第6章・遊戯

文字数 19,574文字

 鷹狩りの朝は早かった。リズルは夜が明けきらぬ内に起きて軽い朝食を済ませると、夫人に見送られて厩に向かった。クルズとファドラが馬の準備をして待っていた。鷹匠達も隼を準備しており、夜が明けると共に一行は城砦を出発する事になった。馬に乗っての外出は初めてだと思ったリズルに、だが、領主は狩り場までは馬車で行くようにと言った。
「女が町の者の前に姿を晒すなど、出来る筈がなかろう」
 がっかりとしたリズルに、追い打ちをかけるようにイースが小声で言った。
 ようやく人々の動き始めた街路を、馬車から見る事も出来ずにリズルは一人、むくれていた。今回のお目付役はファドラとなる為、シエラはいない。その事だけでも有り難かった。見張られるのは、女性ばかりの集まりだけで充分であった。
 狩り場までは長かったが、ようやく着くと御者が扉を開けた。そこはもう、町の影など何処にもない丘陵と森だった。他の馬車も三台止まっており、アリア達も来ている事が分った。今日の狩りは、娘三人の父親とその兄弟が参加すると聞いていた。総勢は十二名と、鷹狩りにしては大所帯であった。北海では他人を誘って狩りをする事は基本的にない為、リズルは戸惑った。
「リズルさま、おはようございます」
 声をかけて来たのはアリアだった。娘達は一つ所に集まり、男達とは別の場所にいた。
「おはようございます、アリアさま」リズルは微笑んだ。「よいお日和(ひよ)りですわね」
 リズルはアリア達の方に近付いた。そしてフェリアとエルディスとも挨拶を交わした。三人ともリズルと同じく、狩りだというのに外出用の良い格好をしていた。まあ、鞍に乗せられているだけなのだから、これでも構わないのだろうとリズルは思った。底に革張りがしてあるとは言っても、靴まで布なのはさすがに心許なかったが。
「あなたの乗馬教師はファドラなのね」
 小声でアリアが言った。「厳しくないかしら、あの人」
「全くそんなことはありません。わたしの母の方が厳しいくらい」
「まあ、それはご同様」アリアは笑った。「リズルさまって、面白い方ね」
 しまったとリズルは思った。思った事をそのまま喋ってはいけないというのは、母からも言われていた事だ。
「リズルさまのお母さまというのは、どのような方ですの。似ていらっしゃいますの」
 フェリアが言った。
「皆に性格も外見もよく似ていると言われます。もっとも、母の目は空色をしておりますが」
「鷹狩りに出るのを、嫌がる方ではありませんの」
「それは大丈夫だと思います。母は馬にも乗りますし」
「わたくしたちの親の代では信じられないことよ」アリアが言った。「大陸の女性は活発でいらっしゃるのかしら」
「少なくとも、母はそうでした」
 それからそれぞれの母親の話になった。そこから分った事は、この交易島の女性の中でも乗馬を嗜むのは未婚の娘のみであり、それもここ数年での事であるという。そして、結婚してからは一切、許されないという事であった。乗馬を持ち込んだのは大陸から輿入れしてきた女性であるという事だったが、その女性も結局は馬に乗っていたのは婚約期間中のみであった、とアリアは語った。
「お嬢さま方、そろそろ出発なさいます」
 御者の一人が近付いて来て言った。リズルはアリア達と共に娘達の馬のいる所まで行った。どの馬も大人しそうで、狩りの興奮が伝染したように見える男達の馬とは大違いだった。
 ファドラが折りたたみ式の踏み台を持って来たので、リズルはそれを使って馬に乗った。身体の下の鞍の位置を確かめると準備は出来たとファドラに頷いた。
 男達は既に皆、鞍上(あんじょう)にあった。ファドラは踏み台を鞍袋に仕舞うと、自らも馬上の人となった。ファドラの馬は有明が愕かぬような大人しい馬だ。手綱を持ち、ファドラは有明を引いた。鷹匠が男達の手に隼を据えて行った。ざっと見回した中でも、イースの嵐号に匹敵する隼はいそうになかった。領主の白隼にしたところで、嵐号に敵いそうもなかった。
「イースさまについて行ってもらえるかしら」
 リズルはファドラに言った。白隼は他の隼に較べてしつこい狩りをする。一番の獲物でなくとも、じっくりと狩りを楽しめるのは白隼だ。
「本日の狙いは水鳥のようです」
 ファドラが言い、リズルは頷いた。水鳥という漠然とした括りならば、体の大きな嵐号に分がある。鷺でも捕まえられるだろう。
「出発なさるようです」
 ゆっくりと狩りの一団が動き始めた。リズルはイースから目を離さなかった。駆け出したならば、すぐにでも追い掛けられるような気構えでいなくてはならない。他の事に気を取られる余裕はなかった。
 丘の頂上に立つと、下に湿地が見えた。葦や茅が茂っていて鳥の姿は見えない。
男達は互いに顔を見合わせ、一斉に隼を放った。すると、何もいないと思っていた湿地のあちこちから鈍い鳥の声が聞えた。鴨達目がけて、隼が滑るように襲いかかる。ばっと水鳥達が舞い上がった。
「それっ」
 男達が自分の隼を追って馬を駆けさせた。
「行きますぞ」
 ファドラは言うが早いか、馬を駆った。リズルは鞍にしがみついた。
 リズルがイースに追い付いた時には、嵐号は既に鴨を地面に押さえつけていた。鴨は微動だにしない。馬から下り、イースが呼び戻しの笛を吹いた。嵐号は素直に獲物を放し、差し伸べられたイースの拳に戻った。そこで少し、餌を与えた。その顔は喜びと誇りとで輝いているようにリズルには見えた。初めて見る表情であった。
「御見事です」
 ファドラの言葉に、初めてイースはリズルの存在に気付いたようだった。一気に周囲の温度が下がったように思えた。
「何だ、付いて来たのか」
「嵐号の活躍が見たいと思いましたので」
 リズルは見た事に気付かなかったふりをして言った。イースは嵐号に頭巾を被せた。そして獲物を鞍に括り付けた。
「その駄馬の脚ではな」
 いつものイースだった。有明を悪く言われてリズルはむっとした。だが、何かを言い返す前に他の馬が近付いて来た。
「早いですわ、リズルさま」
 アリアが追い掛けて来た。
「もう、仕留めたのですわね」
「アリア嬢」イースは丁寧に会釈した。「嵐号は調子が宜しいので」
「お父さまたちはあちらに行っておりますわ。まだ、飛ばされますの」
「ここではこの程度でしょうが、もう一度くらいは森で放てましょう。勢子が準備をしている事と存じますが」
 リズルに対する態度とでは雲泥の差であった。だが、正直な顔を見せるのはリズルに対してだけだ。リズルも正直な感情を見せるべきなのだろう。大体、最初の顔合わせで、自分が大人しい人間ではない事はばれてしまっているのだ。
「先程の場所へ移動致しましょう」
 イースの言葉は二人に向けられたものというよりは、アリアに対してのように思われた。
 最初の場所に戻ると、何人かの男達は既に戻っており、成果もあったようだった。領主を含めた残りの男達もやがて戻ったが、空手の者もあった。
「森に勢子が行っております」
 先に戻っていた男が領主に言った。「兎か何かを追って来る事でしょう」
 間もなく、森の方から掛け声が聞えて来た。藪や下草を叩く音が聞えてきたかと思うと。森から兎や鶉が飛び出して来た。皆は鷹を放った。散り散りに逃げる動物を追って、隼が舞い上がる。リズルは嵐号から目を離さなかった。嵐号は兎を追って急降下したが、すんでの所で向きを変えた兎に逃げられた。しかし、そこは白隼の事、再び宙に舞うと獲物の上を旋回した。そして、開けた場所で一旦動きを止めた兎に向かって襲いかかって行った。体に比して大きな鉤爪ががっしりと兎を摑んだ。そのまま暴れる兎を握り締めたまま、嵐号は地面で動かなかった。やがて兎は動かなくなった。
「やりましたわ、イースさま」
 アリアが歓声を上げた。「大きな兎ですわ」
 イースはアリアに微笑むと馬を駆った。草原のあちらこちらで隼が鶉や兎を仕留めていた。他の男達も馬を走らせた。リズルもそれに倣った。
 イースは鴨の時と同じ手順で鷹を据え直し、獲物を括り付けた。
「見事な大きさでございますな」ファドラがリズルに言った。「さすがは白隼です」
「一度や二度の失敗では追うのを止めはしないわ、あの鳥は」
 リズルは笑った。「とても賢いのですもの、機会を窺うことも知っているのよ」
「お嬢さまは鳥にお詳しいようですね」
 男の一人が言った。その男の獲物は鶉で隼も小柄であった。
「それほどでもありません。父は所有しておりませんでしたので、間近で他の方に見せて頂いたり話をうかがったりした程度です」
「女性には珍しい事です」
 口髭の男はそう言った。「イース殿は幸運ですな、狩りに興味のある女人(にょにん)を妻に迎える事が出来るとは」
 まるで、他の三人が狩りには興味がないと言いたげな言葉であった。
「ディルス殿、その娘、余りおだてられますと隼を扱いたいと言い出しかねませんぞ」
 イースの言葉に、ディルスと呼ばれた男は高笑いをした。
「それは重畳、大陸では女性も鷹を扱いますからな、この島でもその内、貴女のような方が増えればそうなるのではありませんか」
 愕いてリズルはディルスを見た。イースよりは幾分年上の男であった。濃い茶色の髪と目をしており、右手には金の指輪を嵌めている。顔付きではイースにやや劣るが、それでも充分に男前だとリズルは思った。
「そうなれば、狩りに行くのに文句も出ないでしょう」
 その言葉にイースも声を上げて笑った。男同士だと、そういう笑い方もするのだ。
「確かに。しかし、あまり男の領域に入って来られては困る事もあるでしょう」
「まあ、それはそれ、ですな」
 ディルスはリズルに向かって片目を閉じて見せた。その仕種に、リズルはどきりとした。この男には、そういう仕種が何と似合う事か。
「イースさま、リズルさま」アリアが来た。「ディルスさま」と軽く会釈した。どこか冷たい響きがそこにはあった。「皆さま、お集まりですわ」
 その言葉に、ディルスは馬の首を巡らせた。
「それでは、後程」
 ディルスはリズルとイースに向かって頭を下げた。そして、アリアの横を通り過ぎる時に何事かを言ったが、それはリズルには聞えなかった。
「少し御世辞を言われたくらいで有頂天になるな。それと、ディルス殿はアリア殿の求婚者だ、余り馴れ馴れしくするなよ」
 イースの言葉にリズルは愕いた。アリアの求婚者。アリアは余りあの男を気に入ってはいないのであろうか。気持ちの良い人物だと思うのにと、リズルは不思議に思った。しかし、親に決められた相手なら、反発する気持ちも分らなくはない。年齢を考えれば、アリアにもそのような人がいてもおかしくはないのだ。
「別に馴れ馴れしくするつもりなど…」
 そうリズルは言ったが、イースはもう聞いてはいないようであった。自分の馬を進め、アリアに声を掛けていた。
 自分こそ求婚者のいる女性に馴れ馴れしいのではないか、とは思ったが、ずっと知り合いであろう二人にはその言葉は相応しくはないであろう。
 元の場所に戻ると、皆は狩りの成果を見せ合っていた。イースも嵐号を鷹匠に渡すと籠手を外し、話に加わった。
 フェリアとエルディスも戻っており、既に下馬していた。リズルがひょいと鞍から降りると、二人は目を丸くした。
「まあ、リズルさま、恐ろしくはありませんの」
「わたしの馬はとてもおとなしいですから、恐ろしくはありませんわ」
「でも、高さがありましょう」
 エルディスは心配そうに言った。「やはり、ファドラは厳しいのですわね」
「そのようなことはないと思いますが」
「だって、わたくし、自分の子だったならば怖くてとても見てはいられませんわ」
「まあ、気の早いお話、何のことですの」
 アリアが会話に加わった。
「馬のことです」
 リズルは言った。
「リズルさまのお馬は、昔、イースさまが乗っていらっしゃったのではありませんか」
 アリアが問うた。
「ええ」リズルは答えた。「イースさまが子供の頃にお乗りになっていらっしゃった馬ですわ」
「なら、安心ですわね」アリアが微笑んだ。「気性も知れていますもの」と、男達の方を見やった。「今日の狩りはイースさまが一番でしたわね」
 他の二人も目を輝かせた。
「ずっと年上の方もいらっしゃるのに、すばらしいわ」
 殆どは隼と鷹匠の手柄だとリズルは思った。鳥を調教し、調子を整えるのは鷹匠の仕事だ。扱うのには確かに技術が必要だが、それも鷹匠の教えを守ればよいのだ。一から仕込んだ訳でもないのに、所有者を褒めるのは間違っているのではないかというのがリズルの考えだった。
「そろそろ出発かしらね」フェリアが言った。「わたくしたちも馬車に戻りましょう」
 馬車の側にはファドラ達馬丁や鷹匠達がいた。他の娘はさっさと馬車に戻ったが、リズルはファドラに声を掛けた。
「今日はご苦労さま。有明の世話をお願いします」
 ファドラは頭を下げた。
 丁度嵐号を据えた鷹匠が通りかかり、リズルは呼び止めた。
「嵐号は今日はすばらしかったわ。あなたの調教のたまものね」
 老いた鷹匠は戸惑ったようにリズルを見た。そして、深々と頭を下げた。
「いえ、お使いになった若君の腕にございます」
 リズルは頷くと馬車に乗り込んだ。程なくして馬車が出された。陽も南中を過ぎようとしているようであった。あっと言う間に思えたが、案外と時間の掛かった狩りであったのだ。
 帰りは行きの何倍もの時間が掛かるように、リズルには思えた。町のざわめきの中を通り、城砦の中に入ると一休みをしたい気分であった。だが、宴までの時間をどう過ごすのかを聞いてはいなかった。
「まあまあ、皆さま、お疲れでしょう」
 中では夫人が一行を出迎えた。「お部屋をご用意してありますので、どうかしばらくお休みになってくださいまし」
 狩りの成果は直ちに厨房に運ばれた。リズルが自分の部屋に下がると、すぐに入浴の支度が調えられた。湯から上がると眠気が差して来た。今日は特別朝が早かったというのもあるだろう。
「しばらくお休みくださいとのことです」ミアが言った。「今朝はお疲れでしたでしょうから。皆さまもそうなさっておられると思いますわ」
 その言葉に、リズルは下着姿のまま寝台に横になった。
 召使い達が後片付けをしている最中であったが、リズルの瞼は皆が去るまで待てなかった。



 リズルが目を醒ますと、日は既に傾いていた。ミアがやって来るまでぼんやりと港の風景を眺めていた。少し緑がかった硝子を通してでも、空が茜がかって来ているのは良く分った。疲れは取れていたが、久し振りの無為な時間だった。
「お目覚めでしたか」
 ミアは言い、宴に着る衣装を取り出して衝立に掛けた。青い色の正装であった。唸り声を上げそうになるのをなんとかこらえて、リズルはミアの手を借りて着替えに掛かった。
「今日の狩りは大成功だったようですね」
「そうね、皆さま、何かしらの獲物を捕えていらしたから」
「イースさまもですか」
「そうよ。鴨と兎だったわ」
「まあ」ミアが言った。「そこまでご回復されたのですね。元から鷹狩りはお好きでしたが、冬に大病を患われて以来のことですから、皆で心配しておりました。もう安心ですわ」
 成果がなかったなら、不機嫌になって大変だったかもしれないとリズルは思った。お客の前では礼儀正しくしている分だけ、後で荒れたのかもしれない。何と面倒な男だろうか。
 時間になってリズルは広間に向かった。そこにはイースはいたが領主夫妻の姿はまだなかった。宴の準備に人々が動き回っていたが、それももう終わりそうだった。
「今日はお疲れさまでした」
 リズルはイースにそう声を掛けた。黙っているのも変だと思ったからだった。
「心にもない事を」
 イースはリズルから顔を背けて言った。
「少しは人の言葉を素直に受け取ったらどうなの」
 むっとしてリズルは思わず口に出していた。この男の前で取り繕った所で仕方がない、という思いもあった。
「他の者の前では良い子ぶっている癖に、私の前ではその態度か」
「あなただって、そうでしょう」
 リズルははっきりと言った。「あなたのが社交だからと言うなら、わたしのだってそうだわ」
「認めたな」
 イースは意地の悪い笑顔を向けた。
 何も認めた訳ではない。まだ言いたい事はあったが、領主夫妻が来たので何とかそれは呑み込んだ。
「リズルさん、お疲れではなくて」
 夫人が言った。
「いいえ、ゆっくり休ませていただきましたから、もう大丈夫です」
 リズルは答えた。夫人はほっとしたような顔になった。
「まあ、リズル殿はまだまだ若いのだから、回復も早かろう」
 領主は笑った。この二人の前では、どうしても構えてしまう。
「元が丈夫でしょうからね」
 イースが言った。それを否定しはしないが、ここで言う事でもなかろうにと思わずにはいられなかった。
「丈夫なのは良いことですよ、イース」夫人がたしなめるように言った。「健康である事が一番ですとも」
「その点では、私は不合格な訳だ」
 小声で苦々しげにイースは言ったが、それは夫妻には聞えなかったようだった。リズルはまじまじとイースの顔を見てしまった。その目には苦悩があるように思われた。
 北海では病弱な子は歓迎されない。冬を越せない事が多いからだ。ここでは冬はそれ程厳しくはないであろうが、それでも、健康な方が――領主の子としては健康な方が望まれるのであろうことは明白であった。
 そんな風に言ってはいけない、思ってはいけないと言いたかったが、口に出す事は出来なかった。イースは両親の愛情を受けているではないか。冬の大病も乗り越えたではないか。本人が思うほどに、弱くはないのだ。
 その思いがイースに伝わったのかどうかは分らなかったが、イースはリズルを睨んだ。睨まれる事ではないとは思ったが、仕方がない。同情も、恐らく嫌いなのだろう。それを受ける生活ばかりをして来たのであろうから。
 リズルにはこの青年が分らなくなっていた。思ったよりもずっと複雑な内面を抱えているようであった。
 着替えた客人が広間にやって来た。この時ばかりは娘達のお目付役はいない。父親達がその役目を担うのだが、父親達は父親達で楽しみに夢中になるだろう。
 上座に領主夫妻が着き、イースとリズルという順序であった。アリアとその父親、そしてディルスがそれに続く。乾杯の音頭は領主だ。リズルも皆に倣って、なみなみと注がれた葡萄酒を半分ほど飲んだ。まだこの味には慣れなかったし、酔いが恐ろしかった。
 今日の獲物の兎や鴨、鶉が羽などで飾り立てられて食卓に並んでいた。何故、御馳走の際にわざわざ獲物の羽で飾るのかが、リズルには理解できなかった。並んだ時に見栄えが良くなるのは確かであったが、北海ではそのような無駄な事はしなかっただけに、結局はばらしてしまうのにと思わずにはいられなかった。
「今日の立役者はイース殿ですな」アリアの父が言った。「実に素晴らしい兎と鴨だ」
「いえ、鷹の調子が良かったものですから」
 イースが言った。
「しかし、調子の良い鷹を選ぶのも才の内ですからな」ディルスは言った。「貴公の白隼は素晴らしい仕上がりでした」
 イースはディルスに軽く一礼した。
「初めての鷹狩りはどうでして」
 アリアがリズルに訊ねた。
「とても楽しかったです。また機会があれば参加したいと思います」
「なあに、狩りの季節は始まったばかりですし、これからも機会は幾らでもありましょう」
 アリアの父が答えた。「娘もお仲間が増えて喜んでおりますれば」
 その言葉にアリアは小さく笑った。
「リズル殿と仰言いましたが」ディルスが言った。「鷹を使ってみたいと思われませんか」
「まあ、ディルスさま」リズルが答える前にアリアが言った。「リズルさまはとてもおとなしいお方ですわ。そのようなことをおっしゃるなんて、お困りですわよ」
 ディルスは問いかけるように片眉を上げてリズルを見たが、リズルはぎこちなく微笑む事しか出来なかった。この男は問いかけからして、恐らくリズルが鷹の扱いを習いたいと言えば手助けしてくれるであろうと思ったが、アリアが自分の事をとても大人しいと言ってしまった手前、それを覆す事は出来なかった。そういう所をイースは「良い子ぶっている」と言うのだろうが、一旦定着してしまった自分の印象を変えてしまう事が、リズルは恐ろしかった。
 イースから聞いた自分とは異なっている事にディルスは戸惑ったのであろうが、構うまい。一人の意見よりも多数の意見を人は信じるものだ。
「それは失礼を申しました」
 ディルスは簡単に引き下がった。所詮は社交辞令でしかない会話だ。ディルスとて、イースの婚約者であるリズルの事を深く知ろうと思う訳もなかった。ましてや、アリアの求婚者である。その人の言葉を信じるだろう。
 他愛のない会話の中でも、リズルはアリアとその父親とではディルスに対する態度に違いがある事に気付いた。父親の方は丁寧で気を遣っている様子であったが、アリアは何処とはなしに冷たい。イースに対するよりも素っ気なく思えた。父親は話を纏めたがっているようであったが、アリアは関心がないと言うよりは嫌がっているように見えた。
 イースに較べればずっと良い人なのにと、リズルは思った。そして、はっとした。これも全て、見せかけなのかもしれない。アリアはディルスの別の顔を知っているのかもしれない、と。
 だとすれば、自分は一体、何を信じれば良いのだろうか。全ての人に裏があるのだとすれば、北海の純朴な人々の中で産まれ育った自分には、生き難い世界である事も事実だ。それがこの交易島では普通であるのだとすれば、自分は何時まで自らを偽りながら生きなくてはならないのだろうか。一生、それは続くのか。
 宴とは言うものの、歌人(バード)の詩や楽人達の演奏はあれど座が乱れる事はなかった。酔っぱらい達がどう言うものかを知っているリズルには、節制しながら飲む人々は珍しかった。披露目の宴ではそういう事もあろうが、狩りの興奮のままに浴びるように飲む、という事はしない人々のようだった。一休みをする事で興奮も冷めたのか、葡萄酒というものがそういう酒ではないのか。リズルは乾杯の時から余り減ってはいない自分の杯を見て思った。それとも、案外、この酒は酔わないのか。だが、それを試す気にはなれなかった。アリアは杯を重ねているが、それは慣れているからだろう。蜜酒でならばリズルも同じ事が出来るかもしれないが、よそうと思った。
 お開きになっても、酔っている人はいないように思えた。そして、礼儀正しく送り、送り出された。
「とても大人しいなどと、酷い誤解だな」
 全ての客を送った後、イースが領主夫妻に聞えぬように小声で言った。
「あなたが何を言おうとも、皆の中のわたしの評価がそれなんです」
 リズルは冷たく言い放った。
「馬に跨がった話をすれば良かったかな」
「いつもそうやって乗っていたのですから、仕方ないでしょう」
「とんだ野蛮人だ」
 向っ腹が立ったが、我慢した。ここで言い争った所で、どちらにも益はないだろう。
「さて、次に宴があるとすれば闘技か夏至祭だな」
 領主が言った。
「闘技は(うち)で開くのですか」
 イースの言葉に領主は笑った。
「当然だろう。リズル殿もいらっしゃるのだ。家での開催が順当だろう」
「エインゲル殿の所にディルス殿も滞在中ではありませんか」アリアの父親の名が出た。「あちらでもお考えなのではありませんか」
 領主はそれを一笑に付した。
「我が家が優先だ。エインゲル殿にも否やはなかろう」
 交易島でもやはり、領主が全ての権限を有しているのだ。リズルは穏やかそうな外見の領主につい、その事を忘れそうになる。だが、この島の命運を握るのはこの人なのだった。その人が望んだからこそ、自分はここにいるのだと改めてリズルは思った。


 鷹狩りの興奮も冷めやらぬ内に、領主から正式に闘技の開催が申し渡された。会場は城砦。参加する者だけではなく、見物人も多数訪れるという。この時ばかりは子供も使用人も席は分けてではあったが見物を許されるのだと、ミアは語った。その口調はどこか熱に浮かされたようで、リズルには理解できなかった。
「南溟の男たちは恐ろしいですわ」ミアは語った。「でも、そんな男たちが戦うのを間近で安全に見られるのですから、すごい迫力です。変わった形の剣での闘技だけでなく、拳闘もあるのですから、お嬢さま、楽しみにしていらしてください」
 拳闘とは言うものの、たかが殴り合いだとリズルは思った。酔っ払いでなくとも殴り合いを見るのは慣れていた。男達はそれを囃し立てるのが好きなようであったが、リズルには馬鹿馬鹿しいとしか思えなかった。だが、ここではそれをお行儀良く見ていなくてはならないのだ。他人の喧嘩など、見て面白いものなのだろうかと、リズルは思わずにはいられなかった。しかし、大人しいミアでさえもそれを楽しみにしているようなので少し、愕いた。
「ミアは闘技が好きなの」
 リズルは訊ねた。
「一年の楽しみは夏至と冬至のお祭りくらいですから」
 少し恥ずかしげにミアは言った。
 そうだ、ミア達のような使用人には鷹狩りのような楽しみはないのだ。使用人は奴隷ではないのだから、それなりの楽しみがあるのではないかと思っていたが、違っていたようだ。
「お祭りには街に出掛けたりはするの」
「いいえ、毎年、こちらで仕事をしておりますので、街のお祭りには行ったことがありません。それに、今年はお嬢さまがいらっしゃいますから、お一人にはできませんし」
「街のお祭りに出たことは一度もないの」
「はい」ミアは当たり前のように答えた。「亡くなった父はご領主さまの船の船乗りでしたし、こちらでお祝いするのがわたしにとっては当たり前のことなのです」
「そう…お父さまは亡くなったの」
「もう七年も前の事です。嵐で船が沈んだのです」ミアは肩を竦めた。「どんな人だったのか、もう殆ど憶えてはいません。だから、そんなに寂しくもないのです。母がおりましたし、ここは人も仕事も多いですから」
 薄情な娘だとは思わなかった。記憶も定かではない人を、どうして懐かしむ事が出来るだろうか。
「城砦の夏至祭はそれほど賑やかなの」
「はい」ミアはうっとりとした顔になった。「交易島の全ての身分のある方がいらっしゃいますし、それはもう、華やかです」
「あなたたちも楽しめるの」
「はい。裏庭で火を焚いて、踊ります」
 夏至の祭りに火が欠かせないのはここでも同じようであった。
「それに、夜中には馬に乗った殿方たちが松明を持って明け方まで、城砦と町の城壁を駆け回りますので、遠目からでもとても綺麗に見えます」
 それは是非とも見てみたいとリズルは思った。夏至祭は北海でも行われていたが、男達はいつも闘馬と賭け事に夢中か飲んだくれているかで、馬に乗るどころではなかった。
 夏至祭が過ぎれば、北海の戦士達も交易島へやって来る。会う事は出来ないが、それでも、北海の人々が同じ島にいるというだけで心慰められるものがあった。どうせ、この城砦からは自由に出入りは出来ないのだ。外へ出るにも馬車でなくてはならないし、街を見る事すら許されない。リズルの部屋の窓からは港しか見えない。いや、港と海が見えるだけでも良かったのかもしれない。他の部屋から何が見えるのかをリズルは確かめた事はなかったが、今度、書物庫に行った時にはこっそりと外を覗いてみようと思った。そうすれば、イースの部屋から何が見えるのかも分るだろう。


 闘技の開催日には朝早くから大勢の人が城砦を訪れた。そのお陰でリズルは鷹狩りの日のように夜明け前から起きた上に、朝食は客人達の一団と急いで摂らねばならなかった。男も女も美しく着飾り、お祭りのようだった。それほど、この島の人々は楽しみに飢えているのだろうかとリズルは思った。
「リズルさんはわたくしと一緒にいらして」夫人が言った。「殿方とは別れて観戦いたしますから」
 口の中のぱさつく麵麭(ぱん)を急いで葡萄酒で流し込み、リズルは夫人の後を追った。夫人は食事をした気配がなかった。しかし、リズルは食い意地が張っていると言われればそれまでであったが、夕餉まで何も食べられないかもしれないと思うと、つい、手が伸びた。
 この数日の内に南溟の奴隷達の所に(しつら)えられた見物用の席で、リズルは夫人と共に他の客を待つ事になった。ややあって女性客達が到着し始めた。アリアも来て、リズルの横に席を取った。
「わくわくしますわね」
 アリアの目は興奮に満ちていた。「うちのはすっかり仕上がりましてよ。お宅の男たちはいかが」
 リズルは困って夫人を見た。
「リズルさんは初めてですもの、ご存じないわね。大丈夫ですわアリアさま、上々ですわ。楽しみになさって」
 普段は穏やかな夫人も興奮を隠しきれないようであった。そんなにも人々を熱狂させるものは何なのか、リズルは少し興味を持った。
 続々と人々が集まって来ていた。特に、男達の席はもう一杯のようであった。
「わたくしの弟妹はまだ幼いので使用人たちと一緒におりますが、お知らせが届いてからずっと、興奮しておりましたわ。話と言えばそのことばかりで」
「まあ、それは嬉しいこと」
 夫人とアリアとの会話にはついていかず、リズルは闘技場を見た。南溟の男達がそこには集まって来ていた。上下共にゆったりとした生成りの衣服、帯という揃いの格好で、リズルには相変わらず誰が誰だか区別が付かなかったが、夫人がそっと、深紅の帯が領主の奴隷だと教えてくれた。それぞれの家毎に異なった色の帯を締めているようだった。
「わたくしのところのは黒い帯ですわ」
 アリアが言った。「今年は粒ぞろいですから、楽しみになさって」
 女達の席も埋まりつつあった。顔見知りであってもなくても、リズルは丁寧に一人ひとりに会釈した。新参者は印象が第一だからと、母からもきつく言われていた事だ。
 奴隷使いらしい男が闘技場に現れた。城砦の男であったが、リズルは名を知らなかった。その男は、領主の前に進み出ると口上を述べたが、周りのお喋りにリズルには良く聞えなかった。
 領主が立ち上がると、だが、お喋りはぴたりと止んだ。
「お集まりの皆様、只今より闘技を開始致します。まずは剣舞よりお楽しみ下さい」
 わっと歓声が湧き起こった。その中で、リズルは自分一人が冷めているように感じた。
 五人一組の南溟の男達が三日月型の剣を手に、舞い始めた。それは、以前にリズルが見かけたものと同じ動きであったが、更に洗練されて美しかった。ゆっくりと、またある時には素早く剣が動いた。陽の光を受けて刀身が輝く。元から南溟に伝わる舞踏なのであろうか、男達の動きは寸分の狂いもなかった。
 舞踏が終わると男達は闘技場の端に下がった。ここからが闘技なのであろう、青と緑の帯の二人が上着を脱ぎ、中央に進み出た。そして領主に向かって一礼をした。
「下穿きだけの男を見るなんて、はしたないとお思いでしょうが、奴隷ですもの」
 アリアが言い、リズルは曖昧に微笑んだ。半裸の男など見慣れているとは言えなかった。
 奴隷使いの男が合図をすると、二人は間合いを開けて三日月刀を振り上げた。互いに睨み合い、刀を手許でぐるぐると回し始めた。挑発行為としては知っていたが、互いに回している事を思えば、これは目くらましの効果もあるのかもしれない。楯は持ってはいない。刀が振り上げられ、弾かれる。如何に刃を潰してあるとは言っても、素肌に当たれば怪我をするだろう。それを何度も繰り返す。金属の当たる音が辺りに響き渡った。遂に青い帯の男が刀を落とした。すると、緑の帯の男も刀を落とし、拳を顔の前で構えた。拳闘へ移るのだろう。
 アリアがリズルの袖を、思わずという感じで摑んだ。目は興奮できらめいていた。
 緑帯の男の顔や胴体に目がけて拳が飛ぶ。それを巧みに避けながら、男は隙を見ては同じ事を青帯の男に繰り返す。当たるか当たらぬかの絶妙な間であったが、青帯の男が腹に一発を受けて均衡が崩れたようにリズルには思えた。何度も青帯の男の顔に拳が当たり、鼻血も出ていた。それでも、戦いは終わらない。終わらせようとする者もいない。口の端も切れているようであった。砂地に血が垂れる。そんな一瞬の事であった。青帯の男の拳が緑帯の男の顎に当たった。
 歓声が上がる。
 緑帯の男が、地面に大の字に横たわった。
 これで終わった、とリズルは思った。思ったよりも長い戦いであった。迫力があるのかどうかは分らなかった。ただ、喧嘩のように無責任に見る事は出来なかった。それが何故であるのかは理解出来なかったが、この日の終わりにはその正体を知りたいと思った。
 青帯の男が領主と観客に向けて一礼をした。その顔は無表情であった。緑の帯の男達が、倒れたままの仲間を自分達の所へ運んで行った。
「どう、ご覧になって。迫力のあるものでしょう」
 アリアが言ったが、リズルはどう答えて良いのか分らなくて取り敢えず頷いた。
「これが午後まで続きますのよ。それも、どんどん強くなってゆくのですから。でも、残念なことに、奴隷の粒を揃えるのは大変みたいですわ。闘技に出せるくらいの者はなかなか市場に出ないみたいで、出ても相当値が張るようですわ。結局、今日も五組

でしょう」
「他の方のところでも行われているのですか」
 アリアの家でも行われるのではないかという、イースの言葉を思い出していた。
「ええ、でも、今日の五組の所有者――ご領主さまとわたくしの家の他、三つの家で行われるのと較べますと、やはり、劣りますわ」
 その五つの家が、交易島での特に力のある家なのだろうとリズルは思った。
「あら、次が始まりますわよ」
 アリアの興味は闘技場へと移った。
 リズルはぼんやりと観客席を眺めた。人々は熱狂しているようであったが、リズルは自分だけがそこから置き去りになっているような気がした――と、興奮している人々の中で、自分と同じく冷めている者達を見付けた。
 イースとディルスだ。
 この二人は他の人々とは異なり、冷静な目で闘技を見ていた。皮肉屋のイースは分らないでもなかった。だが、ディルスとは。そう言えばイースは、ディルスはアリアの家に滞在していると言ってはいなかったであろうか。ディルスはこの島の人間ではないのだろうか。それとも、この島の別の町から来たのであろうか。そして、そこでは闘技は行われていないのか。
 ひと試合が終わると、リズルはほっと息を吐いた。これがまだまだ続くのだ。 
 アリアはもう、リズルの存在など忘れたように闘技に夢中になっていた。その点では、夫人も同様のようであった。
 三つ、四つと試合が重なるにつれて、リズルの心は重苦しくなって来た。それが、闘技を終えて傷だらけになりながらも表情を一切変えない南溟の男達によるものだと気付くのに、時間は掛からなかった。
 奴隷である男達は、決して勝った喜びを現さない。仲間が負けた悔しさも見せない。試合はどちらかが立てなくなるまで続けられ、それを見るだけでもリズルは苦しくなったのだが、周りの人々はその姿に熱狂する。
 ああ、そうだ、とリズルは思った。
 この奴隷達は、自分に似ている。
 自らの意志に関係なしにこの地へ連れて来られ、動かされている。決して同胞同士で戦いたいなどとは思ってはいないであろうに、主人の命で戦わざるを得ない。勝ったとて、何の喜びがあるというのか。自由になるという望みもなく、戦う為に、輿を担ぐ為にこの地に来た者達。闘技の為に飼われる者達。
 自分もそうだ。望まれて来たとは言うものの、実際には交易島の圧力に負けて送り込まれたようなものだ。本来の自分を押し殺し、周りの望むような人物を演じている。そうすれば、周囲は満足するからだ。自由に行動することも、発言をする事も出来ない。北海の人々に、家族に会うという願いも断たれ、喜びもなく、楽しみもなく生きて行かねばならない。ただ、後継者を産むことがその役割。その為だけに飼われると言っても過言ではないだろう。それと奴隷の生き方とどう異なると言うのか。
 リズルは湧き上がって来た涙をこらえた。
 自分は、この島の奴隷だ。
 あの南溟の男達と何も変わる所はない。隼のように、自由を得たと自分では思っても、すぐに呼び戻される身の上だ。それは、籠の中の小鳥よりも猶悪い。籠の中の小鳥は自分が不自由である事を籠から出るまで知るまい、中で自由に歌い、舞う事だろう。だが、外から捕えられて来た鳥はどうだろう。自由を求め、暴れ、やがて屈するのだろう、自由になる機会を窺いつつも。
 だが、自分にはその機会がない。望みもない。自分がどのような人間か分っても、イースは婚約を破棄する気はなさそうだった。それはそうかもしれない。リズルを迎える為に領主夫妻は大きな秘密を抱える事になったのだから、その代償という訳だ。幾ら後継者とは言え、そこまでの我儘は許されまい。
 どうしてこうなってしまったのだろうかと、思わずにはいられなかった。
 目の前ではまだ闘技が続いていたが、リズルの目には全く入っては来なかった。周りの熱狂とも切り離され、かといってイース達のように冷静な目で見ている訳でもなく、ただ一人、群衆の中で浮いている気がした。自分は何処にも属す所がない、そんな気分だった。強いて言えば、南溟の奴隷達と同じ所に立っているのかもしれない。そう思うと、自分も闘技場に立ち、同じように試合や見物人を見ているような感じがした。
 試合が全て終わるまで、リズルは身じろぎ一つ出来なかった。終わってさえもただ茫然と座っていたリズルをアリアが軽く揺すった。
「大丈夫ですの、リズルさま」
「ええ…」
 リズルは笑顔を作った。「余りにも迫力がありましたので、愕いてしまって」
「そうでしょう」
 アリアの目はまだ輝いていた。一体、あの闘技の何処にそのような要素があったのか、リズルには分りかねたが、お互い同士では決してしないであろう身体を張った喧嘩を見て血が騒いだのかもしれない。リズルはといえば、最後の試合がどうなったのかさえも憶えてはいないというのに。
 そうだ、ここの人々は「社交」という名で全てを覆い隠しているが、本当は相手を殴りたい、剣を抜きたいような事態もあるのではなかろうか。それの代理――鬱積したものの発散場所として闘技が行われているのではないだろうか。ここで熱狂しようとも誰も文句は言わない。
「それでは、戻りましてお食事にいたしましょう」
 夫人が言った。その表情にも興奮の名残があった。この物静かな人でさえも熱中してしまうのだ。それだけのものを、あの闘技が持つと言うのか。
 連れ立って観客席を後にする時、ふと闘技場を見やると、南溟の男達は、誰も目を向けるものはいないのに勢揃いして頭を垂れていた。
 食事は披露目の時と同じく大人数で皆詰めて卓に付いたが、席順としては鷹狩りの時とは異なっていた。披露目の時とも違っていて、幾つかの家族を順繰りに第二の席に着けているように思われた。これも、有力な家系に上下を作らぬ為の工夫なのかもしれない。食事も披露目の時と変わらぬ贅を尽くしたものであった。リズルの隣には、まだ名を知らない年配の男が座った。その息子らしき男も同じだ。そして正面には、これもまた誰か分らぬ夫妻だった。披露目の時に会ってはいるのだろうが、どうしても思い出せなかった。向こうはリズルの事を知っているであろうにと思うと、不安が胸をよぎった。
 例によってイースがリズルに肉を切り分けてくれた。どっさりと。そして自分の皿には少しだけ。食い散らかされるよりは良かったが、どうしてこうも意地悪なのだろうかと思わざるを得なかった。リズルの性格からして、皿を空にしない事には気が済まないのを見抜かれているのだろう。助かった事に誰もが自分の皿と会話に夢中で、リズルの山と盛られた肉に気付く者はいないようであった。
 熱に浮かされたような会話があちらこちらから聞えた。笑い声も絶えない。闘技は大成功だったのだろう。誰もが食事を楽しんでいた。
「今日は素晴らしいものを見せて戴きました」リズルの隣にいる男が言った。「貴女は今回が初めてのようでしたが、如何でしたかな」
「すっかり愕いてしまいました」
 リズルは大人しく言った。
「最初はそうでしょうな」男は笑った。「だが、これが病みつきになるものでしてな、南溟の奴隷の調子の良い夏には、あちらこちらで開催されますぞ。我が家での時にも、どうか御観覧戴きたいものです」
「その時には是非、お伺いしたいと思います」
 礼儀正しくリズルは答えたが、本心は真逆であった。引きつりかけた笑顔を誤魔化す為に、リズルは葡萄酒を一口、飲んだ。
 賑やかな中でも、リズルはイースとディルスは醒めている事に気付いた。余り会話にも参加せず、静かに食事をしている。イースは招待主の後継者であるのだから、客には愛想良くし、会話を盛り上げる役目を負っているのかと思ったが、どうやらそうではないようであった。そして、周りもそれに慣れているのか、自然、イースに対してよりもリズルに対する方が話し掛けて来る人も多かった。
 これでは、自分が全ての領主家の社交を担わねばならないのではないかと、リズルはぞっとした。イースが無口で通すならば、だが、そうせざるを得ないだろう。それは、無理だ。リズルとてお喋りな方ではない。女主人が会話を主導する事など、北海ではない事だ。宴は男が主体であった。故に、そのようなやり方をリズルは学ばなかった。
 少しは協力的であれば良いのに、とリズルはイースを見た。その視線に気付いたかのようにイースが目を向けた。その中には何の感情もなかった。
「何か」
 イースの言葉にリズルは信じられない思いで一杯になった。自分はこんなに苦労をして皆に馴染もうとしているのに、ここで産まれ育ったイースは何の努力もしようとしていないとは。
「いいえ、別に」
 無理をしてリズルは微笑んだ。
「顔が引きつっているぞ」
 ぼそりとイースが言った。誰のせいで、と思いながらもリズルは笑みを浮かべた。
「今日は食が進みますのね」
「人を病人のように言うな」
 笑いさざめく人々の間で、なんという会話であろうかとリズルはイースから視線を外した。そして、名も知らぬ夫人の問いかけに答えた。それは退屈な会話であったが、イースと嫌味の言い合いにこの場でなるよりはずっとましであった。どうしていつもこうなるのだろうか。自分が悪いのか、それともイースの方が悪いのか、リズルには分らなくなっていた。そこまで嫌うのならば婚約を解消して欲しいと思うのだが、世間体を考えればそうもいかないのだろう。
 世間体。
 それが何よりも優先するのか。人の心よりも何よりも。
 そんなものはつまらない事、というのが、リズルの両親の立ち位置であった。だからこそ余計に、リズルは世間体の塊のようなこの島での生活に、不安と苦痛を憶えるのだった。
「少し熱気にやられたようですので、冷たい空気に当たって来ます」
 女性達の何人かがそのように言って席を立ち始めた。リズルも皿の肉を片付けるとそれに倣った。
 居間に行くと何人かの女性が長椅子や窓辺で寛いでいた。
「リズルさま」
 アリアが背後から声を掛けて来た。「今日は本当に大盛況ですわね」
「皆さま、楽しまれたのでしょうか」
「その点はご心配なく」アリアは微笑んだ。「でも、かえって、わたくしの父などは困っているのではないかしら」
 リズルは不審げに首を傾げた。
「こちらの闘技は大成功ですもの。うちで開催する時には、皆さまここでの事を基準となさるでしょうから」
 そういうものなのだろうか。精一杯もてなせばそれで良いという考えは、ここでは通用しないのか。
「でも、それは父が考えればよいことですもの」
 アリアは肩を竦めて笑った。
「でも」とアリアは声を落とした。「イースさまはお楽しみではなかったようですわね。お加減でも悪いのかしら」
「いいえ、そのようなことはなかったと思いますわ」
 虫の居所が悪かったのでは、と言いそうになった。
「よかった」
 アリアはほっと息をついた。「この冬に大病を患われましたでしょう。ですから、皆、心配しておりますのよ」
「でも、ディルスさまもそれほどお楽しみの様子はありませんでしたが」
「ああ、あの方」アリアの声の調子が一段下がった。「あの方は大陸からいらっしゃって、この島のことはご存じないのよ。それで、奴隷を戦わせるのは野蛮だとかおっしゃるの」
 野蛮かどうかは分らなかったが、自らの意志に反して戦わせるのはどうかとはリズルも思った。残酷ではないのだろうか。
「つまらない方だわ」
 それを言うならば、イースもつまらないという事にはならないのだろうかとリズルは思ったが、交易島の領主の後継者に向かっては誰もそのような事は思わないのだろう。
「でも、アリアさまの求婚者とおうかがいいたしましたが」
「どなたからそれをお聞きになったの」
 アリアの声が少しだけ鋭くなった。
「イースさまからですわ」
「そう」アリアは溜息をついた。「もう皆さまご存じなのね。わたくし、来年にはあの方と結婚する予定ですの」
「それはおめでとうございます」
「皆さま、そうおっしゃるのよね」
「何か、ご心配でも…」
「何もかもですわ」
 間髪入れずアリアは言った。「結婚したら、大陸に住むことになりますし、もうここには戻れませんもの。大切なお友達ともお別れですし」
 それは、自分も同じだとリズルは思った。自分は、充分な別れの時間もないままにここに来なくてはならなかったのだ。しかも、縁を切れとまで言われた。
「それに、ディルスさまは、あのように楽しみが何かもご存じない方ですのに」
 そうだろうか。鷹狩りの際にディルスが見せた悪戯っぽい仕種をリズルは思い出した。
「あら、ごめんなさい。わたくし、自分のことばかりで。リズルさまも大陸からこちらへいらしたのですものね」
 アリアの言葉にリズルは微笑んだ。輿入れに不安を感じるのは、どの女性でも同じなのだ。
「わたくしは、リズルさまとイースさまのご婚礼の後すぐに、大陸へ行くことになりそうですわ」
 仰々しい言葉を連ねなければならないのは大変であったが、馬に乗るなど活発な所を見せるアリアとは仲良くなって行けそうであっただけに、リズルは残念に思った。
「ですから、この一年の行事は、わたくし、思い切り楽しむつもりでおりますのよ」アリアは言った。「わたくしが夏至祭や冬至祭にイースさまと踊ることがあっても、どうかお許しくださいね」
「そうしたら、わたしはディルスさまと踊ります」
 二人は顔を見合わせて小さく笑った。
「夏至祭には、男の方が松明を持って馬で駆けると聞きました」
「ええ、とても勇壮ですわ」アリアは言った。「今年はイースさまも参加されるのではないかしら。夜通しですもの、昨年は大事を取って参加は見送られましたから」
「そんなにイースさまは身体がお悪いのですか」
 リズルは愕いて訊ねた。
「それでも年々、強くおなりですわ」慌てたようにアリアは言った。「特に今回は冬の大病の後ですもの。冬の大病から回復した者は強くなると言い習わしておりますわ」
 リズルは少し安心した。二十才まで生きられないかもしれないと産まれた時に言われたと夫人は口にしていた。だが、こちらでそのように言うのならば大丈夫だろう。
 イースの健康は余り気にしては来なかった。自分の事だけで精一杯で、そこまで気を回す余裕がなかった。だが、これからはそういった事にも気を付けなくてはなるまい。婚約者である内に慣れておくべき事なのだろう。
「リズルさまは、イースさまのことを何もご存じなくて島にいらしたのですか」
 アリアの言葉にはっとした。
「ええ、お目にかかったことはありません」
「勇気のある方ですわね」
 アリアは目を見張って言った。「わたくしには、無理なことですわ」
 勇気があるも何も、決められてしまった事に逆らえなかっただけだ。
「それも、ずいぶんと遠くからいらしたとお伺いしましたもの。寂しくはありませんの」
「仕方のないことですから」リズルは言った。「アリアさまもそうではありませんか」
「そうね」
 アリアは溜息をついた。「父が決めてしまった以上は、それに従うだけですわ」
 どこであっても、女はつまらないとリズルは思った。
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