第3章・婚約者

文字数 18,723文字

 腹を立てたまま、リズルは「失礼」と一言だけ声を掛け、部屋に足を踏み入れた。
「誰だ、無礼な」
 思ったよりも若い男の声が返って来た。
 てっきり、癇性な老人がいるのだと思っていたリズルは愕いて顔を上げた。
 部屋の窓辺には寝台があり、その脇に夜着姿の青年が立っていた。
「お前は、誰だ」
 青年は眉をひそめて言った。
「こちらに…」
 慌ててやって来たシエラがリズルを部屋から連れ出そうとしたが、リズルは動かなかった。
 乱れた黒髪に同じ色の目をした青年はリズルを睨み付けた。背は北海の者に較べれば低いが、大陸では平均的な方だろう。身に着けている物は上等な光沢のある絹だった。部屋は書物で溢れていた。
「誰であろうと構わないでしょう」リズルは言った。「女の子に何ということをするの。それに、食べ物を粗末にするなんて」
 きゅうっと青年の目が細められた。
「リズルさん」
 これも慌てた様子で領主夫人が階を駆け上がってきた。その顔は蒼かった。
「ここは、いいいわ。下にいらして」
 リズルの名を聞いた途端に、青年の表情が見下したようなものに変わった。
「礼儀知らずな娘だと思えば、北海の野蛮人か」
「何ということを言うの」領主夫人が言った。「失礼でしょう」
「突然、部屋に入り込んで勝手な事を言う方が、余程失礼でしょうが」
「イース…」
 領主夫人は今にも倒れそうだった。
 リズルは、まじまじと青年を見つめた。
 これが、自分の婚約者なのか。
 その弟ではないのか。
 そして、この青年が、自分を望んだのか。それなのに、自分を「北海の野蛮人」呼ばわりするとは。
「あなたが望んだから、わたしは交易島くんだりまで来ることになったのでしょう。野蛮人呼ばわりされる筋合いはないわ」
「北海の短絡者にしては頭が回るようだな」
 青年は嘲笑うように言った。「別に来いと言った覚えはない。父上と母上が勝手にお前を連れて来られただけの事だ」
「おやめなさい」
 両手を胸の前で組み合わせて、領主夫人は懇願するように息子に言った。そう、息子だ。なのに、どうしてこの母親はこんなにも機嫌を取ろうとするのだろうか。
「リズルさん、とにかく、今はこの子も気が立っているの。ここは、どうか――」
 そう促され、リズルは青年をひと睨みすると素直に夫人に従った。ここで争って、夫人が倒れるような事があってはならない。
 扉の所では娘が立ち上がってはいたが、まだ震えていた。左腕を押えている。
「大丈夫かしら」
 リズルは娘の手を取り、左の袖をまくってみた。木皿が当たったのだろう、痣が浮き出ていた。
「大したことはないと思うのだけど、一応は湿布をしておいたほうがいいわ」
 娘は大きな茶色の目を見開いて頷いた。
 リズルは夫人と共に階段を降りた。
 下ではシエラと領主とが困惑したような顔で待っていた。
「ごめんなさい、あの子、長く患っていたものですから、気が立っているのだわ。普段はとてもおとなしい子なのに」夫人は言ったが、取り繕っているようにしか聞えなかった。「明日、あの子についてきちんとお話しするつもりだったの。今日は、もう、お休みになったほうがいいわ」
 リズルは大人しくそれに従った。


 夜着に着替えされられ、ようやく一人になると悔しさと哀しさとがふつふつと湧き上がって来た。枕を壁に叩き付ければすっきりするかと思ったが、それはぐっと我慢した。物に当たったところで、解決するような問題ではない。
 自分はあの青年に望まれてこの島に来たのではなかった。
 そして、あの青年は運命ではない。きっと、そうだ。でなければ、あのような出会いにはならなかったのではないか。リズルは青年が気に入らなかったし、青年の方もリズルを気に入っていない。
 最悪だ。
 もし、これが運命なのだとすれば、最悪だ。
 愛情で結ばれる事だけが運命ではないとは分っていた。だが、もし、これであの青年が自分の運命なのだとすれば、一生を諍いながら軽蔑し合いながら生きて行く事になるのではないだろうか。
 二人の間に、理解し合える所があるとは思えなかった。
 窓を覆い隠す綴織を上げ、リズルは夜の港と海を見た。海は漆黒であったが、港とその周辺には煌々と灯りが点っていた。まだ人々が働いているか、うろついているかしているのであろう。父とこの島に来た時には、酔っ払った乗組員は明け方になってようやく戻る事もあった。
 この部屋にまで、港の喧騒は届かない。
 まだ、望まれたという思いがあったから、ここまで一人で来る事ができたのだ。それが、否定された。では何故、領主夫妻は自分をあの甘やかされた青年の婚約者にしようと思ったのか。シエラは何故、あの青年が自分を望んだと言ったのか。政治的な何かがそこに働いたのか――
 リズルは孤独だった。


 翌日の目醒めも良くなかった。
 嫌な夢を見た挙句に、シエラに起こされた。朝食に遅れると言うのだ。慌てて身支度をさせられた。
 階下の広間では、やはり、領主夫妻のみが席に着いていた。
 島の朝餉に較べると、香辛料が利いていた。母もよく使う方ではあったが、遠い南溟からこの交易島に運ばれ、更に北海にまで来る香辛料は、香りが弱くなっているようだった。泊夫藍(さふらん)の花柱が散らされた麦粥も塩味であり、贅沢ではあったが、慣れた蜂蜜味の者とは全く異なった物を口にしているようだった。発酵乳の味までが違っていた。
 何もかもが、違う。ここは北海と中つ海との境にありながらも、北海とは異なった文化の交易島なのだと思い知らされた。また、全てが贅沢だった。
 食事が終わると、領主は仕事に掛かるとの事で、リズルは夫人に居間に誘われた。そこは陽光に溢れていた。人一人くぐり抜けるのがやっとの北海の跳ね上げ窓とは較べ物にならない程大きな窓があり、大きな長椅子が据えられていた。その座面や背には詰め物をたっぷりと入れた座布団が置かれており、座ると気持ちが良かった。
「リズルさんは刺繍はお好きかしら」
 夫人が訊ねた。
「多少はいたします」
 余り得意ではないとは言えない雰囲気だった。
「わたくしは、午前はここで刺繍をして過ごすのが日課なの。今まで一人でしたから、つまらなかったわ。あなたがいらしてくださって、いろいろとおしゃべりもできるでしょうから、楽しみだわ」夫人は微笑んだ。昨夜の青年と良く似た顔立ちではあったが、ずっと穏やかで美しい人だと思った。「午後はお友達を訪問したり、招いたりするのよ。あなたと同じ年頃のお嬢さんのいらっしゃる方をお招きしようと思うの。お友達も必要でしょう。もちろん、今すぐに、ではないわ。あの子の具合がもっとよくなってからのことですけど、あなたのお披露目ね」
 イースの事を考えると頭が痛くなりそうだった。
「昨夜は愕いたでしょう」夫人はリズルの手を取った。「ごめんなさいね、冬の間ずっと、起き上がることもできないほどに具合が悪かったの。ようやく、あそこまで元気になったのよ。だから、許してやってほしいの」
「でも、わたしをお望みではないようでしたが」
 夫人は溜息をついた。
「あなたを目の前にして、正直にはなれなかったのだわ」
 リズルは混乱した。
「あの子はずっと、結婚するならあなただと言っていたの。幼い頃に、窓からあなたとお父上のお姿を見ていたらしいわ。それで、年頃になって結婚の話がいろいろと持ち上がったときに、あなたでなくては誰とも結婚しないと言ったのよ」
「どうしてわたしだと分ったのでしょうか」
「北海の戦士で子供を連れてくる人なんて、いないのですもの。それに、あなたのお父上は目立つ方ですから、北海からの商人に訊ねればすぐにわかりますとも」
 それはそうだろう。いかに北海の戦士の体格が良いとは言っても、巨熊スヴェルトに匹敵する者は、いない。
「ただね、あなたにこの島に来ていただくように決めたのは、あの子の調子のよくない時だったの。来年には二十歳ですから、結婚にはちょうどよい歳だわ。もろもろの日取りを考えて、来ていただくのは早いほうがよいと良人と決めたのよ」
 それが、あの子の気に入らなかったようだけれど。
 そう言って夫人は微笑んだ。
「でも、大丈夫よ。あの子も落ち着けば優しくてよい子なの。長い間、思うように動けなかったから、いらいらしていただけだわ」
 まるで自分に言い聞かせているようだとリズルは思った。楽観しない方が良いかもしれない。
 それでも、リズルは大人しく話を聞いていた。どれ程イースが学問を好み、「げいじゅつ」というものに造詣が深いかを、夫人は語った。
 書物の話ならともかく、音楽や詩、絵の事となるとリズルは全く理解ができなかった。何しろ、島の詩人(バルド)の歌と音楽でなければ、戦士達が作るようなものしか知らなかった。刺繍の出来不出来は分るが、絵の方はどう判断すれば良いのだろうか。夫人の話す事の半分も理解する事ができなかった。
「市場へ行くことはあるのでしょうか」
 夫人の話がひと段落したところでリズルは訊ねた。
「その必要はありませんよ」夫人は言った。「何か、必要な物や欲しい物があるのでしたら、言ってくださいな。すぐに、持ってこさせますわ」
「外を出歩くことはないのですか」
「それは危険なことですよ」夫人は眉をしかめた。「いろいろな人がいますもの。たとえ、供を連れても、わたしたちのような身分の女が外を歩くのは危険だわ。輿か馬車を使うのよ」
 リズルは人でごった返していた市場の光景を思い出した。雑多な物と人に溢れており、戦士は皆、長剣に和平の紐を掛けていたが、北海と中つ海の戦士同士が顔を合わせると、子供ながらに危険な空気が流れるのを感じた。ここは中立を守る場所だ。北海と中つ海の争いも禁じられている。だが、かなり昔の話だったが、北海の族長の幼い息子達が、この交易島で中つ海の戦士に殺されるという事件が起こった事も知っていた。その結末がどう着けられたのかはリズルは知らなかったが、それでも、交易島はその殺人には不介入だったと聞いた。そしてそれ以降、北海の戦士が自分の子をこの島に伴う事はなくなった、とも。北海から家族連れで夏の間、商売に来る者達は、そのような緊張の中で生活しているのだ。確かに、喧嘩の仕方も知らないような上品な女性には危険だろう。また、奴隷市場も夫人のような女性が目にするには衝撃的だろう。リズル達でさえ、ちらりとしか見せては貰えなかったが、無理矢理壇上へ奴隷を引っ立てて行く様は、遠征で捕えられた者が島の広場で競られるのとは違って猥雑な感じを受けたものだった。
 では、ここでの楽しみ、と言うのは、結局のところ夫人の言うように刺繍を嗜んだり、知人を訪問するくらいしかないのだろう。それでよくも退屈せずにいられるものだとリズルは思った。
「あと数日で、あの子も床上げできるわ。そうしたら、どうか許してやってくださいね。長患いの後で気難しくなっているところや気が立っていることもあるでしょうけれど、長い目で見てやってほしいの」
 十九と言えば、北海ではもう成人だ。それを「あの子」呼ばわりする夫人に、リズルは違和感を覚えた。シエラの「若君」という言葉に対してもそうだった。たった一人の跡取り息子だと言う事で甘やかされて育った者、という印象しか持てなかった。自分の弟達も、族長家に連なるのだから「若君」と呼ばれてもおかしくはないのだろうが、もし、そう呼ぶ者がいれば確実に反発するだろう。
 ヴィリアにしたところで、末の一人娘という事もあってヨルドは非常に可愛がっていた。その兄達にしたところで、同じだ。だが、甘やかされたお嬢様ではなかった。
 リズルは友人の事を思わずにはいられなかった。
 リズルの目からするとヴィリアと一緒になる男は幸運だ。美人で気立ても良く、娘らしい。十四の時には既に結婚の打診があった事は、母達の会話から知っていた。それでもヨルドは全く相手にしないと言う。その結婚もまた、あの家の男達の可愛がりようからして揉めるだろうと思った。
 ヴィリアは、兄達のどちらかがリズルと結婚してくれれは良いのにと、常に話していた。だが、互いに兄と妹のようにしか思わなかったのも事実だ。いや、リズルが少年達と喧嘩をしても笑って囃し立てる事もあったのだから、もしかしたら弟のように思われていたのかもしれない。それでも、気持ちの良い兄弟だった。確かに、二人の内のどちらかが運命であったならば、どれ程良かっただろうか。
 だが、違った。
 そして、また、イースも。
 例えどのように憎み合おうと運命からは離れられない、と母や祖父は言った。そうでなかっただけ、良かったのかもしれない。自分は確かに腹を立ててはいるが、そこまで強い感情を相手に抱いている訳ではない。そして、夫人の言葉を型通りに取るならば、リズルのここでの生活は囚われ人のようなものだ。相手を憎む程ではなかった事に感謝すべきだろう。
 これからの長い年月を、自分は果たしてこのような環境で耐えて行けるのだろうかと、リズルは不安になった。北海からの商人に会えないのは無論の事、父や弟達にさえも会えない。外を自由に出歩く事さえも許されない。それで、本当に生きていると言えるのだろうか。
 島では、何を言われようと自由に生きて来た。それが両親の方針だったからだ。だが、他の娘達はそうではなかった事も確かだ。その

を、今、支払わねばならないのだろうか。
「今日は一日、ゆっくりなさるといいわ。船旅は疲れたでしょう。シエラもまだ、あまり調子がよくないようなの」
「では、少し、お庭などに出てもよろしいでしょうか」
「それはいいわね」夫人はにっこりと笑った。「お花もいろいろと咲いていますし、気に入っていただけると嬉しいわ。この扉から出るとよろしいわ」
 リズルにとって庭とは、家畜がおり、香草や薬草が植えられている場所だった。また、両親から武器の手ほどきを受ける場所でもあった。花は匂い袋を作る為に摘みはしても、殆どが野のものだった。子供の頃の遊びを卒業すると、それ程愛でる事もなくなった。唯論、夏至祭では喜んで花冠を着けたのだが。母は庭の片隅に植わっている有りの実の白い花を好んだが、それは特別な事だった。花の意味する言葉があったり、刺繍をする事はあっても、そのようにわざわざ植えて愛でるような事は、北海ではしなかった。
「あなたも刺繍ができるように、明日はここに道具を運ばせましょう」
 夫人は言った。自分の刺繍道具は夫人のように立派な物ではなかったが、それはそれで仕方のない事だった。
「楽しみに、しております」
 リズルは何とか笑顔で言った。

 庭には花が整然と植えられていた。名は知らぬものばかりであったが、様々な種類が色ごとに幾何学模様になっているのは分った。その間を歩くように石が敷き詰められていた。花の香りはあまりしなかった。
 これが中つ海の庭なのかと、リズルは感心した。これだけの手間を掛けるには、余程の余裕がなくてはできないだろう。専門に働く者がいるのかもしれないと思った。
 四方を建物に囲まれた庭は静かで別世界のようだった。石畳に沿って花を見て回ると、今度は建物の際を歩いた。何処も良く手入れされており、底の柔らかな布靴でも足の裏に何かが当たって痛む事はなかった。しかし、全てが整えられ過ぎており、退屈に感じるほどだった。また、どこにいても目に入る高い建物には息が詰まった。これが交易島、中つ海なのだろうか。この高い壁の中で、自分は一生を過ごす事になるのだろうか。それに耐えられるのだろうか。
 リズルは四阿(あずまや)の椅子に腰掛けた。ここからだと木々に隠れて自分の姿は城砦からも見えないだろうと踏んで、行儀が悪いとは思ったが卓に突っ伏し、目を閉じた。風は緑の香りを含んでおり、心地よかった。海はすぐそこだと言うのに、緑に囲まれているせいか潮の香りはしなかった。
 あの男と共に一生を送る。
 その事を考えるだけでぞっとした。あのような男と共にこれから生きなくてはならないというのか。刺繍だの訪問だの来訪だのを繰り返し、子を産み育て、この地に骨を埋めなくてはならないのだ。
 それは到底、不可能な事に思われた。顔は父よりも良いかもしれない。まあ、男前と言っても良いだろうが、祖父には遠く及ばない。性格は、駄目だ。全く受け付けられなかった。甘やかされて育ったのがありありと分かる我儘な一人息子だ。北海にもそういう者は当然ながら存在する。しかし、戦士見習いともなればそれも一変せざるを得なくなる。
 武芸に秀でていなくても、それはリズルには問題ではなかった。その人となりが良ければ、美醜も何とかなるだろう。あの男は頭も顔も良いのかもしれないし、将来も約束されている。だが、心ばえは最低だった。海の見える部屋を手配してくれたのがあの青年であるとしても、それはリズルに対して幻想を抱いていたからではないだろうか。或いは、自分の部屋から最も遠い部屋であるからなのか。だとしたら、万が一にも自分が迎えられる事はないと思ってリズルでなくては駄目だと言ったのか。
 向こうも今頃は後悔していることだろう。「北海の野蛮人」というのが本心なのだろう。交易島の領主夫人としてリズルは相応しくない。それでも、一度交わした婚約を今更、取り消す事などできはしない。シエラの言葉だともう、交易島の人々はリズルが次期領主の婚約者だと知っているようなのだから。顔を合わせてみれば思っていたのとは違いました、と解消する事はできない。互いに不満と蔑みの心を持ちながらも結婚し、家庭を持たなくてはならないのだ。
 領主夫妻とだけならば巧くやっていけるであろうし、好きにもなれただろう。息子を甘やかしすぎているきらいはあったが、気持ちの良い人達だった。出来ればその心を乱したくはなかった。
 いずれにしても、今ではあの青年は自分を望んではいない、という事だけは確かだった。そう思うと、この美しく整えられた庭も色を失い、壮麗な城砦も寒々しく感ぜられた。ここでは既に暖かく、花も盛りを迎えようとしているのに、リズルの心は冷えて行った。早くも、北海を求め始めていた。


 夕餉の席に出るには、再び着替えをしなくてはならなかった。面倒臭い事この上ないと思いながらも、それがここの慣習であるならば従う他はなかった。シエラは昨夜の娘を連れて来ていた。
「この者が、普段のお嬢さまのお世話をいたしますので、何なりとお申し付けください」
 娘は深々と(こうべ)を垂れた。
「腕は、大丈夫だったの」
 リズルが訊ねると、娘は赤くなって「はい」と答えた。簡素な青い服に身を包んでおり、やはりトーヴァと同じような年頃のようだった。
「ミアと申します」シエラが言った。「母親が奥方さまの髪結いをしておりまして、その手伝いをしておりましたのでそちらの腕は確かですわ。お嬢さまには若い髪結いの方がわたくしよりもよろしいかと存じまして」
「ありがとう」リズルは微笑んだ。髪などどうでも良いのが本音であった。「あなたのよいようにしてくださって、けっこうよ」
「いずれは、お嬢さまの全てのお世話を任せたく思っております」
「どうぞお引き立てのほど、よろしくお願いいたします」
 二人はリズルに頭を下げた。シエラの仰々しさからいずれ解放されるのだというのは嬉しかったが、ミアが第二のシエラになるのは御免だった。できれば、姉妹のような関係でいたかった。
「よろしくお願いね、ミア」
 ミアは緊張しているようだった。何しろ、暫くはシエラの厳しい目に晒されるのだから。
 早速、着替えさせられたが、昼間に着ていたものよりは正装に近い感じがした。襟元や袖口の透かし模様はなかったが、瓶覗き色の服の縁には空色の蔦模様が刺繍されていた。
「晩餐の際のお召し物はただいま仕立てさせおりますので、二、三日はこの一着でご辛抱願います」
 毎日のように異なる服に、夕餉――晩餐毎に着替えろと言うのか。リズルは暗澹たる思いだった。もし、食事の汁でもこぼしてしまおうものなら、染みを付けたまま次の服が出来上がるまでいなくてはいけないという事なのか。とくに液果(ベリー)類の汁ならば、どれ程処置をしようとも跡が残るのは間違いない。染め直すにも複雑な裁断を必要とするこの衣服では、手間が掛かるだろう。それとも、ここの婦人はそのような粗相などしないのだろうか。
 糸から染めた濃い色の服は北海では身分の証明でもあった。正装や、似合っているからと言う理由で薄い色を好んで着る場合もあったが、大体、十二歳を過ぎると戦士階級の者は濃い色の服を好んで着るようになる。だが、この服は、色こそごく薄い物ではあったが、生地は厚い絹だった。手間も金もかかっている。交易島の感覚はリズルには分らなかった。
 そうやって仕事を覚えてゆくのだろうか、ミアが見守る中で着替えを済ませた。その後で娘に髪を整えて貰った。やはり複雑な編み込みではあったが、母親の手伝いをしていたとあって手さばきは良かった。
「いかがでしょうか」
 ミアは不安げに訊ねてきたが、リズルはにっこりと笑って満足だという事を示した。シエラがいなければ、もっと親しくなれるのではないだろうかと、少しは期待した。自分が北海の者であったとしても、恐ろしい存在でないと分れば可能ではないだろうか、と。
 必要なのは、何でも言う事をきいたり、しきたりを説く者ではなかった。リズルが今、最も欲していたのは「友人」だった。忌憚なく話し合う事はできなくとも、何気ない会話や互いの愚痴を口に出来るような相手だった。少しはイースにそれを期待していた部分もあったのだが、無残に打ち砕かれた。だからこの娘、という訳ではない。やはり、トーヴァやヴィリアを思い出させるミアとは親しくなりたかった。同じような関係にはなれない事は分ってはいたが、それでも、些細な事でも話せる間柄になりたかった。
 シエラが先に立って広間にリズルを導いた。ミアは脱いだ服や髪結いに使用した道具の後片付けのようだった。ミアがシエラの代わりを務めるようになれば、それはまた、別の者の仕事となるのだろうかとリズルはふと思った。
 この日の広間には、愕いた事にイースの姿があった。
「まあ、まあ、リズルさん、何てよくお似合いなのでしょう」
 領主夫人が嬉しそうに言い、リズルの側に来た。
「そうね、首元に碧玉などはどうかしら。あなたの目の色には、よく似合うのではないかしら。わたくしのを明日、差し上げますから着けてくださるかしら」
「それは良い」
 領主も笑って頷いた。
「そのような…」
 リズルが反対しようとすると、夫人はそれを制した。
「よろしいのよ、いつかはあなたのものになるのですし、あなたにも宝石は必要だわ」
 宝石。北海では婚約者や良人からは贈られ、親が子の為にと集めた物が持参財に加えられる事も多い。だが、誰かから譲られるものではなかった。前の持ち主の死と共に葬られるからだ。それが、ここでは簡単に譲ったり譲られたりするものなのか。それならば、素直に受け取るべきなのだろう。
「ありがとうございます」
 リズルは礼を述べ、頭を下げた。
「さあさ、それではお食事にいたしましょう」
 夫人はどこか浮き浮きした様子で微笑みながら言った。
 食事の間、領主夫妻は機嫌良くリズルに話しかけていたが、イースはじっと押し黙ったままだった。何か気に触ったのかと時折様子を窺ったが、皿に目を落として肉を食事用の小刀で分解しているだけのように見えた。
 凄く不味そうでつまならそうだとリズルは思った。
 十九にもなって髭のないのはいただけなかったが、短めの髪もきちんと撫でつけてあり、領主と同じように細かな刺繍が施してある緑の胴着は、まあ似合っていると言えた。その刺繍が夫人の手による物なのかどうかは分らなかったが、色使いも手の綺麗さも職人技を思わせた。自分や家族の服、持ち物に刺繍をするのは一家の女の役目だった。特にリズルの家では奴隷も刺繍を学ぶ。それは決して表立っては身に着けられないが、下着や夜着に刺すのを皆は楽しんでいた。母からは刺繍の手習いを始めると自分の物は自分で装飾するようにと教えられた。最初の作品は白鳥(くぐい)であったが、竜に見えて父の爆笑を買った(唯論、半泣きになったリズルに、父は後で母からこってりと絞られたようだったが)。だから、リズルはいつも簡素な刺繍のない衣ばかりで、余計に男のようだと言われたものだった。ここでは、その苦手でこっそりと下着にしかしてこなかった刺繍を毎日、しなくてはならないのだろう。皆が刺している横で一人、書を読む訳にもいくまい。特に、夫人が刺繍を好むのならば、必死になって学ばなくてはならないだろう。
 リズルの視線に気付いたのか、イースが顔を上げた。既に皿の肉も野菜もぐちゃぐちゃだった。
「何だ」
 眉をひそめてイースは言った。昨夜の神経質な声とは異なり、不機嫌な低い声だった。
「わたくしの部屋を海側に用意してくださったとお聞きしました。ありがとうございました」
 あらかじめ準備していた言葉を述べた。
「私の部屋からは最も遠いからな、邪魔をされずに済む」
「お邪魔にはなりませんわ」
 少し機嫌を損じたが、穏やかにリズルは言った。
「叫んだり喚いたりの北海の女が、か。昨夜は巨人もかくやという足音だったしな」
「イース、失礼なことを申し上げるものではありませんよ」
 夫人が嗜めた。
「お言葉を返すようですが、母上、男の部屋に返答も待たずに一人で入るとは、昨夜のこの娘の行動は些か礼儀を欠いておりましたが」
「まだ、慣れてはいらっしゃらないのですもの、しかたないでしょう」
「では、母上も北海の蛮族の娘とお認めになるのですね」
 困ったように夫人は領主を見た。何を言っても、この青年は言い返して来るだろう。
「まあ、今は食事中だ、後で話し合おうではないか」
 領主はリズルを気にするように言った。そう、心の中ではこの二人もリズルの事を「北海の蛮族」と思っているのかもしれない。
「ええ、父上、構いません。しかし、これだけははっきりとさせておかなくてはなりますまい」イースは意地の悪い笑みをリズルに向けた。「ここに住むからには我等の神を奉じて貰わねばならないでしょう。北海の海賊は神罰を受けてあのように散り散りになったのですから」
 リズルは思わず席を立った。その勢いに葡萄酒を入れた杯が倒れ、赤い液体が卓に広がった。
「全く、不調法な娘だ」
 軽蔑したようにイースは言った。リズルはぶちのめしてやりたい気分だったが、それを抑える為に皆に背を向けて部屋に向かった。背後から夫人の呼ぶ声が聞えたが、無視した。同時にイースの嘲笑も耳に入ったからだ。同席など、していられるものではなかった。


 部屋に戻ると悔しさが込み上げてきた。あれでは逃げてきたようなものだ。如何に殴り倒したくなっても、そこを笑顔で返すのが大人ではないのか。
 十六歳はまだまだ子供。
 母の言葉が頭に響いた。
「お嬢さま、おかげんでも…」
 ミアの声にはっとした。この娘には関わりのない事なのだから、落ち込んだり怒ったりした顔を最初から見せるものではないだろう。
「大丈夫よ。慣れないことばかりで少し、疲れただけよ」
 昨夜の一件から、ミアはリズルが北海の者である事は知っているだろう。この城砦の、どの位の人々がその事を知っているのかは分らない。だが、何れは皆の知るところとなるだろうし、そういう所から秘密は漏れるものだ。いつか、交易島の者全てが――いや、中つ海の全てがリズルの正体を知る事になるのだろう。それだけ、あの青年の言葉は軽率だった。
「では、もう、お休みになりますか」
「とりあえず、この服は脱ぎたいわ」リズルは大袈裟に溜息をついた。「思い切り紐を締められたのですもの、苦しいわ」
 実際、シエラの着付けは窮屈だった。しかし、ミアは茶色い目を大きく見開いて愕いた様子だった。それ程、使用人頭であるシエラは絶対なのだろうか、とリズルは思った。あの位ならば伯母が良いところだ。如何に口煩かろうとも、母に較べれば何と言う事もない。母が不機嫌になると北海随一の戦士と恐れられる父ですら御機嫌取りに一生懸命になる程なのだから。
 リズルは何とか自分で紐を緩めようとしたが、固く結ばれていて思うようにいかなかった。慌ててミアがそれを手伝い、何とか一番上の服を脱いだ。そして、長櫃の所へ言って中を探った。北海の衣を身に纏いたかった。母の手による衣が、もう懐かしかった。
「手を貸してちょうだい」
 ミアにそう言い、重ね着の分も脱ぎ捨て、北海の衣に袖を通した。ここの気候では少し厚い羊毛生地であったが、気にならなかった。
「もう大丈夫よ、後は自分でするわ」
「でも、夜着のお着替えは――」
「そのくらい、自分でするわ。シエラに何か言われたら、もう休んだと言ってちょうだい。その代わり、明日は少し早めに起こしてほしいの。城砦の中を案内してもらえるかしら」
 不審がりながらもミアは頷き、脱いだ服の始末をすると下がった。
 一人になると、リズルは窓から外の景色を眺めた。昨日と同じ光景が広がっていたが、リズルは飽きる事がなかった。活気に満ちた港の姿は北海も交易島も変わらない。違いがあるのだとすれば、浜に船が揚げられないという事だろう。また、大きな積荷船の出入りは、リズルの島では遠征と族長集会の前後くらいなものであったが、ここでは毎日のようにそれが行われている。素晴らしい光景だと思った。北海の船の姿はまだないが、族長集会も終わった事でもあるし、そろそろ商人達が訪れる頃だろう。
 中つ海と交易島の船に差はないようだった。ここから見る限り、その違いはリズルには分らなかった。ずんぐりとして、船脚は重そうだった。船尾の旗がその船の帰属を現しているのだろう、とりどりの、何枚もの旗が索具に付けられているのが見えた。
 南溟の船は北海の船と同じように櫂を使っていたが、巨大だった。船縁も中つ海の船よりもずっと高く、まるで海上の城砦だった。船の構造についてはリズルは知らなかったが、南溟の船も甲板の下は二層、三層に分かれているようだった。そして、かつて交易島に連れて来て貰った時、南溟の船の漕ぎ手は犯罪者や奴隷であり、反抗を恐れる故にその者達の手足を鎖で繋ぎ、暴力で支配しているのだと小耳に挟んだ事があった。真偽の程は分らない。
 数多の船の中で最も優美なのはやはり、祖父の船だとリズルは思った。父の船も良いが、美しさの点では祖父の狼頭船に二歩も三歩も譲る。部族の船大工が、あのような船を造る事が出来ればもう何時死んでも良いとすら思うと言うのを聞いた事もあった。誰もが一度は乗り組んでみたいと思わせる船だとも言った。
 船は手入れさえ怠らなければ長持ちをする。祖父の船は五十年になんなんとしているが、未だに現役だ。確かに、狼の顔が風雨に晒されて柔和に見える事もあったが。
 その船も、何れは祖父の死と共に海に返されるのだという。
 祖父の死、という考えに、リズルはぞくりとした。
 何という不吉な考え。あの強く優しい祖父に死が訪れるなど、まだまだずっと先の話だ。
 そう考えてリズルは先程の思いを打ち消そうとした。だが、それが遠い先の話ではない事もまた、分っていた。如何に族長とは言え、七十を越えて生きた人は殆どいない。龍心エリアンドくらいしかリズルには浮かばなかった。この長命であった族長も、晩年は全ての子に先立たれたというのだから、それ程幸福であったとは思えなかった。未だに年下の血族が全て健在な祖父は、稀な存在である事は確かだ。
 だが、死は誰にでも平等に訪れるものだ。それは自分の大好きな祖父だとて逃れられるものではない。両親や弟妹にしても同じだ。
 死について真剣に考えた事はこれまでなかった。常に自分達の生活の隣にあるものだったからかもしれない。遠征に出れば誰かが死ぬ。冬には他家の子供や奴隷が死ぬ事も多かった。自分達五人が一人も欠ける事なく十二歳を迎える事が出来るのは、戦士階級でも裕福な農場持ちであるからだ。母は決して、家族を奴隷も含めて飢えさせるような事はしない。食糧がなくなれば木の皮でも調理するだろうと思われるくらい逞しい人だ。
 このように時間を持て余してしまうとつい、つまらない事を考えてしまう。
 リズルは窓枠に置いた腕に顎を乗せた。
 船乗りと戦士は常に死と隣り合わせだ。冬に近い程北海は荒れる。また、夏だからと言って海が常に安定しているとは限らない。
 そして、中つ海の船は祖父の一族の獲物だ。それが何を意味するのか知らぬ年齢でもなかった。
 自分が出自を偽ってこの地に嫁ぐのにも、まだ意味があるのだろうか。
 その問いに答えてくれる人はいない。


 翌朝、リズルはミアに手伝って貰って着替えると、書物のある部屋を教えて欲しいと言った。どうせ一人で過ごす時間があるのなら、少しでも書を読んでおきたかった。皆の話について行く事が出来れば、北海の者は蛮族などではないという証明にもなるだろう。
 そして、昨夜イースの放った言葉の意味も分るだろう。
 ――北海の海賊は神罰を受けた。
 昔、北海の部族がずっと西にある一つ所に住んでいた事もリズルは知っていた。その場所は神々の争いによって大厄災に見舞われて滅んだ、と言うのが詩人の謳う北海の物語であった。土地神との争いに巻き込まれる事に気付いて、新たな場所を求めた者達が今の北海の部族だ。神々も、結局はその地を諦め、北海へと移った。自分が名を貰ったリズルという女戦士は、まだ部族がその地で生活していた時代の人物であり、その時の古謡は割合に多く残っている。戦物語が多く、男達が好むからだ。古の英雄の物語は子供にも人気がある。
 それが、神罰とは。
 交易島では、どのように物語が伝わっているのかにも興味があった。この城砦の書庫へ行けば、何か分るのかもしれない。
 ミアはリズルの望みに愕いたようだった。だが、そこは召使いとして城砦で暮らして来たからであろう、何を疑問に思ったにせよ、それを口にする事なくリズルに従った。
「書物庫は若旦那さまのお部屋のある棟にございますので、どうぞ、音にお気をつけください」
 あの癇癪持ちに見付かるのは避けたかった。真面目な顔でリズルは頷いた。
 足音を忍ばせるようにして階段を上った。神経質な男はちょっとした物音でも目を醒ますのではないかと思われた。イースの部屋は二階、書庫は四階にあった。それならば、多少は動き回った所で底の柔らかな布靴では気付かれる心配はなさそうだった。
 リズルはミアに礼を言うと、朝餉まで一人にしてくれるように言った。
 書はどれを見ても贅を尽くした物だった。背表紙には金箔で題名が型押しされており、小口にも金泥が塗ってあるものも少なくはなかった。金融や経済、(まつりごと)についての書も多いようだった。交易島らしい選択に、リズルは微笑んだ。やはり、ここは商人の島なのだ。
 他にも、植物学、動物学の本や、何の役に立つのかさっぱりと分らない幾何や物理の本もあった。物語の本も多く興味をそそられたが、これはひとまず置こうと思った。交易島に住むからには、中つ海の歴史を知る方が先だ。
 それにしても、写本師の所よりも多くの書物があるとリズルは思った。これをあの青年が全て読んでいるのだとすれば、それはそれで凄い事だと敬服せざるを得なかった。
 書物の中からまずは神話や伝説の本を探した。北海には独自の書物は存在しないが、ここには何でもあるのではないかと思った。何しろ、中つ海の人々はどのような些細な事でも――日常の事でも記録せずにはいられぬ人だと聞いていた。大量の書ではあったが、きちんと分類されているので案外と時間は掛からないだろうと思った。


 ミアが朝餉の支度が整ったと知らせに来た時には、リズルは床に寝そべって夢中になって本を読んでいた。行儀の悪い事はしないのと、良く母に言われたものだったが、こればかりは止められなかった。軽く服の皺を伸ばすと、目を丸くしているミアに書物を部屋に持って行ってくれるように頼んだ。
「そっと、お降りになってください。若君はお部屋でお食事をなさるそうですので」
 胸に大事そうに書物を抱え、ミアは小声で言った。この交易島でも書物は貴重な物なのだろう。それでも、リズルが持ち出す事にミアが何の反応も示さなかった所を見ると、イースや領主はここから書を持ち出す事が多々あるという事なのかもしれない。
 伯父の館にある写本師の仕事場の本は、正直、島の人間で用があるのはリズル弟妹くらいなものだった。殊に二番目の弟ヴェルスは写本師に気に入られていた。島には中つ海の書を読む者が殆どいないせいもあるだろう。それに、女性は読み書きを教わらない。男だけが、文字や計算を学んだ。それを不公平だと思ったリズルは、母から全てを教わった。ヴィリアはリズルの読む書に興味を持っていたが、学ぼうという気は起こさなかった。その代わり、リズルにそれを読んでくれるよう頼むのだった。大抵は勇壮な男達の物語か詩人達の古謡くらいしか耳にしないところに、愛だの恋だのを謳った大陸の詩は新鮮だった。リズルがヴィリアに読んで聞かせるのを耳にした父は顔を赤くして「子供の読む内容ではない」とは言ったが、取り立てて咎め立てはされなかった。ヴィリアは親には秘密にしていたようだが、ヨルド夫妻は、母もリズルも読み書きが出来る事を知っていた。それでも何も言わなかった。そんな女は嫁の貰い手に困ると言ったのは伯母くらいだ。
 どうしても、リズルの思いは北海へと戻ってしまう。母も、自分の島を離れた時はこんな風であったのだろうかと思わずにはいられなかった。
 昨夜の出来事を領主夫妻は心配している様子であったが、リズルは何事もなかったかのように振る舞った。何も気にはしていないのだと相手に分らせるのには、それが一番だった。
 何も気にしていないはずがない。
 それでも、そう思わせなくてはならない時もあるのだと言う事も分っていた。特にこの二人には落ち度はない。ただ、あの青年を甘やかして育てた、という事だけだ。この二人は心優しすぎるのだろうかとリズルは思った。にこやかにリズルに話し掛け、珍しい食べ物を勧めてくれるのは、それとも、反応の読めぬ北海の人間を相手にしているからなのだろうか。
 そのどちらであるにせよ、領主夫妻は善き人である事は分った。ただ、一人息子が可愛いだけなのだ。ヨルドがヴィリアを甘やかしたように、二人してイースを甘やかしたのだろう。フレーダがあのようにしっかりとしていなければ、ヴィリアもイースのように育っていたのかもしれないと思うと、ぞっとした。
 食事の後には、夫人の言ったように陽光に溢れた居間での刺繍だった。召使いがリズルの所に道具を運んでくれたのだが、正直言って困ってしまった。交易島では、北海とは異なった刺し方をするかもしれないと気付いたのだ。現に、夫人の刺している物は細かな花の刺繍だった。北海では刺繍の一つ一つに意味があった。夫人のような物は初めてだった。まるで綴織のようだった。
「あの…」躊躇ったが、リズルはここは正直に言わねば後で大変だと思った。後になる程、恥ずかしいのは目に見えていた。「手習い用の見本があれば拝見したいのですが。わたしの知っているものとは刺し方が違うかもしれませんので」
「まあ、ごめんなさい」夫人は慌てたように言った。「そうよね、場所によって、それぞれ特徴があるものですものね。でも、嬉しいわ、あなたが先にそのことに気付いてくださって。ほら、わたくしはどこかぼんやりとしているところがありますでしょう、だから、言ってくださって助かったわ。それに、あなたがこの家の伝統を受け継いでくださるなんて、それほど嬉しいことがあるかしら。わたしはずっと、娘がほしいと思っていましたから、あなたが来てくださってこんなに楽しいなんて、思いもしなかったわ」
 おっとりとした話し方ながらも、その手は立派な家具と言っても良いような木製の刺繍道具入れを探っていた。
「これでもよろしいかしら」
 様々な刺し方を数枚の布にまとめたお手本だった。
「これを真似させていただいてもよろしいでしょうか。今後の役に立つと思いますので」
「ええ、大丈夫よ、わたくしが手習いを始めた頃からのものだけど。今でもどなたかが新しい刺し方をなさった時には、それに最初に刺して憶えるのよ」
 リズルは改めて見本布を見た。これは、では、夫人の刺繍の歴史そのものなのだ。誰かが新しい刺し方や、文様を憶えたり発見した時には、この島の女性はこのように記録し、自分のものにするのだろうか。自分はそこまで夢中になれるのかと、リズルは不安になった。北海では皆、手で憶えてゆくものだ。
「では、これをお借りいたします」
 リズルは微笑んだ。
「やはり、女の子がいると違うわ」夫人は吐息をついた。「あの子が生まれた後、わたくしは身体を壊してしまったし、あの子は弱い子だったから、わたくしたちに子供はあの子だけなの」
 それは甘やかした理由にならない。
「あなたにはご兄弟は」
「弟が三人と妹が一人おります」
「まあ」夫人の顔が輝いた。「さぞかし賑やかなのでしょうね。あなたとイースにも、そんな家庭を築いてほしいものだわ」
 ふっと夫人の顔に(かげ)が差した。
「あの子は、生まれた時に二十歳まで生きられないかもしれない、と言われたくらいに弱かったの。子供の頃から病がちで、他の男の子たちのように遊ぶこともできなかったわ。それでも、来年には二十歳になって、あなたと一緒になるのね。不思議な感じがするわ」
 それ程までに可愛がられている息子なのに、あちらの方は全く感謝のかけらもないように思えた。甘やかしすぎて、そういった心さえも育たなかったのだろうか。
「本当は優しい子なの。外では遊べなかったかもしれないけれど、花や小鳥を愛でる子だったわ。でも、男の子は難しいものね、いつの間にか、あんな風にいつも苛々としているようになって…自分ではどうにもならないことが多いからなのでしょうけれど、あなたには不快な思いをさせてしまって、本当に申し訳ないと思っていますのよ」
 ここでの問題が、リズルにも分かりかけてきた。この両親は、あの青年が何時までも子供のままでいる事を欲しているのではないだろうか。それでは二十歳を迎えようという青年には息が詰まろう。その点では大いに同情できた。だからと言って、好きになれる訳ではなかったが。
「でも、あなたを選んでくれてよかったわ。きっと、あなたの健康的なところが気に入ったのでしょうね」思いもかけない言葉に、リズルはつい、夫人の顔を見つめた。「兄弟も友人もいなくて、あの子はさびしい思いをしてきたと思うの。だから、あなたにはあの子のよい相談相手になってほしいの」
「イースさまは島の若い女性に、お友達もいらしゃるのではないのでしょうか」
 夫人は首を振った。
「その子たちではだめなの」夫人の笑みは弱かった。「あの子は確かに島のお嬢さんがたに優しくもすれば礼儀正しくもするわ。でもね、あんな風に感情を見せることはしないわ。あなただけよ。それにね、興味は全くないから、結婚もしたくないと言ったのよ」
 生まれも育ちもしっかりとした娘達のどこが気に入らないのだろう。
「お嬢さんがたは、籠の中の小鳥だと言うのよ、おかしいでしょう」
 会った事もないこの島の若い令嬢方についてリズルは評する事は出来なかったが、何とはなしにここの生活を見ていると分るような気もした。この部屋も壮麗な鳥籠だ。鶏が餌と水、そしてねぐらさえあれば満足しているように、狭い世界の中で満たされればそれで充分と思っているという事なのだろう。それは北海の戦士の「鶏のような人生」という謂いと共通する。
「あの子の興味を引いたのは、あなただけよ」
 夫人はリズルの手を取った。その顔は優しかった。
「だからどうか、理解してやってくださいね。きっと、あなたあの健康的で明るく強いところに、あの子は魅かれたのだとおもうわ」
 面と向かってそのような事を言われると戸惑った。健康で喧嘩が強いのは確かだが、果たしてそれが、あの青年の望んでいる事なのだろうか。
 北海の男は強い女を好むが、それは精神的なものも含まれている。一人になっても生きて行けるだけの強さを有している女性を選ぶようにと、父も弟達に始終言っていた。若い頃は顔の美醜で全てを決めてしまいがちだが、そこは年長者の意見も聞くべきだと。
 母が父を顔の良し悪しで選んだのではない事は一目瞭然であったが、それが運命というものだ。だが、もし、二人が運命でなかったとしたら、どうだろう。
 母は父を選ばず、父も母を愛さなかっただろうか。
 その考えにリズルはどきりとした。
 運命でなければ愛せないものなのか。
 大多数の人々が、そうではない人を愛し、長く共にいるのではないのか。
 ヴィリアの両親はどうか。
 従兄夫妻はどうなのか。
 北の涯の島に住まう人々は運命という言葉を使う。だが、それは本当に存在するのだろうか。
 例え憎しみ合う相手であったとしても、イースはリズルの運命ではない、という確信があった。あの青年はこのような事がなければ、顔を突き合わせる事があったとしても、リズルの人生を通り過ぎる者でしかなかっただろう。
 それが、どうしてこうなったのだろうか。
 運命の気紛れな女神の采配なのか。全てが遅くなった後で本当に出会うべき人に出会うのか。それとも、自分の運命は異性ではないのか。親友であったり、物であったりするとも聞くのだから、必ずしも恋人ではないのは分っていた。なのに、何故、自分はそれを恋人であると思っていたのだろうか。若い娘の甘い夢、愛し愛される事への憧れがそのような偏った思いを(いだ)かせたのか。
 夫人は自分の存在を歓迎してくれている。それは、間違いはないだろう。北海の者をどのように思っていようとも、少なくとも、この島に馴染もうとしているリズルを悪しくは思ってはいない。
 自分も毛嫌いするだけではなく、少しはイースの事を理解してみなくてはならないのかもしれないと、リズルは思った。
 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み