第12章・島の流儀

文字数 17,341文字

 オルヴが約した通り、迎え船は夏には早い時期に訪れた。リズルががっかりした事には、そこにはオルヴの姿はなく、立会人の六人の姿があっただけだった。鷲の島に着いてすぐに結婚式が行われる訳ではなかったので、出発は正装であった。それはまた、交易島への出発を思わせた。だが、あの時のように族長の館ではなく、花嫁の引き渡しは家族の揃った自宅で行われた。
 まずは乾杯からその儀式は始まった。皆が酔っ払う前に立会人の中の年長者が立ち上がり、両親とリズルの前に跪いた。
「我等代理人なれば、この素晴らしき歓待に溺れることなく、無事に花嫁御寮を我等が族長の後継者にお届けしたく存じます」
 父は無言で頷いた。
 リズルは家族と抱擁を交わした。皆とは一生の別れだ。もう、リズルは戻って来る事はないであろう。リズルが先頭に立って家を出た。強い風が吹きつけたが、リズルは顔を上げていた。この光景とも永遠にさようならを言わなくてはならない。交易島へ行った時には、正直言って考えが甘かった。父や兄弟とは再び会う事もあるだろうと思っていた。だが、今回は違う。二度とは会えぬ事を覚悟しての出立であった。
 正装の色は緋色。それはリズルの中にあり、未だにオルヴの知らぬであろう荒ぶる魂を表していた。母は青にするようにと言ったが、それは交易島の思い出と余りにも密接に繋がりすぎていた。それならば、オルヴとの思い出のある緋色の方が良かった。
 港には大勢の人が詰めかけていた。船の前には伯父である族長がいた。
 リズルは族長に最敬礼をした。伯父は頷いた。その顔には、交易島からの使者が来た時のような戸惑いも不安もなかった。今度は何も隠す事がないからであろう。それに、伯父にとっても鷲の島との縁組は、悪いものではない。
 人々の中にヴィリアがいた。リズルはヴィリアの許に行き、抱擁した。
「次はあなたの番ね」
 リズルが言うと、ヴィリアは涙の溜まった眼で、それでも頷いた。
「幸せに、リズル。あなたはわたしの一番のお友達よ」
「あなたもだわ、ヴィリア、幸せに」
 二人は再び抱擁しあった。それを邪魔する者はなかったが、引き潮に乗って出発しなくてはならないことは分かっていた。リズルは抱擁をとくと、ヴィリアを見た。
「じゃあ、行くわ」
 ヴィリアは頷いた。
 船の渡し板の前で最後の別れをした。母は無言で頷いた。父は、「お前は俺の自慢の娘だ。とやかく言う奴がいたら殴り倒してやれ」と物騒な事を言った。トーヴァはリズルにしがみつき、弟達は遠慮がちに、それでもしっかりとリズルを抱擁した。
 そして、リズルは船に乗り込んだ。
 鷲の島の男達も乗り込んで来た。浜の奴隷が船を押した。船が海に滑り出す。
 リズルはその様子を舳先に立って見ていた。
 櫂が海面を打つ音がした。
 人々が小さくなっていった。巨体の父がひと際目立った。
 交易島から帰ってから碌に話もしなかった、とリズルは父を見て思った。それまでは父にまとわりついては母に注意をされていたものであった。それが、あの一件以来、父が遠く感じられるようになってしまっていた。元より口数の多い人ではない。だが、陽気な人だった。それが、随分と変わってしまったように思われた。心配しないで、と声を掛けたかったが、もう遅かった。リズルの目に涙が湧き上がった。どうして自分はいつもこうなのだろうか。全てが遅くなるまで、事の重大さに気付かない。
 リズルは涙をこらえた。泣いてしまえば、船を戻してくれと言いたくなるだろう。父に、母にもっと別れの言葉を言いたくなるだろう。
 浜の人々が見えなくなると、船は向きを変えた。舳先が西へと向いた。
 島への別れは済ませてある。
 リズルは鷲頭船の舳先に立ったまま、自らの運命の待ち受ける方向を見やった。
 オルヴが、待っている。
 その想いは、何よりも心強いものだった。誰も知らない土地へと赴くのではないのだ。ただ一人であれ、自分の知っている者がいる。それも、運命が。
 リズルはずっと前方を見つめ続けた。


 夕刻になるまで、皆はリズルのしたいようにさせてくれた。食事の支度が出来たと一人が知らせてくれると、リズルは艫へと向かった。そこでは既にリズルの為の天幕が張られていた。その中に荷物も入っていた。幾つもの父の紋章が彫られた長櫃が置かれており、紐で縛られていた。
 初日の食事はリズルは大人しく天幕の中で摂り、食器を下げてもらうと素直にそこで眠った。
 次の日には、だが、鷲の声に目を醒まし、居ても立ってもいられなくなった。
 天幕の隙間から外を窺うと一人の男が声を掛けてきた。
「お早う御座います。食事は如何ですか」
「いただきます」
 リズルは言って、男のそばに座った。もじゃもじゃ髭の男は麺麭と乾酪をリズルの前に置いた。そして、蜜酒の入った杯を渡してくれた。
「申し遅れました。私は鷲の島に厄介になっております詩人(バルド)、ゲルティルと申します」
 なるほど、男の傍らには竪琴が置いてあった。
「この度の御婚礼に際して、詩を作る事になっております」
「それでわざわざ、いらしたのですか」
 リズルは愕いた。
「島にとっては一大行事ですから、結婚式というのは。しかも、今回はオルヴ殿の結婚」
 詩人は北海を巡りながら様々な詩を集め、作る。遠征には同行するが、まさか迎え船にいようとは思わなかった。
「それで――」リズルははにかみながら言った。「それで、オルヴさまはお元気でいらっしゃるのですか」
「唯論」
 ゲルティルは笑った。「貴女の御到着を今か今かと待っておいでです」
 リズルは顔が赤くなるのが分かった。
「初々しい花嫁でいらっしゃる。オルヴ殿が惚れこまれるのも分かりますな」
「リズル殿」立会人の一人がやって来た。「この男の口車に乗ってはいけませんぞ、何人の娘がこの冬に傷物にされた事やら」
「冗談ではない」ゲルティルは反論した。「私は無実だ。その事は貴方もよくご存じでしょうが」
 立会人は笑った。「どうだか」
 ゲルティルは憮然としてリズルに向かった。
「冗談ですよ。私がそのような男ならば、オルヴ殿が同行を許して下さるはずもなし」
 リズルは少し笑った。そして朝餉を済ませると、艫から船を見渡した。
 帆が風をはらんでいるため、鷲の島の戦士達は思い思いの格好でくつろいでいた。武器の手入れをしている者もあれば、遊戯盤を囲んでいる者もいる。毛皮にくるまれて眠っているのは、寝ずの番だった者だろうか。
 それだけを見れば、子供の頃に乗った父の船での光景と変わらない。だが、これは鷲の島の船だった。鷲の相手をしている者もいる。空には鷲が舞い、帆桁には鷲が止まっている。その総数は三十にもなるだろうか。それだけの数の海鷲を間近で見るのは初めてだった。
「海鷲をご覧になるの初めてではないでしょう」ゲルティルが言った。「しかし、この光景は私から見ても壮観だ」
 リズルは頷いた。
「ご存知でしたか、鷲の戦士は、自らの鷲が認めた女性としか結婚しないそうですよ」
 ゲルティルの言葉に、思わずリズルは詩人を見た。
「貴女もオルヴ殿の鷲は御存知でしょう。あの月乃という白子です」
「ええ、美しい鳥です」
「貴女もあの鷲に認められたのでしょう」
「認められたかどうかはわかりませんが、とても大人しい鷲でした」
「あの月乃が大人しいとは」詩人は笑った。「いや失礼。あの月乃ほど荒々しい鷲は他にはおりませんよ」
 あの白い鷲が荒々しいなど、信じられないのはリズルの方であった。海鷲とは、あのように大人しいのだと思った程なのに。
「成程、貴女は誠に鷲の選んだ花嫁という訳ですな」
 詩人はまだ笑いを止められないようであった。リズルは少し気分を害した。「鷲の選んだ花嫁」という言葉が気に入らなかった。まるで、そこにオルヴの意志ではないようではないか。オルヴが、月乃の意志の奴隷のようではないか。
 月乃はリズルの事を好きなようだとオルヴは言った。それは結構な事だった。リズルも月乃の事を美しいと思い、出来る事ならば使ってみたいと思ったからだ。だが、先に鷲ありきではどうだろう。この船の戦士達も皆、そうして妻を選んだのだろうか。
 では、オルヴはどうなのか。
 最初にすれ違った時、月乃は確かにリズルを見ていた。だが、オルヴもそうだったのではなかったか。二度目に出会った時には、月乃の姿はなかった。それでも、オルヴは自分に求婚すると言ってはくれなかったか。
 リズルは、鷲に選ばれたという言葉を振り払った。
 鷲の島までは五日の旅路だった。その間、天気にさしたる崩れはなく、航海は順調だった。雲は低かったが、海のうねりはさほどでもでもなく、リズルは快適な船旅を楽しんだ。
 ゲルティルは竪琴と詩とで、リズルや他の乗組員の無聊を慰めた。詩人の声は素晴らしく、渋い低音はさることながら、髭面からは想像できない程に高音まで出るのだった。これは確かに娘達にもてるのかもしれないとリズルは思った。
 鷲の島が近付くと、船の上は慌ただしくなった。リズルは正装に着替えて大人しく艫におり、島を眺めた。リズルの島よりは小さいという事は知ってはいたが、海の上からではその違いは分からなかった。だが、徐々に近付くにつれ、島には海鷲が多く舞っているのが見えた。
 鷲の島。
 そう思うと、リズルの身体は微かに震えた。
 オルヴが家族と共に自分を待っているであろう島だった。そこでの生活がどのようなものになるのか、リズルには想像もつかなかった。夏至祭までの期間、婚約者として、それ以降は妻として、一生をこの島で送る事になるのだ。
 交易島へ渡った時とは違う。ここは未知の場所ではあったが、北海だった。慕わしいオルヴがいる。半年以上経って、ようやく再会出来る。(はや)る心には、速いはずの軍船の足までもが遅く思えるのだった。
 浜が見えてきた。集落の様子はリズルの島と変わらないようであった。鷲達が一斉に舞い上がったのか、浜の上空が黒くなった。船の鷲達も空に飛んだ。
 浜に集まった人々の姿が見えるようになると、船長は櫂を使うように命じた。
 水しぶきが上がったが、リズルは気にしなかった。気付いたゲルティルが天幕の中に入るように言ったが、(かぶり)を振った。恐らくは、二度と見る事のないであろうこの光景を憶えておきたかった。
 ざっと砂浜に船が乗り上げた。リズルはふらついたが、何とかこらえた。
 早速、渡し板が掛けられた。リズルはそちらに向かって歩き始めた。
 一人で降りようが、気にも留めなかった。だが、リズルが板に着くよりも早く、オルヴが姿を見せた。
「ようこそ、鷲の島へ」
 オルヴは満面に笑みをたたえ、両腕を広げて言った。
「オルヴさま」
 リズルはその腕の中に駆け込みたいのをこらえて、静かに歩みを進めた。皆の見ているここで、子供っぽい行動をとる訳にはいかない。
 オルヴはリズルの両手を取った。
「お待ちしておりました」
 変わらぬ優しい笑顔と声だった。
「さあ、船を降りましょう」
 オルヴに手を引かれて、リズルは渡し板を降りた。オルヴはそのまま、族長と思しき男の許にリズルを連れて行った。
「父上、巨熊(きょゆう)スヴェルト殿の御息女リズル殿です」
 リズルは両手を胸に当てて最敬礼をした。
「お初にお目にかかります。リズルと申します。よろしくお引き立てのほどをお願い申し上げます」
「リズル殿、良く来られた」
 碧鷲(へきしゅう)ヴェリダスが言った。髪と目の色は別にして、どことはなしにオルヴに似たところのある人だった。体格も良かった。
「堅苦しい挨拶は抜きにして、まあ、よく来てくださったわ」
「母のマルディアです」そして、脇に控えている若者二人を示した。「弟のアルヴィとエルグ」と、一人の若い女に視線を向けた。「両親の養い()のエイラです」
 その美しさにリズルは息をのんだ。何という美貌であろうか。金色の髪は滝のように背に流れ、青い目は吸い込まれるようであった。赤い唇は笑んでおり、頬は紅潮していた。ヴィリアよりも母よりも美しかった。
「あなたよりも二つ年上ですので」このような美人が、未だに独り身なのが信じられなかった。「よき友となれる事と思います」
「エイラです、よろしく、リズルさま」
「よろしく」リズルは完全に気圧された。「エイラさま」
「そう構えなくてもよろしいのよ」オルヴの母が言った。オルヴと同じ色の髪のこの人も美しかったが、エイラの前ではそれも色褪せて見えた。「嬉しいこと、これで娘が二人に増えたわ」
「母上は娘を欲しがっておいでだったから」
 エルグが苦笑した。それをアルヴィが肘で突く。まるで自分の弟達のような振る舞いだった。
 ふと、オルヴが空を見上げた。
「月乃が帰って来た」
 白子の鷲は器用にオルヴの両肩に着地した。「貴女を歓迎している」
 鷲はリズルの方に首を伸ばした。印象的な赤い目がリズルを見た。自分はこの鷲に気に入られたからここにいるのだろうか、という思いが、再び湧き起こって来た。
「月乃は兄上にべったりですからね、リズル殿も苦労されるかもしれませんね」
 エルグが言った。
「お前の吹雪もそうじゃないか」アルヴィが言った。「鷲とはそういうものだろう」
 鷲の戦士と鷲との間に特別な繋がりがある事は、船旅の間にもリズルはしばしば目にしていた。その事を言っているのだろうかと思った。ならば、犬と主人の間にも似たようなものがある。それに嫉妬をする事など有り得ない。相手は人間ではないのだから。
「リズルさんもお疲れでしょう。館へ参りましょう」
 奥方が言った。一行は族長の館へと向かった。オルヴはリズルの側にぴったりとついており、それがリズルには嬉しかった。
 館では宴会の準備が整っていた。席が男と女に分かたれているのは仕方のない事であったが、リズルは少し、残念に思った。今日は男席ではオルヴが中心であり、女席ではリズルがそうなる。
 奥方はとても浮き浮きした様子で、リズルを席にまで導いた。
「エルグも言っておりましたように、わたくし、娘が増えるのは大歓迎ですわ」奥方は言った。「男三人ではつまらないことばかりで」
「それで、お養母(かあ)さまはわたしを養女にしてくださったの」エイラが言った。「七歳の時でしたわ」
「やっぱり、女の子はいいわ」
 奥方は笑った。リズルは交易島の夫人を思い出さずにはいられなかった。本来ならば、男子が多い方が喜ばれるというのに、この人達は女子が欲しいと言う。
「だってね、男の子というのは、結局は父親のものなのですもの」
 リズルの思いに気付いたのかのように奥方は言った。「女の子は母親のものよ。結婚してもね」
 そういうものなのだろうかと、リズルは不思議に思った。父は子供を分け隔てなく接していた。だが、全ての男子が戦士の館へ行ってしまった今では分らない。やはり、父親にとって男子は特別なものなのだろうか。島では女子よりも男子の方が好まれていた。
「広間に鷲がいても気になさらないわよね」奥方がぐるりと見渡して言った。「それがここの慣例なの」
 成程、戦士達の席の壁際には、止まり木がずらりと並び、鷲が止まっている。月乃もいた。最も先頭に止まっているのが族長の鷲なのだろう。だが、体格は月乃の方が良いようにリズルには思われた。月乃は雌なのだろうとリズルは思った。
 杯に蜜酒が満たされ、男達の間からは乾杯の歓声が聞えた。リズルは奥方とエイラ、そして他の出席者に対して杯を掲げた。
 その時、誰かの鋭い視線を感じたように思ったが、すぐにその感覚は消え、気のせいだと思い直した。ここには鷲もいる。その目は鋭いのだから、鷲が見知らぬ人間を見つめていたのだとしても不思議はない。
「お式まではこの館に滞在してくださいね」奥方が言った。「エイラの隣の部屋でもよろしいかしら」
「わたしは一向にかまいませんが――」
 リズルはエイラを見た。
「よろしくお願いしますわ」エイラは微笑んだ。「オルヴさまのおっしゃったように、仲良くなれると思います」
 余りに麗しい微笑みに、リズルは恥ずかしくなって自分も笑みながら俯いた。どうして、こんなに美しい人がいるのだろうかと思った。
 軽い食事だと思ったのが、宴会は夜まで続いた。リズルは疲れていたが、その事を顔に出さないようにしていた。ようやく女席がお開きになると、エイラがリズルを部屋に案内してくれた。そこは寝台を入れるとそれだけで着替えの場所しかないような小さな部屋であったが、リズルは満足だった。そして、エイラが美人でありながらも取っ付きにくい人ではない事にほっとした。
 翌日に、リズルの持参財の披露目が行われた。広間に広げられた品々は、リズルの目には結納財に劣らぬものがあった。だが、婚家の人々がどう思うかは別物だ。贈り物の品も並べられ、リズルは族長にそれらを贈った。
「こんなに用意するのは、大変だったでしょう」
 奥方は言った。「有り難く、いただきますわ」
 オルヴはリズルの側にいてくれた。それも今日だけだという事も分っている。明日からはこれまでと同じ生活が始まるのだ。戦士としての、族長の後継者としての。リズルはその間、奥方についていなくてはならないだろう。その生活は、交易島を思い出させた。女性の暮らしというのは、どこでもそう変わるものではないのではないかとリズルは思った。また苦手な手仕事の日々が待っているのかと思うと、暗澹たる思いであった。
「どうかしましたか」
 オルヴがリズルの表情が曇ったのに気付いたのか、言った。
「母と妹に手伝ってもらったのですが、よかったのでしょうか」
 にっこりとオルヴは笑み、リズルは顔が赤くなるのが分った。
「誰もそのような事、気にしないでしょう」
「でも、わたし、本当は手仕事が苦手なのです」
「私はそれでも気にしませんよ」
 リズルは俯いた。オルヴはそう言ってくれるが、リズルが気にするのだ。婚約期間中は族長の館に厄介になるのだったら、女同士で作業をする時間も多くなる。その時に奥方やエイラに知られるのは恥ずかしかった。
「母も気にしないと思いますよ」オルヴは笑った。そして、声を落とした。「何しろ、娘が出来るというだけで完全に舞い上がっておりますから」
 そう言われると、今度はオルヴの弟達に悪い気がした。
「弟達に遠慮は無用です」まるで心を読み取ったかのような言葉に、リズルはどきりとした。「二人共もう、正戦士ですし、母親が恋しい年頃でもありません」
 そうなのだろうか。リズルには分らなかった。
「でも、わたしには両親共に恋しくなることはありますが」
「女性との違いかもしれませんね。エルグも今年は遠征に出ますので、そうそう母親にばかり構ってはいられないでしょう」
 男とはそういうものなのだろうかとリズルは思った。だから、奥方は男の子はつまらないと言ったのか。確かに、リズルの集落でも、娘は結婚して家を出ても頻繁に母親の元に出入りしている。息子は殆ど帰らないというのに。
「もう、ご両親が恋しいですか」
 心配そうなオルヴの言葉に、りズルははっとした。そういう意味ではなかったのだが。
「そうではありません。ただ――そう思っただけで」
 子供っぽいと思われたのかもしれない。また、交易島での懐かしさの余り気鬱の病に罹ったのだ、という話を信じたのかもしれない。交易島での事は話したくはなかった。どれ程北海が懐かしかったか、家が恋しかったのかをこの人に話す必要はないだろう。そのような事をすれば、イースの事に触れない訳にはいかなくなる。それだけは避けたかった。祖父はイースがリズルを北海に帰すほどに愛していたのだと語った。だが、リズルはその事は考えないようにして来た。考えても仕方のない事であったし、今のリズルにはオルヴがいるからだ。
「貴女に寂しい思いはさせたくはありません」
 オルヴの声は静かであった。「この島で、幸せになって頂きたいと思っています」
 飽くまでもその口調は丁寧であった。だが、逆にそこにオルヴの本気を見る思いがした。
「でも、オルヴさまの着ていらっしゃる胴着がいつも、見事な出来なのですもの…気後れしてしまいます」
「ああ、これ」
 オルヴは自分の胴着を見て笑った。「これは母ではなくエイラが織ったものです。母の織物の腕は普通だと思いますよ」
 エイラならば良い、という訳ではなかった。あれ程の美人で織物も上手い。それなのに、まだ結婚していないのは、どういう訳なのだろう、養い子だから、というのでもあるまい。
「まあ、私の結婚も決まった事ですし、母もこれでエイラを手放すでしょう」
「お母さまが、エイラさまを手放したがらなかったのですか」
 リズルは愕いた。家に未婚の者が長く家にいるのは親の怠慢だ、と言われる島とは違うのだろうか。
「それもあるでしょうね」
 オルヴは微笑んだ。
 その夜の寝際に、エイラは興奮したようにリズルの持参財について語った。
「島の外からお嫁に来られるって、こういうことなのね。素晴らしかったわ」
「エイラさまは――」リズルは思い切って言った。「エイラさまはご結婚は」
「それよね」エイラは溜息をついた。「何度も求婚してくださる方はいるのだけど、お養母さまをお一人にはできないし、わたしの場合、両親は亡くなっているから実の兄の了承が必要なのよ」
「お兄さまがお許しにならないのですか」
「そうね、二人きりの兄妹だから、仕方がないの」
 エイラは結婚したがっている風であった。「オルヴさまの結婚で変わるかもしれないわ」
 どういう意味なのかリズルには分らなかった。
「兄は、わたしとオルヴさまを結婚させたがっていたから。でも、愕いたわ、わたしたちは本当の兄妹のように育ったから、そんなこと、思いもしなかったもの」
 族長の後継者を縁者に持つというのは、大変な事なのだとリズルは思った。エイラの兄がどのような人なのかは分らなかったが、大変な野心家のように思えた。
「兄は両親が亡くなった時、歳のいった伯父夫婦に引き取られたの。そして、わたしは族長のところへ。その事をいまだに言うのよ」
 リズルは何と言って良いのか分らなかった。それは兄がエイラに嫉妬しているのだという事を言いたいのであろうか。女の場合、養い子にも持参財は養い親が出す事になっていた。男の場合には、自分の出来る範囲で結納財をかき集めなくてはならないのは族長家であろうと何処であろうと同じであった。女子が敬遠される理由の一つかもしれない。
 実子と養い子の結婚は許されてはいるが、それ程多く行われている訳ではない。幼い頃から共に過ごす事によって、エイラの言うように実の兄妹のように育つからだ。それに、まるで近親婚のような印象を周囲に与えてしまうというのも、北海の法では禁じられてはいないのに避けられている理由の一つである。
「あまり自慢できる兄ではないから、あなたにはあまり紹介したくはないのだけど、これからこの島で暮らして行くのですものね」エイラの笑みはどこか陰りがあった。「兄の名はエイデンというの。もし、兄があなたに話しかけようとしてもなるべく避けて。こんなことは言いたくはないのだけれど、あなたに対してよからぬことを考えているかもしれないから」


 リズルの鷲の島での日々が始まった。
 奥方とエイラという二人がいるので、家政でリズルが手伝う事はなかったが、奥方に付いて学ぶ事にした。実家では奴隷と言いながらも自由人と同じ扱いをしていたが、ここでは他家と同じく奴隷は奴隷であった。だが、リズルの島よりも扱いは良かった。鞭を使われる事もなく、必要以上に厳しく叱責される事もないようであった。取り敢えずの自分の出来る事として、リズルは持参した布でオルヴの服を縫う事にした。族長との仕事の為に館を訪れていたオルヴに頼んで衣服一式を持って来てもらった。オルヴは、リズルの話を聞いて喜んだ。楽しみにしていると言った。
 弟達の服を縫った事はあっても、大人の男性の服を縫うのは初めてだった。リズルは緊張しながら布を裁った。唯一人の為に心を込めて作るのは、それなりに楽しい作業であった。族長の館は広く、裁縫室も用意されていたのだが、リズルは一人で黙々と作業するよりも広間で奥方やエイラの側にいたかった。二人の会話は交易島の娘達とは違って噂話ではなく、家政についてであったり集落の問題についてであったので、リズルには勉強になった。
 唯、リズルががっかりしたのは、広い館に今は四人が住むのみであり、新月になっても、最早正戦士となった兄弟は帰っては来ないという事であった。オルヴは父親の執務を手伝う為に足繁く帰っては来る。だが、用が済めばすぐに戦士の館に戻ってしまう。碌に話す事も出来なかった。弟達とは顔を合わす事すらなかった。
 族長も奥方も優しかった。厩舎にも行ったが、リズルは自分も馬に乗っても良いか訊ねる事が出来なかった。子供のように馬に乗りたがると笑われたり呆れられるのが恐ろしかった。大人のオルヴに相応しいと思われたかった。
 新居となる家は、館の離れのようなものだった。屋根の芝生が伸び始めたばかりであったが、夏至祭の頃には緑で覆われ、花も咲いている事だろう。いずれ、オルヴが族長になった際には館へ戻らねばならない。一家を構えるという事が現実の物として、リズルの肩にのしかかって来た。この家で、自分はオルヴと暮らし、日々を重ねて行くのだ。
 オルヴの事を思うと、いつでも心臓がときめいた。やはり、恋なのだとリズルは思った。それが愛に変わるまでにどれ程の時間が必要なのだろうか。
 一生、恋していたい。
 そう思う事もあった。だが、それでは余りにも子供じみている。いつかは家族を持つ事になるのだろうから、そういう訳にもいくまい。
 オルヴと家族を持つという考えは、かつてイースと家庭を築くという事を考えたのとは違った意味で想像出来なかった。イースとは、ただ単に想像も付かなかっただけだったが、オルヴとは気恥ずかしい思いが先に立って、何も考える事が出来なくなってしまうのだった。
「貴女は乗馬をなさいますか」
 ある時、館にやって来たオルヴが帰り際にリズルに訊ねた。
「――はい」
 その質問の意味を図りかねながらもリズルは答えた。
「では、これから少し、乗りませんか」
 オルヴの言葉に、リズルは縫い物を置いた。
「よいのですか」
「唯論」
 オルヴは笑った。
「用意してきます」
 リズルは縫い物を片付けて部屋へと向かった。そこで乗馬用の下穿き――男の()のようなもの――を身に着けると、オルヴと合流した。月乃も一緒だ。
「馬はお好きですか」
「はい」
 勢い込んで言い、リズルはしまったと思った。
「そんなお顔をなさる事はありませんよ。私は元気な貴女を見る事が出来て嬉しく思います」
 婚約者という立場からなのか、それがこの人の生来のものなのかは分らなかったが、余りにも丁寧すぎる、と思った。ここは鷲の島だ。もう少し打ち解けた言葉遣いでも良いのではないかと、リズルは思わずにはいられなかった。
 なんとはなしにつまらなかった。顔を合わせればもっと何か話す事があるのではと思ったが、結局はリズルはオルヴの後を付いて無言で歩くだけだった。話しかけたくとも、何を話題にして良いのかも分らなかった。つまらぬ事を言って子供だと思われるのも嫌だった。
 厩舎ではオルヴは自分の連銭芦毛に鞍を着けさせ、リズルの馬を選ぶように奴隷に伝えた。選ばれたのは、大人しそうな牝馬であったが、ここは文句は言えない。オルヴも、リズルの腕前がどの程度のものなのか知らないのだから。
 二人はすぐに鞍上の人となり、ゆっくりと館を出た。女も馬に跨がっても良いのが北海だ。
「少し先の森まで行きましょう。競争ですよ。駈足は大丈夫ですか」
「はい」
 集落から出ると、オルヴはいきなり馬の腹を蹴って駈足に入った。リズルも慌てて後を追った。あっと言う間に引き離されたが、風が心地よかった。
「私の勝ちだ」
 森に着くとオルヴが笑った。
「ずるいです。いきなり駆け出すなんて…」
 リズルの抗議にオルヴは高らかに笑った。初めて聞く大きな笑い声に、リズルは愕いた。
「競争だと言ったでしょう。ともかくも、勝ちは勝ちだ」オルヴは馬をリズルに寄せた。「勝者には褒美を」
 そう言うと、オルヴはリズルに軽く唇付けた。
「君と二人きりになるのが、こんなにも難しいとは思わなかった」
 オルヴの口調が変わった。交易島でリズルを商人の娘と勘違いした時のようだった。
「両親や年上の者達は、こうして二人きりでいる事を快くは思わないだろう。礼儀に反すると言うだろう。このように話す事も。だが、私は気にしない。君もそうだろう」
 リズルは何も言えなくて俯いた。
「正直になって良いんだ。人前では堅苦しい言葉遣いで申し訳ないが、二人きりの時くらいは気軽に話したいものだと思わないか」
「それはそうですが…」
「何か、不満でも」
 男女が二人きりになるというのは避けなくてはならないと、十二を迎えた冬に母から言われていた。その事をオルヴに伝えると、再びオルヴは笑った。
「婚約者とも駄目だと言われたのか、母上は」
 リズルは頭を振った。そこまで詳しい事は母も言ってはいなかった。
「大丈夫だ、私が君を傷付けるような事をするとでも」
「そんなことは思ってはいません。でも――」
「でも」
 傷付くのは身体だけとは限らない。心も傷付く。オルヴはそうでないとしても、リズルが傷付けてしまうかもしれない。
「わたしがあなたの心を傷付けたら」
「私はそれ程弱くはない」オルヴは微笑んだ。「それに、君が見せかけている程に大人しくはない事は知っている」
 そうだ、この人は夜中にこっそり北海の戦士を見に行った自分を知っているのだった。リズルの頬が熱くなった。
「私の前では正直でいて欲しい」
 オルヴは真剣な顔になった。「私は君を、そんな事くらいでは嫌いになったりはしない」
 リズルは夢を見ているような気持ちになった。オルヴはやはり、自分などよりもずっと大人だった。リズルが何を恐れているのかもお見通しだ。
「二人きりでこうしている事を、人はとやかく言うかもしれない。だが、私はそんな事はどうでも良い。君が笑っている方が大切だ」
 リズルの目からは涙がこぼれた。両親以外でそのような事を言ってくれる人は初めてだった。慣例よりも自分の事を、この人は大切にしてくれると言うのだ。
「ありがとうございます、オルヴさま」
 リズルは袖で涙を拭った。
「礼には及ばない」オルヴは言った。「眉間に皺を寄せて縫い物をしている君の姿は、見られた物ではないからな」
 むっとしてリズルはオルヴから顔を背けた。オルヴの為に苦労をしているというのに。
「その顔の方が、しかめ面よりもずっと、良い」
 オルヴは笑った。



 乗馬から帰ると、リズルは再び服の仕立てに掛かった。奥方とエイラは手分けして族長の分を仕立てていた。二人の手の速さに、リズルは愕いた。
「お館さまの分が終わったら、わたくしたちの晴れ着の刺繍が待っていますもの」奥方は笑った。「早く仕上げてしまいましょう」
 ここでは族長の事を「お館さま」と呼ぶのだとリズルは気付いた。何とも古風な呼び名であったが、その呼称がいずれはオルヴにも使われるのだと思うと、おかしな気分だった。
 リズルが用意したオルヴへの贈り物の布の内、胴着用の物は全て縞柄だった。今迄会った時には全て縞だった事もあるが、何よりも似合っていたからだ。布を裁ったり縫う時には少し工夫が必要であったので、家で弟達の服を仕立てる際に少し、練習はして来た。それでもオルヴの服は特別だった。失敗したくはなかった。故に、どうしてもゆっくりになる。
「リズルさんは丁寧ね」エイラが言った。「とても良いことですわ」
 エイラにそのように言われると照れた。今迄はこの人がオルヴの服を作ってきたのだ。
 リズルが胴着でもたもたしている間に、二人は族長の晴れ着一式を縫い上げた。そして自分達の衣装の刺繍に取り掛かった。
「そうだわ、リズルさんには革の刺繍をお教えしなくてはなりませんわね」思い出したように奥方が言った。「一式、縫い終わりましたら、革の刺繍の仕方をお教えしますわ」
 オルヴの剣帯に施されていた白い不思議な刺繍を思い出した。恐らく、それの事を言っているのであろう。
「お願い致します」
 リズルは言った。本当はもう、頭がどうにかなりそうな程であったのだが、この島独特と言っても良いようなあの革刺繍は、何としても習得せねばならないだろう。
「オルヴは子供の頃から好みがあって、未だに縞の胴着ばかりを着るのでリズルさんは大変でしょうね」奥方は溜息をついた。「でもよかったわ、あなたがオルヴの好みをわかってくださって」
 やはり、縞が好きなのだ。リズルは自分の選択が誤りではなかった事にほっとした。
「それに、なかなか結婚を決めなかったものだから、どうなるのかと心配していたのですよ。でもね」奥方が微笑んだ。「ようやく月乃が選んでくれたのがあなたでよかったわ」
 月乃が選ぶ。
 オルヴではなく――リズルの心は少しばかり傷付いた。
「月乃はあのような鷲でしょう。白子だなんて、鷲の島始まって以来のことでしたから、果たして月乃がオルヴの伴侶を選ぶことができるのか、本当に心配してましたの。それにオルヴはオルヴでのんびりとしていましたし」
「この島では鷲が戦士の伴侶を選ぶのよ」
 エイラが言った。「どれほど、相手を気に入っても、鷲が相手を気に入らないとうまくはいかないの」
「逆もあるのですか」
 思わずリズルは訊ねた。
「相手をそれほど思っていなくても、鷲の選択には間違いはないわ」奥方が答えた。「逆にいくら好き合っていても、鷲が許さなくてはうまくいきはしないわ」
 詩人のゲルティルの言っていた事は真実であったのだ。鷲が、選ぶのだ。
 では、リズルは月乃に選ばれたという事になるのだ。オルヴに、ではなく。
 鷲が認めた相手だから、家族もそれを受け入れるという事なのか。
 リズルの中で不安が広がって行った。ここの人々はリズルを見ているのではなく、月乃を見ている。もし、リズルが皆を失望させたとしても、月乃が選んだのだから仕方がないという事になるのだろうか。
「鷲の選択は絶対なのよ」
 エイラが言った。
「わたくしも、お館さまの碧王に選ばれましたもの」奥方が言った。「初めてお目にかかった時だったわ。わたくしは怖かったのですけれども、どうしても嫁に来て欲しいと先代から言われて、ここに来ましたの。最初は鷲が恐ろしかったのですが、馴れてくれれば可愛いものですわよ」
 リズルは鷲は恐ろしくはなかった。月乃の事も好きだ。だが、それよりもずっと、オルヴの事が好きだった。それをこの二人に言うのは憚られた。
「実の兄の鷲ですら、わたしを本当には受け入れてはくれないのですもの、本当に、鷲は難しいわ」
「ご兄妹間でも、そうなのですか」
「家族には、確かに馴れてはいますが、本当には心を許さないわ」奥方も言った。「主人とその伴侶にだけよ、鷲が心を開くのは。子供に対しては我慢はするのだけれど、物心つく頃までは決して近寄ろうとはしないの」
 鷲というのが、それ程厄介な生き物だとは思わなかった。いや、厄介と言うよりは神経質で繊細なのだろう。エイラやオルヴなどは、生まれた時から鷲が側にいて当たり前の生活をしている。だが、奥方やリズルは違った。鷲に見染められてこの島にやって来たのだ。自ずと感じ方は変わって来るだろう。
「でも、鷲は決して裏切らないわ」
 奥方は言った。「だから、安心して鷲の選択に任せればよいよの」
 リズルは微笑んだ。
 奥方も鷲の選択には絶対の信頼を置いている。不安であったのは過去の奥方だ。
 月乃やオルヴを疑う訳ではなかった。だが、心の中に不安が広がった。
 オルヴは月乃が選んだから、リズルに恋をしたと言ったのだろうか。それが勘違いであるにしても、鷲が選んだ以上はそのような気持ちになるものなのだろうか。
 次の日に館にやって来たオルヴは肩には月乃を据えており、堂々たる鷲の戦士の姿にリズルは見惚れた。
 自分の運命はこの人なのだから、この人の運命も自分なのだと思っていた。違う、という事は有り得るのだろうか。その事については祖父は何も言ってはいなかった。運命には様々な様相がある、とだけ語った。それは男女の恋愛関係だけではない事もリズルは知っていた。だが、片方の運命がもう片方にとっては違うという事は知らなかった。もし、そうであるならば、オルヴにとっての運命は月乃ただ一羽で、リズルではない事になる。
 では、なぜ、月乃はリズルを選んだのだろうか。
 じっと月乃の赤い目がリズルを追い掛けていた。その事に気付いたオルヴは月乃を建物の中であるにも関わらず、飛ばした。月乃はリズルのすぐ側に降り立った。羽ばたきによって起こった風で布が飛びそうになった。
 そのままオルヴは族長の元へ行き、リズルは月乃に見つめられて居心地の悪い思いをしながら縫い物を続けた。奥方もエイラも鷲がすぐ側にいる事に頓着する様子がなかった。
 ややあってオルヴが、話が終わったのか姿を見せた。
「今日は良いお天気です。どうです、少し、散歩でもしませんか」
 リズルは奥方を窺った。愕いたことに、奥方は小さく頷いた。リズルは縫い物を片付けると、肩に再び月乃を据えたオルヴと共に館を出た。
「月乃」
 オルヴがそう声を掛けると、月乃は空へと舞い上がった。
「戦士の館まで、御案内しましょう」
「よろしいのですか」
 リズルは愕いた。そこは、独身の若い娘の近寄る場所ではなかった。
「近くまでなら。帰りは見習いに送らせるので大丈夫です」
 悪戯っぽくオルヴは笑った。緑の目がきらめいた。
「月乃は邪魔にはならなかったでしょうか」
「とても大人しいものでした」
「それは良かった」
 二人はしばし沈黙して歩いた。集落の人々が好奇の目で見ている事にリズルは気付いた。
「皆が見ています」
「私は気にしませんよ」オルヴは言った。「月乃が私の鷲になった時から、皆は私を見ますから」
「どうして――」
 白子だからだ、と気付いてリズルは言葉を切った。誰に言われた訳でもなかったが、その事について触れぬ方が良い気がしたからだ。
「月乃が白子だからです」何事でもないようにオルヴは答えた。「雛の時には長生きしないだろうと言われました。それを皆、気にしているのでしょう。月乃が若死にしたのでは、私には後継者としての資格がなくなるので」
「鷲が、後継者をも決めるのですか」
 思わずリズルは足を止めた。
「この島は鷲神の島です。育てる鷲は、鷲神の采配によって決まります。鷲を失った戦士に意味はないのです」
「戦士でなくなったら、どうなるのですか」
「どうにも」オルヴは肩を竦めた。「ただ、生きているに過ぎないでしょう。だが――」とオルヴは続けた。「主人を失った鷲は生きてはいられない」
 それ程の強い絆を運命と呼ばずして、何と表現するのだろうか。リズルには分らなかった。
 オルヴは再び歩き始め、リズルは慌ててその横に並んだ。
「十二の頃から、ずっとそうです。だが、私には分ります。月乃は見かけよりもずっと強い。私と共に海を渡り、遠征でも活躍してくれます。だから、月乃については何も心配する事はありません」
 しかし、それは戦士同士でないと分らぬ事なのかもしれない、とオルヴは言った。
 あの美しい鷲の生命が儚いものかも知れないなどと、リズルは思ってもみなかった。
 それからの道程(みちのり)を二人は無言で歩いた。何か言わなくては、と思った時には戦士の館はもう、すぐそこだった。
「あの」リズルは言った。「髪を切ってしまわれたのですね」
「ああ…」オルヴは髪に手をやった。「あれは願掛けだったので、願いが叶ったので切って神に捧げました」
「お似合いでしたのに」
 よりによって言う事がそれかと、自分でも呆れた。
「本当に」
「はい」
 にっこりとオルヴが笑んだ。
「なら、もう一度、伸ばしましょうか。女のようだと評判は散々でしたが」
 髪の長いオルヴが女の格好をしている姿が、リズルの脳裏に浮かんだ。何とも面妖な姿であった。リズルは笑った。
「何を笑っているのかは聞きますまい。だが、やはり、その方が良い」
 オルヴが言った。深く優しいその声に、少しでも不安を感じた自分を恥じた。
 鷲の選択は絶対だと言っても、オルヴはこのように優しい。それで良いのではないだろうか。オルヴの恋が勘違いだとしても、自分はオルヴに恋をしている。その全ての関心を買いたいのはやまやまであったが、戦士であり族長の後継者でもある人にそれを期待するのは無理だ。
 リズルの胸は痛んだ。恋とはこんなにも苦しいものだったのか。大陸渡りの書物で読むだけでは分らなかった。恋に懊悩する人々の心が、本当には分ってはいなかった。そういうことは、自分が恋する立場にならないと理解ができないものなのだろうか。
 オルヴの願も気にはなったが、訊ねる機を逸してしまった。
 二人は戦士の館の近くで別れた。族長の館からは一直線であったが、一人歩きはまだこの集落に慣れぬリズルには相応しくないという事で、リズルは見習いの戦士が来るのを待つことになった。やって来たのは十二、三歳の少年で、リズルには末の弟を思わせた。鷲は連れてはいなかった。鷲はどうしているのかとリズルが訊ねると、アルズと名乗った少年は、今は孵化を待っているのだと答えた。この少年から、リズルは道々、鷲の事を学んだ。採卵から孵化、育雛(いくすう)や巣立ちの事まで。リズルには初めて聞く事ばかりであった。
 館に戻ると再び縫い物だった。胴着は何とか終わってその下に着る襯衣(しゃつ)に取り掛かっていた。袖がある分だけ、胴着よりもずっと厄介だった。袖と胴との縫い合わせが上手く行かないこともしばしばだった。そこで失敗すると袖下から脇へ縫う事も出来ない。リズルの場合は、まさに服との格闘だった。奥方とエイラは笑いながら刺繍を楽しんでいるというのに、自分の不器用さに呆れるのはこれが初めてではなかったが、恨めしくさえ思った。これがオルヴのものでなければ、とうに放り出していただろう。
 一家を構えるというのは、本当に大変な事なのだとリズルは改めて思った。今のように一日中、服作りにかかずらっている訳にもいかない。他の用事もこなしながら、機を織ったりしなくてはならないのだ。よく母は五人も育てながらこなしていたものだと思わずにはいられなかった。いかにイズリグのような女達がいたにしても、だ。他の女性達も同じなのだから何も偉い事はないと母は言うだろう。だが、たった一枚の袖と格闘しているリズルには信じられない事だった。
 こんな事で、本当にオルヴとやっていけるのだろうか。奴隷はいるにしても、二人きりの生活を始める事が出来るのだろうかと、溜息が出て来そうになる程であった。
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