第7章・夏至祭

文字数 18,237文字

 城砦での闘技が行われた後は、夏至祭までは何の行事も行われないようであった。普段の午後の訪問し、訪問される日々が続いた。シエラによる踊りの稽古は、午前中に歌人(バード)を相手に行われたので、夫人と過ごすのは午後のみとなった。そうなってみると、自分がこの島にやって来てひと月の間、どれほど夫人が社交を諦めていたのかがリズルには良く分った。毎日のように招待があり、夫人は顔には出さなかったが、さぞかし退屈していた事だろうと思った。リズルにとり人々と会う事は退屈であったのだが、夫人にとっては別だろう。
 夏至祭が近付くにつれ、城砦内の空気も変わって来た。どこかそわそわとして落ち着かず、シエラはその雰囲気が気に入らないようであったが、リズルには心地よかった。北海の賑やかだった家を思い出させた。この城砦は、イースの神経質な所が伝播してか常に静かであった。
 そして、娘達の話題も夏至祭一色だった。どのような衣装を仕立てているだのどのような装飾品を着ける予定だとか、リズルにはどうでも良い話ばかりであったが、それでも大人しく聞いていると、皆がこの祭りで男達の気を引こうとしている事が分った。普段は大人しく見せかけてはいるが、中身は北海の娘達と何等変わる所はなかった。如何に良い家柄の見目の良い男を捕まえるかで、頭の中は一杯なのだ。見栄えは良くても、家柄が今ひとつだと歓迎されない。家柄が良ければ多少の事は我慢すると言った調子もあった。北海の娘達はそれが戦士としての評価である点が違っているだけだった。
 お目付役達も祭り前の興奮状態にあるのか、それともこの時期の事は諦めているのか、娘達が話に興じていても注意をする事がなかった。第一、女主人達にしてからが手を止めてお喋りに夢中なのだから、仕方あるまい。
 男達もそうなのだろうかとリズルは不思議に思った。夕食の席では領主夫妻は夏至祭の準備について様々な事を話し合っていたが、イースは我関せずと言う顔で座っている。聞き耳を立てているようにも思えなかったし、領主や夫人が意見を求めても「父上(母上)の宜しいように」と答えるのみであった。一体、この男には自分が交易島の主人になるという自覚があるのだろうかと、疑問に思わざるを得なかった。投げやりではないにしても、関心がなさすぎるのではないだろうか。そんな事で次期領主としてやっていけるのだろうか。リズルが心配する事ではないのかもしれないが、心許なくなった。だが、領主夫妻は気にも留めていないようである。それならば、リズルが何を思い、何を言ったところで無駄であろう。
 リズルの祭りの衣装は、見た事もない程に豪華であった。絹で目と同じ色の青を地色に金の刺繍が施してあり、靴もお揃いであった。そこに青玉の首飾りをすると良いと夫人に言われた。全ては夫人の見立てによるものであったので、リズルは何も意見を言う事が出来なかった。一夜の祭りの為には贅沢な服であったが、黙って受け取るしかなかった。
「でもね、イースったら、去年の服で充分だと言うのですよ」
 夫人は嘆いた。「それではせっかくのお祭りだというのに、楽しめないのではないかしら」
「堅実な方なのでしょう」
 リズルは慰めようとして言った。
「それはそれで良いのですが、やはり、お祭りともなりますとね、領主家としては、なるべく豪華に装わなくてはなりませんもの」
 それに、前の年の衣装は側仕えの者に下げ渡すのだという。イースにはまだ近習はいないが、そろそろその用意も要るのにと言う事であった。成人した男には必要だというのだ。
「わたくしには、あの子の考えていることがわかりませんの」
 それは同じだとリズルは思った。
「でも、あなたになら、心にあることを話してはくれるのではないかと思っているのですよ」
「わたしなど…」
 イースの視界にすら入っていないかもしれないのに。
 その言葉をリズルは呑み込んだ。
「いいえ、あなたがいらして、あの子もずいぶんと元気になりましたし、うれしく思っておりますのよ」
 夫人はリズルの手を取った。
「あなたの前では意地悪なことを言ったりはしますが、本当はとても優しい子なの」何度、その言葉を聞いただろうか。「きっと、あなたの前では正直になりきれないところもあるのでしょうけれど、どうか、許してやって。そして、あの子のよい相談相手になってほしいの」
「イースさまは確たる自分のお考えをお持ちのようですし、わたしのような者が相談相手などとても無理ですわ」
「いいえ」夫人は猶も言いつのった。「結婚すれば、あの子の周りも一変するわ。今はまだ若いというので、いろいろと年配の方たちから引き立てていただいておりますけど、結婚したら一人前の男として扱われるのです。もう、父親の後見なしに自分で判断して様々な場に臨まなくてはならないのです」
「イースさまのお歳では、早くはありませんか」
 リズルは愕いた。
「そのために、子供の頃から父親と共に仕事場に赴いて学ぶのですわ。決して早くはありませんの――いくら、あの子の身体が弱くて経験が少なくても、他の人は容赦しないでしょう」
 こちらはこちらで厳しい世界なのだと、リズルは改めて思った。
「でも、ご経験が少ないのならば、もう少し結婚を先にしてもよかったのではないのですか」
 夫人は溜息をついた。
「それでは、あなたに他のお話が決まってしまうかもしれませんでしたもの。なるべく急ぎたかったのですわ。それに、お医者さまの言葉がどうしても気になってしまって」
 二十歳まで生きられない。
 リズルはどきりとした。確かに、自分の弟の誰かがそのような事を産まれた時に療法師や占い師に言われたとしたら、なるべくその願いを叶えてやりたいと思うだろう。例え、それが困難な望みであっても。たった一人の我が子であれば猶更だろう。
 夫人の言葉に、リズルは深く考えさせられた。思っていたよりもイースを取り巻く環境は厳しいようであった。ならば、甘やかしているばかりではいけないのではないかとも思ったが、それは領主夫妻の考え方ひとつだ。リズルとしては、イースの仕事が円滑に進むように他の夫人達に働きかけ、助力を得られるようにしなくてはならないのだろう。苦手な社交にどっぷりとはまる事になるが、それはもう、諦めるしかない。イースも、一人で仕事をする身になれば変わるかもしれない。
 そうして、夏至祭までの日は過ぎていった。
 


 夏至祭の日は朝から晴れ渡っていた。港も静かだった。船は停泊はしていたが、殆どの者は街の祭りへと出掛けているのであろう、常の賑わいからは程遠かった。
 リズルは朝から晴れ着を着た。大きく開いた下着の袖口には襞をとった透かし編みが贅沢に使われていた。ミアにはなるべくきつく紐を締めすぎないようにと頼んだ。だらしなく見えなければそれで良かった。髪には衣装の生地と同じ平紐が編み込まれた。その姿で裾を踏まないように細心の注意を払って朝餉の席へ降りて行くと、夫人が歓声を上げた。
「まあ、なんてよく似合うのでしょう。わたくしの目に狂いはなかったわ」
 リズルは顔が赤くなるのを感じて俯いた。夫人は濃い茶色にやはり金の刺繍を施した衣装を身に着けていた。それは落ち着いた夫人に似合っていた。二人の服の刺繍模様は同じようで、それだけを見ると親子のようであった。
「イース、ご覧なさいな、なんて愛らしいのかしら」
 父親と食卓で話をしていたイースが振り向いた。一瞬、その目は愕いたように見開かれたが、すぐにいつものようにすがめられた。
「母上のお人形が参りましたか」
「またそのような事を言う」領主がたしなめるように言った。「良くお似合いではないか。今夜は舞踏のお相手を願いたいものだ」
 イースは肩を竦めた。
「馬子にも衣装と申しますし」
「もう」夫人は笑った。「照れているのだわ、あの子」
 夫人はイースの言葉を悪く取る事はしない。自分もそう出来ればどんなに平和に幸せに暮らして行けるだろうかと、リズルは思わずにはいられなかった。
 静かに食卓に着くと、麵麭と乾酪、それに葡萄酒だけの簡単な朝食を済ませた。一息ついていると、最初の客が到着したとの知らせが入った。リズル達は正面の扉へ回り、客を迎えた。
 そうして続々と人が到着し、あっと言う間に大広間は着飾った人々でごった返した。振る舞いの葡萄酒が供され、あちらこちらで乾杯をする姿が見られた。闘技の日の再現のようであった。一際美しく着飾ったアリア達もやって来た。娘達はひとかたまりになり、興奮した様子で今日に行われる事をあれこれとリズルに語った。既にミアから聞いていた事ばかりであったが、その一つ一つにリズルは頷いてみせなくてはならなかった。
「あら、イースさま、まさかとは思いますが、昨年のお衣装と同じものではありませんの」
 アリアが不審そうに訊ねた。深緑色に金糸の縁取りをした胴着はイースに良く似合っていたが、目立つ色には違いなかった。
「あのお色がお気に召しているようですから、きっと、同じに見えますのね」
 リズルはそう言ったが、実際には、夫人が気を利かせて昨年の物に少し流行を加えて新しく仕立てたものであった。
「そうですわよ。まさか領主さまの後継ぎが、昨年と同じ晴れ着に袖を通されるなどという事はありませんんわ」
 リリアナという娘が言った。
「そうね」アリアは笑った。「たまたま同じ色だからそう思っただけですわよね。だって、領主家の皆さま、新しいお召し物ですものね」
 ここでは、晴れ着を買えることが財力の指標にもなるのだとリズルは気付いた。だから、皆贅を尽くした晴れ着を身に着けているのだろう。そうでなくては、財政上の不安を抱えていると見做されるらしい。夫人の気遣いも、そこに起因するものなのであろう。
 居間から続く庭も開放され、四阿(あずまや)にも人がいた。今日は、一日中城砦の何処に行こうとも人で一杯なのではないかとリズルは思った。
「ディルス殿の服をご覧になって」フェリアが言った。「あれが大陸での流行ですのね、リズルさま」
 そうは言われてもリズルには何処が他の男達の衣装と異なっているのか、区別がつかなかった。
「わたくしのいたところは、ずいぶんとここからは離れておりますし、流行とはあまり縁のないところでしたから」
「まあ、それは残念」アリアは言った。「それでは楽しみが少のうございますわね」
 それはそれで楽しい事はあるのだが、それを言っても始まらないだろう。リズルは少し俯いて微笑んだ。恥ずかしげに見えるように。
「でも、こうしていここにいらしたのですもの、これからは流行を楽しめますわよ」
「アリアさまは流行に敏感でいらっしゃいますものね」
 娘達は笑った。「大陸へいらっしゃれば、最先端の装いができるなんて、うらやましいかぎりだわ」
 その言葉を、アリアがどう聞いたのかはリズルには分らなかった。ディルスとの結婚はアリアの意志ではない事は知っていたが、他の者はそれを知らないのであろう。無邪気に笑いさざめいていた。そして、アリアもその中の一人であった。厭だとは言えないのは分る。そして、それを隠さなくてはならないのも。それにしても、見事に隠すものだとリズルは内心、愕いた。
「歌人だわ」
 居間で歌が始まった。娘達はその声に一時、耳を傾けていた。
「やはり領主様のところの歌人は素晴らしい歌声ね」感心したようにエルファという娘が言った。「うっとりしてしまうわ」
 歌人の歌は恋歌が多い。女性向けの歌ばかりで、北海とは対照的だ。北海の詩人(バルド)は主に歴史や戦いを語る。唯論、女も聞くが、殆どは子供や男の好むものだ。大陸渡りの書物で恋歌を多く知っていたリズルは戸惑う事はなかったが、最初は堂々と人前で愛だの恋だの果ては不倫の歌まで吟じられるのには愕いた。
 今、歌人が歌っているのは夏至祭の讃歌であった。北海の詩人もやはり、夏至祭の歌を歌うが、それは神々に捧げられるものだ。ここでは、祭壇もない所で歌われるのだが、それが終わると人々は口々に神への感謝を呟いていた。リズルもそのふりをした。
「素晴らしかったわ」アリアが言った。「わたくしたちの連れて来た歌人の声など霞んでしまいますわね」
 不自然に高い声で歌うことが素晴らしいのだと言うのが、未だにリズルには理解できなかった。
「でも、連れて来なければ舞踏が、ね」
 アリアの言葉にリズルの頭は痛んだ。何とか足取りや手振りは憶えたものの、自然に見えるように踊る自信がなかった。それに、領主はともかく、イースはリズルとは踊らぬであろう。
 娘達の話題は舞踏の事へと移って行った。アリアはイースと踊る事を決めていたようであったが、それを堂々と皆の前で宣言するような事はしなかった。皆と同じように今日はイースが踊るのかどうか、心配している風であった。それ程気になるのならば自分から声を掛ければ良いと思うのだが、それは「はしたない」のだろう。何とも面倒だと思った。リズルが島で若い戦士と平気で話していたのを他の娘が快く思わなかったように、ここでも同じなのだろう。
「随分と楽しげでいらっしゃる」
 声を掛けてきたのはディルスだった。
 リズルを始めとした娘達は軽く膝を沈めて会釈した。
(わたくし)は夏至祭の後暫くで国元に帰りますれば、今宵は皆様と出来うる限り楽しみたいと思っております」
「まあ、それでは寂しくなりますわね」
 リリアナがアリアを見て言った。
「長くこちらに滞在しておりましたので、故郷では父が待っております」
「それでは仕方ありませんわね」
 皆が残念だが仕方がないというような事を口にした。リズルはそう言う程にこの男を知っている訳ではなかったので、特に何も言う事が出来なかった。
「それでは、後程、舞踏のお相手などをして戴けますと光栄に存じます」
 そう言うと、ディルスはちらりとリズルに眼をやり、にっと笑った。その笑みの理由も分らぬままに、ディルスは男達の方へ去った。
「もうお帰りなんて、アリアさま、寂しいことですわね」
「おっしゃったように、仕方のないことですわ。殿方には大切なお仕事がおありですもの」
 そうよね、と誰もが頷いた。
 儀礼的過ぎる、とリズルは思った。恋歌に歌われるのが真実ではないしにても、二人の間は婚約者同士としては儀礼的に過ぎないだろうか。アリアが儀礼的なのは分らないでもなかった。だが、ディルスはどうだろう。人前だから(おもんばか)ったのか。遠征へ出掛ける際の恋人達や夫婦の別れを知っていただけに、信じられない思いだった。
「でも、来年にはリズルさまはご結婚なさって、アリアさまは大陸へいらっしゃるのね。次の夏至祭はつまらなくなりそうですわ」
「そうおっしゃっている皆さまも、すぐにお輿入れが決まりますわ」アリアが言った。「決まるのはあっと言う間ですもの」
「そうしましたら、また、こうしておしゃべりできますわね」
 リズル半分、会話を聞いてはいなかった。そのような内容のない話ばかりを今日は一日、聞き続けなくてはならないのかと思うと苦痛であったし、退屈でもあった。
「死んだ魚みたいな顔をするな」
 側でイースの声がした。相変わらず口が悪い。だが、他の娘達はお喋りに夢中で聞えなかったようだ。
「余計なお節介だわ」
 そう小声で言ってから、リズルは微笑みを浮かべた。「あら、イースさま、どうかなさって」
 娘達のお喋りが止み、皆は一斉に膝を沈めた。
「ディルス殿がこちらにいらしたと思うのだが」
「お庭の方に行かれたようですわ」
 フェリアが言った。
「そうですか」
 イースは微笑み、一礼をして去った。
「本当にイースさまはいい方だわ」フェリアは溜息をついた。「紳士的でいらっしゃる上に、領主さまの後継者。リズルさまは本当にお幸せだわ」
 娘達は同意するように頷いた。
 話題の中心になってリズルは戸惑った。そして曖昧に微笑んだ。愛してもいない、好きでもない男だというのに、娘達の評判はすこぶる良い。誰も本当のイースを知らないのだ。もし、この内の誰かがイースと結婚するような事があれば、愕き呆れるのだろうか、それとも、イースは相手を騙し続けるのであろうか。
 考えても詮ない事であったが、どうしてもそういう事を考えてしまう。それは、イースの態度が余りにも違うからだと思った。自分に対しては何時でも嫌味ばかり言う癖に、人前ではそのような事はおくびにも出さない。本当のイースを知るのは城砦の人々のみだろう。
 大広間には甘い食べ物が用意されており、娘達とリズルは居間から庭へ、また大広間へと様々に移動した。初めて口にする菓子類は、北海の物に較べると甘みも強く、舌がぴりぴりする程であった。蜂蜜ではない味がした。ここでもお祭りでなければ出されないのであろう、男も女も菓子を手に話に興じていた。
 そうこうしている内に、リズルには永遠とも思える時間であったが、ようやく夕餉の時刻となった。大きな卓子や椅子が運び込まれ、御馳走が並べられた。
 居間では歌人達が楽人達と共に音楽を奏でていた。
 食事が始まると、リズルはイースとやはり同席せねばならなかった。だが、にこやかに客の言葉に対して答えているイースは、リズルには全く興味がない様子であった。
 やがて食事も終わりに近付くと、領主が立ち上がり、リズルに近付いた。
「舞踏をお願い出来ませんかな」
 リズルは領主の手を取り、立ち上がった。そして居間の方へ行くと音楽が変わった。
 領主の踊りが上手なのかどうなのかはリズルには分らなかった。自分の動きで精一杯であったからだ。二人の踊りが終わるや、他の人々も踊り始めた。席に戻る途中で、一人の男がリズルに舞踏を申し込んだ。領主を窺い見ると、ゆっくりと頷いたのでリズルはその男に手を取られて再び舞踏の中に加わった。
 そうして、何度踊ったであろうか。アリアや他の娘達も踊っている姿が目に入るようになった。アリアは宣言通りにイースと踊れたのかどうかは分らなかったが、楽しんではいる様子であった。
「一曲、お相手願いませんか」
 ディルスが自分に声を掛けて来るとは思わなかったリズルは愕いた。
「アリアさまとは踊られましたの」
「ええ、最初に」
 それならば遠慮する事はないであろうとリズルは思った。
「しかし、貴女はまだイース殿とは踊ってはいらっしゃらないようですが」
 ディルスの視線の先には、アリアの手を取るイースの姿があった。
「お客をもてなすのも招待主の役目ですわ」
 リズルは肩を竦めて微笑んだ。
「では、遠慮なく」ディルスはリズルの手を取った。「御手を失礼」
 二人は踊りの中に加わった。
「それにしても、こちらの夏至祭は大がかりですね」
「そうですか」リズルは訊ねた。「わたしの地でも夜通し騒ぎます」
「いや、領主の館に朝から集まるとは思ってもみませんでした。夕刻からと思っておりましたので、息をつく暇もありません」
 リズルは笑った。ディルスの踊りが上手なのか、自分が慣れたのかは分らなかったが、滑らかに身体が動いた。
「貴女は不思議な方だ」
 ディルスはリズルの目を見つめて言った。「それに美しい目をお持ちだ」
「わたしの地へいらしたら、いくらでも同じ目の色の者はおります」
「いえ、目の色の事だけではありません」ディルスは笑った。「貴女の目の中にあるものが美しいと言ったのです」
 リズルは顔が赤くなるのを感じた。この人が何を見たにせよ、それは中つ海のものではない。
「戸惑わせてしまいましたか。しかし、実に惜しい事だ」
「何が、ですか」
 リズルは戸惑った。
「貴女はイース殿の婚約者であられる」
「あなたはアリアさまの、でしょう」
「左様。残念な事に」
 この男は何を言いたいのであろうか。社交辞令を言いたい訳でなさそうなのは分った。
「貴女はイース殿の婚約者で、私はアリア殿の婚約者」ディルスはにっと笑った。「選べるものならば、私は貴女を選びたかった」
 リズルの足が一瞬止まり、躓きそうになった。それをディルスは巧みに誤魔化した。やはり、この人の踊りが巧いのだ。
「失礼、愕かせてしまいましたね」
「口になさるべき言葉ではありません」
「何、私はもうすぐ大陸へ帰る身の上、我々は二度と出会うことはありません」
 だからと言って、良いというものでもないと、リズルは思った。
「私は、出来る事ならば貴女のような自由を愛する女性を妻に選びたかった。共に鷹を飛ばし、馬を駆けさせる女性をね」
「アリアさまではいけませんの」
「アリア殿は父が求婚するよう求めた相手です」その口調には苦々しげなものが混じっていた。「私共の領地は小さいかも知れませんが、古い家系です。代々裕福な女人を妻にしてきたが故に安泰です。そして、父も私にそれを求めたに過ぎません。父と母の人生が不幸であったとは言いませんが、私には違う人生があっても良いはずだと思っていましたから」
「それでは、アリアさまがお可哀想です」
「そうでしょうか。アリア殿は領主夫人として貴女と対等になるのですよ。この島の男性と結婚したところで、如何に裕福であろうと結局は商人の妻ですからね」
 それに――とディルスは付け加えた。
「アリア殿も、私をそれ程好いてはおられない」
 アリアはディルスにどことはなしに冷たかった。それに気付かぬふりを、この男はしていただけなのだ。
「まあ、貴女のような方がこの島に輿入れなさるには、様々な事情がおありでしょうが、それは聞きますまい。だが、貴女はこの島には惜しい。イース殿に、とは申しません。この島に縛り付けておくには実に惜しいのです」
「どうして、そのような事をわたしにお話しになるのですか」
「恐らく、これが最後だからです。貴女にお会いするのも、このような話を他人にするのも。貴女ならば分って頂けるのではないかと思いましてね」
「分ったからといって、どうすることもできません」
「そう、だからです。共に逃げようとも貴女は仰言らない」ディルスは笑った。「そういう所も含めて、私は貴女が好きだ。自由を封じられている貴女を見るに忍びなくなった」
 ディルスの口調が変わった事にリズルはようやく気付いた。
「あなたはわたしの運命の人ではないわ」
「残念だ」ディルスの笑みが大きくなった。「だが、イース殿とて、そうでしょう」
 言葉に詰まったリズルに、ディルスは真剣な顔になった。
「もし、私が貴女の運命の人であったなら、もしくは全てが遅くなった後で運命の人に出会ってしまったら、貴女はどうなさるのです」
「あなたが運命の人ならば、私を困らせるようなことはおっしゃらないはず」
「正論だが、違う」ディルスは言った。「理性が正しくないと判断しても、抗えない、それが、運命というものではないですか」
 リズルは再び答えに窮した。祖父が言いたかったのも、この事なのかもしれない。
「貴女を知る事が出来て良かった、と私は思います。例え、運命の人ではなくとも、貴女のような方がこの世に存在するのだという事を知る事が出来ただけで、私は充分です」
 ディルスはすっきりとした表情で言った。「それにしてもイース殿は果報者だ、貴女のような方がこの島の女主人となられた日には、全てを変える事が出来るでしょうから」
「そのような事…」
「例えば、あの野蛮な闘技などを廃止することも可能でしょうし、女性が大陸のようにもっと自由に行動することも可能でしょう」
 それには恐ろしく時間が掛かるであろうし、反発も当然ながら予測出来た。試してみる価値はあるだろう。だが――
「それは買いかぶりというものです。わたしにはそんな力はないでしょうし、何よりもイースさまが嫌がられましょう」
 「したが、闘技はイース殿も貴女も好まれぬよう。あればかりは正せましょう。奴隷の使い方を間違っております故」
 奴隷の使い方に間違いも正しいもあるのだろうかとリズルは皮肉に思った。闘技には反対のディルスでさえ、奴隷には反対ではないのだ。
 曲の終わりが近付いて来ていた。
「それでは、これでお別れですわね」
「ええ、貴女の幸福をお祈りしております」
 二人はお辞儀をして別れた。二度と会う事がないと分っても、それ程寂しくは感じないのは、知り合って間がないからであろう。気持ちの良い人であったので、もっと時間があれば良い友人となり得たかもしれないとリズルは思った。だが、恋愛の対象としては考えられなかった。ディルスがどう思おうとも。
 大広間に戻ろうとして、不意に肘を引かれた。
 乱暴な仕種に文句を言う間もなく踊りの中に引き入れられた。
 イースだった。
「他の者と踊ってお前と踊らなくては、不審に思われるからな」
 イースは憮然として言った。そんなに機嫌を損じているのならば、踊らない方がましだとリズルは思った。付き合わされる者の身にもなって欲しい。
「ディルス殿と話していたな」
「夏至祭が終わったら国に帰られるそうですね」
「恐らく二度と交易島には来られないだろう。寂しいのか」
「別に――」リズルは平然と答えた。「鷹狩りの時に一度お話ししたきりですもの」
「それにしては親しげに話していたな」
 何を言いたいのであろうかとリズルは不思議に思った。
「お客さまと会話をするのが、そんなにいけないことだとは、知りませんでした」
「客との会話」イースの口が諧謔的に歪んだ。「儀礼的には見えなかったな」
「よくご覧になっていること」リズルはイースを見て言った。「そんなにわたしに興味を持っていただいているとは、愕きです」
「自惚れるな」
 イースが言った。「客に失礼があってはいけないし、お前の正体がばれるのも良くはない」
「なら、わたしなど呼ばなければよかったのに」
「父上と母上のやった事だ、私は関係ない」
 全てをそれで済ませるつもりなのか。
「あなたがわたしでなくては結婚したくないと言ったそうじゃないの」リズルは折角の夏至祭が台無しにされて、意地悪な気分だった。「その言葉の責任は取って欲しいものだわ」
「戯れの言葉を真剣に取られたこちらの身にもなって欲しいものだな」
 小声で吐き捨てるようにイースは言った。リズルは手を振りほどいて踊りを止めようとしたが、イースはそれを許さなかった。
「最後まで踊るんだ。仲の良い婚約者同士という風に見せなくてはならないからな」
 この城砦に集まっている人全てに。
 リズルは目に湧き起こってくる涙をすんでの所でこらえた。この人の我儘と戯れで、自分はここまでやって来たのか。全てと別れを告げて。領主夫妻の親心までも踏みにじる言葉であった。
「そんな情けない顔をせずに笑え、楽しそうにしろ」イースが言った。「結婚はしてやるのだから、文句はないだろう。いずれ、お前はこの島の女主人だ」
「女主人ではないわ。あなたの奴隷だわ」
 リズルは呟いた。
「奴隷であっても、贅沢は出来るだろうが。それに、私が長く生きなかった時にはお前の天下だろうが」
 自分が長く生きないと、この人は思っているのだろうか。
「憎まれっ子世にはばかる、と言うわ」
「なかなか言うな」
 イースは笑った。「だが、それはお互い様だろう」
 何故、いつもこのようになってしまうのだろうかとリズルは思った。理性的な会話が出来た試しがない。もっと、イースの好む書物やこの島の話をしてみたかった。だが、それは叶わぬのではないかという気持ちがリズルを支配しつつあった。そういう話を少しでもできれば、二人の間に理解も生まれるのではないかと思ったのだが、イースにその気は全くない様子であった。それとも、リズルの事をこの島の娘達と同じように、刺繍と噂話で一日を過ごせると信じて疑わないのか。
 婚約者であるならば、自分を見て欲しいとリズルは思った。ディルスがリズルの目の中に見た自由への希求を、イースも見て欲しいと思った。最初の出会いが最低だったので印象もそうなのは分る。だが、リズルはイースを理解したいと思ったし、相手にもそうして欲しかった。何しろ、まともに顔も合わせた事もないのに婚約者となったのだから、互いについて何も知らないのだ。
「わたしたちは、お互いを知らなすぎるわ」
 リズルはようやく言った。
「だから何だ」
「だから、早合点は無用に願いたいの」
 リズルはふいと目を逸らせた。「わたしは、ここにいる方たちとは違うわ」
「野蛮人だ」
「そういうことではないの」
 いらいらしながらリズルは言った。「わたしはわたし。ここの人たちとも違うけど、元いた所でも違っていたわ。それなのに、あなたはわたしを枠にはめようとしている」
「それがどうした」
 何もこの人の興味を引かないようであった。踊りが終わると、リズルは一礼をするとさっさと大広間に戻った。領主夫妻はにこやかにリズルを迎えた。イースと踊っているのを見て満足したようであった。二人が仲良くやっていると思っているのかもしれない。
 暫くすると領主が立ち上がり、男達がそちらを見やった。音楽も舞踏も止んだ。
「それでは、出発とするか」
 男達は革帯を締め直し、領主の後に付いてぞろぞろと部屋を出た。ディルスもイースもいた。
 いよいよ、馬で駆けるらしい。気付けば夜も更けていた。
 女達は夫人に連れられて城壁に上った。普段はここへと通じる扉は閉じられている為、リズルは来るのは初めてだった。高いことは高かったが、怖くなる程ではなかった。
「リズルさま」アリアが声を掛けて来た。「始まりますわね」
 その声からは興奮が感じられた。
「ディルス殿も参加されるのですね」
「ええ、よい機会だからと父が誘いましたの。あちらでも同じような事をするらしいですわ」
 火祭りの名に恥じない大勢の騎馬が現れた。そして、手にした松明(たいまつ)を三度高く掲げると一斉に走り出した。石畳に蹄鉄の当たる冷たい音が響いた。
「一番乗りの騎手の願いは全て叶うと言われておりますのよ」アリアが言った。「だから、最後はいつも競馬のようですわ」
 今回、初めて参加するというイースでは絶対に無理であろうから、無事に夜明けを迎えるまで走り切れれば僥倖だろうと思った。
「アリアさま」リリアナが言った。「イースさまと踊られましたわね。わたくしは無理でしたわ」
「ええ、やはりとてもお上手でしたわ」
 アリアはにっこりと笑った。「リズルさまも踊られたのですから、お分かりでしょうけれど」
 そのような事を感じる暇もなかった。だが、あのような会話をしながらも踊っていたのだから、イースは上手なのであろう。
「ディルス殿もお上手でしたわ」
 そうして、ふたたびお喋りが始まる。リズルはずっと炎を追い掛けて見ていたかったが、それは出来なかった。まるで意地悪をするかのように誰かがすぐにリズルを話に引き込んだ。それは、皆が自分に気を遣ってるからだという事が分っているだけに始末が悪かった。
 女性のお喋りというのは、どうしてこう、終わりが見えないのかとリズルは少々、苛立った。それを微笑みの裏に隠し、会話に加わっていた。
 こうして皆の中に入っているから、イースには本当の自分は見えては来ないのではないかとリズルは思った。その一方で、それを見せてどうなるという気持ちもあった。イースは自分に興味を持っていないではないか。書を好む事を知ったとしても、それが興味を引くであろうか。むしろ、生意気だと言われかねないのではないか。それでは逆効果ではないか。
 距離を縮めたいと思うが、それは少しでもここでの生活を楽なものにしたいからだ。好かれたり愛されたりする事を期待するものではなかった。
 寂しい人生かもしれない。誰からも愛される事も愛する事もなく、飽くまでも異邦の地で生命を終えるというのは。しかし、それが皆の望んだ事なのだ。両親や祖父はその心配をしてくれていたのだろうが、望む者の力の前に、それはないに等しいものであった。
 自分と同じように望まれながらも愛のない結婚を強いられるアリアも、同じような人生を送るのだろうか。それとも、何時しかディルスを愛するようになるのだろうか。愛されるようになるのだろうか。別の楽しみを見出すのであろうか。
 リズルはぼんやりと娘達の会話を聞きながら、そのような事を考えていた。
 蹄の音が徐々に大きくなって来て、リズルは馬が城砦と街を一周して来た事を知った。
「まだまだ、これからですわよ。夜駆けは始まったばかり」
 アリアが笑った。その笑顔は光り輝くように美しかった。その娘が、愛されてもいないのに嫁ぐのだとは信じられなかった。本人も信じないに違いない。
 ディルスは何故、あのような事を自分に言ったのだろうかと、リズルは不思議に思った。言ったところで、何も変わりはしない。むしろ、心を乱すばかりだというのに。
 少なくとも一人は自分の味方がいるという事を示したかったのか。それとも、別れの前に自分の気持ちを伝えたかっただけなのか。闘技がそれ程までに厭であったのか。
 何れにしても、ディルスとの会話はリズルの心を乱すばかりであった。
 運命の人と、全てが終わってしまった後で出会ったとしたらどうする。
 それに対しては答えも出ていた筈であった。運命を諦める事で、自分の中では決着が付いていた。それ以外に選択肢があろうか。もう、自分は交易島に来てしまったのだ。ディルスが運命であったとしても、諦める他にあるだろうか。共に逃げるとしても、何処へ行くと言うのか。四方を海に囲まれたこの島から抜け出せると言うのか。
 帰って来た轟音に、リズルは城壁から見下ろした。二周目。まだ、騎馬はひとかたまりだ。
 人の来ないような浜に船を着けてこの島を出る。
 出たところでどうなるというのだ。ディルスは領地へは帰れまい。そして二人でどうして生きて行くと。
 誰も知らない土地で暮らすのはリズルには良かろう。どのような状況にあれ生きて行けるように教えられている。だが、ディルスはそうではない。そのように生きるべき人ではないのだ。
 ディルスが自分の運命でなくて良かったという思いが、リズルの中で広がって行った。
 では、イースとはどういう暮らしが待っているのか。城砦では諍い、無視し合い、人前では儀礼的な夫婦を演じるのだろうか。それとも、その内に理解し合えるようになるのだろうか。親同士の決めた結婚でも上手く行く例のある事はリズルも知っている。だが、それは北海での事だ。この地では分らない。しかも、相手はイースだ。
 遠くに動く松明の火が見えた。街の城壁を走っているのだ。街の広場でもかがり火が焚かれている様子が見えた。一晩中、火を絶やさないのも夏至祭だ。
 イースの考えはリズルには全く見えなかった。ここに来て、もうふた月近くなるというのに、会話らしい会話を交わした事もなかった。イースには、本当は誰か、結婚は出来ないが心に思った人がいるのではないか。それを誤魔化す為に、リズルの事を持ち出したのだと思うのは、物語の読み過ぎだろうか。
 リズルは、アリア達に向けられたイースの笑顔を思い出していた。心からあのような笑顔を向けるような相手がイースにはいるのだろうか。もし、そうだとするならば、リズルの事を気に入らないのだとしても仕方あるまい。だが、それにしては往生際が悪すぎる。いっその事、偽物でも良いから愛想良くすれば良いのだ。そうすれば、リズルも騙されていただろう。イースに好印象を持ったであろう。
 そう、全てはあの出会いが台無しにしてしまったのかもしれない。
 リズルは娘達を見た。前途に何の不安も抱いてはいないように見える。だが、本心は分らない。アリアのように不満を抱いていても、それを皆の前で見せる事はしない。そういった事は、どのようにして解消しているのであろうかと不思議に思った。子供の頃からこのような環境に身を置く事で、何か特別な方法があるのかもしれない。
 リズルは頭を抱えたかった。北海のやり方はここでは通用しない。馬を駆って風を感じたくともそれは出来ない。たった一人で心落ち着くまで浜から海を眺める事も出来ない。出来ない事ばかりであった。
 イースは他人に当たる事で抑圧された思いを解消しているのかもしれないが、リズルには無理だ。
 この一日で何度目だろう、リズルは泣きたくなった。だが、部屋へ逃げ込む事は出来なかった。にこやかに客人達をもてなさなくてはならない。それは辛い事ではあったが、これからの生活ではどうしても必要となる事であった。
 娘達の会話に上の空ながら時折、相づちを打ち、微笑んだ。誰も本当の答えなど欲してはいない会話であった。
 社交という事では意味はあるのかもしれない。だが、リズルには何の意味も持たなかった。許されるのならば、その時間を書を読む時間に充てたい位であった。
「もう、お疲れになって」
 アリアが訊ねてきた。
「いいえ、そうではありませんわ」
 リズルは微笑んだ。
 それで納得したようにアリアは再び話の輪に戻った。
「イースさまはね…」
 イースの話で皆は盛り上がっているようであっった。リズルは少し興味をそそられた。
「イースさまはディルスさまの地と交易を始めたいようなの」
 二人が親しく話している事は知っていたが、そのような話をしているとは思わなかった。
「それは素敵なことだと思います」
 リズルは言ったが、アリアは少し眉間に皺を寄せた。
「でもね、ディルスさまの領地は小さくて、穀物くらいしかないそうですわ」
 穀物。それがどれ程貴重なものであるのか、この島の人間は忘れているのではないだろうか。この島は穀物の取引所でもある。だから、溢れているのは分る。だが、北海の者が中つ海を襲うのは、結局は穀物の為である。
「内陸ですから北海の海賊は来ないようなので、非常に豊からしいのですが、穀物だけでは取り引きにならないでしょう」
「イースさまにはお考えがあるのでしょう」エルファが言った。「そうでなければ、新しい取引先は必要ありませんでしょう」
 春はともかくとして、秋の収穫期には沿岸や河川沿いの農地は、北海の海賊の格好の獲物である。その為に安定しない秋の穀物市場を、何とかしようという考えなのかもしれない。だが、交易船とて祖父の標的だ。
「ねえ、リズルさまは北海の海賊をご覧になったことがあって」
 リズルはアリアの言葉にぎくりとした。
「いいえ、わたくしの来た地はディルスさまのように内陸ですので」
「それはそれは恐ろしい男たちなの」
 リリアナが言った。「金色の髪に青い眼をして、身体も巨人のように大きくて…長剣もとても長くて恐ろしいのよ。これから夏の終わりまで、そんな男たちがこの島に商取引にやってくるの」
「でも、交易島は中立では」リズルは訊ねた。「恐れることはないのではありませんか」
「野蛮な男たちですもの、何をするか分りませんわ」
 リリアナが眉をひそめた。
 何をするのか分らないのは、中つ海の人間も同じだとリズルは思った。例の、族長の幼い子供達の事を思い出した。
「実際に見たことはなくても、そのくらいは分りますわ。何と言っても、海賊なのですもの」
 アリアの言葉に、皆は頷いた。成程、やはり本当には見ていないのだ。北海には確かに金髪碧眼は多いが、そればかりではない。中つ海にも明るめの髪や目の者もいるのと同じだ。印象ばかりが広がっている。
「ああ、いやだわ。北海の者の話はやめにしません」
 ほっとした事にフェリアがそう言い、話題は今度はアリアの結婚の方へと移った。アリアは微笑みながら皆の質問に答えていたが、内心は複雑であろうとリズルは思った。
 何周目だろうか、男達の馬が駆け抜けた。もう大分、馬の群れはばらけ、松明の列は長く伸びている。イースはついて行けているのだろうかとふとリズルは思ったが、良い馬に乗っているので取り敢えずは大丈夫であろうと思い直した。あの馬ならば夜通し走ったとしても他の者について行けるだろう。乗り手の技量は着順に現れるだろうが、イースのそちらの能力は分らない。最後まで走りきるだけの体力があるかだ。
 体力の面でもリズルはイースの事が分らなかった。普段は何事もないように過ごしている、だが、本当にひと冬を大病で寝込んでいた者がそんなに急に体力を取り戻す事が出来るだろうか。無理を重ねれば、再び倒れて領主夫人を哀しませる事になる。その事を知らぬ訳でもないだろうに。それとも、弱い自分を見せるのが嫌なのか。
 髭は生やしていないとは言え、十九才ならば大人である。それなりの矜持もあろうが、何よりも健康である事が一番だ。無理をしては元も子もない。
 東の空が白々と明け始めた。
 男達の馬が戻って来た。女達の見守る中、一番馬が門から入って来た。
「どなたなの」
 女達は城壁から身を乗り出していた。
「ディルスさまだわ」
 誰かが言い、歓声が上がった。大陸からやって来た男が、今回は島の男に勝った。その願いは全て叶うという神の栄誉を勝ち得た。
 城壁から女達は降り、男達を迎えた。イースは最後から数えた方が早いくらいの位置にいたが、初めての参加で夜を無事に走り抜ける事は珍しいらしく、皆の祝福を受けていた。馬が良いばかりではなかったようだ。
 男達は下馬すると、手綱を馬丁に放り投げて口々に互いを称え合い、大広間へ向かった。女達はその後に続く。リズルもそれに続いた。
「完走されましたわね」アリアがイースに声を掛けていた。「初めてのご参加で、おめでとうございます」
「それを仰言るのならばディルス殿にでしょう」
 イースが返した。
「ディルスさまのところには祝福の人が大勢いて、近寄れませんもの」
「貴女であれば、皆、道を空けましょうに」
 丁寧な物言いではあったが、素っ気なかった。
「まあ」アリアは笑った。「でも、あれだけの人ですもの」
「確かに、凄い人だかりですね」
 イースも微笑んだ。「初めての参加で一着なのですから、当然でしょう。さすがは大陸の領主となられるお方」
「わたくしには違いが分りませんわ」アリアは言った。「あなたもディルスさまも、どちらも領主の後継者ではありませんか」
「大陸の領主は戦士でもあるのです」静かにイースが言った。「我々のような商人とは、どだい違います」
 その事はリズルも知っていた。だが、ディルスからは戦士という感じを受けなかった。長剣も佩いてはいないのだ。北海の戦士とは余りにも違う。むしろ商人であるイースと同じに見える。成程、あれが大陸の戦士なのだとすれば、北海の戦士は野蛮にも思えよう。
「では、リズルさまのお父上も戦士でいらっしゃるのですね」
 自分の名が出てリズルはどきりとした。
「ええ、私はお目に掛かった事はありませんが、勇猛な方と伺っております」
 何とか誤魔化して貰えた。自分が父の事を言うとなると、何を言って良いのか分らなかった。
 食卓の片付けられた大広間に着くとアリアはイースの側を離れ、自分の家族の方へ――ディルスの方へ向かった。リズルはそれを見届けるとイースに近付いた。
「おめでとうございます」
「何が目出度い」
 鋭くイースが言った。
「完走されたではないですか」
「本来ならば、去年に済ませている事だ」
「出来なかった事を言っても始まりませんわ。他の方のお話では、初めて参加すして完走するのは大変、難しいとか」
「だからと言って、喜べるものか」
「去年の事はわたしとは無関係ですもの」
 リズルは憮然として言った。「だから、わたしに当たらないで」
「そう言うなら、私に近付くな」
「そういう訳にもいかないでしょう。わたし達は一応、婚約者なのですから」
「一応、ね」イースの顔に皮肉な笑みが浮かんだ。「そうだ、一応、だ」
 それ以上は話す気になれず、リズルは黙ってイースの側に立ち尽くしていた。葡萄酒の杯が回され、乾杯の音頭が領主によって取られた。
 夏至祭の馬駆けで、ディルスの願いは全て叶うと出た。では、ディルスの願いとは何だろう。リズルは思った。領地と結婚生活の安泰と繁栄であろうか。
 イースが一番であったならば、何を願っただろうか。
 自分からの解放だろうか。
 お互い様だった。
 癇癪持ちの子供を守りするよりも、厄介な相手なのだから。
 自分が一番であったならば、北海へ帰る事を願ったかもしれないとリズルは思った。何の障壁もなく、誰も北海に害する事が出来ないのであれば、北海に今すぐにでも戻りたかった。北海の荒々しい波音が懐かしかった。自分では何も決められぬのは嫌だった。どのような密約が北海と交易島の間で交わされているかはリズルの預かり知らぬ事ではあったが、それに縛られる身であった。
 いずれは、密約がいかなるものなのかを知る事は出来るだろう。イースがそれを知っているとしても教えてくれるかどうかは分らない。それでも、領主夫人にもなれば、知る権限は増すだろう。だが、それを知ってどうする、そう問う自分がいた。全てが終わった後で知ったとして、それをどうするつもりなのか。どうする事も出来ないのであるのならば、そのままにして置くのが良いのではないだろうか。北海が交易島との密約を選んだのならば、それは北海にとり益のある事なのだろうから。
 リズルは唇を噛みしめたくなるのをこらえて杯を口に運んだ。
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