねた。
「はい」そう言いながらも、オルヴはリズルの横に腰掛けた。手には書物を持っていた。
「父上にお借りした書をお返しに来ました」
「私が貸したと言うよりは、お前が書庫より持って行ったのだろう」族長が苦笑した。「相変わらず、お前は書を好むのだな」
「折角、あるのですから、読まぬ法はないでしょう」
 二人は笑った。
 オルヴは蜜酒の杯を手にし、ゆっくりと飲んだ。
 リズルは隣にいるオルヴの存在を意識しない訳には行かなかった、それはまた、昨日の記憶とも結びついていた。
 実に、多くの事が起こった一日だった。その締めくくりに、まさか、あのような事が起こるとは思いもしなかった――エルグの言葉に恥ずかしさの余り居ても立ってもいられなくなったリズルの元に、オルヴが来てくれた。エルグは暫くは館に姿を見せないだろうと請け合ってくれた。リズルが最も顔を合わせづらいのがエルグであっただけに、それは有り難かったが、同時に自分の子供っぽい振る舞いにエルグが実家に帰る回数が減ってしまう事に申し訳なさもあった。気にすることはないとオルヴは言ってくれた。そして、情熱的な唇付けをしてくれた。
 情熱的――そう、今迄のような軽いものではなかった。それは、オルヴが自分の事を本当に想ってくれているという事ではないだろうか。
「――リズル殿」
 オルヴが何かをリズルに訊ねたが、自分の思いに没頭して聞きそびれた。
「書庫を御覧になった事はありましたか、リズル殿」
 再びオルヴが言い、リズルは頭を振った。
「なら、良い機会だ、御案内しましょう」
 リズルは嬉しくなった。書庫がこの島にもあるだけではなく、オルヴが案内してくれるとは。今日の午後は書を読んで過ごす事も可能になるかもしれない。
 早速、オルヴはリズルを書物庫に連れて行ってくれた。そこは写本師の部屋よりも書物の数は多そうだった。
「殆どは私の曾祖父、黒鷲ディオンが集めた物と言われています」
 伝説的な族長だった。リズルは部屋を見渡した。様々な大きさ、形態の書物が並んでいた。
「書物に興味がおありですか」
「ええ」リズルは圧倒されて言った。「でも、写本師のところでも、これ程の量はないと思います」
「集めたのは私ではないのですが」
「それはどなたでもかまわないと思います。読んでいらっしゃるのでしょう」
「少しずつですが」
「私も読んでもよろしいでしょうか」
 オルヴには素直に言う事が出来た。
「唯論」オルヴは微笑んだ。「貴女が書を好む方で良かったと思います」
「何でもよろしいのですか」
「ええ、自由にお読み下さい。書は読んでこそ、意味のあるものなのですから」
 リズルは思わずオルヴに抱きついて、その頬に唇付けた。髭がくすぐったかった。
「それ程、書を好まれるのならば、もっと早くにお教えするのでしたね」
 オルヴがリズルの腰に手を添えて言った。「何か、お好きな物はありますか」
「あなたが最も気に入っていらっしゃるものを」
 躊躇いはなかった。
 オルヴはリズルの手が届くか届かぬかの所にある書を一冊、抜き出した。
「貴女のお気に召すかどうかは分りませんが、この書になります」
 リズルが受け取って開いて見ると、それは詩であった。
「わたしも詩は好きです」
 その言葉にオルヴはにっこりと微笑んだ。
 オルヴが帰ると、リズルは書物を抱えて外へ出た。裏の石段を降りて岩場へ向かった。オルヴの好きな書物は一人きりで読みたかった。
 潮の引いた岩場は波の心配もなく、リズルはゆっくりと書を開いた。それは様々な詩を集めたものであった。リズルは書に没頭した。一つの詩を、何度も何度も読み返した。
 日が傾いてきたのを機に、ようやく書を閉じるとリズルは館に戻った。
「まあ、どちらにいらしたの」
 エイラが言った。「全く姿が見えなかったので、少し心配していましたのよ」
「申し訳ありません、裏の岩場に行っておりました」
「それは――」
 エイラはリズルの手にしている書に気付いたように言った。
「オルヴさまからお借りしました」
「あなたは文字が読めるのね」エイラは溜息をついた。「わたしは無理」
 リズルはエイラに申し訳なく思った。ここでも族長家の男達は文字の読み書きが出来るのに、女性は出来ないのだ。やはり、それが女らしいと考えられているのだろうか。
「母に教えてもらいましたので」
 言い訳じみているかもと思いながらも、リズルは言った。
「お養母さまともお話しをしたのだけど、お式まであなたにはゆっくりしていただこうと思っているのですけれど」
「お手伝いする事はないのでしょうか」
「夏至祭の準備は男達が行うし、特には何も。奥方ともなると忙しくなるでしょうから、今の内に休んでおく方がいいと思うわ。それに、お式の後は御披露目が七日も続くのですもの」
 族長家の結婚はここでも同じようだった。
「でも、よかったわね」エイラは刺繍の手を止めて言った。「今年はオルヴは交易島へは行かないのですものね。いつもなら夏至祭のすぐ後に出発していたから、寂しくなるところだったわ」
 集会へオルヴが出掛けていった時の事をリズルは思い出した。あの時の心細さをもう一度味わうのは嫌だった。交易島ではそうそう別の女性に心を移すという事は起こらないだろうが、それでも、心配は心配だった。
「交易島へ行く事自体が嫌なようだったわ、オルヴは」
 ぽつりとエイラが言った。リズルはぎくりとした。
「今まではそんな事はなかったというのに、何かあったのかしらね」
 エイラはリズルが交易島へ行っていた事を知っているのかどうか、リズルには分らなかった。知っていたとしても悪い事ではない。また、エイラの言葉にも他意はないであろう。
「オルヴさまはわたしなどよりずっと、大人でいらっしゃるから、何かお考えのあってのことなのでしょう」
 リズルはようやくそれだけを言った。
「あなたがオルヴには子供だっていう噂を気にしているのね」
 心配げにエイラが言った。「あれは兄の言葉だわ、気にしない方がいいわ」
 しかし、本当の事だ。その事は、当事者であるリズルが最も良く知っている。
 リズルは書を抱えて部屋に戻った。
 結婚したばかりだという以外に、オルヴが交易島へ出向くのを嫌がる理由があるだろうか。リズルとの出会いの場である。思い出の場所だという他に、オルヴにとって何があるというのだろうか。
 夕餉にはオルヴと戦士長とが同席した。夏至祭での様々な打ち合わせのようだった。鷲たちはいつものように大人しく皆の背後にある止まり木に据えられている。三人の男達は互いの話し合いに夢中なようで、リズル達女が同席している事にも気付いていないようであった。
「――オルヴ殿が今回の交易島へは行かれぬ事で、皆、羽目を外しませんかな」戦士長が言った。「協約に反するような事があれば大変ですぞ」
 協約、とは、北海も大陸も同等に守らねばならない交易島の規則である。
「度々言う事ですが、大陸の者が我々を野蛮人扱いしなくなれば随分と変わると思うのですがね」オルヴが言った。「だが、アルヴィもそろそろ独り立ちをせねばなりますまい。経験のある戦士を付ければ大丈夫でしょう」
「新妻を離れたくない気持ちは分りますが、アルヴィ殿とてまだ正戦士に任じられて二年、少々早すぎましょう」
「私はその頃にはもう父の名代だった」オルヴは肩を竦めた。「皆、忘れているようだが」
「貴方は特別だ」戦士長は微かに笑いながら言った。「二十歳とは思えぬ落ち着きで、領主との交渉事も安心してお任せ出来た」
 オルヴは交易島の領主と面識があったのだ。リズルはぎくりとした。
「今年も領主とあの若造が出て来るでしょうから、貴方に行って頂くのが最も助かるのですが」
「それなら、貴方が行くと良い、戦士長。貴方の強面なら、相手も引くでしょう」
 戦士長は大きな声を上げて笑った。何処でも戦士長というのは父のように豪快なのだろうかとリズルは思った。
「ご冗談を。私に細かな交渉事が無理な事は遠征の帰りでよおく御存知でしょうが。まあ、真面目な話、私はまだ、弟君には荷が勝ちすぎると思いますな」
「正直、私もそう思う」渋い顔をして族長が言った。「あれにはまだ無理だ」
「では、お館さま、オルヴに交易島へ行けとおっしゃるのですか」奥方が言った。「それは、余りなことですわ。リズルさんが可哀想すぎます」
「貴女はどう思います」
 オルヴがリズルの方に身を傾けて小声で訊ねた。「私が交易島へ行くのは反対ですか」
 当然、リズルは反対だった。側に居て欲しかった。だが、部族の事を考えるならば、物わかりの良い人間でいた方が良いに決まっている。その方が、大人だ。
「皆さまに必要なら、仕方がないと思います」
 瞬間、オルヴの目に鋭い光が宿った。間違った答えをしてしまった、と思ったが、遅かった。すっとオルヴはリズルから身を引いた。黙って蜜酒の杯を口に運んでいたが、腹を立てているとリズルは感じた。
 ようやく食事を終えて、オルヴが戦士の館に戻ると立ち上がった時、リズルはほっとした。腹を立てているオルヴの側にいるのは忍びなかった。
「オルヴ」
 エイラが立ち上がったオルヴの後を慌てたように追った。「胴着の背にかぎ裂きができていますわ」
 リズルはそこまで気付かなかった。
「ここでお脱ぎになれば、繕っておきますわ」
「有難う、エイラ」
 オルヴは大人しくエイラの言葉に従った。そして、襯衣(しゃつ)姿で帰って行った。
「鷲の鉤爪ね」エイラは席に戻って言った。「こういうほつれは多いわ。でも、なかなか慣れないと気付かないものよ」
 裾も良く見ると汚れていた。食事の脂や訓練の汚れだろうと思われた。縞であるが故に余計に目立たなく、見難い物になっていた。髭を拭う襯衣の袖も実際には酷く汚れているのではないだろうか。
「大丈夫よ、焦らなくても。わたくしも最初は大変でしたもの」
 奥方が笑った。
 それで慰められるのというものではなかった。妻になるという事は、結構鋭い観察眼を必要とされるのだ。そうでなければ、夫に恥をかかせてしまう事になる。それを許してくれる人であったとしても、周囲はそうではないだろう。気の利かない妻、と見られるだろう。
 リズルは消え入りたかった。だが、もし、服のほつれに気付いたとして、不機嫌なオルヴに声をかけられたかどうか、リズルには分らなかった。恐らくは掛けられなかったであろう。自分の感じたものが、皆の前で露わになるのを恐れる気持ちも強かった。いや、オルヴの事だ、皆の前ではあからさまに感情を見せる事はないだろう。しかし、リズルを見る目は冷たいかもしれない。そう思うと、とてもではないが声など掛けられるものではなかったであろう。
 あの情熱的な唇付けは何だったのだろうかと、リズルは思った。自分は愛されていると思ったのは、勘違いに過ぎなかったのか。オルヴもそれに気付き始めているのを否定しようとしていたのか。それとも、男の、女に対する欲望に過ぎなかったのだろうか。
 唯の一夜で消えてしまうような欲望であったとしても、リズルはオルヴの妻となるのだ。その後の人生を、心もなく夫婦として過ごす事になるのだろうか。それでは、イースの時よりも悪いではないか。あの時には、互いに義務だけの関係でいると思ったのだから、お互様であった。だが、今度は違う。リズルはオルヴに恋をしていたし、オルヴもそうだと思っていた、だが、オルヴに関しては自信が持てなくなって来ていた。
 リズルは泣き出したかったが、それをぐっと我慢すると部屋に下がった。
 寝台には、オルヴから朝に手渡された書物が置いてあった。それを胸に抱き、リズルは横になった。
 翌朝になっても気分は晴れなかったが、リズルは朝餉を済ませると書を持って石段を下り、岩場に行った。ここには誰も来なかった。一人になるには丁度良い場所であった。満ち潮の時には足を濡らさなくてはここには来れなかったが、引き潮の時には乾いたままで行き来できた。近くの浜では男達が仕事をしていた。族長家の奴隷達だ。朝の漁の始末をしているらしかった。
 オルヴの好んだ書物だと思うだけで、その中に書かれている一字一句までもが愛おしく感じられた。一生懸命に読み込んで、どれがオルヴの一番の気に入りの詩なのか知りたいとも思った。
 だが、本当はオルヴは自分の事をどう思っているのか、そちらの方をリズルは知りたいと思った。最初は月乃に引っ張られての勘違いの恋であったものが、今や冷めかけようとしているのか。欲望なのか、それとも、本気なのか。それは、リズルにとっては一大事であった。
 二度とは海を渡らないと決意して来たのだ。いや、例え想いが冷めたとしても、オルヴはリズルを島へ返す事は出来ない。島から島へと渡る結婚は、それだけの意味を持つのだ。特に、族長家に離縁はない。その結婚は政治的な意味をも持つからだ。次に海を渡る事があるとすれば、それは、子の無い若い未亡人としてだろう。それだけは御免だった。オルヴがどうあろうとリズルはオルヴに恋していたし、それはずっと続くであろうと思っていた。なにしろ、運命なのだ。リズルの方から離れる事は出来ない。
 書を開いても、もやもやとした思いが邪魔をして、なかなか集中できなかった。だが、その内に詩の世界に引き込まれて行った。
 どれくらいの時間が過ぎたのだろうか、背後からの鋭い悲鳴に、リズルははっとした。
 慌てて書を閉じて立ち上がった。尋常な悲鳴ではなかった。
 小走りに館の方へ向かうと、数人の男の奴隷が集まっていた。
「どうかしたの」
 リズルが訊ねると、男達は蒼い顔を上げた。
「どうぞ、あちらにいらして下さい」
 ふと目を落とすと、女が倒れていた。頭から血を流しており、顔は恐怖で引きつっていた。ぴくりとも動かない。死んでいるのか、と思うと、リズルの身体は震えた。
「何が、あったの」
「石段が崩れて、足を滑らせたようです」
 一人が言った。
「死んだの」
「そのようです」
「リズルさん」
 エイラが慌てたように石段の上から声を掛けて来た。「遠回りになりますが、浜の方からこちらにいらして」
 リズルは男達を置いて浜から館に戻った。
「ああ、ご無事でよかったわ」
 奥方が蒼い顔をして言った。
「何が、あったのでしょうか」
「あなたを呼びに行かせたのだけど、石段が崩れたようなの」エイラが言った。「長い間、手入れをしていなかったから…あなたが無事でよかったわ」
 リズルはぞっとした。あの女奴隷が自分であってもおかしくはなかったという事なのか。
「ご用だったのですか」
「オルヴが来て、あなたを探していたから呼びに行かせたのよ」奥方が言った。「ああ、でも、あなたに何もなくて本当によかったわ。これからはきちんと管理をさせるわ」
「何事です」
 オルヴの声がした。広間に、月乃と入って来るところだった。
 奥方が説明をすると、オルヴはぱっとリズルを見た。
「貴女は大丈夫でしたか」
「はい」
「とにかく、古い石段に注意を払わなかったのは我々の怠慢です。すぐに修理させましょう」
 あの石段を使うのは殆どが奴隷のようだった。奥方やエイラは館の裏にまで行かないようだった。
「気の毒なことをしました」リズルは死んだ女の顔を思い出してぞっとした。「丁寧に、葬ってあげてください」
「それが貴女の望みならば」
 オルヴは言った。その背後に息を切らせている兄弟とエイデンを見付け、リズルは姿勢を正した。本当は今すぐにでもオルヴの腕の中に崩れたい気分であったが、こう人が多くてはそれも我慢して震える脚で立つしかなかった。
「リズル殿、震えていらっしゃいますが、何があったのですか」
 アルヴィが言った。リズルを守るようにオルヴの腕がリズルの身体を抱いた。
「リズル殿を呼びに行った奴隷が、裏の石段から落ちて死んだ。リズル殿はそこに居合わせたのだ」
 オルヴの説明に兄弟は息を呑んだ。
「そんなに弱っていたとは知らなかった」
「知ろうが知るまいが、我々の怠慢だ。落ちたのがリズル殿でなくて幸いだった」
 温かなオルヴの胸に、リズルは寄り掛かった。
「エイデン、お前の言う通りだった。リズル殿を迎えるに当たって、館の安全を一度、見直しておくべきだった」
 オルヴの言葉に、リズルはぎくりとした。エイデンが、館の安全を見直しておくべきだ、などと何故言ったのだろうか。
 ――身辺にお気をつけを。
 エイデンの言葉がリズルの脳裏をよぎった。
 あれはどういう意味だったのか。この館には、住人の気付かぬ危険な箇所が他にもあるという事なのだろうか。
「とにかく、リズル殿は少し休まれる方が良いでしょう」
 オルヴは軽々とリズルを抱き上げた。
 部屋の寝台にリズルを横たえると、オルヴはその脇に跪いた。
「愕いたでしょう、今日はゆっくり、休みなさい」
「何か、ご用だったのではないのですか」
 リズルは言ったが、オルヴは首を振った。
「大した事ではありません。貴女が回復してからでも大丈夫です」
 そう言うと立ち上がり、奥方と交代した。
 もっと傍にいて欲しいとリズルは思った。だが、その背中は振り返ることなく部屋から出て行った。
 その日は夕餉までリズルは横になっていた。だが、目を閉じるとあの女奴隷の断末魔の表情が浮かび、心も身体も休める事が出来なかった。それでも、夕餉の席には平静な顔をして着く事が出来た。
 奥方もエイラももう、事故の事は忘れたような顔をしていたので、リズルもその話題には触れないでいた。奴隷が一人死のうが関係はないのだ。損失は族長に報告されただろうが、大した事ではなかったのだろう。
 その日の夕餉にはオルヴとエイデンがいた。エイデンの存在をどう捉えれば良いのかリズルには分らなかった。二人は親しいようであったが、その理由もリズルには埒外の事であった。男達三人は笑いながら蜜酒の杯を傾け、話に興じていた。
 リズルはオルヴの用事を訊ねたかったが、男達の話が一段落するまでじりじりとして待った。オルヴはリズルが広間に入ってきた時に目礼したきりで、完全に無視しているように思われた。
 リズルはオルヴにどう接すればよいのかまだ分らなかった。気分屋ではないし常に落ち着いていて、自己抑制も良く出来ている人だと思う。だからこそ、余計に分らなかったのだ。本当のオルヴとはどう言う人なのだろうかと思わずにはいられなかった。自分の見ているオルヴは、全て族長の後継者の仮面をかぶっているように思えてならなかった。
 交易島で出会ったオルヴはどうだろう。あれがオルヴの本当の姿なのだとすれば、森や部屋で二人きりになった時のオルヴがそうなのだろう。
 あのオルヴならば大好きだ。リズルは思った。丁寧で穏やかなオルヴも好きであったが、気軽に話せるとは言い難かった。飽くまでも、族長の後継者として許嫁に接しているという感が拭えなかった。オルヴの本心がどちらにあるのか、リズルには分らなかった。
 機嫌良く蜜酒の杯を重ねながらも、オルヴは決して羽目を外さない。エルグのように不躾になる事もない。そこに物足りなさを感じるのは、自分の我儘に過ぎないと思った。リズルの両親の前では、充分な誠実さを見せてくれたではないか。
 それに満足しないのは、欲深い事のように思えた。
 食事を終え、いつまでもぐずぐずとしている訳にもいかず、リズルは立ち上がった。それでもオルヴの視線は自分にはない。
 その事を哀しく思いながら、リズルは下がった。そして、この島に来て初めて枕を涙で濡らした。
 翌朝、少し遅めに起きたリズルは、オルヴとエイデンが館に泊まった事を奥方から知らされた。鷲の訓練場へと行ったと聞き、食事もそこそこにそこへ向かった。
「――で、首尾は」
「上々、と言った所でしょう。何と言っても五年振りの事ですから、年長の方々の評価は厳しうございますぞ」
「それは致し方あるまい」
 二人の会話が聞えて来た。
「リズル殿のご様子ですが」
 エイデンの口から自分の名が出てリズルはぎくりとして足を止めた。
「何もお気付きではないようですか」
「そのようだ」
 何を二人は話しているのだろうか。
「しかし、このままでは…」
「なるようにしかならんだろう」オルヴが言った。「何も知らぬ方が幸せという事もある」
 オルヴは何を言っているのだろうか。リズルは混乱した。何も知らない方が良いとは、どういう意味なのだろうか。二人は、一体何を隠しているのか。
「分るのだとしても、遅い方が良いだろう」
「オルヴ殿がそう望まれるのでしたら、私は従いますが――」
「不満そうだな」
「色々とありますから」
 リズルはそっとその場から離れた。何を二人が話そうが、それは自由だ。だが、自分に関する事をあのように話すとは。何かを二人は自分から隠そうとしている。それは重大な事なのか。些細な事なのか。それすらもリズルには分らなかった。ただ、リズルの知らない事をあの二人が知っていて、オルヴはそれを秘密にしようとしているという事だけは分った。
 自分達の結婚に関する事なのか。これからの生活に関する事なのか。それとも、全く別の事なのか――今までのオルヴに対する信頼が、全て瓦解するように感じられた。
 リズルは館に逃げるように戻った。
 リズルが広間に戻ると、エイラが先日のオルヴの胴着を持って来て外に出るところだった。
「オルヴは訓練場にいたかしら」
 エイラの問いにリズルは思わず(かぶり)を振った。
「まあ、それなら言付けなくてはね」
 自分は何故、嘘をついたのだろうとリズルは思った。訓練場に行った事をオルヴやエイデンに知られたくなかったからだ。あの会話を聞いたのを知られるのが恐ろしかったからだ。
「どうなさったの、顔色が悪いわ」
 リズルは咄嗟に言葉が出なかった。
「昨日の事を、まだ気にしているのね」エイラが言った。「死に顔を見てしまったのね」
 エイラはリズルを抱き寄せた。「大丈夫よ、すぐに忘れるわ。今日はお部屋で横になっていらっしゃいな」
 その言葉にリズルは甘える事にした。
 だが、本当は一人になるのは恐ろしかった。涙が止まらなくなる事が恐ろしかった。二人が何を隠しているにせよ、それはリズルに関する事なのだ。良いにしろ悪いにしろ、正直になって欲しいと思った。だが、リズルもそうありたいと思いながらも、結局は子供だと思われないようにと偽りを述べた事もあった。それが自分に返って来たに過ぎないのではないだろうか。オルヴに傍にいて欲しいと思いながらも、交易島へ出掛けても良いと言いはしなかったか。
 それがオルヴの機嫌を損ねて、リズルに伝えるべき事を秘密にしていたしても、オルヴを責める訳にはいかないであろう。常に優しい笑みをたたえた緑の目が鋭くなるのを、リズルは見てしまったのだから。
 では、どうすれば良かったのだろうか。正直な気持ちを伝えれば良かったのか。それとも、もっと別な答えがあったのだろうか。
 ふと浮かんだのはエイラだった。エイラだったら、恐らく正しい答えを一瞬で導き出せただろう。オルヴとは十三年も共に生活していてその性格も熟知しているだろうから。エイデンが言ったというように、自分はオルヴには子供なのだとリズルは思った。このような事で一喜一憂するのも、子供のする事だ。大人の女性ならば、きっと、こんな風に部屋に籠もったりせずに堂々と人前に出て、何でもなかったふりをするだろう。
 リズルは涙を拭って寝台に座った。
 何故、あの時、逃げ出したりしたのだろうか。何も聞かなかったふりをして、二人の前に出る事も可能であった筈だ。いや、そうするべきだったのだ。今からでも、遅くはないだろう。
 リズルは鏡で自分の顔を見た。何とか誤魔化せそうだった。
 部屋を出ると広間へ向かった。そこに、エイラとオルヴの姿を見て、リズルは足を止めた。エイデンの企むように、二人はお似合いだ、という思いが突然リズルを支配した。初めて二人が並んでいるところを見た時も、そうは思わなかっただろうか。
「――それで、リズル殿は…」
「ええ、やはり、衝撃だったのでしょうね、お部屋で休んでいますわ。今はそっとしておいた方がいいと思います」
 オルヴは顎に手をやって暫く考え込む風であったが、やがて、頷くとエイラから胴着を受け取った。
「いつも済まない」
「いいえ。いつでもお持ちくださいな」
 エイラは微笑んだ。何と美しいのだろうとリズルは思った。やはり、大人の笑みはあのようなものを言うのであろう。
 リズルはそっと部屋に戻った。月乃が許せば、あの二人は一緒になっていたのかもしれないとリズルは思わずにはいられなかった。それは、エイデンが企もうがどうかは関係ない。二人でいると本当に美しかったし、誰も間に入る事などできそうになかった。
 エイデンは正しいのかもしれない。
 リズルは惨めな気持ちで一杯だった。
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