第8章・夏の閑暇

文字数 5,659文字

 夏至祭が過ぎてしまうと、皆の気持ちも落ち着いたようであった。リズルはこれまでにも増して、熱心に窓から港を眺めるようになった。北海からの船がやって来たのを見逃したくはなかったからだ。だが、いつまで経っても北海の特徴的な竜頭船はリズルの窓からは見えなかった。港の反対側に繋留されているのかもしれないとも思った。そうだとしたら、ここの神は意地悪だと思った。空に鷲の戦士達の海鷲が舞わぬかとも期待したが、それも確認出来なかった。
 がっかりして少々元気をなくしたリズルに、ミアは同情してくれた。故郷が懐かしいという気持ちは当然ながらミアには理解出来ないだろうが、家族から離れるという事は分ると言った。
 アリアの家の鷹狩りに参加しても、その気分は上がらなかった。また、闘技を見ては再び気分が沈み込み、どんどんとリズルの気分は塞いでいった。ミアは何かとリズルの気分を盛り立てようと見聞した様々を話してくれたが、実際にはそれはリズルには手の届かない世界であった。
「せめて、この城砦から自由に出られればよいのに」
 ぽつりとリズルはミアに漏らした。毎日を夫人は何事もなく過ごしているというのに、自分はどうしてこうも馴染めないのだろうかと思った。他家の訪問も退屈であったし、刺繍もそれ程進まなかった。一針ひと針を丁寧に刺して行くのだが、その手は止まりがちであった。
「丁寧なのはよいことですよ」夫人は言った。「それに、わたくしもお嫁入りが決まった時にはぼうっとしてしまったおぼえがありますもの、皆そうなのですから、気になさらないで」
 そういう事ではないのだが、リズルは夫人にはそう解釈して貰う事にした。その方が楽であった。北海が懐かしいだの、外へ自由に出たいなどと言えるはずもなかった。
 暑さもリズルを悩ます一つだった。最早、北海の夏よりも暑くなっていたが、盛夏と言うには程遠いという。麻や絹の夏衣(なつごろも)は軽くて着心地も良かったが、それでも北海しか知らないリズルには苦しかった。夏の陽射しを避けるのが淑女であるという考えには賛成出来た。だが、馬車の中はリズルにとっては灼熱であった。
「相当、へばっているようだな」ある時イースが言った。「北海人には夏が大敵とはな」
「どうとでも言うがいいわ」リズルは何を言う気も失せていた。「冬になったら、あなたたちの方がこうなるのよ」
「それはどうかな」
 せせら笑うイースにもリズルは反応を示さなかった。それが面白くないのか、事ある毎にイースはリズルに意地悪な言葉を投げかけた。それでもリズルは耐えた。
 いい加減辛くなってくると、ようやく夫人がリズルの変化に気付いたのか医師を呼んだ。
「暑気あたりですな」
 医者は言った。
 しょきあたり。初めて聞く言葉であったが、意味は分った。暑さでやられたのだ。
「まあ、もうですの」
 夫人が愕いたように言った。
「お嬢さまは北のご出身とか。そちらでは夏にもそれ程気温が上がりませんので、仕方のないことでしょう」
 気の毒そうに言う医師は、結局、身体を冷やす薬草や香草を摂るようにと指示しただけだった。早速、薄荷茶が運ばれて来た。それを飲むと身体がすっとした。リズルは少しだけ気分が良くなった。暑気あたりはそれで解決されようが、心の鬱々とした影は消えない。
「でも、よかったわ。大切な身体ですものね、何かあればすぐにおっしゃって。しばらく招待もお断りいたしましょう」夫人はほっとしたように言った。「気付いてさしあげられなくてごめんなさいね。わたくしもうっかり者だから…イースに言われなければ、とても気付けなかったわ」
 イースが自分の異変を夫人に話したのかと、リズルは愕いた。
「でも、どうぞわたしに構わず、ご訪問はなさってください」
 リズルは言った。夫人にとっての楽しみまで奪いたくはなかった。
「お優しいのね」夫人は微笑んだ。「それがあなたの望みなら、そういたしますけれども、一人で大丈夫かしら」
「ミアもおりますので、ご心配なく」
 心残りなようであったが、夫人は承知した。リズルは我儘かもしれないが、一人で過ごす時間を持ちたかった。
 その日は一日横になって過ごした。食事も冷めた物ではなく、わざわざ冷たい物を作って貰ったようであった。
 翌日の朝食にはずっと気分が良くなって降りて行くと、イースが一人でいた。
「あなたが夫人に、わたしの具合がよくないとおっしゃってくださったのですね。ありがとうございました」
 リズルは丁寧に礼を言った。それに対してイースはじろりとリズルを見るとすぐに目を逸らせた。
「母上はおっとりしていらっしゃるからな。大事(おおごと)になってからでは母上がお可哀想だ」
「おかげさまで、軽い暑気あたりということでした」
「今から暑気あたりとは、先が思いやられる。自分の身体の管理くらいはして欲しいものだ」
 憎まれ口しか叩けないのかとも思ったが、そこはぐっと我慢した。
「わたしの何が、あなたの気に入らないのでしょうか」
 リズルは思い切って訊ねた。だが、イースが口を開こうとしたところで夫人が入って来た。そのままイースは口を閉ざした。
「リズルさん、あまり無理はなさらないで」夫人は言った。「今日もゆっくりとお休みになって」
「朝餉をいただいたら、そうさせていただきます」
「葡萄酒は日中は召し上がらない方が良いと聞きましたので、発酵乳を用意させましたわ」
 それは有り難かった。ここにやって来て初めての朝以来だった。北海では朝は必ず飲んでいただけに、味は違えども懐かしかった。
 静かに食事を済ませると、リズルは部屋に下がった。ミアが薄荷水の入った水差しと杯を持って来た。それを寝台脇の小机の上に置くと、心配そうにリズルを見た。
「お嬢さま、大変申し訳ございませんでした」
 ミアは深々と頭を下げた。「ご体調の変化にも気付きませず…お許しください」
 リズルは、ミアが震えているのを見て愕いた。
「何を言うの。許すも許さないも、あなたは何も悪いことはしていないわ」
「何もできなかったからこそです」
「心配しないで。あなたは何も悪くはないわ。わたし自身が、何が起こったのか分ってはいなかったのですもの」
「では、このまま、お嬢さまのお世話係としていてもよろしいのですか」
「誰が、あなたを外すと言ったの」
「母とシエラさんです。それに、皆さん、そう思ってらっしゃいます。わたしは失格だって」
 リズルは溜息をついた。
「大丈夫よ。わたしはあなたの働きに感謝しているし、このままずっと、いて欲しいと思っているから、他の人の言うことは気にしないで」
「ありがとうございます」
 ミアは深々と頭を垂れた。
 ミアが出て行くと、リズルは再び溜息をついた。ミアは脅えていた。余程きつく叱責されたのか、それとも今の地位を失う事への恐怖であったのかは分らない。だが、いずれにしても可哀想な事をすると思わずにはいられなかった。
 午前の内はゆっくりと書を紐解きながら過ごした。午後は寝台に横になり、薄荷水を飲みながらだ。そして、書を読み切ってしまうとこっそりと書物庫まで行き、次に読むものを漁るのだった。
 そんな毎日が続いた。夏の間、リズルは訪問をしない事が周知され、招待された客の前にのみ、出た。刺繍をしなくてはならないのは以前通りであったが、余り進まない事を気にする必要はなくなった。
 ミアは様々な事を語って、リズルの退屈を紛らわせようとしてくれた。リズル自身は退屈とは思ってはいなかったが、ずっとこの城砦で夫人の暮らしを見て来たミアには、他家を訪問することのない生活は退屈に思えるようであった。ある時にはミアは厨房での出来事を話し、次には小姓達の諍いについて語った。それはそれでとても面白かったのだが、リズルの気分を上げてくれるものではなかった。その中で、ミアは街の様子を話した。それは生き生きとしており、リズルの心は疼いた。
「あなたは自由に外に出られるの」
「使いに出るくらいですが」ミアは言った。「お休みをいただいた時間には、外に行くこともあります」
「いいわね。わたしも外に出てみたいわ」
 何気なくリズルは言ったが、ミアは青くなった。
「とんでもございません。お嬢さまのような方が外に出られるなど」
 分っていた事だった。だから、その言葉にがっかりもしなかった。だが、リズルはミアに外の話をしてくれるように頼んだ。リズルの興味を引いた事が嬉しかったのか、ミアは毎日のように街の様子を語った。
「あなたはいいわね」リズルはしみじみと言った。「わたしも外へ出てみたい。連れて行って欲しいわ」
 ミアは深く考え込むようだった。
「どうやって、ですか」
「午後の早い時間には厨房も空になるわ。その隙に裏口から出られると思うのだけど」
「でも――そのお(ぐし)の色では目立ちすぎますわ」
「かぶり物をすれば大丈夫だと思うわ」
 リズルは絶対に出る気でいた。何度も考えた事だった。ミアを巻き込むのは正直、気が引けたが、最初は誰か案内がいなくては街で迷ってしまう。次からは一人で出るつもりであった。
「でも、でも、何かあったら、どうしましょう」
「あなたは一人で出かけるのでしょう。なら、大丈夫よ。あなたがいつも出かける所に連れて行って欲しいの」
 我儘な願いだという事は分っていた。一度だけの我儘のつもりだった。
「外は暑うございます」
「少しの時間なら、大丈夫だわ」
 リズルは引き下がらなかった。「お願いよ。わたしはもっとずっと、開けた場所で育ったの。だから、この城砦は息が詰まるようなの」
 ミアは暫く黙っていたが、やがて意を決したように「分りました」と言った。
「お嬢さまのお衣装では目立ちすぎますので、持参されました物を着ていただくことになりますが、それでもよろしいのでしょうか」
 リズルは思わずミアの手を取った。
「ありがとう」
「でも、一度だけ、一度だけしかお連れできませんので」
「大丈夫よ、分っているわ。こんなことを頼むのは一度だけよ。もう二度とは口にしないわ」
 ミアは安心したように微笑んだ。


 街へ出ると決めた日、リズルは地味な服に身を包んでこっそりと部屋を出た。髪は結い上げてすっぽりと(きぬ)で隠した。靴も北海の物だ。厨房の扉の前でミアが待っていた。そっと扉を開け、リズルに頷いた。
 静かに誰もいない厨房に忍び込み、外へ出た。
「裏口はすぐそこです」
 小さな声でミアが言った。
 目立たない木戸を開けると、誰もいない路地が見えた。一歩を踏み出す時には興奮で身体が震えた。
「こちらです」
 ミアは賑やかな通りに向かって歩んだ。リズルは呼吸を整えてそれに続いた。
 そこに広がっていたのは、夢にまで見た景色であった。
 人々が行き交い、店が出ていた。島の市場などよりもずっと人も店も物も多かった。
 子供の頃に見た風景そのままであった。この城砦にまでは近寄らなかったが、何処までも商店や人が続いて行く。男も女も店に出ており、客もそうであった。
「お嬢さま、こちらです」
 ミアが言った。「広場へ参りましょう」
 広場までは一直線だった。そこには様々な食べ物を売る屋台が出ており、広場に置かれた卓には食事を摂ったり酒を呑む人々で一杯だった。中に数人で固まる北海の戦士を見付け、リズルはあっと思った。どこの戦士かは分らない。だが、それは確かに周りの人々よりは大柄で髪の色も明るい人々であった。懐かしい言葉が聞えた。
 丈の長い衣服に身を包んだ南溟の商人達もいた。とにかく、広場には親子連れもいれば一人で黙々と食事をする者、商談であろうか、羊皮紙を前に熱心に話し込んでいる者など、様々であった。女性も自由にしているようであった。
「女性もいるのね」
 リズルはミアに言った。
「わたしどものような身分の者です」
 ミアは肩を竦めた。
「あなたもあんな風にここで食事をしたりするの」
 ミアは真っ赤になって俯いた。
「甘い物の屋台が出ている時には、です」
「なら、探しましょう」
 リズルは笑った。ミアと同じ事をしてみたかった。
「でも――」
「お足なら心配ないわ」リズルは巾着をちらりと見せた。「少しだけど、銀があるわ」
「そんなに必要ありません」ミアが慌てたように言った。「それに、そのようなご心配はおかけいたしません。ただ、このような場所で…」
「大丈夫よ。さあ、探しましょう」
 ミアは諦めたように溜息をついた。
「それなら、こちらです」
 リズルの先に立ってミアは歩き始めた。そして、甘い良い匂いのする屋台の前に来た。そこで二人分を注文すると、店主が深皿に入った丸い揚げ菓子を渡した。ミアが代金を支払い、リズルと二人、卓へ向かった。店のすぐ向かいの卓で、周りに人は殆どいなかった。北海の戦士達からも遠かった。
「お口に合うか分りませんが」
 ミアはそう言ったが、リズルは一口、食べてみた。甘い香りの誘惑には勝てなかった。口いっぱいにほんのりとした甘みと小麦粉の味が広がった。領主の館で出された菓子とは違って素朴な味がした。
「おいしいわ」
 リズルは夢中でぱくついた。ミアも同じだった。甘い物に飢えているのは、誰しも同じなのだ。
 食べ終わると器を返し、二人は市場を見ながら来た道を戻る事にした。余り長居は出来なかった。
 それでも、リズルは満足だった。
 外と街の空気に触れただけではなく、北海の者を見掛けたからだ。それも戦士を。恐らく、夏の仕入れに同行した者達だろう。リズルが子供の頃に連れて行った貰ったのも、そうだった。あの広場で、食事をした。遊んだ。鮮やかに思い出が甦った。北海の者の、夏の間の店が何処にあるのかも思い出した。遊んだ子供の顔も、その親や路地、全てを。
 懐かしさで涙が出そうだった。
 一人で忍び出るにしても、これから訪れる盛夏の間は無理だと思われた。それに、幾ら懐かしくとも北海の商人の元を訪れる事は出来ない。こっそりと見る事しか出来ない。それでも良かった。ここに北海の者がいるという事が知れただけでも、リズルの心は満たされた。
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