第2章・城砦

文字数 20,700文字

 島が見えなくなると、リズルと迎えの女性――シエラは甲板下に押し込められた。だが、北海の波にシエラの気分が悪くなったのを幸いに、リズルは外に出て潮風を胸いっぱいに吸い込んだ。
「外の方がよほど空気がいいわ」
 リズルは風に吹かれてにシエラに言った。下は角灯があってさえも陰気で空気も淀み切っていた。あのような場所に長くいては誰もが気分が悪くなるだろうと思わずにはいられなかった。
 他の女性はいざ知らず、北海の船では、リズルやトーヴァは気分が悪くなった事は一度もなかった。それどころか船上を走り回り、舷側から身を乗り出して海を見たりした。さすがは海神の民の血を引く娘だと、父は笑ったものだった。へたり込んでいるシエラを尻目に舳先へ行くと、強い風が頬に当たった。
 父の船よりもずっと、遅い。
 一体、この船で交易島まではどの位かかるものなのだろうか。
 風は逆風。帆を巧みに操らなければ、櫂のないこの船では押し戻されてしまうのではないだろうかと思った。
 リズルは振り返って帆を見上げた。
 幾つもの白い帆。
 そこには何の紋章もなかった。
 北海では部族による違いはあったが、族長紋や部族紋、船長のものなど、何らかの紋章が刺繍されているものだ。それに、帆の色も白一色という事もなかった。乗組員の家族が相談し合い、各家庭で織る色を決めて見習い戦士達でつなぎ合わせるのだ。縦縞の他にも市松模様や横縞など、様々な模様に仕上がる。交易島ではそのようにして帆を作るのではないのかもしれない。中つ海もそうなのだろうかと、リズルは不思議に思った。交易島での思い出を探ってみても、港に出入りする船の記憶は曖昧だった。興味がなかったからだろう。その船がどこの帰属であるのかは北海では重要ではあったが、あちらでは違うのかもしれないとリズルは思った。
「どうか、中にお入りください」
 シエラが言った。その顔色は悪かった。
「あんな空気の悪いところになんて、いられないわ」
 北海の軍船は、喫水が浅い為に甲板下に人の入る空間はない。その代わりに甲板に天幕が張られる事がある。だが、父と共に交易島へ渡った時には天幕が張られても、そこにじっとしている事はなかった。夜も妹と共に父の側で星空を見上げて眠った。そのせいか、海で自分の頭上に何かがある、という事には息苦しさを感じた。そのような場所には利点は一つしかない。
「いけません」シエラは頑なだった。「若い女性が、吹きさらしで日よけもないところにいらっしゃるなど…それに、身分のある女性は人前に出ないものでございます」
 リズルはそっと溜息をついた。まだ島から出たばかりだというのに、今度は交易島のしきたりが自分を縛ろうとしている。
 反抗してはいけないと、母からも言われていた。しかし――
「あなたは気分が悪いから、下にはいられないでしょう。わたしだけ、あそこに戻れと言うのですか」
「わたくしもお供いたします」
「だめよ」リズルは言った。「無理をしてもよいことはないわ。わたしは北海の者です。海ではわたしの方が正しいわ」
 それにはシエラも一言もないようだった。
 リズルは遥か南を見やった。
 窮屈な生活になるのは覚悟の上だった。せめて海上では、少しばかりの自由を享受したいと思うのは間違っているのだろうか。
 船上では男達が黙々と働いていたが、誰もリズルの方に目を向けなかった。それが中つ海での「身分のある女性」に対する姿勢なのかは分からなかった。だが、皆が意識してこちらを見ないようにしているのはリズルにも分った。そちらの方が余程、失礼ではないのかとリズルは思った。だが、中つ海の者にしてみれば、それが当然の事なのだろう。
 今、目の前にしている交易島の男達は、北海の者とは体格が違う。北海の者達は戦士であろうと商人であろうと、交易島の者達に較べると骨太で大柄、背も高かった。祖父のように痩せていても長身だ。また、暗い色の髪と目よりも明るい色が多い、しかも、戦士階級のみならず自由人であっても常に武器を携帯している。
 遠征で連れて来られる奴隷は、確かに中つ海の人々だ。時には北海と同じような明るい髪と目の者もいたが、東の大陸にはそのような人々の住まう地もあるのだという。祖母はそこから来たと聞いた。
 遠征――その名の下に行われる中つ海への襲撃。北海の民は夏の間は中つ海の人々と交易島で商売をしながらも、その終わりには沿岸や島嶼へと掠奪行に出掛ける。だが、祖父の島を除けば、最早、冬に飢えるという事はなくなっているのではないだろうか。それなのに遠征を行う理由は、リズルには分らなかった。中つ海の勢力に対する北海の示威行為なのか、それとも、北海の民が元々、戦いと掠奪を好むのか。ただの慣習に過ぎないのか。いずれにせよ、その問いに答えられる者はいないだろう。
 自分の知る北海は世界の一部でしかない。
 交易島でさえも、広大な世界の一部だ。
 南溟の人を交易島で目にしたが、北海とも中つ海とも異なった人々だった。それは衣服だけではなく、言葉も肌の色も違っていた。北海の者でそこまで行ったという話は、未だ聞かなかった。また、南溟の者も北海まで来る事はなかった。
 北海と南溟とが出会う場所。それが交易島だ。リズルの婚約者であるイースは、いずれその島を治める事になる人なのだ。
「イースさまとは、どういうお方なのかお訊きしてもよろしいですか」
 リズルはシエラに言った。
 主人の名に、シエラは姿勢を正したが、揺れる船の上という事もあってか少々足もとがおぼつかなかった。
「若君は学問のお好きな方でいらっしゃいます。父君の跡を継がれました暁には、必ずや素晴らしい領主となられることと存じます」
 若君、という言葉に、リズルは苦笑を噛み殺した。そのような言葉は北海では揶揄する時くらいにしか使わない。この評は耳半分が良いだろう。どうやら、シエラは主人に忠実なようだが。
「学問がお好きなら、書も沢山、読まれるのね」
「さようでございます」
 なら、少しは退屈しなくて済むだろう。手仕事ばかりではどうにも息が詰まるだろうが、書物があれば、それがどのような物であろうと気が紛れるというものだ。中つ海では果たして、女の学問はどう捉えられているのだろうか。
「女に学問は必要かしら」
 リズルは訊ねた。
「とんでもございません」シエラの眉が跳ね上がった。「女性にとり、大事なのは家庭と社交でございます。その点では、ご安心いただかるかと」
 何も分ってはいないのだ。そして、ここでもやはり、同じだ。両親や祖父のように、女にも学問が必要だとは言わない。そして、シエラがリズルに学のない事を不安に思っていると解釈したらしいのも癪だった。北海の女だからと言って、文字を知らないと思われるのは嫌だった。だが、恐らく、誰もリズルにそれを望んではいないのだろう。
「残念ね。いい話し相手になれると思ったのに」
 そう呟かずにはいられなかった。
「島のご婦人がたは若君のご婚約者がどのような方なのか、非常に興味を持っておいででございます。ですから、お嬢さまにおかれましては、まずは礼儀作法を身につけていただきとうございます」
 ここでも礼儀作法だった。
 リズルは舳先に立った。
「危のうございます」
 シエラが慌てたように言った。だが、リズルは帆柱を前方に固定している索具を持って身を支えた。
「大丈夫よ。船脚が遅いのですもの」
 父の竜頭船のように心が躍るという訳にはいかなかったが、風は心地よかった。男達が愕いたようにこちらを見ている事に気付いた。
「ご婦人のなさることではございません」
 その言葉に、リズルはしぶしぶ甲板に戻った。
 シエラはほっとしたような顔になった。そして、男達はリズルから目を逸らせた。
 つまらなかった。だが、それを言っても仕方のない事もまた、分っていた。やはり、どこでも同じなのだ。自分は従うしかない。
 なぜ、両親は自分を自由に育てたのか。
 世界を見せたのか。
 知らなければ良かった事もこの世には多いのではないだろうか。他の娘達のように育てられていれば、もっと従順で、狭い世界でも満足できていたのだろうか。身の周りの事にしか、興味を持たずに済んだのだろうか。
 しかし、リズルはそうは思わなかった。
 恐らく、自分は生まれた時からこのような性分なのだ。祖父達のような人を見て、じっとしてはいられなかっただろう。弟達に許された自由を、何故、自分は享受できないのかと不満に思っただろう。
 それを知っていたからこそ、両親は自分やトーヴァも弟達と区別する事なく育てたのではないのだろうか。
 狭い了見の者など笑い飛ばせ、と良く父は言ったものだった。
 そんな広い度量を二人は持ち合わせていたのだろう。そして、祖父も。だが、世間一般では通用しない。一族の中ですらはみ出し者だった自分が、交易島で上手くやって行けるのかどうか、リズルは不安になった。


 三日目の夕刻には、陸地が見えた。だが、交易島ではなかった。ずっと長く海岸線が延び、それがどこまで続いているのか、リズルには見当も付かなかった。これが男達の言う「大陸」なのだと思った。暮れて行く陽に、緑の稜線が照らされていた。港にはこの船のような白い帆のずんぐりとした船が何艘も停泊していた。恐らく喫水が深い為であろう、北海のように浜に船を揚げる事はないようだった。
「交易島ではないようですが、どういうことなのでしょうか」
 遥かに続く緑の大地を見て、リズルはシエラに問うた。「わたしは交易島に行くのではなかったのですか」
「島へ行く前に、ここでお支度を調えていただきます」
 支度を調える。
 その意味が分らなかった。
「本日はこの港でお休みいただきます。明日には、わたくしどもの用意させていただきました衣装にお着替えいただきまして、島へと出発いたします」
「わざわざ、用意していただいた物に着替える必要があるのですか。わたしの持参した正装では何か、問題でもあるのでしょうか」
 リズルは眉をひそめずにはいられなかった。
「北海の衣装ではいけません」シエラは言った。「お嬢さまには、北海を忘れていただかなくてはなりません」
「どういうこと」
 ますます混乱した。
「商人ならばいざしらず、交易島の次期領主と北海の女性との婚姻は、本来ならば許されることではありません」
 では、自分は何故、交易島から呼ばれたのだろうか。
「ですから、若君のお迎えになる方は北方の内陸からいらしたという話になっております」
「わたしに出自を偽れと言うのですか」
 リズルは徐々に腹が立ってきた。「わたしが北海の者であることが、それほどに不都合なのですか」
「交易島は中立であるからこそ、成り立つのです。北海の者を領主家に迎えたとなりますと、商人達の信用を失います」
「では、なぜ、わたしをわざわざ迎えようというのですか」
「若君が望まれたからです」
 その一言に、リズルは愕いた。たったそれだけの事で、現領主は交易島の存在自体を危うくさせようというのか。後継者ならば、島の事を第一に考えるべきではないのか。
「でも、この船の乗組員は知っているわ」
「領主家直属の者達です。秘密が漏れる事はございません」シエラは背筋を伸ばし、顎を上げて言った。「これより先は、わたくしどもの指示に従っていただきます。お嬢さまは、北方の内陸よりいらしたということになります。そちらでは北海の人々に似た特徴を持つ人々も多うございます。その地を知る者はこの港にも交易島にも殆どおりません。ただ、交易島の安寧の為には北海との縁を切っていただく必要がございます」
 縁を切る。
 それは、父や祖父、弟達とも会えないという事だ。
 あれが最後だと知っていれば、違った別れになっていただろう。また、父も知らなかったのだ。
 騙されたようなものだ。
 交易島に。伯父に。
 いや、伯父としては黙っているしかなかったであろう。父の気性を最も良く知る人だ、リズルが出立するまで黙っていた方が得策だと考えたに違いない。見かけよりもずっと穏やかでリズルにも寛容な人だ、そうしなくてはならない事情があったのだろう。
「北海を、棄てろと言うのね」
 リズルは呟いた。
 船に乗ってしまった以上は、それを受け入れなくてはならない。要するに、この人々は自分を買ったのだ。だから、結納財は係累を断つ為に後に残る物品ではなく、銀で支払ったのだ。どのように言葉を飾ろうとも、物扱いされた事に相違なかった。
「お嬢さまは正室としてお入りになるのですから、ご安心ください」
 シエラの言葉は的外れだった。何もそのような事を心配しているのではなかった。だが、もし、正妻でなかったとしたら、父がどのような騒ぎを起こすか知れたものではない。そしてまた、シエラの北海の者を下に見るような言葉も気に入らなかった。
 シエラが悪い訳ではないのかもしれない。
 交易島は北海ではない。狭間に位置しているとはいえ、根は中つ海に属する。北海に対する感情は変わらぬであろう。それでも、自分の中を流れる北海の血を誰も奪う事はできない。そこに産まれ、育ったという事実を、誰もなかった事にはできないのだ。それを否定せよ、と言う方が間違っている。
 リズルは、自分が北海の一員である事を恥には思わなかった。むしろ、それは誇りだった。唯論、北海の人々にも欠点はある。それは中つ海の人々にしたところで同じだろう。交易島の者も、そうだ。
 そう、交易島は北海と密約を交わす事によって自らの同胞(はらから)を裏切っているではないか。北海では裏切りは死を意味する。それ程に強い結束で七部族は結ばれているのだ。それでなくては厳しい北海では生きてはいけない。
 長い冬の間、殆どの港が凍て付き、海が荒れる為に互いの島の往来はできない。助けを求める事も、安否を知る事もできない。夏に航行可能となってようやく、族長集会が開かれて飢饉や疫病による被害が詳細に報告され、助力を得る事ができるのだ。
 中つ海では冬も港が凍らないという。それだけ恵まれた場所では、人々の気質も変わってくるのかもしれない。
 港に近付く前にリズルは船室に押し込められた。北海の衣服を見られぬようにしなくてはならないというのだ。そして、桟橋に船が着けられるとリズルとシエラは共に船を下りた。その時には服と顔をすっぽりと覆い隠す外衣を着せられた。
 道には石が敷き詰められており、港の建物はどれもが高かった。
 北海の家屋は平屋ばかりだが、交易島では石造りの建物が殆どで、部屋が積み重なっている事に愕いたものだった。中つ海の建物はこれが普通なのだろう。
 港から少し中に入った所にある建物にリズルは案内された。その戸口には「赤犬亭」と書かれた赤い犬の形をした板が下がっていた。交易島では、確かそれは下が食事と酒を売り、上は貨幣を払って泊まる場所なのだと教わった覚えがあった。北海では客人は冬の間中でも自由に起居できる。唯論、貨幣など必要ない。他島の事情、珍しい話や詩が聞ければそれで充分だった。客でいる間は血讐さえも忘れなくてはならない決まりだった(だが、船が出られるようになれば一歩、扉から出ればその生命は保証されない)。
 中に入ると、思った通り卓と椅子とが幾つもあったが、憶えているような喧騒はなかった。数人の男女がいるばかりで、夕食時にしては静かで人も少なかった。いや、そもそも、その場の者は飲食はしておらず、二人の姿を見ると素早く頭を下げた。宿を丸ごと借りたので安全だとシエラは言った。
「お部屋ですぐに沐浴をいたしましょう。それから衣装合わせを行います」
「船では大変だったでしょう、休まなくて大丈夫ですか」
「お嬢さまの衣装合わせが先でございます」
 そのように急がなくとも、二,三日ここに逗留してもよいものをとリズルは思った。だが、あちらにはあちらの都合があるのだろう。
 屋内の(きざはし)を初めて上った。幼い頃は父と船で寝ていたのだ。木でできたそれは、歩くはしから崩れて行きそうで少し不安だった。通された部屋は恐らくは宿で最も良い部屋なのだろう、広い居間と寝室が扉で繋がっていた。それでも板張りの壁には綴織の一つもなかった。
 寝室に沐浴の用意がされ、リズルはお湯を使った。島では母しか使えない、良い匂いのする石鹸が用意されていた。
 遠くに来たのだと思った。リズルの世話をする女性達は口も開かず、居心地が悪かった。シエラも側に控え、落ち着かなかった。これが交易島でも続くのなら、耐えられるだろうかと思わずにはいられなかった。
 湯から上がるとすかさず布で包まれ、乾かされた。下着を身に着けるにも使用人が行う。生地は滑らかな絹だ。北海では大変、高価な物だ。従姉が結婚の時に夜着として持って行った事を思い出した。
 そこに無地の亜麻の内着が重ねられ、だぶついたところを素早く縫われた。上半身にぴったりとした物らしく、臍の辺りまでの前の開きを止める紐は細くて長く、少しずつ引いてゆかねばならなかった。
 上には長着。それは北海の物とは異なり、羊毛でも麻でもなかった。袖が長く、しかも袖口が広がっており、風や冷気を防ぐ物ではなかった。
 いや、ここでは防ぐ必要もないのかもしれない。
 その衣装も脇や裾を詰められた。今度は前だけではなく脇にも開きと紐があり、それを身体に沿うように引かれた。首周りにも布があり、窮屈な感じだった。
「とりあえず、その一着を元にいたします。これよりわたくしはお嬢さまにお似合いの生地をあがなってまいりますので、お食事にいたしましょう」
 下着姿に戻ったリズルは島を出る時に着ていた北海の服を手にした。
「それまでは、これを着ていてもよいのでしょう。このままではいられないのですもの」
 シエラは仕方がないという風だった。だが、リズルの身体に服を合わせるとなると今はそれしかなかった。一晩でどの位の量を用意できるのか。その為に針仕事をする者は眠る事も許されないのではないだろうか。船上では一着で済むだろうが、対面の際に必要となる正装は間に合うのだろうか。それはリズルの心配する事ではないのだろうが、あの複雑な服を自分で仕立てるとなるとぞっとした。
 馴染んだ北海の服に身を包むと、暫くして食事が運ばれて来た。船では保存食であったが、ここでは新鮮な食材を調理したものだ。港ではあったが魚ではなく肉だった。香草も乾燥させたものではなく摘みたてなのか非常に香り高かった。
 食事を済ませるとようやく、一人になる事ができた。好奇心に引かれて、窓辺へと行き、鎧戸を上げた。外は既に暗かったが、下の石が敷き詰められた道は建物の灯りで照らされており、人や馬がまだ行き交っていた。交易島には較べるべくもないが、賑やかな事では島の市場以上だった。
 当然のことながら、中つ海の人々ばかりだ。本格的に交易が始まるのはもう少し経ってから――北海の物品が入ってからになると聞いていた。大陸の北に位置する土地の産物も同じ頃になるのだろうか。そうすれば、ここにも南溟やその北方の商人が訪れるのだろうかと、リズルはぼんやりと思った。
 下を行く人々の中には、長剣を佩いた明らかに戦士と見える者もいた。この港を守る者なのか旅の者なのかの区別は、リズルにはつかなかった。だが、父や祖父達は遠征ではそのような者と剣を交えているのだ。
 交易島では、例え敵対している者同士でも争う事は許されていない。だが、この港では違うのかもしれない。ここは中つ海の領域だ。もし、自分が北海の者だと知れたならばどうなるか分ったものではない。北海の民と北方の民とが似ている、というのは幸いだっただろう。そして、シエラは知らぬ事だが、リズルの中には祖母を介してその北方の血が流れている。
「お嬢さま、なりません」シエラの慌てた声が飛んできた。「夜風に当たるのはお身体によろしくありません」
 今更何をと、リズルは苦笑した。
 シエラが鎧戸を閉めた。服も着替え、こざっぱりとして、船の揺れに苦労していたとは到底思えなかった。
「淑女はみだりに人々に姿を見せぬものでございます」
 淑女、という言葉に、リズルは危うく声を立てて笑いそうになった。だが、シエラの顔は真剣だった。
 自分にそのような事を望むのは間違っていると思った。いざという時には自分と家族と守れるようにと母から言われて、長剣を始めとした武器も扱える。乗馬は父から教わった。持参した道具の中には、この旅が始まる直前に父から贈られた片刃の小太刀も入っている。
 だが、シエラの言う淑女はそれとは真逆であろう。恐らく、自分のなれなかったもの全てだ。
 他の娘だったら良かっただろうに。
 リズルは思った。
 手仕事とお喋り、そして友人宅への訪問で一日が暮れるのを良しとし、幸せだと思う娘ならば、中つ海での生活にもすぐに慣れるかもしれない。だが、リズルには多大な努力が必要なようだった。
 平穏な暮らしはリズルにとっても望みではある。しかし、それは両親が築いて来たものを規範としていた。両親の考えはどの家とも異なっていたし、交易島とも相容れるものとは思えなかった。
 リズルは溜息をついた。この時間を、どうして過ごせと言うのだろうか。ただ黙ってじっと座っていなくてはならないのだろうか。話をする気分ではなかったし、考えを巡らせる事くらいしかできそうになかった。それも、これから自分を待ち受けている事を思うと、ずぶずぶと深みにはまって行くだけの気もした。
 自分の結婚は、北海と縁を切る事が条件だった。そうであってさえも、集会の賛同を得る前に伯父はリズルを送り出す事を承知せざるを得なかった。長く族長の座にいる伯父だ、事後承諾の危うさを知らない訳ではないだろうに、それ程交易島が北海に及ぼす力は大きいという事なのだろう。
 冬に備えての食糧を平和的に入手できる交易島の存在は、北海の民にとっては有り難いと言えるだろう。そして、北海の産物は特に南の地では珍重される。その利益は大きい。だが、交易島は市に店を出す商人達から貢納金を受け取っており、売り上げの半分を持って行かれるのだと商人がぼやいていたのをリズルは憶えていた。その事については族長達の力を以てしても如何ともし難いのだというのも確かだった。七部族長の力は北海では絶対ではあったが、中つ海では通用しないという事に、リズルはその時に愕いたものだった。そして、世界には様々な勢力があり、戦いと和平を繰り返していると言う事も、交易島での様々な噂話から知った。
 北海の部族が互い争わずに並び立っている事がどれ程の奇跡なのかを、祖父からも教わった。個々の敵としては恐ろしいものではないが、もし、大陸の者達が争いを止め、協力して北海を平定する事になったならば、いかに勇猛な北海の戦士が一丸となっても敵わぬであろうにと語った事もあった。
 北海と中つ海との要が、交易島だ。
 祖父が口にした「密約」がいかなるものかを、リズルは知るべくもなかった。いや、望めば教えて貰えたであろう。知って損はないだろうから。だが、あの時、リズルは遂にそれを言い出す事ができなかった。事実を知るのが恐ろしかったのかもしれない。自分達の生殺与奪権が小さな交易島にあるのかもしれないという考えは、恐ろしかった。この島の領主の考え一つで北海の七部族がどうにかなるかなど、知りたくはなかった。

 翌日、北海の服は全て仕舞われた。その代わりに夜の間に仕立てられた上半身がぴったりとした中つ海の服を身に着けなくてはならなかった。身体に流れるように添う衣とは分かれなくてはならない。ただ、生地は良いので仕立て直しする事はシエラも了承した。無駄にするには惜しい物だった。
 上半身の身体の線がはっきりと分かる中つ海の衣は、ゆったりとしたものに慣れたリズルには恥ずかしいものがあった。そして、大きく開いた袖口や、透かし織りは装飾としては美しいとは思ったが、機能としては最低だ。だが、身分のある女性は服の機能など考えなくても良いのだろう。また、このような衣服だからこそ、人前には余り姿を見せないのかもしれない。シエラ以外の使用人の女性達の格好は、北海とさほど変わるとは思えなかった。
 宿から港までの短い距離でも、人々が自分達を好奇の目で見ているのがリズルには分かった。昨夕のように頭から全身を隠す外衣を羽織っている。髪も顔も良くは見えないだろう。このような港町にあってさえ、女性の旅人というのは珍しいものなのだろうか。
 今回は宿に控えていた者達も乗船した。髪を短く切り口髭を生やした使者としてやってきた男――家令のリードは既に船におり、船長に指示を出していた。
「あの人は、どういう人なのです」
 リズルはシエラに訊ねた。気にはなっていたのだが、機会がなかった。
「ご領主の信頼篤く、信用の置ける者ですわ。少々、生真面目に過ぎることもございますが」
 シエラの言葉とは思えず、リズルは思わず笑いそうになった。案外人は、自分の事は見えてはいないのかもしれない。
 船上からリズルは港を見た。
 朝の光の中での光景は、昨日の黄昏時とは全く異なって見えた。
 美しい、とは思えなかった。それなりに調和は取れているのだろうが全て人の手によるもので出来上がっており、浜もなければ緑の木々もなかった。冷たい石でできたこの港は、かつて訪れた交易島にも似ていた。あの時には、自分がそこで暮らす事になるとは、当然ながら思いもしなかった。この光景の中で一生を送るというのは、どういう気分なのだろうか。それが当然の者達は息が詰まったりしないのだろうかとリズルは思った。
 交易島でも、吹き抜ける潮風は感じられるだろう。だが、そこには森や川はあるのだろうか。島に深く切り込んだ峡海はあるのだろうか。また、あったとして、そこに自由に出かけることはできるのだろうか。
 不安ばかりだった。
 誰も守ってはくれない。誰も庇ってもくれない。
 その事を覚悟しなくてはいけない、というのを、自分は甘く見ていたと思った。真剣に考えてきたつもりであったが、やはり、まだ十六歳でしかなかったのだと思い知らされた。
 生きる事も愛する事も知らない、と祖父は言った。
 そう、生きる事はこれから始まる。
 そして、自分は今まで愛されてきた。愛してきたつもりだった。だが、それよりもずっと深く、広い愛情で自分は包まれ、守られてきたのだ。
 リズルは思わ船縁を握り締めた。
 船が桟橋を離れたが、リズルはいつ、船長が命令をくだしたのかも気付かなかった。
 遠ざかる港に、リズルは背を向けた。島とは異なり、ここには自分を繋ぎ止めるものはない。
 シエラがやって来た。下に降りろというのだろう。


 交易島が見えたという報せを受けたのは、やはり船室でだった。今回は大人しく言う事をきいた。一日と言う短い時間であったが、それでも、もうリズルには限界だった。他の使用人がいなければ、そしてここが中つ海の領域でなかったなら、リズルは甲板で島影を探した事だろう。
 すぐにシエラの指示で正装に着替えさせられた。為されるがままでいるのは嫌だったが、仕方のないことだと諦めるしかなかった。
 正装は、今までの服に似ていた。色は青く、全体は無地だった。裾は布端になっており、黄色で植物文様が織られていた。袖端も襟も同様で、いずれにも装飾の透かし織りがついており、着心地は良くなかった。袖口の装飾だけでもひらひらとして厄介なのに、今度は顔にかかる程だった。 
 そのような事で不機嫌にしている訳にはいかなかった。シエラの話では交易島の人々はリズルの到着を興味深々で待っていると言う。それが大袈裟な謂いにしても、どこで誰に見られても良いようにしなくてはならない。
 念入りに髪を梳かれ、編まれた。一人では編めないような複雑な編み込みにされているようだったが、鏡は見せて貰えなかった。知らなくても支障はないのは確かだ。また、中つ海の流行の編み方ならば、鏡を見たところでリズルに判断はできないだろう。
 促されて立ち上がると、腰に飾り帯をゆったりと結ばれた。長く垂れた部分は正面に。このような方法は知らなかった。様々に意味のある飾り帯の結び方を教わったが、その中に同じものはなかった。
「この結び方には、何か意味があるのですか」
 シエラに訊ねた。
「正装の際にはこのようにと決まっております」
 簡単な答えが返って来た。
 自分では到底、着られぬような衣服に、中つ海の身分ある女性の生き方が見えるような気がした。
 北海でも、娘の間は親兄弟の言うがままである。だが、結婚をした後は、大抵の女性が家の全てを仕切る事になるので強くならざるを得ない。離婚がその良い例だろう。離婚にせよ死別にせよ、二度目の結婚は自らの意志で選ぶのが普通だ。法により本人の承諾なしに決められぬ事にもなっている。
 だが、ここではどうだろう。馴染めるかどうか、ではなく、リズルは馴染まなくてはならないのだ。中つ海の女性にならなくてはいけないのだ。北海を心の奥底にしまい込まなくてはならない。
 身体に伝わる振動と甲板の足音や声から、船が桟橋に着けられたのが分った。
 いよいよだった。
 リズルはシエラに声を掛けられるよりも先に、船室からの出口に目をやった。この暗い穴蔵から出られるのはせいせいした。先に何が待っていようとも、不安がってばかりいては始まらない。父が別れ際に言ったように、海狼の血筋である事の誇りを忘れてはならない。
 船室の扉の所で声がして、シエラがそれに応えた。リードだ。入って来るとリズルの前で一礼した。
「到着に御座います。御案内申し上げますので、どうぞ、こちらへ」
シエラがリズルの手を取った。後について行くくらいで、とは思ったが、大人しく従った。
 船室から外に出ると、眩しい光に溢れていた。港のざわめきが耳に入って来た。見上げると、青い空に白い海鳥が飛び交っていた。
 遂に、到着してしまった。
 そう、リズルは思った。
 ここに足を踏み入れれば、もう、自分は北海の物ではなくなる。生涯、その事を秘め続けなくてはならない。
 昂然と、顔を上げて行きたかった。だが、それはシエラに小声ではあったが注意をされたので、島を出た時のように伏し目がちに歩んだ。港の人々が自分に注目しているのが分かった。好奇の目だ。
「こちらにお乗り下さい」
 シエラが示した乗り物を見て、リズルはぎくりとした。
 そこには体格の良い南溟の男達によって担がれた、天蓋に覆われた小さな肘掛け椅子があった。脇に控えていた同じく南溟の男が、その前に蹲った。皆、裸足だった。
「さあ、どうぞ」
 何の躊躇いもなくシエラは言った。そして、リズルを蹲った男の前に導いた。
 この男の背中を踏み台にしろ、という事なのだと、ようやくリズルは気付いた。いかに奴隷とはいえ、そのような使い方をする者をリズルは見た事がなかった。これが中つ海のやり方なのかと思うと、吐き気がした。北海で最も奴隷扱いが悪いと言われるリズルの島でさえ、奴隷を足蹴にするのは主人の怒りに触れた時くらいなものだった。
「あなたはどうするのですか」
 時間稼ぎにとリズルはシエラに訊ねた。
「わたくしとリードは輿の横について歩きますので、ご心配なく」
 一人で行かされるとリズルが思ったと取ったらしい。そのような事は正直、どうでも良かった。何かと理由をつけて人の背を足蹴にするのを避けようと思ったが、跪いた男達の肩の上にある「輿」に乗る事は、どう考えても不可能だった。唯論、島で馬に乗っていた時のように裳の裾をからげてよじ登れば良いのだろうが、人目のある中でそれはできなかった。
 諦めてリズルは一つ、小さく息を吐いた。
 心の中で謝罪しながら、微かに震える身体を抑え、きつく目を閉じて男の背に足を乗せた。
 人間の身体の感覚が、布靴を通して伝わった。
 なるべく素早く、そこから「輿」へと移った。そして椅子に腰掛けると男は無表情に立ち上がった。リズルに目を向ける事もなかった。
 シエラが輿の垂れ幕を留めていた紐を解き、リズルの視界は閉ざされた。
 輿が持ち上がり、リズルは思わす声を上げそうになった。そして、動き始めた。
 交易島では、このようにして移動をするものだったのだろうか。
 幼い頃の記憶には、このような乗り物はなかった。それとも、北海の者がうろつく辺りには、上品な人々はいなかっただけなのかもしれない。記憶にあるのは、人々で溢れかえった市場だった。様々な珍しい物品が売られ、取り引きされていた。あちらこちらで銀がやり取りされ、物々交換も行われていた。ある広場では奴隷が競りにかけられ、違う広場では飲食の屋台が出ていた。香辛料を扱う通り、生地や服を扱う通り、細工物を扱う通りと、店は整然としていたが人々は雑多だった。普段は厳つい顔の北海の戦士達が、奥方に頼まれでもしたのか、装身具を売る店で困ったような顔をしていたのも思い出された。父は母から頼まれた香辛料などの書き付けを島の商人に渡して交渉と入手を頼み、後はのんびりと広場で飲んでいる事が多かった。リズル達をほったらかしにしていた訳ではなく、リズル達は大人と過ごすよりも商人の子供達と過ごす事を選んだのだ。
 そうだ、武器を売る店には連れて行って貰った。父達はそこでまだ完全に仕上げられてはいない長剣用の鋼を何本も手に入れていた。良い鋼は大陸渡りの物だが、武器に仕上げる腕は島の鍛冶屋の方が勝っているのだと言っていた。遠征で折ってしまったりして仕えなくなった長剣は、リズル達の小太刀になった。子供や見習い戦士でそのような質の良い武器を持つ者は余りいなかったので、羨ましがられたものではあったが、母に言わせると力任せに使うから、折角のしなりの良い武器を無駄にしてしまっているだけなのだそうだ。
 まだ本格的に交易が始まっていないのならば、あの時ほど人は多くないと思われた。
 だが、それでも、移動してゆくと港とは異なった賑わいに包まれた。外を見たいという誘惑にかられたが、何とかそれを抑えた。外に何が広がっているにせよ、これからの人生を自分はここで過ごす事になるのだ。焦る必要はないと、自分に言い聞かせた。
 北海の商人達はまだ、交易島には来ていない。族長集会の後に、商人達は家族を伴って夏の間、交易島で過ごすのだ。そして、遠征後のぎりぎりになって島に戻って来る。子供時分には、そんな商人の子供達を羨ましく思ったものだった。交易島で商売する事を許された商人の家族のみが、女子供でも海を渡る事ができるのだから。あの頃に遊びに連れ出してくれた年上の娘達はもう、嫁いでいないだろう。他の島に渡った者もいるだろう。少年達は父親の商売の手伝いをしている事だろう。街へ出る機会があればその消息を知る事ができるのだろうが、北海との縁を切らねばならないのならば、それも許されぬのであろう。また、今の自分への扱いから考えるに、自由に街へ出る事もできないだろう。
 知らず、涙が滲んだ。
 思い出以外の全てを失ってしまうのだ。
 この身に流れる北海の血を否定せよ、と言うのだ。
 だが、それはできない。
 北海の血を否定する事は、誇りを失うに等しかった。自分の中を流れる海狼や巨熊の血を、なかった事にはできない。それをしてしまえば、一体自分に何が残ると言うのだろうか。リズルという人間は、北海の者がいなければこの世に存在しなかったのだから、自分を嫁に、というのであれば、それを丸ごと受け入れて欲しいと思った。
 何を以てして、交易島の後継者は自分を妻にと望んだのだろうか。
 それは、常にリズルの頭を離れない問いだった。
 会えばそれも分るのだろうか。
 リズルは相手がどのような人物であるのか、見当も付かなかった。シエラの話を聞いても、全く想像できなかった。写本師のような、本に埋もれて生活する事を何よりの楽しみとするような人なのだろうか。それとも、祖父のように武芸に秀でていながらも書を愛するような人なのだろうか。リズルの弟のヴェルスは祖父に似ていて無口で書を好む。武芸が駄目なのかと言えばそうでもない。そういう者は島では他にいなかった。父にはヴェルスが今ひとつ理解できないようだった。戦士の館では書を楽しむ事はできないだろうが、愚痴の一つも言わない。そういう子であったが、父の想像の埒外にいる子のようだった。そういう人物なのであろうか。
 輿は進んで行くが、リズルには方向も距離も分らなかった。香辛料街のような、特殊な香りがする訳でもなく、人々のざわめきの他に特別な音がする訳でもなかった。輿を担ぐ男達の足取りはゆっくりであり、殆ど揺れる事もなかった。
 やがて、輿が止まるとリードの声がした。
 重々しい音がして、再び男達は動き始めた。
 好奇心が疼いたが、何とか我慢した。飽くまでも自分は「お嬢さま」を演じなくてはならないのだ。
 再び輿が止まったかと思うと、ゆっくりと下がった。
 到着したのだろう。
 垂れ幕が引かれた。既に建物の中だった。シエラが手を差し出した。その手を取って輿を降りようとしてぎょっとした。また、あの男が蹲っていたのだ。港でならば、踏み台になる物がなかったかもしれない。だが、ここではその用意くらいはあるであろうに。
 リズルは手を引かれるままに男の背に足を乗せた。そしてすぐに降りた。
「ご苦労さま」
 リズルは罪悪感を抱きながら、男達に目を向けて言った。特に、立ち上がろうと片膝をついた踏み台になっていた男に対して。
 そのような言葉など掛けられた事がないのだろうか、五人は目を見開いてリズルを一瞬、凝視した。だが、無作法だと思ったのか、すぐに目を伏せた。
「奴隷にねぎらいの言葉など、不要にございます」
 小声で、厳しくシエラは言った。だが、気にはならなかった。
 そこは天井の高い広い空間だった。全てが石で囲まれており、壁には何枚かの綴れ織りが掛けられていた。交易島を意味する船旗と領主家の紋章であろう旗が掲げられている。
「ようこそいらっしゃいました」
 やわらかな、しかし少し弾んだ女性の声がして、リズルははっとした。
 自分の方へ壮年の男女が近付いて来ていた。二人とも顔には満面の笑みをたたえている。領主夫妻だと思った。
 リズルは二人に向き直り、船の中でシエラから教わった通りに裳の両側をつまみ、左足を後ろに引いて(こうべ)を垂れた。
「お初にお目にかかります。リズルと申します。何とぞよろしくお願いいたします」
 この言葉は、母から教わったものだ。
「堅苦しい挨拶はかまわないのよ」優しい顔の領主夫人は浮き浮きしたように言った。「お疲れではなくて。船旅は大変でしたでしょう」
「ありがとうございます。楽しかったですわ」
「まあ、取り敢えずは一休みをされるが良い。お互いの紹介は、それからでも充分に間に合おう」
 やはり穏やかな顔で、少し長めの口髭を生やした領主は言った。その言葉にシエラが頭を下げた。
「では、お部屋にご案内申し上げます」
「荷物は、先に届いておりますから」
 リズルは愕いた。自分の方が先に下船したというのに、もう荷が届いているとは。
 シエラに促されてリズルはその後を付いて行った。
 長い(きざはし)を上って入ったその部屋は、明るい光に満ちていた。島で両親の使っていた部屋よりも広かった。装飾はそれほど好みとは言えなかったが、何よりも、大きな窓のある事に愕いた。しかも、そこには貴重な硝子が嵌められていた。
 リズルは窓に近寄り、外を見た。
 厚さが均一ではなく、少し緑がかった硝子ではあったが、外を見るのに支障はなかった。海と港が広がっていた。船の乗組員の顔も遠くではあったが、見分ける事ができた。
 ここからならば、北海の船も見えるだろう。父や祖父達の姿を見る事ができるかもしれない。誰がこの部屋を選んでくれたにせよ、リズルはその者に感謝した。
「船旅の汚れを、まずは落としませんと」
 シエラの言葉に現実に引き戻された。「すぐに湯桶を運ばせますので」


 一日に二度も、この面倒な服に着替えさせられるとは思わなかった。つい先程、船の中で着替えたばかりだというのに、如何に湯浴みを済ませようとも、違う服に着替える事になるとは。この調子だと、一日に何度も着替えさせられる事になるのではないか。
 着付けが終わり、皆が部屋を出て行くとリズルはそっと溜息をついた。
 夕食まではゆっくりと過ごすようにとの事だったが、この着慣れない窮屈な服で、どのように寛げば良いのか、リズルには見当も付かなかった。
 寝台に横になる事も考えたが、この生地ではすぐに皺になりそうだった。そうなった時には、恐らく、シエラが不快を隠しきれないだろうと思った。野蛮な北海人、という印象を、更に強めるだけだろう。
 窓辺に椅子を置き、硝子窓に手を掛けた。
 嵌め殺しだ。これでは、外の空気を吸うことも出来ない。
 そのまま椅子に座して窓に寄り掛かり、外を眺めた。
 海鳥が飛び、鳴き交わしている。
 出迎えに、イースという自分の婚約者の姿はなかった。
 どこかに出掛けているのだろうか。十九歳ならば、商用で父親の名代で仕事を行う事もできるだろう。だが、よりによって、この日に。自ら望んでおきながら迎えに出ないとは。余程の急な用事でもできたのだろうか。それでなければ失礼すぎないだろうか。だが、ここは交易島なのだ。何よりも商用が優先されるのかもしれない。領主が、互いの紹介は後にしようと言ったのは、本人が不在だからかもしれない。
 リズルは溜息をついた。
 寸暇を惜しんで人々は商売に精を出す。情報交換も兼ねたのんびりとした北海の島同士のやり取りでは、ここでは損をするのだという。そう言えば、幼い頃に時にこの島に来た時も、人々が早口でまくし立てるのに愕いたものだった。南溟の商人などは北海と同じく世間話や茶を飲みながらゆっくりと座って、何時間でも粘る事も多いようだったが、大陸の商人達がそのような交渉をしているところを見た事がなかった。幼い頃の印象、とは言っても、たかだか五年前の事に過ぎない。人の営みはそれほど急激に変わるものでもないだろう。
 港の船の出入りは少なかったが、それでも、海を見るのは心が落ち着いた。
 海辺で育ったからだろうか。常にその音と香りと共にあった。
 遠くまで来てしまったが、それでも海は繋がっている。
 そう思う事で、少しは気が紛れる事もあるだろう。
 ぼんやりとリズルは海を眺め続けた。


 日が暮れる頃、灯りと共に夕餉の用意の整ったことををシエラが知らせに来た。
 窓辺で外を見ていたリズルに、微かに眉はひそめはしたものの、何も言わなかった。立ち上がったリズルの脇から、シエラは窓が隠れるくらいの大きさの綴織を掛けた。別段、感心する程の出来でもない植物模様の綴織だった。
 シエラに促され、リズルは階を下った。裾の広がったこの衣装では踏んでしまいそうで少し、怖かった。シエラのしているように片腕で少し裳をからげるようにしてみたが不安だったので、もう一方の手は壁に添えたままだった。
 ようやく下に辿り着くと、リズルはそっと安堵の溜息をつかずにはいられなかった。
「こちらでございます」
 シエラがそれに気付いたかどうかは分らなかったが、無表情にリズルに言った。「お食事は、朝夕共にこちらでお摂りいただきます」
 案内されたのは、まるで族長の館の大広間のような広い部屋だった。天井からは数多くの蝋燭の灯りが下げられて部屋を照らしていた。窓はないが、壁には風景の綴織が数枚、掛けられていた。大きな卓が中央に据えられており、その脇に領主夫妻がいた。相変わらず、リズルの婚約者の姿はない。
 島でのように、卓の上座には領主夫妻が着き、リズルは夫人側の席を示された。
「旅の疲れは、少しはとれまして」
 心配そうな声に、リズルは微笑んだ。
「お気遣い、ありがとうございます。ゆっくりと、休ませていただきました」
 ほっとしたような表情が二人の顔に浮かんだ。気を遣われているとリズルは感じた。
「私がこの交易島の領主、ギャレス。こちらは妻のジョアンだ」
 領主が言い、リズルは慌てて席を立った。
「よろしくお願いいたします」
 このような形で名乗られるとは思わなかった。
「さあ、そんな堅苦しい挨拶はかまわないから、お座りになって」
 領主夫人は礼儀だ何だと煩いシエラとは違うようだった。
 食事が運ばれて来た。島で食べているものとそう変わりがないようだった。大陸での港で出た物よりはずっと上等だ。二人の作法を見ていても余り変わりはないようだった。運ばれて来た杯には、だが、蜜酒でも麦芽酒(エール)でもなく、濃い色の液体が入っていた。酒の匂いがした。
「大陸から運ばれて来た葡萄酒なの。お口にあうかしら」
 夫人の言葉に、リズルは少し舐めてみた。葡萄は北海では干した物しか手に入らない。しかも、交易島からの輸入品なので高価であり、祝祭にくらいにしか使われない。それから出来たという酒は少し渋みがあったが、酸味もあった。干し葡萄のような強い甘みはない。好きかどうかは分らなかったが、行儀良く笑みを返した。
「お部屋はどうかしら、気に入っていただけたかしら」
「はい。外の景色が美しいです。ありがとうございます」
「この城砦の部屋は海に面しているか、通りに面しているしかなくてね」領主が言った。「リズル殿には通りに面した方は騒々しいのではないかと思ってな。海に面した方は嵐の日には恐ろしくもあろうが、その時には、別の部屋を用意させるので、安心して戴きたい」
「お気遣い、ありがとう存じます」
 リズルは領主に向かって微笑みながら頭を下げた。
「その手柄は私ではなく息子だな」領主は声を上げて笑った。「イースが、そのようにした方が良かろうと言ったのだ」
 リズルの中で、婚約者の印象が少し、良くなった。
「その、イースさまはどちらにいらっしゃるのでしょうか」
 沈黙が落ちた。居心地悪げに夫人が夫を見た。
「あ…イースは今、少々、身体を悪くしておってな」
「大丈夫ですよ」慌てたように夫人が言った。「少し、風邪をこじらせましたの。でも、もう大分、よくなってはいるのですけれど、大事をとって、まだ床についているだけですから」
「貴女にうつしても何ですからな」
 領主は杯を口に運んで言った。
 戸惑いながらもリズルは微笑んだ。では、交易島から早船が来た時には、その青年は病の床に就いていたという事なのか。それなのに、何故、急いで使いを寄越すような事をしたのだろうか。到着したとて、顔を見せることも出来ないのならば、もう少し待っても良いものを。お陰で、自分は充分な気持ちの整理も出来ぬままに、ここに来るはめになったのだ。
「ごめんなさいね、せっかく、遠くからいらしてくださったのに、本人がまだ病床だなんて――でも、あなたに他の方からのお話がある前に、どうしてもお迎えしたかったのよ」
 まるでリズルの思いを察したかのように、夫人が言った。
 他の者からの話。
 リズルは思わず笑いそうになった。
 普段のリズルや父を知る者は、自分の父親の力を借りても縁談など思いもしないだろう。大体、親を通じてそういう話を持ち込む男は絶対に許さんと、父は常々言っていた。それに、興味もなかった。父から自分に懸想している男達がいると聞かされて愕いた程なのに。
「私などを望んでいただいて、ありがたいことです」
 もし、そういう話題になった時にはそう答えるようにと母かっら言われいてた。本心は違っていても、相手や会話に合わせて言葉を選ぶようにと、きつく言われていた。そう、本心は、別に有り難いなどとは思ってはいない。
 だが、それでも、その言葉に領主夫妻は安心したように顔を見合わせて微笑んだ。安堵したような感じを受けた。
「あの子も、早く貴女にお会いしたいとは思っているのですが、何分、この冬の半分は寝込んでおりましたので、男として余り情けない姿は見せたくはないらしいのです」
「そのようなお気遣いは不要ですのに」
 それ程に重い病気であったのならば、別段、顔色が悪かろうが痩せていようが、気にはならない。「それよりも、お見舞いをしたく思うのですが」
 再び夫妻は顔を見合わせた。そこには不安があるようにリズルは思った。
「それが――」領主は一つ、咳払いをした。「それが、まあ、若い男の厄介なところですな。貴女に弱った姿を見せるのは誇りが許さぬらしいのです。なにしろ、貴女はあの巨熊スヴェルト殿の御息女でいらっしゃる。弱い男と思われたくはないのでしょう」
「お話しくださったように、長く患っていらっしゃったのなら、それは仕方のないことだと思いますわ。わたくしは気にいたしませんので、よろしければそのようにお伝えいただけませんでしょうか」
「そうね」夫人が言った。「わたくしの方から、そのように伝えますわ」
 食事自体は、リズルにとっては美味しいとも何とも言えなかった。高価な香辛料を用いているのだが、島ではこれほどふんだんに使う事はない。食材の味が却って死んでしまっているのではと思える程だった。
 葡萄酒は美味しかったが、蜜酒と同じくらい強いようだった。若いリズルはまだ、水のような麦芽酒のみで、()の蜜酒は余り飲ませて貰ってはいなかった。慣れない強い酒に、酔ったのでなければ良いがと思った。宴会での酔った男達のみっともない姿は見慣れていた。立ち上がった途端に脚にきてふらつくなどという事がありませんように、と祈った。
「今日はお疲れでしょうから、明日にまた、いろいろとお話しいたしましょうね」
 夕餉が終わると夫人が言った。
 領主夫妻は穏やかで優しい人達だ、という事は分ったが、何処か摑み所がないのも確かだった。それが交易島の人だからなのか、領主という立場からなのかはリズルには判断できなかった。
「では、お先に休ませていただきます」
 リズルは大人しく答えた。自分がいなくなった後に二人がどのように自分を評するのかは気になったが、何とか上手くやれたのではないかと思った。そして、シエラに先導されて広間を辞した。自分が二人に背を向けるや、安堵の空気が流れたような気がした。緊張していたのは、お互様だったのかもしれない。
 玄関の大きな空間に出ると、突然、上から大きな物音と女の悲鳴が聞こえた。
 慌てて眼をやると、リズルの部屋のある方とは反対の階の上に、少女が倒れていた。そこに何かが投げつけられた。
 リズルは急いでその少女の許へ向かった。背後からシエラの声がしたが、無視した。
「大丈夫」
 リズルは跪いて娘を助け起こした。まだトーヴァと同じような年頃だった。側には木皿が落ちており、乗っていたのであろう食べ物が散乱していた。
 開け放たれた扉に、リズルは目をやった。
 誰であろうと、どのような理由があろうと、このような暴力を振るって良い訳がない。娘は震えており、リズルの言葉にもただ、頷くばかりだった。また、食べる物を粗末にするのも許せなかった。
 一言、言ってやらなくては気が済まなくなり、リズルは立ち上がった。
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