第1章・使者

文字数 21,350文字

 リズルの毎日は忙しいものだった。
 同じ年頃の娘達が着飾り、嫁入り支度の準備に精を出す中、リズルは弟妹の面倒をみたり母の手伝いをしていた。
 元より、他の娘達を羨む事はなかった。十六ともなると、そろそろ結婚の話も出て来る。しかし、リズルはそれには全く興味がなかった。むしろ、近くの森で鳥や小動物を狩る方が楽しかった。男のような振る舞いをするなんて、と人は眉をひそめる。だが、両親は何も言わない。いや、リズルに弓の使い方を教えたのは、そもそも母だった。お陰で嫁入り支度の方は遅々として進まなかったのだが、それも気にする両親ではなかった。
 末の弟も今年で見習い戦士となり、ひとまず家を出て行く。それでようやく一息つけるというものだ。悪戯好きで何をやらかすのか知れたものではない三人の弟達には手を焼かされた。それでも、さすがに戦士見習いともなると態度も一変する。父が部族の船団長で常に目を光らせているという事もあるだろう。それが、戦士階級の男子の大人への第一歩なのだ。親元を離れて戦士の館で生活し、家に戻るのは月に一度だというのも、大いに関係あるだろう。
 妹も弟達に負けず劣らずであったが、こちらは十二歳で裳着の儀式を終えてからは、随分と様相が変わった。間もなく十四歳になるが、頻度は少ないがリズルと同じく野山で狩りもする。リズルよりはずっと大人しいと母は言う。
 糸紡ぎから始まって裁縫までの服作り、刺繍に料理、片付けに掃除、農場や家政の管理。
 女は面倒だとリズルは思った。
 それだけでは、唯論、ない。男達が遠征に出払っている時には、全ての負担がのしかかって来る。母はそれを当たり前のようにこなしているが、自分には無理だとリズルは思った。
「無理、ではなく、一度やってみなさい」
 母はそう言う。だが、人には向き不向きがあるのではないかとリズルは思っていた。誰もが母と同じには出来まい。現に、他の家では全てを一家の主婦が担う訳ではない。戦士階級の主婦の仕事は主として奴隷に指示を出して仕事をさせる事だからだ。だが、この家には使用人はいても奴隷はいないのだと母は言った。例え、奴隷の鎖を付けられていようとも、扱いは違う。自由民と同じだ。そして、春になると殆どの者がこの家を去る。この家は、そう言った人々にとっての一時の仮の宿りに過ぎないのだ。
 二年前には、叔母と従弟もこの家を去った。長らく離れて暮らしていた叔父と、従弟が十二歳になったのを機に共に暮らす事になったのだ。その北の涯の島で、解放された奴隷達も暮らしているはずだ。
 リズルには決して行けぬ場所だった。いずれ正戦士となる弟達は、恐らく、行く機会が持てるだろう。だが、自分と妹とは無理だ。如何にそこが祖父の島であろうとも、裳着の儀式を済ませた戦士階級の女が船に乗る事は出来ない。それが許されるのは、他島へ輿入れする時か出戻って来る時くらいのものだろう。交易島に夏の間滞在して商売をする者達は家族を連れて行くが、それは自前の船だからこそだ。父の部下達に慕われている母でさえ、軍船(いくさぶね)に足を踏み入れる事はない。
 十二になる迄は、父は毎年、自分と妹を交易島へ連れて行ってくれたものだった。慣例では子供を戦船に乗せる事はない。ましてや、女の子を。だが、それを破ってでも父は自分達を乗せてくれた。唯論、乗組員の戦士達にも可愛がって貰った。良い思い出だった。
 良い思い出にせざるを得ないのは残念だった。妹は納得しているようだったが、リズルはそうではなかった。あの風を切る舳先での興奮を忘れる事など出来ようか。男子に較べて女子は制約が多すぎるのが不満だった。かつては女も船に乗って戦う事もあったというのに、そのような日々は詩人の古謡の中でのみ語られる遙かな過去の事だ。その時代に産まれていれば、自分は好きな生き方を選べたのかも知れないと思う事があった。例え、それが自分の名の由来となった女性のような悲劇的な人生であったとしても、後悔はしないのではないか、と。
 両親は、リズルがそういった事に不満を口にしようと気にしない方だったが、何かと煩い人はいるものだ。年頃の娘の一人歩きは厳禁だ(この集落で船団長の娘である自分に何の危険があるというのか)とか、例え娘であっても戦士の館には足を踏み入れてはならない(裳着の儀式まではそのような事は言われもしなかったのに)など、面倒で納得のいかない事ばかりだった。一度などは伯母からこっぴどく「お叱り」を受けた。
 父の副官の娘ヴィリアを別にして、他の娘達はリズルと親しくはない。何時の間にかそうなってしまっていたのだが、未婚の戦士達と気軽に話すのが気に入らないからなのだと気付いたのは、最近ヴィリアに指摘されたからだった。ヴィリアには兄達がいたが、どうやらその二人を好ましく思っている娘も多いようだった。どの戦士も例外なく、リズルにとっては兄のようなものだった。幼い頃から家に出入りし、宴会の際には嘔吐の世話までする事もあるというのに、結婚の対象としては無理があった。それでも、年頃の娘達にとっては気が気ではないようだ。
 皆は幼馴染みをも結婚相手として意識しているのだが、リズルには信じられなかった。十四、五で、もうそのような事を考えるのが普通なのだろうかと思いはしたが、両親の結婚は遅かったので気にしないようにした。ヴィリアもこの集落の者とは結婚したくないと言ったが、これは子供時代にいじめられていたからだ。美しいのだから結婚の話もあるのではないだろうかと思ったが、そうであったとしても父親も兄達もヴィリアを溺愛していたので、そう簡単には決まらないのではないかと心配になる程であった。
 リズルの両親は共に、女らしくしろとも、そんな事では嫁に行けなくなるとも言う事はなかった。他の親達はそうではないのだとしても、リズルにとっては自分の親の言葉が最も大事だった。毎年、族長集会に合わせて島を訪れる祖父や叔父達も、リズルが弟達を捕まえるのに長着の裾をからげて走ろうとも気に留める様子もなかった。ただ、笑っているだけだ。
 それが特殊な事だとは思いもしなかった。
 その点については幸せであったと言えよう。
 誰もリズルの好きな事や生き方を否定する事はない。読み書きも算盤も、他の娘達は出来ないが、リズルと妹は母から教わっていた。男子は学問所へ通えるのだから、その点でも不公平だった。族長の館にある写本師の小屋へこっそりと通っては様々な知識を仕入れたものだった。写本師は本を丁寧に扱いさえすれば全く無関心な様子だった。学のある女は碌な事にはならないと伯母は言ったが、父は全く気にしていなかった。むしろ、その方が退屈しなくて済むだろうと笑った。
 大好きな父。
 五十になんなんとしているというのに、まだ北海随一の戦士との呼び名も高い。茶色の目と髪で、身体は誰よりも大きい。三人の弟は誰一人としてその体軀を受け継がなかったが、父はそれでも満足なようだった。誰も俺に似ずに済んだと笑っている。船団長である為に、戦士の引退年齢である五十歳は関係ない。それは副官も同じだ。退くべき時を知るのも指揮官として重要だと二人は良く言い合っていた。共に遠征に出られる限りは続けるのであろうとリズルは思っていた。部族の戦士のみならず、北海の戦士の憧憬の的であったが、本人はそのような事を意に介する様子はない。
 そんな父でも母には頭が上がらない。母に勝てるのは、恐らく祖父母くらいなものだろう。リズルは作法や言葉遣いでいつも母に叱られてばかりいた。いや、リズルばかりではない、父を含めた家族皆がそうだ。だからと言って、やかまし屋ではない。誰よりも愛情深い人だった。
 そして、美しい。
 皆はリズルはそっくりだと嬉しい事を言ってくれるが、そうだとしてもそれは上辺だけの事に過ぎない。同じ色の髪をしていても、顔立ちがそっくりでも、それだけではない別の何かが、母をいっそう輝かせているのだ。
 今も、台所の卓子で麵麭(ぱん)を作っているが、料理をする時は常に楽しそうだった。料理だけは決して、誰にも譲らない。リズルも調理をする事があっても、決してそれが家族の食卓に並ぶ事はなかった。父の舌は誤魔化せないからだと母は言う。
 長い薄い色の金髪を編み、後は焼くばかりとなった麵麭を並べている姿は見慣れたものだ。その側では妹が刺繍の手習いをしている。リズルは隅でヘイウィルの破いた胴着の補修だ。
 戦士の館にいる弟達が戻る日には、家族が七人、家使いの者が五人の大所帯となる。それでは今日のように兎三羽では済まないだろう。何しろ父一人で一羽を平らげるし、弟達も育ち盛りだ。そうなれば、如何にリズルが罠と弓を駆使しようとも調達出来まい。結局、家畜を潰すか魚を求めるしかなくなるだろう。長い冬の為にも、家畜にはなるべく手を出さない方が良いというのが母の考えだった。
「父上がお帰りになりました」
 末弟のヘイウィルが台所の戸口から言った。夕刻になると生垣で父の帰りを待つのが子供の日課だった。だが、それもヘイウィルが十二歳になれば終わる。見習いとして戦士の館に入ってしまえば、新月の日にしか戻る事はないだ。家はがらんとしてしまう事だろう。
 母は麵麭を焼くように妹のトーヴァに言い、父を迎えに出た。
 リズルはトーヴァの刺繍を見た。中々の出来だった。
「上手に出来たじゃない」
 そう言うと、トーヴァは嬉しそうに笑った。ひょっとすると自分よりも巧いかもしれないとリズルは思った。
 ややあって、母が姿を見せたが、その顔は曇っていた。
「旦那さまと少し、お話しなくてはなりませんから、後はお願いするわ」
「はい、奥さま」
 年長の使用人であるイズリグが答えた。
 何の話かは分らないが、このような忙しい時間に母が席を外すなど、今迄はなかった。それに、母のあの顔。何か重大な問題が持ち上がったのかもしれない。
 そう言えば、今日の昼には入り船を知らせる太鼓が鳴っていた。
 それと関係があるのだろうか。
 リズルは不安になった。

 その日の夕餉は普段と大きく異なっていた。
 いつもは明るく豪快に杯をあおり、肉や麵麭にかぶりつく父は何事かを深く考えているようだった。何かを思い悩む父の姿など、リズルはついぞ目にした事がなかった。眉間に皺を寄せ、蜜酒の杯を傾ける様子は何処か上の空で、一層、食卓の空気を重い物にしていた。
「そんなにわたしの料理がお口に合いませんか」
 母が言った。
「そうではない」
「なら、そのように不味そうになさらないで」
「しかし、お前…」
 父の顔は砂を噛んでいるかのようで如何にも不味そうだった。父が母の料理をそのような顔付きで食べるなど、考えられなかった。そのような顔を父がするのは、リズルが憶えている限り、母がヘイウィルの出産の為に食事の支度が出来ず、他の者と替わった時くらいなものだった。リズルにその味の差は分らなかったが、父には分るらしいとその時に知ったのだ。その時、母子共に元気であったのだが、父の食は進まなかった。だが、今回は少し時間がずれ込んだとは言え、母の手による食事だ。
「そのお話は、後にいたしましょう」
 やんわりとした母の言葉に、父は黙った。
 二人が諍っているのではない、というだけでもリズルはほっとした。何があったにせよ、それは母の機嫌を損じる物ではなかったという事だ。
 豪放磊落で鳴らした父だった。無口で沈み込んでいる事など今までなく、リズルの不安を掻き立てた。何か、部族に重大な事が起こったのだろうか。ならば、族長である伯父の許にいなくとも良いのだろうか。船団長として、弟として、父は伯父からの信頼も厚かった。それとも、母と話し合ったのならば、祖父達についての事だったのか。
 重苦しい雰囲気の中で食事が終わると、ヘイウェルは直ぐに食堂から逃げ出した。トーヴァと共に食器を下げようとすると、母がリズルに囁いた。
「お父さまから、あなたに大事なお話がありますから」
 え、と思う間もなく、母はリズルの手から食器を取り上げ、トーヴァに渡した。そしてトーヴァが食卓の片付けを終えて食堂から出て行くと、父は大きな溜息をついた。手には例によって蜜酒の杯。目の前には酒の壺があったが、父は呑む訳でもなく、ただ手の中でまだ酒の残っている杯をぐるぐると回しているばかりであった。
 リズルは父の言葉を待った。やはり、何かをやらかしたのだと思った。近頃は困らせるような事はしでかしてはいない筈だし、そのような事を考え込む父ではない。
「いつまでも黙っていらっしゃっても仕方ありませんわよ」父の傍らに立った母が遂に言った。「これは父親の務めです」
 父親の務め。
 リズルはどきりとそた。一体、自分は何をしたのだろうか。ここのところは大人しくしていたので、族長や他の人に迷惑を掛けるような事はしてはしない――筈だ。
「お前に、大事な話がある」
「はい」
 リズルはしおらしく頷いた。
「お前は幾つになった」
「十六です」
 その意味も分らず、リズルは父の問いに答えた。
「十六か、早いものだな」大きく息を吐くと、父は杯の蜜酒を干した。母がそれを満たす。「もう、そんなになるのか。まだまだ子供だと思っていたのだがな」
 暫しの沈黙が降りた。
「今日、族長に呼ばれた」
「はい」
 やはり、叱られるのだろうか。十六にもなってお前は、と。
「お前に嫁入りの話が来た」
「え」
 リズルは絶句した。ぐらりと世界が傾いだ気がした。確かに、十五になれば婚約が出来る。だが、同い年の娘達はまだ誰一人としてそのようなふれ込みなかった。
 それでも、最も歳の近い従姉が結婚したのは十七の時だった。だが、その時に父は、結婚相手は自分で選んで良いのだと言わなかっただろうか。しかも、普通は父親が家にいる時に六人の使者を立てて来るものではないのだろうか。
「でも、お父さま」
 完全に混乱してリズルは言った。
「あの糞兄貴が、こちらの意向を訊きもしないで勝手に承知しやがった」リズルの言葉など聞えなかったように、父は腕を組むと椅子の背に凭れ掛かり、族長を口汚く罵った。「常々、俺はお前達の相手は自分で選ばせると言っていたのに」
「それでは分らないでしょう」母が父の肩に手を置いて言った。「きちんと説明してあげなくては」
「今日の入り船が使者だった。お前を嫁に欲しいそうだ」
 島外からの申し込み。しかし、この島で集会が行われたのは三年前の事だ。
「わたしを、ですか」
「そうだ、お前をだ」
 父はリズルから目を逸らせた。「どうしても、お前でなくてはならないのだとさ。相手の条件も申し分ない。こちらに損は全くない。二つ返事で受けやがった」
「仕方ないでしょうね、族長としては。部族の事を何よりも第一にお考えにならなくてはならないのですもの。わたしたちも、族長の決定には逆らえないわ」
 母は溜息をついた。族長の決定に反すれば、悪くすれば法外追放になるというのは子供でも知っている事だった。
「これが部族にとって――北海にとって大事な話だと言う事は俺にだって分かる」父はリズルに目を向けた。「断る事は、出来ない。覚悟を決めるしかない。それにしても、俺達抜きで返事をしたのは許せん」
「文句はもう、あちらで散々、おっしゃってきたのでしょう」
「まあな」
 だが、まだまだ言い足りなそうな顔だとリズルは思った。
 部族のみならず、北海全体に関わる結婚。リズルには見当も付かなかった。北海の七部族は身分にもよるが、全てが平等の権利を有している。族長の間にも年齢以上の差はなく、優劣もないと聞く。
「――わたしを望まれているのはどなたなのか、お聞きしてもよろしいですか」
 その問いかけに、父の顔はますます厳しいものになった。
「交易島の後継者で、イースという名の若造だ」
 リズルはどう反応してよいのか分からなかった。


 それからは大騒ぎだった。
 交易島の使者は、着たその日の内に族長からの返事を携えて出航して行ったが、迎えの船を出来る限り早くに遣わすと言ったという。
 どういう事なのかと問うと、北海と交易島などの中つ海とでは様々に異なる習慣があるという事だった。それに慣れる為にも、婚約期間中に島に来て慣れろと言うのだ。
 結婚は、リズルが十七になる次の夏に。
 迎えの船に乗ってしまえば、もう二度とこの島に帰る事はないだろう。北海全体に関わるような結婚であるのなら猶更だ。余程の事がない限り離婚は許されないだろう。母や妹、ヴィリアとは今生の別れとなる。支度を調える暇さえなかった。幾らなんでも、それは酷いと思った。充分な別れの時間もなく、結婚までの儀式もなく、花嫁衣裳すらもない。それで他の島へ渡らねばならないとは。
「何とかしましょう。北海が荒れるまでに出来た分は届けさせるわ。でも、ぎりぎりまではかかるでしょうね」
 向こうの条件に、母も厳しい顔をした。
「もうすぐ集会だから、あなたのお祖父さまがいらっしゃるわ。その時にお話ししましょう。大丈夫、次の夏までなら、あなたのお祖母さまなら見事な衣装を幾つもこしらえてくださるわ」
 会った事のない祖母だったが、リズルとトーヴァの裳着の儀式の折には素晴らしい長着を贈ってくれた。とても優しい人だという事は、母の話からだけではなく、丁寧に仕立てられた衣の作りからも窺われる気がした。
 使者の来た翌日、リズルは父と共に正装をして族長と対面し、正式な通達を受けた。このような場では母に叩き込まれた作法がものを言った。普段は口煩い伯母の

を探そうとするかのような目から見てさえ、不備はないようだった。だが、それはそれで不満だったようで、形式ばったやり取りが終わると不満そうに席を立ち、出て行った。
「今回の件、まさか、義姉上は関わってはおられんでしょうな」
 父は伯母の姿が消えるといきなり族長にそう切り出した。子供の頃から両親と伯母の折り合いが良くない事は気付いていたリズルだが、直截的なその言葉には愕いた。
「過去の事は忘れろ。

に口を出させる事はない」
 父ほどではないが、やはり大柄な族長は心外だという顔で言った。「そんなに私は頼りがいのない族長か」
「では、全て兄上の裁量で決められたのですね」
「そうだ」
 それを聞いて父は更に機嫌を損じたようだった。
「忌憚なく言わせて貰おうか」
 父が大きく息を吸ったので、リズルは心の準備をした。
「この欲呆け野郎が。よくも俺の娘を取り引き材料にしてくれたものだな」
 族長の館をも揺るがすかのような大音声で父が怒鳴った。二歳しか違わない兄弟だ、何でも遠慮なく言い合うのはリズルとすぐ下の弟との関係に似ているのかもしれないと、こういう場面に合うといつでも思う。
「そう怒鳴るな」馴れっこな様子で族長は言った。「交易島から北海への申し出など、ついぞなかった事だ。本来ならば族長集会にて裁定されるべき事由なのだが、先方が返答を急いでいたのでな、事後承諾になるが致し方あるまい」
「そういう時こそ族長の交渉力の見せ所でしょうが。それで俺が得心するとでも」
「して貰う他ないな」
 伯父は肩を竦めた。「交易島との繋がりが、如何に大事かはお前でも分かるだろう。それにこれは、族長家に連なるものの務めと言うだけではない。向こうからわざわざお前の娘をと言って来たと説明しただろうが。お前がリズルを特に可愛がっている事くらい、私が知らんとでも思っているのか。だがな、自由に相手を選べぬからと言って不幸になる訳でもあるまいに。私の息子も嫁御と仲良くやっとるし、お前とジョス殿もそうだろう」
 その言葉にも父は機嫌を直さなかった。それどころか、族長の館を出てもずっと不機嫌なままだった。正装をした自分達を見送る衛士達を尻目に、リズルの父は言った。
「あの連中の中にも、お前に懸想している奴らがいる。お前は母親似のとびきりの美人に育ったからな」
 リズルは愕いて父を見た。相変わらず無愛想な顔だった。
「俺はお前を同族の男にやるつもりは、これっぽちもなかったが、お前はどうだ」
「――そんなこと、考えたこともありません」
 結婚どころか、恋という感情さえも持てなかった。
「なら、この話を受けるしかないという事だ。ま、そんな度胸のある男が部族にいれば良かったのだろうが」
 皆、船団長で巨熊(きょゆう)の異名を持つ父を恐れている。当然だろう。誰も父には勝てないのだから。そして、若者達のリズルに対する想いというのも、所詮はその程度であったという事だ。それを残念にも思わなかった。
 大体、ヴィリアと親しくなったのも、元はと言えば男の子達にいじめられていたのを救けるのに喧嘩を売って勝ったからだった。中心的な少年の股座を思い切り蹴り上げてやったのだが、その事を耳にした伯母から十歳にもなって何とはしたない事をと散々叱られた。同席していた父は膝を叩いて大笑し、伯母から睨まれていた。そんな連中を自分の結婚相手として考えられる筈もなかった。ヴィリアの下の兄が戦士の館に入った途端にいじめるような者達だ。ヴィリアが絶対に父親にも告げ口をしないと分っていてそういう事をする卑怯者、臆病者という印象は、あれから何年経とうともリズルの中では変わる事はなかった。
 それでも、母が父に出会ったように、自分もいつかは運命に出会えるのではないか、という思いがあった。この島にはそれに相当する者はいないのだと知っていてさえ猶、憧れる気持ちがあった。
 自分の中に流れる祖父の血がそうさせるのかもしれないと、リズルは思う事もあった。
 最涯ての島。海神に護られた異教の島。
 決して行く事の出来ぬ場所ではあったが、父の、自分の部族よりもリズルには近く感じる人々だった。毎年、族長集会への行きに立ち寄る祖父とその部族の人々は、リズルをありのままに受け入れてくれる。細かく窮屈な

などでリズルを縛ったりはしない。そして、祖父は齢七十を越えても猶、船団を率い、北海の荒波を渡る最年長の族長だ。
 母は、祖父と性格も容姿も大きく異なっていたが、ふとした拍子に父娘だと分かる瞬間があった。母の容姿は祖母に似ているそうだ。気性は、祖父方の数人を見れば何とはなしに分かる気がした。リズルも、そう言われる。母によれば、祖母の性格はイルガス伯父やフラドリス叔父に似ているとの事だった。出来れば、そちらの方が良かったと思う事があった。穏やかで思慮深い人々であったからだ。これは二番目の弟が受け継いだようだったが、母からはこの、一見優しげに見える容貌は大きな武器なのだと言われていた。その意味を、リズルはまだ、よく考えた事はなかったのだが。
 自分が嫁ぐ事になる青年の人となりをもっと知りたいと思ったが、父が語った以上の事を知る者はいないようだった。夏に交易島で店を構える商人を訪ねても、交易島の領主やその家族についての情報は得られなかった。族長は領主と会った事があるようだったが、それとても仕事上の事で個人的な事は何も知らないと伯父は言った。相手も、リズルに関しては巨熊の娘という以上の事は知らないのではないかと語った。名前も知らなかったと言うのだ。
 否も応もなかった。だが、そのようにして従兄は結婚した。そして、従姉も他島の族長家に連なる者へ嫁いで行った。見染めた相手の事も知らずに嫁ぐのは不安ではないのかと訊ねると、従姉は、これも務めだからと微笑んだ。相手が自分を望んでくれるだけでも幸せよ、と。それに、もし、嫌な男だったら離婚してやるわ、とも言った。族長の後継者ではないのだから、その位は簡単よと笑ったが、四年経った今でも戻っては来ない。父によれば子供も産まれて随分と貫禄が出て来たと言う事であった。
 交易島の後継者であるならば簡単に離婚は出来ないだろうが、いざという時にはそれがある。やはり、覚悟を決める他はないようだとリズルは思った。


 程なくして祖父達がやって来た。
 かつては黄金色に輝いていたという髪も、今は白銀色に変じている。父の(こわ)い髪と短い髭とは違って柔らかな髪と髭の人だった。痩軀でありながら、巨熊と称される父に匹敵する程に背が高かった。
 この島には毎年訪れるのだが、一日しか滞在しない。次の日には集会に向けて出航してしまう。それでも、二年前までは叔母と従兄と暫く共に過ごすフラドリス叔父を乗せて帰る為に寄港したものだったが、それも終わった。年に一度の楽しみの日だった。この島での集会の際には親族がこの家に宿泊し、開催までは食事を共にした。
 その日の夕餉の時に、祖父はリズルの婚姻の話を聞くと、一瞬、顔を曇らせた。
「交易島が北海の部族に縁組を求めて来るとは」祖父は蜜酒の杯を傾けて静かに言った。「あちらにとって益があるとは思えんが」
「やはり、そう思われますか」
 父は頷き、身を乗り出した。「北海の部族からを嫁を迎えたとなると、裏で我々が繋がっているという事が明らかになってしまう恐れがありますからな。今迄は疑いはしようが、証拠はなかったのですから」
 交易島とはそのような関係であったのだと、リズルは初めて知った。あの島は完全に中立なのだと信じていた。出入りする中つ海や南溟の商人達もそう信じているはずだ。でなければ、あの島があれ程賑わう事はないだろう。
「あちらが年頃の貴殿の娘と指定して来たのならば、リズルに他ならないだろう。それを拒む理由もない。いや、密約を破棄されぬ為にも、むしろ受けねばならないだろうな」
 父は唸った。
「スヴェルトは大体、リズルが結婚すること自体に反対なのです」
 母のその言葉に、北の部族の年長の男達から笑いが起こった。
「いや、俺は同族の男には嫌だと言っただけだ」
「分らんでもないがな」祖父は苦笑しながら言った。「何時までも手許に置いておく訳にも行くまい」
「自分で選ばせるつもりでいたのですが」
 憮然として父は言った。
「心に決めた者が今、いないとなると四年後まで待たねばならないからな。この島での集会で七部族の主だった独り身の戦士が来るからな。結婚というならば、それでも遅くはあるまいが」
「姉上に較べれば」
 マグダル叔父の言葉に、母はむっとしたような顔になった。
「三十六にもなって独り身のあなたに言われたくないわ」
「まあ、私が結婚しなくても兄上達には子がいらっしゃいますし、気楽な三男で結構」
「もてない言い訳にしては立派ね」
「心外だなあ」
 猶も言い争う二人にを尻目に、祖父はリズルに向き直った。
「しかし、お前はそれで良いのか、リズル」
「北海に必要なら、仕方のないことです」
 リズルは皿の料理に目を落として言った。今日は久し振りの客人に羊を潰した御馳走だったが、味がしなかった。末席で騒いでいる、特別の計らいで家に戻っている弟達を叱る気にもなれなかった。
「聞き分けの良い事を言うが、本心はどうなのだ」
 青い青い目を前にして、偽りは通用しないと思った。
「わたしも、お祖父さまやお母さまのように運命に出会いたかったと思います。でも、そうではなかったのですから」
「運命に出会うのは難しい」祖父は言った。「だが、出会えば直ぐに分るだろう。お前は我々の血を強く受け継いでいるようだからな。その交易島の跡取りがそうであるならば問題はないのだが」
 その可能性は残されていた。
 「お前の母は十一歳の時に運命に出会ったが、スヴェルト殿がそれに気付かれるのには長い年月(としつき)が必要だった。他島の者には、なかなか難しい

だ。それも憶えておくと良い」
「二人は決められた結婚だと族長はおっしゃっていましたが」
「私が仕組んだ事だ」海狼と恐れられる祖父は穏やかに笑った。「互いに良い歳まで独り身で通していたからな。そうでもしなければ、互いに島を護る者同士の再会は不可能だっただろう。式に臨むまでジョスは、自分の相手が運命であったとは気付かなかっただろう。その事を知る者には口止めをしておいたからな」
 祖父がそのような子供の悪戯めいた事をするとは俄かには信じられなかった。二人が運命である事は知ってはいたが、どのように出会い、結ばれるに到ったのかの経緯にはリズルは今まで興味がなかった。祖父は楽しげに両親を見ていた。計略が巧く行ったと言わんばかりの顔だった。
「――その若者が運命でなくとも、お前は覚悟が出来ているのだな」
 祖父の言葉に、リズルはどきりとした。
「お前が正式に交易島の者となった後に運命と出会う事になっても、自分の心を抑える事が出来るのだな。諦める事が出来るのだな」
「そうしなくては、ならないのでしょう」
 戸惑いながらリズルは答えた。
「もし、お前の祖母がそのような立場になったとしたらどうすると思う」
 思いがけぬ質問だった。
「お祖母さまも、わたしと同じ決断をされるのではないでしょうか」
「では、お前の母は」
「お母さまなら、全てを置いても運命に走るでしょう」
 これには自信があった。
「私の妻もそうだろうな。何よりも、私が諦める事がないだろう。スヴェルト殿にしたところで、そうだ」
 静かな声だった。「お前はまだ若い。生きる事も愛する事もまだ知らぬ。運命とはどういうものなのかも本当に理解してはいない。それでも、お前が決めたのならば仕方がない。幸せを祈る事しか、この年寄りには出来ん」
「お祖父さまが年寄りだなんて、誰が思うでしょう。島の若い戦士よりもずっと立派ですもの」
 真実だった。誰よりも堂々として、他を圧倒する迫力がある。誰の目をも惹き付ける力もあり、その前には父ですらも霞んで見えた。まさに、七部族の力を体現する人だと思った。
「何時の間にそのような嬉しい事を言ってくれるようになったのだ」祖父は声を上げて笑った。「私の髭を引っ張って山羊のようだと言ったのと同じ口だとは到底、思えんな」
 北の一族が来ると、誰もがリズルの記憶にない程幼い頃にああ言っただのこう言っただのと言って揶揄う。ここでもそれを持ち出されて、むっとした。
「そのように感情に正直なところは、まだまだ子供だな」
 そう言って笑った顔は、直ぐに真剣になった。「憶えておくが良い。運命とは恐ろしいものでもある。愛だけではない、如何に憎悪しようとも、死ですら二人を別つ事は出来ない。その事を心に刻んでおくように」
 それだけを言うと、祖父は末席の弟達を側に呼んだ。


 翌日には祖父達は族長集会へ向けて伯父の族長船と共に出立した。交易島へ行ったとしても、祖父が海に出ている限りは会えるだろう。それはリズルにとっては大きな慰めとなった。
 だが、リズルは祖父が何故、運命についてあのような事を口にしたのか、その真意を量りかねていた。
 良く考えろ、という事だろうか。
 それとも、断るならば今をおいてしかない、と言いたかったのか。
 断る事は出来ない。伯父の謂いでは、北海全体と交易島との関係がリズルの婚姻に掛かっている。それは重荷であったが、族長家に連なる者として産まれた以上は覚悟せねばならない事だった。北海の誰が選ばれようとも、同じ決断を下さざるを得ないであろう。
 女は損だ。
 リズルは思った。
 結婚という市場に並んだ若い娘の中から、男やその家族達は値踏みをして決める。そこに娘の意志は必要なかった。広場で奴隷が競りに掛けられている姿と変わりない。親の方も声が掛かるを待つばかりなのだ。唯論、結婚してしまえば離婚の権利を有するし、二度目の結婚は拒否するのも自由だ。それでも、娘の間は選択権すらない。
 父や母は自由を思い切り享受させてくれた。その日々も、もうすぐ終わる。二十日もすれば、集会から伯父が戻るだろう。交易島の迎えの船はそれを見計らって来るのかもしれない。
 余りにも早い。
 まだまだ母から教わらなくてはならない事があった。本来ならば、婚約から婚礼まで半年から一年の時間を取るものだ。その間に総出で支度で足りぬ物を揃える事になる。そして、一家の女主人となるべく母親から教育されるものだ。
 しかし、リズルにはその時間がなかった。
 それだけではない。結納財は銀で支払われる為に披露もなければ、全てが揃わぬ為に持参財の披露目もない。
 先方がそれ程までに急ぐ理由は教えては貰えなかった。いや、伯父とても知らないのだろう。交易島の機嫌を損ねる事が出来ずに、礼儀を欠いた態度にも屈するのかもしれない。
 相変わらず、父は文句ばかりだ。母の言ったようにリズルが結婚するという事自体に反対なのだとすれば、仕方のないことなのだろう。父を得心させる者など存在しない事になる。それでは、トーヴァの時にも相当に

に相違ない。
 妹はリズルの結婚に興味津々だった。活発ではあったが、リズルとは異なり女友達も多く、手仕事も好きだった。
「お姉さまは交易島へお嫁に行かれるのね」二人で広間で刺繍をしていると、目を輝かせてトーヴァは言った。「お父さまに毎年、連れて行っていただいたわよね」
「そうね、でも、あなたはわたしと一緒でなくてはいやだ、と言って八歳までしか行かなかったわね」
「賑やかで楽しいところだったわ。お姉さまはそこで暮らすでしょう」
 自分に都合の悪いところはさらりと流し、トーヴァは言った。妹にとっても、あの島は楽しい思い出だったのだ。その事を家で話す機会はなかったのだが、幼いながらも、島から出られぬ母を気遣っての事だったのだろうか。
「遊びに行くのと暮らすのとでは違うわ」
「お姉さまはこの島にいたいの」
 リズルは少し、考えた。このままここにいても、祖父の言ったように二十歳まで何も起こらないだろう。だが、族長集会で運命を見出す事が出来なかった場合には、自分はどうするのだろうか。二十六で父と一緒になった母に言わせれば、結婚ばかりが女の幸せとは限らない。しかし、それに代わる「何か」をリズルは持たなかった。
「お祖父さまの島には行ってみたいわ」
 そこでならば運命に出会う事はなくても、少なくとも自由に生きる事は出来るだろう。
「わたしも」
 勢い込んで言うトーヴァにリズルは愕いた。トーヴァは今の状況に不満はないようだったからだ。「わたしも、お祖父さまの島へは行ってみたいわ。お祖母さまや伯母さまにお会いして、いろいろと教えていただきたいの」
 気持ちは分った。トーヴァのように手仕事を好む者には、あの素晴らしい生地や刺繍は憧れだろう。
「でも、女は軍船(いくさぶね)には乗せてはもらえないわ」
「使用人は毎年、北の島へ行くのに。今年もお祖父さまの族長船に乗っていったわ」
「事情が違うのよ」
 そう、奴隷であるこの家の使用人達は、解放されて北の涯ての島へと渡る。この島では解放奴隷は殆どいない。そして、この家のイズリグとソールトを除けば、全てが戦士や自由人の愛人だ。生活の方便(たつき)求めるにはこの島よりあちらに渡った方が良い。母によれば、そこは昼でも昏い北海でも最も長く厳しい冬を過ごさなくてはならない。絶対に生き延びられるという保証はない。
「北の島の人と結婚すれば別でしょうけれど」
 リズルは呟いた。今のところ、祖父の船にそのような者はいない。
「それなら、誰も文句は言わないわね。運命なら」
 そう、運命ならば文句は言えないであろう。何しろ、父は母の運命であり、その絆の強さを知っている。
 母も祖父も運命に出会い、結ばれたと言うのに、自分は出会えてはいない。トーヴァには未来がある。この島で集会が開かれる時にはトーヴァは十七歳だ。
「お姉さまの婚約者の方が運命であればいいわね」トーヴァの言葉に、リズルは物思いから引き戻された。「だって、わざわざお姉さまがいいとおっしゃっているのでしょう。きっと、交易島に行った時にお姉さまを見ていらっしゃったのよ」
「それだったら、相手の方が十四歳で、十一歳のわたしを見染められたという事になるわ。いくら何でも、それはないでしょう」
「だって、よその人でも運命に敏感な人はいるとお祖父さまはおっしゃっていたわ。お祖母さまもそうだったって。忘れられなくて、申し込んでいらしたのかもしれないもの」
 従姉の言ったように、望まれて嫁ぐのが幸福なのだろう。だが、それが相手なのか相手の親なのかは分らない。祖父やトーヴァの言うように相手が運命である可能性も捨てきれない。過剰な期待をしてはいけないが、希望を持つくらいは許されるだろう。


 祖父が去った翌日、リズルは母に呼ばれた。
「ついていらっしゃい」
 母はそう言うと、リズルを館の下の小さな入り江へと連れて行った。幼い頃から良く遊んだ場所だ。父の土地であり、漁船くらいは置けそうな場所であったが、特に何かに使われたという記憶はなかった。子供達の遊び場であり、嵐の後に打ち上げられる様々な物を集める場所でもあった。
 何か、家の中では話し辛い事なのだろうかと、リズルは不思議に思った。
 母は押し黙ったまま海を見ていた。何処とはなく哀しげな姿に、リズルは居心地の悪さを感じた。普段はそのような顔を見せない人だった。しかし、この浜では気付くと哀しげな眼差しで海を見ている事があった。
 重苦しい沈黙に耐えかねてリズルが何かを言わなくてはと思った時、母が口を開いた。
「この浜は、わたしたちにとっては大切な場所なの」
 わたしたち、というのは家族の事だろうか。
「あなたたちには一度も話したことはなかったのだけど、あなたはもう十六ですものね。結婚も決まったことだし、知っておいた方がよいでしょう――もうすぐ迎えの船が来るでしょうし、そうすれば、もう、会うこともできなくなるのですもの」
 二度とは会えないであろう別れ。考えたくないのは、母も同じだったのかもしれない。
「わたしは島を離れたくはなかったわ。大切な人たちと二度と会えないということを知っていたから。北の涯の島では外へ嫁ぐ女性はいなかったから」
「それは、お父さまが運命だとは知らなかったからなの」
 その問いに、母はリズルを見て微笑んだ。
「お祖父さまから聞いたのね。正直に言うと、そうだったわ。本当は、結婚などしたくはなかった。島で運命を待ちたかった」
「でも、その結婚の相手、というのがお父さまだったのでしょう」
「そう、まんまと、お祖父さまの奸計に引っ掛かったのよ」その時の事を思い出してか母は少し、笑った。「でも、お父さまはあの通りの方だから、全く気付いてはくださらなかったわ。それどころか、わたしのことなどすっかり忘れていらしたの」
 あの父ならそうだろう。大雑把で細かな事に余り気付かず、そのせいで母の機嫌を損じることも少なくない。
「それでも、わたしたちは子を授かったわ」
「それが、わたし、でしょう」
 母が何を言いたいのか分らぬままにリズルは言った。
「いいえ、あなたの前に、産まれることのなかった子がいるの」
 その言葉に、リズルは母の顔を見ずにはいられなかった。
「その子は、宿ってすぐに、流れてしまったわ」
 リズルは黙って母の言葉を待った。何も言う事が出来なかった。
「この浜から、その子を島の流儀で海神の許へ送ったの」
 それで、母はいつも哀しげに海を見ていたのか。
「あなたたちをここで遊ばせたのは、その姿を見てほしかったから、護ってほしかったからよ」
 母の空色の目が、一度も自分に向けられてはいない事にリズルは気付いた。遠い思い出の中に、母はいるのだろうかと思った。
「あなたも親になる日が来るでしょう。初子(ういご)は難しいと言われたわ。どうしても育たぬ子もいると言われました。あなたのお祖母さまも一人を流産で、もう一人は死産で亡くされているわ。あなたも結婚するからには、そのことを覚悟しなくてはならない。自分の生命を危うくするかもしれない、ということも含めてね。幸いに、あなたたち五人は無事に産まれて育ってくれました。でも、幼い内に亡くなる子もいるし、それが決して珍しいことではないことくらいはあなたも承知しているでしょう。それを乗り越えて行かなくてはならないのよ。その時には、あなたの良人となる人も同じ苦しみと哀しみを抱えていることを忘れてはだめよ。自分の哀しみだけに囚われてはいけないわ。わたしたちは、お互いに自分自身の哀しみと苦しみに閉じこもってしまって、もう少しで取り返しのつかないことになるところだったのよ」
 両親の間にそのような出来事があったとは、リズルには俄かには信じられなかった。諍う事はあっても、二人は互いを理解しているように見えた。それは単に運命だからというばかりではなく、危機を乗り越えたからこそのものだったのだろうか。
 母の目がリズルを捉えた。
「船に乗ってしまえば、わたしはあなたに何もしてあげられない。あちらでは、相談に乗ってくれる人もいないかもしれない。あなたはわたしのように、一人で海を渡って行かなくてはならないのよ」
「わたしは大丈夫」リズルは言った。「お父さまとお母さまの娘ですもの。そんなに弱くはないわ」
 母の顔が曇った。
「あなたはまだ、世の中を知らないわ。この世界はあなたを好いてくれる人ばかりではないの」そのような事は分かりきっていた。何を母は心配しているのだろうかとリズルは不思議に思った。「交易島では、お父さまやお祖父さまの名があなたを守ってくれるとは限らないのよ」
「わたしが、北海の戦士の娘だから」
「そうね。たとえそうでなくても、あなたは若い。手もとから放すには、まだ若すぎると言ってもいいかもしれない。これが北海なら、ここまで心配はしなかったでしょう。でも、交易島は中つ海だわ。涯の島からここへ来たわたし以上に、あなたは苦労するでしょう。耐えなければならないことも多いでしょう。言い方は悪いでしょうけど、敵のただ中へ行くようなものなのよ。しかも、帰ることの許されない道だということを、分っているのね」
 母の気迫に押されながらも、リズルは頷いた。
「わたしたちの法では、良人に落ち度があった時には離婚もできるわ。でも、あちらではどうか、分らない。どんな扱いを受けたとしても我慢するしかないのかもしれない。


 法の事までは頭が回らなかった。そう、交易島では北海の法は通じない。独自の法と中つ海の法の(もと)にあるのだ。
「わたしにはお父さまがいらっしゃって、いつでも守ってくださった。わたしたちは、あなたの良人となる方が、そのような方であることを祈るしかないの」
 いきなり、母はリズルを抱き締めた。
「あなたに何もしてあげられなくて、ごめんなさい。一番不安なのはあなたなのに、安心するような一言も言ってあげられないなんて」
「お母さま」リズルも母の身体に腕を回した。「そんな風におっしゃらないで。こんなに急だなんて、誰も思わなかったのですもの」
「そうね」母はリズルを放した。「そうね。でも、あなたが年頃だということを、もっとしっかりと考えなくてはいけなかったわ」
「では、トーヴァにはそうしてあげてくださいな」まだ幼さの残る妹の事を思い、リズルは言った。「あの子は、まだまだ子供ですもの」
「あなただって、そうでしょう」
 母は眉を寄せて言った。「十六なんて、まだまだ子供だわ。いくら婚約ができると言っても、まだまだ子供の夢の中だわ」
 生活をする、という事に関しては、そうなのかもしれない。年頃の娘達とリズルの

が合わないのは、皆が結婚を目的としているからかもしれなかった。リズルはその先にある生活というものを理解していた。結婚式の後に続く人生の中で、女が家族の中で果たさねばならない役割も心得ていた。夫婦だけの生活とは言え、全てを管理し、回していかねばならないのだ。それに年齢は関係はない。
 確かに、婚約から結婚までの一連の儀式は非常に魅力的だ。婚約の触れ込みから始まって結納財の披露、支度品や持参財の披露目、そして結婚式へと到る。その間、祝いの品を携えた親類縁者の来訪と、花嫁は下にも置かれぬ程に甘やかされるのだ。
 それが、半年から一年。
 リズルはそれを全て省略してひと月あるかないかだろう。婚約の触れ込みはあったが、他は何もない。ただ、族長や従兄夫妻から祝いの来訪を受けたに過ぎない。
 褒めそやされ、甘やかされる事は嫌いではない。
 だが、それは人生のほんの一時の事でしかないのも分っていた。祖父母は四十年以上も共にいる。それが、結婚というものでもあるのだ。両親や弟妹よりも長く共に暮らす事になる人が良人なのだ。その事を思うとリズルは目眩がした。


 集会から族長達が帰還して五日目に、交易島からの迎えの船が来た。
 当座の荷物は既に、族長の館に運び込んであった。その長櫃には、父の紋章である熊が彫られていた。
 正装したリズルと両親は、同じく正式な衣に身を包んだ族長夫妻と次期族長の従兄夫妻と共に迎え船の使者と対面した。それは、北海とは似て非なる衣袴(いこ)の男女だった。共に地味な色合いの衣に身につけ、装身具もなかった。親類や友人が使者に立つ北海とは作法も異なっているようだった。
「スヴェルト殿の御息女、リズル様をお迎えに参上致しました」
 年の頃は四十半ばであろうかという口髭の男が言った。
 伯父はしかつめらしい顔をして使者を迎え、父は相変わらず憮然とした顔をしていた。この結婚の話が持ち上がってからというもの、リズルは父の機嫌の良い顔を見られず、また、明るい笑い声も聞かなかった。父の笑いの絶えた家は、寒々としたものだった。
「長の旅路を御苦労」伯父が答えた。「出立の用意は既に整っておる」
「それは重畳。この好き日に花嫁御寮をお迎え出来ます事を幸運に存じます」
「まだ花嫁ではない」
 ぼそりと父が言った、それはリズルと母にしか聞こえなかったようだった。
「そう急かれるな。船旅で疲れてはおらぬかな。蜜酒の一杯でもどうかな」
「御心遣い、痛み入ります。しかし、わが主人(あるじ)の逸る心を思いますれば、風の向きも良き事なれば、何卒、速やかに出立しとう御座います」
「北海の戦士が恐ろしいと見える」
 一々、文句を呟く父を母が小突いた。
 父には何もかもが気に入らないのだろう。分からないでもなかった。儀礼的な綺麗事はリズルも嫌いだった。仕方がないので大人しくしているに過ぎない。しかも、父はこの結婚には反対なのだ。
 中つ海という場所は、一筋縄では行かないのかもしれないとリズルは思った。仰々しい態度と物言いは、この一、二回の遣り取りを聞いただけでうんざりしてしまった。これが日常なのだとしたら、自分は息がつまってしまうだろう。
「――では、リズルの両親の許しを得て連れて行かれるが良い」
 使者の男はリズルと両親の前に歩を進めた。
 両親に挟まれて、リズルは自分が少し震えている事に気付いた。この使者達が恐ろしい訳ではなかった。
「スヴェルト殿、奥方様、どうぞ御息女の御手(みて)を我等に御預け下さいますようお願い申し上げます」
 暫し、父は沈黙した。張り詰めたような空気が流れたが、やがて咳払いを一つすると言った。
(あい)、承知した」
 これで、リズルの身は交易島へと預けられた。
 母に手を取られ、リズルは歩んだ。そして、やはり四十がらみの女がその手を取った。
「確かに、お預かりいたします。わたくしどもは、誠心誠意、お嬢さまにお仕えいたします所存でございますので、どうぞご安心くださいませ」
 硬い物言いに、リズルにはこの女性は当主の近くに仕えているのだと分った。唯のリズルの世話役ではない事は明らかだった。
 母の表情からはその思いは読み取れなかった。その点では祖父に似ており、リズルは自分もしっかりしなくてはと思った。
「さ、参りましょう」
 暗い色の髪の女性は囁いた。有無を言わせぬ強さがそこにはあった。その手に引かれて外へ出ると、トーヴァと弟達がいた。
「どこかで最後の別れを言えますか」
 リズルは女性に小声で訊ねた。家で別れは言ってきたが、まだまだ、足りなかった。言い忘れた事や言いたい事は山ほどあった。
「桟橋で、少しのお時間でしたら」
 その言葉に安心し、リズルは歩んだ。母から注意されていたように伏目がちに、物静かで慎ましやかな娘を装って。
 館の敷地から出ると、桟橋まで集落の戦士達が見習いも含めてヨルドを先頭に並んでいた。その背後には集落の人々が集まって来ていた。北海から交易島へ嫁ぐというので、物見高い人々が集まって来ているのだろう。そして、リズルが船団長の娘であるからなのか、海には他の集落から来た軍船(いくさぶね)が浮かんでいる。
 戦士達の間を進んで行くと、普段は積荷船が付けられる桟橋には見知らぬ船が繋がれていた。北海の、舳先と艫とが高くせり上がり前後のない船とは異なっていた。櫂もなく、ずんぐりとして、どうやら一方向にしか進めないようだった。喫水も積荷船よりも深いようで、船縁(ふなべり)も高かった。交易船の船らしく、大量の荷を積めるようになっているのだろうとリズルは思った。
 浜には父や伯父の竜頭船を始めとするこの集落の船が引き上げられている。この光景を見るのも、最後だ。
 桟橋で船に渡された板を見てリズルは思わず振り返った。
 伯父や家族が後ろに付いて来ていた。リズルは伯父に向かい、両手を胸で交差させて膝を沈める、女性としての最敬礼をした。伯父は一瞬、口を開いたが、すぐに閉じて黙って頷いた。
 家族に向き直ると、父の厳しい顔に変化はなかった。最後くらいはせめて、あの笑顔を見せて欲しかった。交易島で会えるのだから、その時には明るい笑顔を見せてくれるだろう。
 母がリズルに微笑んだ。
「あなたのことをいつでも思っています。海神の恩寵があなたに賜らんことを」
「お母さま…」
 それ以上の言葉は出て来なかった。そして、涙をこぼしてしまう前にと、妹を見た。
「トーヴァ、元気でね。刺繍、頑張って。お母さまのお手伝いをお願いね」
 結局、出て来た言葉は家で交わした別れと代わらぬものだった。
「お姉さまも、お元気で、お幸せに」
 ようやく、リズルの出立の意味が分ったのか、トーヴァは泣いていた。無邪気だった妹は少し大人になったのだと思った。
「リフル、ヴェルス、ヘイウィル」弟達の名を呼んだ。「お父さまとお母さまをお願いね。喧嘩して困らせないのよ。リフルとヘイウィルは勉学も忘れないで」
 弟達は神妙に頷いた。
「お父さま」
 リズルは父を見た。それまで大人しくしていた父は、急に髪を掻き回すとずかずかとリズルに近付いた。伯父が言葉を発する間もなく、父はリズルを子供のように腕に抱き上げた。そしてそのまま無言で渡し板を渡った。
「何かあれば、交易島にいる北海の者に(こと)付けると良い。俺はいつでも駆け付けるからな。お前は海狼殿の血筋だ。その誇りを忘れるな」
 そう言って父は甲板(こうはん)にリズルを降ろした。船上の者達に緊張が走ったのが分ったが、二人はそれを無視した。
「大丈夫です。私はお父さまとお母さまの娘ですから」
「俺達の娘だからこそ、心配だ」
 その言葉に、リズルは思わず破顔した。それに釣られるように父も笑った。ようやく最後に、笑顔が見られた。決して男前ではないかも知れないが、リズルはその笑顔が大好きだった。
「会いに来てくださるのでしょう、それなら、淋しくはありませんわ」
「そうだな」
 無骨で大きな手がリズルの頭を撫でた。「会いに行くまで、息災でな」
 慌てたように使者の二人が乗り込んで来た。
「ではな」
 そう言うと、父はリズルにその大きな背を向けた。そして、使者達をひと睨みすると下船した。船上の空気が明らかにほっとしたものに変わった。
 舷側からリズルは桟橋を見た。父の傍らに母がいた。二人の前には弟妹が。
 背後で帆を揚げるよう指示する声と音がした。いっそ、風など止んでしまえば良いのにと思った。そうすれば、もう少し一緒にいられるものを。
 だが、風の神は残酷だった。帆が風をはらむ音がした。
 浜にはヨルドと息子達の姿もあった。戦士達の後ろに、ヴィリアとその母親の姿も見えた。ヴィリアとは、この騒動の中でなかなか会う事が叶わなかったが、特別な計らいで一夜、リズルの家に泊まる事を許され、一晩中、語り合った。リズルとは正反対の性格だが、北海の娘らしく芯は強い。幸せになって欲しかった。
 ゆっくりと、船が桟橋を離れた。
 ヨルドが長剣を抜き、顔の前で掲げる敬礼をした。号令を発した訳でもないのに、浜の戦士達がそれに倣う。
 徐々に船脚が早くなった。
 部族の軍船の間を船は進んだ。それぞれに乗っている戦士達が、リズルに向かって敬礼をした。見慣れた者達の顔は、剣とそれに反射する陽の光で見えなかった。
 桟橋は見る見る遠くなった。その中で、父の緋色の胴着がはっきりと見えた。
 船に乗り、広い世界を見るのが夢だった。
 だが、それは決してこのような形ではなかった。
 まるで夢の中にいるような気持ちで、リズルは遠ざかってゆく島を眺めていた。
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