第15章・正体

文字数 17,034文字

 リズルはもう、何を信じて良いのか分らなかった。オルヴ恋しさとその愛情を信じてこの島まで来たが、それが全て幻のように思えた。
 自分を選んだのは飽くまでも月乃であって、オルヴではないのだろう。この島の人々も、それは良く分っているようだ。陰ではオルヴに似合わないと思いながらも、月乃の選択だから受け入れてくれているのだろう。
 それが、海鷲の島では当たり前のことだから。両親の代わりに鷲が相手を決める。それだけの事なのだ。
 夏至祭の準備で忙しいのか、オルヴや他の者が夕食に参加する事はあったが、泊まって行くことはなかった。戦士の訓練が朝早くから行われる為だとエイラが言った。交易島へ行く話はそれからも散発的に繰り返されたが、オルヴは頑として承知しなかった。困った様子の他の人々に、リズルは同情した。
 アルヴィとエルグはあの一件以来、姿を見せなかった。自分に遠慮をしているのだと思うと、リズルは申し訳なかった。あのような戯れ言ごときに心を乱されて家族を遠ざけさせてしまうとは、大失態であったと思った。
「あの子たちにはいい薬だわ」
 その事を言うと、エイラは笑って答えた。「戦士の館へ行って下世話な事ばかりを憶えてくるのですもの。少しは懲りた方がいいのよ」
 その夜も、結局オルヴは交易島へ行く事を承知しなかった。余りにも頑固なその姿勢に、皆は弱り切っていた。その姿を見ていられなくなって、リズルは帰り際のオルヴの袖を引いた。二人は皆から死角になる暗がりで小声で話した。
「わたしも交易島へご一緒してはいけませんか」
 ぎょっとした顔のオルヴに、再び自分は間違った言葉を口にしたのだとリズルは悟った。
「何故、そのような事を」
「皆さま、お困りのようですし」
「困れば良いのだ。たまには」
 オルヴらしくない言葉であった。
「それとも――」オルヴの口調が硬くなった。「それとも、君は交易島へ行きたい理由でもあるのか」
「いいえ」リズルは勢い込んで言った。「いいえ、でも――」
「でも、何だ」
「皆さまがお困りなのに意地でも行かれないのは、オルヴさまらしくありません」
「私らしくない」
 吐き捨てるようにオルヴは言い、リズルはどきりとした。
「私らしいとは、一体、何だ。君は私の何を知っていると言うのだ」
 オルヴの剣幕に、リズルはおののいた。穏やかで決して言葉を荒げる事のない人、それがリズルの知るオルヴであった。今、目の前にいるオルヴはまるで別人のようだった。
「君の口出しするような話題ではない」
 それだけを言うと、オルヴは身を翻して戦士の館へと戻って行った。月乃が心なしか心配げにリズルを見ていた。
 リズルは泣きたかった。叫びたかった。だが、そのどちらも封じ込めるしかなかった。交易島だけでなく、この島でも感情を殺さなくてはならない事も哀しかった。
 ここでは、ありのままの自分でいられると思った。それを、オルヴが望み、愛していくれているのだと思っていた。
 だが、そうだ。オルヴの言ったように、リズルはオルヴの事を何も知らないままにここに来た。オルヴもまた、リズルの事を知らないままに求婚した。月乃の望むままに。
 その歪みが露わになったのだ。
 オルヴはリズルの子供っぽさに飽き飽きしているのではないだろうか。最初はそれも良かったものが、今では嫌になっているのではないだろうか。
 だが、リズルはオルヴの事を嫌いにはなれなかった。どれ程邪険に扱われようと、オルヴに対する気持ちには変わりはなかった。
 それは、運命だからだろうか。
 リズルは思った。
 運命だから、恋続けずにはいられないのだろうか、と。
 オルヴの微笑みの下の顔を見たい、と思った。それがどのような物であろうとも、自分は愛せるのだろうか。恋慕い続けられるのであろうか。一生をかけてこの島に来た以上は、オルヴと添い遂げる気でいた。例え自分の見ているオルヴが実際の姿とは如何に異なっていようとも、自分は愛し続けるだろうと思った。
 それは、非常に寂しい事であったが。
 翌日には、何事もなかったかのようにオルヴは夕餉の席でリズルの隣に座った。そしていつものように蜜酒の杯をリズルに渡し、他の男達との話に興じた。
 リズルにはもう、何がなんだか分らなかった。オルヴの態度には冷たさは微塵もなかった。常のように丁寧で微笑みも優しかった。昨夜のオルヴは一体、何だったのだろうかと思わずにはいられなかった。どちらが本当のオルヴなのだろうか。
「オルヴが交易島へ行かぬなら。エイデンを遣わしてはどうか」
 族長が遂に口を開いた。
「それはよう御座いますな」
 皆はそれに頷いた。唯一人を除いて。それはオルヴだった。
「エイデンは確かに私の右腕とも申す男。適役に御座いましょう。しかし、今回は傍に置きたいと思います」
 溜息が皆の口から漏れた。
何故(なにゆえ)にアルヴィに任せられぬのですか。経験豊富な商人を付けるのですし、気後れをするような者でも御座いません」
 オルヴは何が何でもアルヴィに任せるつもりのようだった。
「あいつはまだ、密約を知らぬ」
 族長は渋い顔をして言った。
「ならば、これを機に教えれば宜しいかと。何れは私と共に部族を背負って立つ身。早すぎるという事はないでしょう」
 族長は考えている風であった。だが、リズルは密約の事が気になった。
「密約、とは何ですの」
 リズルはそっとオルヴに訊ねた。
「貴女には関係のない話だ」
「関係あります」リズルは食い下がった。「わたしはそれに縛られていたのですから」
 オルヴの目が一瞬、見開かれた。
「帰る時に教えよう」
 それだけを言うと、再び話に加わった。
 アルヴィに密約を教えるかどうかで、意見が交わされた。
 若すぎる。軽率すぎる。いや、時期だ。自覚を持って貰う為にも教えるべきだ…。様々な意見が交わされたが、族長は黙っていた。
「大変な事になったわね」エイラが言った。「オルヴが交易島へ行かない、というだけで、これだけの騒ぎになるとは思いもしなかったわ」
「密約について、何か、ご存じですか」
 リズルの問いにエイラは頭を振った。
「男の方の領域ですもの。わたしたちは何も教えては貰ってはいないわ」
 母は知っていたようだった、とリズルは思い返した。だが、自分の育った家庭が他の家庭とは大きく異なっている事は知っていた。それは文字の読み書きだけではない。
 眠そうな月乃を肩に乗せて帰る時、オルヴはリズルに合図した。
「送ってきます」
 誰に言うともなくリズルはそう言うと、オルヴの後を追った。
「先程の話だが――」
 オルヴは言った。「部族の中でも知っているのは一部だ。その事を忘れないでくれ」
 リズルは頷いた。触れて回るほど軽率ではないにしても、うっかりと口にする事も禁じられているのだ。
「密約とは、交易島の旗を掲げる船と港には我々は攻撃を仕掛けないが、それ以外に攻撃を仕掛けるのは自由。また、そこからの上がりを掠奪品だと気付いていても交易島が買い取ってくれるというものだ。交易島はそれをまた、大陸の者に売る」
 聞いてみれば、何という事はないような内容であった。だが、交易島の信用に関わることであるのは確かであった。自分達は安全な高見にいて他の船が襲われるのは黙認するというのだから。
「それが、わたしを縛りつけていたのだわ」
 リズルは呟いた。
「君は、もうそれから自由だ」オルヴが言った。「交易島に縛られる事は何もない」
 交易島に縛られる。
 そう、あの時、祖父の船で目醒めた時から、自分と交易島との糸は切れていたのだ。いや、その前に、オルヴと出会った瞬間に、断ち切られていたのかもしれない。
 ゆっくりと、オルヴはリズルを抱き寄せ、その額に唇付けた。
「だから、もう、交易島の事は考えるのは止せ」
 交易島の事を考えているのではなかった。だが、それはどうしてもオルヴには言えなかった。ただ、その腕の中でじっとしていたかった。ここにいるオルヴは優しく、慈愛に満ちた人だった。
「リズルさん――」
 エイラの声がして、二人はぱっと離れた。
「リズルさん、オルヴは帰ったのかしら」
「まだ、います」
 オルヴが声を上げた。「何でしょう」
「お館さまがお呼びですわ」
「今、行きます」
 暗がりでオルヴは微笑んだ。「父が呼んでいる。行かねば。君は少し遅れて来ると良い」
 オルヴは去った。ゆっくりと十数えてから、リズルは広間へ戻った。
 話は付いたようで、オルヴは族長の高座から降りるところであった。
「アルヴィが交易島へ行く事になりました」
 ほっとリズルは溜息を漏らした。これでオルヴとイースが顔を合わせる事も、取り敢えず今年はなくなる。
「成長するには良い機会でしょう」オルヴは言った。「エルグも」
「無事な航海をお祈り致しますわ」
 リズルは言った。
「そこは無事な取り引きを祈って頂きたい所ですな」
 族長が笑った。「何しろ、オルヴは良く出来すぎた子だ」
 オルヴは族長に向かって会釈した。族長はオルヴに向かって杯を揚げた。その目にはこの長子に対する誇りがあるようにリズルには思えた。
 オルヴはどのような両親であっても、誇りにしたくなるような人物だった。弟達が誇れる兄だった。それは、ひいては妻にとっても良き夫であるというという事になるのではないだろうか。
 時折見せる冷たかったり秘密を有しているオルヴというのは、一体、何者なのだろうか。リズルは混乱せずにはいられなかった。ある時には大事にされていると思い、ある時には無関心にも思えるあの態度は、何処から来るのであろうか。どちらにオルヴの本心があるのだろうか。リズルの心は堂々巡りだった。
 翌日にはアルヴィとエルグが館に来た。族長と話した後の二人の顔は疲れたようになっていた。交易島への買い付けは大役である。それを受け継ぎ、しかも密約まで教わったのならば仕方あるまいとも思えた。
「リズル殿」エルグが居心地悪げにリズルに声を掛けた。「先だっては失礼な事を申し上げました。お許し下さい」
 思い出したくもなかったが、そう言われては思い出さざるを得なかった。
「大丈夫ですわ。別に、怒っている訳ではありませんので」
 剣呑な言い方にならないようにと気を付けてリズルは言った。二人の顔に明らかに安堵の色が浮かんだ所を見ると、その事も説教されて来たのだろう。だが、あの時のエルグの言葉を思うとリズルの頬は赤くなるのを止められなかった。
 二人の鷲は広間で大人しく待っていた。リズルにもようやく、それぞれの鷲の特徴が分かりかけてきた。腰と腿の白い部分の多さや羽色の微妙な差、行動の癖などが、皆、それぞれに異なっている。アルヴィの凍牙は小柄な雄で尾羽にも白が散っている。エルグの吹雪は同じく雄だが少し身体が大きめで落ち着きがない、といった感じだ。
「二羽とも大人しくしていましたわ」
 エイラが言った。
「それにしても、最近は館に普請が多いのですね」
「石段の事もありますし、一度、総点検しておこうという兄上のお言葉です。まあ、修繕の頃合いでもありましょうし」
 アルヴィの言葉に、エイラも頷いた。「その方が何かと安心ね」
「そう言えば、兄上はどちらか御存知ありませんか。夕べはお帰りだったのに、今朝は訓練にいらっしゃらなかった」
「今朝はこちらにもいらっしゃいませんでしたわ」エイラが不思議そうに言った。「商人のところにあなた方のことを告げに行ったのかしら」
 アルヴィがリズルの方を見たが、首を振る事しか出来なかった。
「エイデン殿が一緒ですから、大方そんな所でしょう」
 エルグは言った。島の後継者の行き先が分らないというのに、随分とのんびりしていると思った。リズルの島でなら、伯母が怒り心頭に発している所だ。
「心配ありませんよ、リズル殿。兄上の事ですし、大丈夫です」
 何が大丈夫なのかは分らなかったが、それ程心配そうにしていたのだろうかと恥ずかしくなった。もっと、オルヴを信じなくてはならないとは思う。だが、あの会話を聞いてしまったからには、二人――オルヴとエイデンにはリズルに秘密にしている事があるのだと思うと、信じ切れない部分もあるのも確かであった。
 二人が何を隠し通そうとしているにしろ、今日の状況と関係があるのかは不明だ。それでも、不信感は拭えなかった。一つ秘密にしていると、全てが隠されているように感じるものだという事をリズルは知った。
 結局、リズルはその日の夕餉にやって来たオルヴにも、朝は何をしていたのかを聞く事が出来なかった。アルヴィとエルグがいたせいもあるのかもしれない。
 皆の話は主に交易の事であった。奥方も楽しげに話に加わり、エイラも笑っていた。
 リズルはオルヴの傍で大人しく食事をしていたが、心の中は穏やかではなかった。オルヴの考えている事はリズルには全く見えなかった。それは、オルヴがリズルなどよりもずっと大人だから仕方のないことだろう。だが、オルヴがどういう人なのかも摑みかねていた。リズルの目には、まるで何人ものオルヴがいるように感じられたのだ。
 ――私らしいとは、何だ。
 オルヴはそう言った。
 オルヴ自身も葛藤をしているのであろうか。本当の自分と族長の後継者としての自分との間に。交易島でのリズルのように、偽りの自分で身を固めているのだろうか、長子であるが故に、
月乃と共に生きるが故に。
 そう、月乃。産まれた時には長くは生きないであろうと言われたというこの鷲は、今ではどの鷲よりも立派だ。誰もオルヴの後継者としての資質に文句を言う者はあるまい。アルヴィの年齢で交易島での交渉事を任されたというのも分る気がした。あのような人々を前に一歩も引かないのは簡単な事ではない。如何に鷲を連れていようと、暴力を禁じられている中では鷲の力も北海人の威圧も通用しまい。
「それで、交易島の後継者というのは、どういう人物なのですか」
 アルヴィの問いかけが、リズルの耳に大きく響いた。
「お前と同じような年頃だが難敵だ」オルヴが言った。「女のような顔に騙されると痛い目に合うぞ」
 相変わらずイースは髭を生やしてはいないようだとリズルは思った。十八になると待ちかねたように髭を伸ばし始める北海の者とは大違いだ。
 リズルは横目でオルヴが自分を見てる事に気付いた。あの鋭い目だ。
「交渉は父親の方がやりやすいかもしれない。何しろ領主だからな、大きく構えるのを由としていいるから、細かい事は余り気にはしないようだ。だが、息子の方はその細かいところを突っ込んでくる」
「はあ」
 アルヴィは気のない返事をした。
「しっかりと聞け。でないと、厄介事に巻き込まれるかもしれないからな」
「厄介事など、向こうも避けたいでしょう」エルグが言った。こちらも退屈しているようだった。「大丈夫ですよ、アルヴィ兄上だって、そこまで相手を侮ったりはしないでしょう」
「侮らせるようにするのが、あちらの遣り方だ」オルヴは真剣な顔で言った。「それに引っ掛かるなと言っているのだ」
 商売の遣り方としてそれが汚いのかとどうかはリズルには分らなかったが、初めて、イースの仕事の話を聞いた。
「ネルドが同行するだろうから大丈夫だろうが、くれぐれもそのような相手の手に引っ掛かるな、何事も自分一人で判断しようとするな。必ず、ネルドと協議をする事だ」
「ネルドは年寄りです」
 アルヴィは眉を寄せた。
「だが、交易島での経験は誰よりも豊富だ。敬意を払え」
 オルヴは蜜酒を一口飲み、肉を口に運んだ。リズルは麵麭をオルヴに渡した。
 探るような目付きでオルヴはリズルを見たが、黙って麵麭を受け取った。
 交易島の話題になると、オルヴはリズルの反応を伺うような目になる。それは余り居心地の良いものではなかった。自分が交易島の後継者の婚約者であったという過去を突き付けられているような気持ちになるからだった。
 交易島の話題は続いた。リズルは目を伏せてそれを聞き続ける他はなかった。まるで針の筵だった。オルヴだけではない、アルヴィやエルグも、時にはリズルに目をやるところを見ると、リズルが交易島の後継者の婚約者であった事を気にしているのであろうか。
 自分とイースの間には、結局何もなかったのだ。自分が恥じることは何もない。堂々としていれば良いのだ。
 だが、本当にそうだっただろうか。イースは自分を好きだと言いはしなかったか。唇付けはしなかったか。
 その思い出がリズルを責め(さいな)んだ。
 自分がイースを何とも思わなかったのは事実だ。だが、イースはそうではなかった。
 オルヴはイースがリズルの婚約者であった事を知っている上に、面識もある。昨年の交易や遠征の帰りには、どのような顔でオルヴはイースに会ったのだろうか。イースがオルヴとリズルの事を知らないのであれば幸いだ。
 食事が終わると早々に兄弟は戦士の館に戻って行った。後に残った戦士長と族長は今度は夏至祭の話を始めた。
「オルヴ殿は充分に役目を果たせましょうが、問題は月乃ですな」
 戦士長の言葉に族長は唸った。
「やはり、言う事をきかんか」
「常は本番では見事に決めてはくれるのですが、今回はどうでしょう…一羽だけ勝手な行動をするような事があれば、オルヴ殿の資格に関しても疑問の声が長老達から上がるかもしれません」
「月乃はそのような愚かな鷲ではないと思いますわ」
 奥方が言った。「あの子はあれでいて非常に賢い鳥ですから、本番ではきちんと決めると思いますわ」
「そうである事を願いますが」
 戦士長の顔は渋かった。
 訓練でどのような事を行っているのか、リズルには想像の埒外であったが、あの月乃ならば賢い余りに、他の鷲の行動が馬鹿のように見えるのではないかと思った。
「大丈夫よ」エイラがリズルに言った。「月乃は五年前にも経験しているのですもの。その時にはきちんとやり遂げたわ。心配することはないわ」
 その言葉は心強かった。五年に一度の大祭であるならば、ささいな失敗でも見逃されまいと思った。特にオルヴにとっては後継者として戦士達を纏める初めての機会だ。
 戦士達にオルヴがどう思われているのか、リズルは正直言って知らなかった。だが、あの落ち着きからして、信頼を得られているであろう事は想像に難くなかった。大祭は、それを部族民に知らしめる絶好の機会でもあるのだろう。
「まだ長老の中には、オルヴの後継者としての能力に疑問を持つ者がいるというのか」
 族長は溜息をついた。「確かに月乃は白子だが、十四年生きたではないか。それに、翼の強さも賢明さも証明出来たと思ったのだがな」
「白子は前例のない事(ゆえ)、長老達も迷っておるのでしょう」戦士長は首を振った。「毎日のように月乃を見ている我々には自明の事でも、長老共にはそうではないという事ですか」
 オルヴの継承についてはそれ程深く考えた事がリズルにはなかった。三兄弟の中で最も次期族長に相応しいのは、やはりオルヴだろう。アルヴィもエルグも落ち着きの点ではどうしても劣るし、弟としての甘えもある。地位が人を変えるのだとしても、二人が今のオルヴに近付くにはまだまだ年数が必要と思われた。
「心配しないで」奥方がリズルに言った。「オルヴは大丈夫よ」
 オルヴが後継者であってもなくても、リズルは恋をしたであろうし、その気持ちに変化はないだろう。ただ、後継者として認められるべく頑張ってきたであろうオルヴと月乃の努力が無駄になるのが怖かった。そうなった時、オルヴは変わってしまうのだろうか。
 オルヴが変わってしまう、という考えにリズルとどきりとした。今でも充分に何人ものオルヴが一つの身体を共有しているように見えるのに、そのような事が起これば根本的にオルヴは変わってしまうだろう。リズルの全く知らない人へと。
 一体、自分は何時まで悩み続けなくてはならないのだろうかと、リズルは思った。人の一生を左右してしまうような事を交易島ではしでかした。その償いを今、しているのだろうかと思った。
 それからは毎日のように夏至祭と交易島の話のために兄弟はやって来た。だが、決して館に泊まる事はなくなっていた。オルヴの話では、訓練の為とのことであったが、エルグは、充分に間に合うのにと反論した。
「二日酔いで訓練はさせられない」
 オルヴは渋い顔で言った。「お前達だけではなく、戦士の館の引き締めも必要だ」
「エイデンがいるでしょう」
 エルグは肩を竦めた。「兄上でなければ、エイデンの言う事なら皆、聞くでしょうに」
性質(たち)の悪い酔っ払いもいるから」アルヴィがつまらなそうに言った。「そこは兄上でないと駄目でしょう」
 エルグは溜息をついた。
「ここの朝粥は蜂蜜がたっぷりなのに、戦士の館では殆ど味がないからなあ」
「結局は朝餉目当てか」オルヴは苦笑した。「遠征ではそんな贅沢は言っていられないぞ」
「海水で炊くから塩味なんですってね、アルヴィ兄上に聞きました」
 エルグはまるで子供のようだとリズルは思った。髭もまだそれ程濃くはない。それでも、今年の遠征には正戦士として参加するのだ。リズルのすぐ下の弟も、来年には正戦士だった。
「唯の粥ではないぞ、堅焼き麵麭を崩して使うのだからな」
 アルヴィの言葉にエルグは嫌な顔をした。
 リズルは思わず、微笑んだ。苦手な香草を効かせた薬湯を飲まさせる弟の顔に良く似ていた。
 島が懐かしいとは思ったが、帰りたいとまではいかなかった。ここは交易島とは異なり、馴染みのある北海であった。鷲が共に生きる事を除けば、それほど大きく異なることもなかった。だからこそ余計に、という人もいるかもしれなかったが、リズルはそうではなかった。自己を全て抑えなくてはならなかった交易島に較べれば、ここは北海というだけで充分に故郷であった。
 だが、オルヴは鋭い目でリズルを見ていた。
 何故、とリズルは思った。交易島の話をしているのでもないのに、何故、オルヴは自分をそのような厳しい目で見るのだろうか。笑っている方が良い、とかつてオルヴは言ったではないか。それなのに、微笑んだだけで何故、睨むような目で見るのだろうか。
 オルヴの思いが分からなかった。


 館に大工が入った事によって、生活はどことはなしに落ち着かないものになったが、「身辺に気を付ける」事に関してはリズルには憂いはなくなった。
 あの言葉が何を意味しているにしても、取り敢えず、裏の石段のような危険はなくなったという事になるのだ。
「あちらこちら、知らない間にがたがきていたのね」
 奥方は心配そうに言った。「わたしとお館さまがここに移って以来のことですものね、仕方ないと言えば、そうなのだけど。オルヴには感謝をしなくては」
 何もする事がなくなったリズルは、二人の傍でオルヴから借りた書を紐解いていた。時には外へ出る事もあったが、夏至の近付いた日々は良く晴れて気持ちの良いものだった――オルヴの事さえなければ。
 最近はどうも、オルヴから監視されているように思えてならなかった。館にその姿のある時には、オルヴの鋭い視線を感じずにはいられなかった。エイデンが共にいる時にはそれが倍になる。余り心地の良いものではなかったし、それから逃げる為にもリズルはしばしば外に出た。あの岩場に近付く事はなかったが、広い族長の館の敷地の中では、様々な隠れ場所があった。そういった所を転々としていると、昼の間はオルヴに会う事もなかった。それを寂しいとは思いながらも、あの鋭い視線に晒されるよりは良いと思う自分がいた。
 それが子供っぽい逃げだという事も分っていた。どうせ、夕餉の時間には顔を合わせねばならないのだ。その時には嫌でも現実を見ねばならなくなる。そして、それが気まずいものである事も分っていた。
 オルヴは表面上は気にしないかのように振る舞っている。だが、それが仮面なのかどうかはリズルには判断がつかなかった。顔を合わせない昼の間、どこで何をしているのかもリズルに訊ねる事はなかった。むしろ、エイラの方が気にしていると言って良かったであろう。
 館で月乃を見掛けると、リズルの心は少し、痛んだ。月乃が悪い訳ではないのだ。それなのに、月乃まで避ける結果になってしまった。真っ直ぐな目で慕ってくれる月乃を、リズルは嫌いではなかった。どうして、と言いたげな目で見つめる月乃に、リズルは心の中で謝るしかなかった。
 鷲達はリズルの気を引こうとするかのように、止まり木の傍を通る時にはそれぞれの動きをしてくれる。それを人は物珍しそうに見るのだった。
「リズル殿は鷲に好かれておりますな」
 族長がある時、言った。「鷲神の巫女でもそうはいきますまい」
「なぜ、この島にお生まれでなかったのかと思いますね」
 アルヴィが言った。「鷲達は皆、貴女の虜のようです」
 そのように感じた事はなかった。確かに、凍牙や吹雪がリズルの念じたように動かなかった事はある。だが、その一度きりで、後は試してみる気にもならなかった。ある意味、それは恐ろしかったからだ。主人の命令よりも、自分の思いを優先してくれる鷲が少し怖かった。鷲とその主人とは固い絆で結ばれている。自分がその間に入る事で、何が起こるのか想像もつかなかったからだ。
 鷲は主人の感情にも反応すると聞いたが、月乃に関してはその傾向はないように思われた。オルヴがどのように鋭い目をリズルに向けようと、欠伸をしたりうとうととしかけてけていることが多かった。
「全く、この島に相応しい嫁御よ」
 族長はそう言ったが、リズルは嬉しいと思う反面、不安もあった。それだけの理由で、そして月乃が選んだという理由でオルヴが自分と結婚しようとしているのだとしたら、どうすれば良いのかという事であった。
「リズル殿、遊戯盤のお相手を」
 ある夕べ、オルヴが言った。皆はまだ食事をし、蜜酒を飲み交わしていた。
「よろしいのですか」
 リズルは皆の方を見やって言った。「皆さまとまだ、お話しがあるのではないのでしょうか」
 オルヴは肩を竦めた。
「私がいなくても、話くらいは出来ましょう」
 そう言うと、オルヴは皆とは反対側の片隅にリズルを誘い、奴隷に遊戯盤と二人分の蜜酒の杯を持って来させた。
 遊戯盤に駒を並べ、勝負が始まった。
 暫くは駒を盤に置く音だけがしていた。そしてリズルは、駒を動かすオルヴの長い指を見ていた。
 序盤はリズルが優勢だった。それが徐々に崩されて行く。ちらりとオルヴの顔を見ると楽しそうであった。視線も和らいでいた。リズルの将は追い詰められて行った。
「私の勝ちだな」
 オルヴが言った。
「まだ勝負は終わっていないわ」
 負けは見えていたが、リズルは言った。
「意地を張るな」
 オルヴがにっと笑った。「この勝負は貰った」
 果たしてその通りになったのだが、リズルは楽しかった。再び駒を並べる時に、オルヴは小声で言った。
「アルヴィやエルグとは仲良くなれそうか」
「はい」
「年上の義弟というのはやりにくいとは思うが、大丈夫か」
「アルヴィどのもエルグどのも、わたしの弟を思い出させます」
「成程」オルヴは微笑んだ。「弟は弟という訳か」
「わたしのような者を義姉(あね)と呼ばなくてはならないのに対して、どう思われているかの方が気になります」
「それは心配する必要はないだろう」オルヴは言った。「二人は私の妻として君を歓迎している」
 リズルはほっとした。年下の義姉をどう扱って良いのか、アルヴィは困っているのではないかと思っていたからだ。今はまだ、リズルは客分だ。だが、夏至祭からは家族の一員となる。
 二度目の勝負も良い所まで行ったのだが、リズルの負けだった。三度目を始めようかという時にエイラが声を掛けてきた。
「皆さま、お帰りのようですが、オルヴはどうされますか」
「私は――」オルヴはちらりとリズルを見た。「私も、帰ろう」
 駒を元の場所に片付けながら、がっかりしている自分にリズルは気付いた。オルヴを恐れながらも、どこかで求めていた。もっと傍にいて欲しいと思った。
「もう、長く泊まっていないではないですか、お養母さまも、寂しがっていらっしゃいますわ」
「結婚すれば別所帯なのだから、寂しいも何もないでしょう」オルヴは何でもない事のように言った。「今から慣れて頂かないと」
「リズルさんも、なんとかおっしゃって」
 エイラの言葉に、リズルはすぐに答える事が出来なかった。朝にオルヴに会えるのは嬉しい事であったが、同時に怖くもあったからだ。
 言い淀むリズルに一瞥をくれると、オルヴは遊戯盤を片付け、立ち上がった。
「明日も早いですから」
 それだけを言うと、二人の弟を促した。エルグは酔っているのか、リズルとエイラに向かっておどけた礼をした。
「まったく、オルヴは真面目ね。最近は全く泊ってはいかなくなったわ」
「お忙しいのでしょう」
「こう、と決めたらよほどのことがないと曲げないのだから」
 まあ、そこが良い所でもあるのだけれど、とエイラは付け加えた。
 リズルは自分がまた、オルヴの機嫌を損じてしまった事に気付いた。
 それから二日は何事もなく過ぎた。族長の館の普請も一段落した。
「もう、リズルさんも外で書を読まれなくても大丈夫ですわ」奥方は言った。「どうぞ、中にいらして」
 それには従うしかなかった。奥方はリズルが書を紐解く事に関しては無関心な様子であったが、暇を潰すならば刺繍の一つでも、という人ではない事を神々に感謝した。
 翌日にはオルヴの機嫌は直っているのだが、リズルは、自分の何がそのようにオルヴの機嫌を損じてしまうのか量りかねていた。
 オルヴにとって自分はどのような存在なのだろうかと、思わずにはいられなかった。
 まだ荒れる事の多い北海を渡ってまで求婚に来てくれたはずなのに、いざ、このようになってみると機嫌を損じてばかりいる。終いにはオルヴは自分の事を嫌いになってしまうのではないのだろうかという恐怖までが生まれてきていた。
 オルヴに嫌われては生きてはいけない。
 リズルは思った。全てをな投げうってでも共にいたいと思った人だった。交易島で別れねばならなかった時には、死んでしまいたいとさえ思った人だった。
 その人と共にいる事が出来るのだから幸せであるべきなのだろうが、リズルは幸せではなかった。オルヴの笑顔の下に隠された別の顔を見るのが恐ろしかった。オルヴは戦士なのだから、優しい顔ばかりではない事は承知していたが、それが自分に向けられるとは思ってもみなかった。冷たい横顔を脅えながら見るはめになるとは、思わなかった。
 誰もがオルヴは優しいと言う。だが、時折目に宿る鋭く冷たい光は紛うことなき戦士のものだった。
 その日、リズルは止まり木に止まっていた月乃に肉を持って行った。
「今日は一日、オルヴはいらしたでしょう」エイラが言った。「わたしが餌を準備しますから、あなたが持って行って下さいな」
 エイラから渡されたのは、鶏肉のぶつ切りであった。内蔵も含まれている。
「量の多い方が月乃ですから、間違えないようにしてくださいね」
 月乃は碧王よりも身体が大きい雌だ。その分、餌の量も必要になるのであろうとリズルは思った。結婚すれば、この餌を作るのも自分の仕事になるのだ。
 だが、月乃は餌を一瞥しただけで口を付けようとはしなかった、碧王はゆっくりとではあったが、食べている。
「お腹が空いていないのではないでしょう」
 不思議に思ってリズルはつい、月乃に言った。
「気紛れな所もありますから、そのまま放っておいても大丈夫ですよ」オルヴが言った。「腹が空けば喰うでしょう」
 リズルは餌台に肉を置いた。
 オルヴはそれを見届けると族長との話に戻った。
 夏至祭は、もうすぐそこまで近付いて来ていた。リズルは昨日、持参した結婚式用の衣装を取り出して見た事を思い出した。緋色の糸で、自分で織った物なので自慢出来る物ではないのかもしれない。だが、仕立ては母やトーヴァにも手伝って貰った特別な一着だ。ヴィリアに見せたところ、とても羨ましがられた。
 そのヴィリアも、同じ夏至祭に結婚して別の集落へ行く。
 自分の身辺がこんなに変わるとは思わなかった。
 最初は交易島へ行き、そして鷲の島へ。一生の間にこれ程の変化を経験する事はもうないだろうと思われた。夏至祭にオルヴと結ばれたら、後は静かな生活が待っているだろう。それは、オルヴが族長を継いでも変わるまい。
 オルヴは結婚しても、このように族長家で食事をするのだろうか。
 そう思うとちくりと胸を刺すものがあった。二人で暮らすと言っても、それならば殆どを一人でいるのと変わらないではないか。
 リズルは、族長との話に夢中になっているオルヴから月乃に目をやった。
 月乃は相変わらず、餌を無視している。
 リズルはそっと溜息をつくと席に着いた。今日は小さいながらも宴席なので、リズルは女席だ。
「月乃は食べようとはしないのですが」
 エイラにそう言ったが、肩を竦めただけだった。
「大丈夫よ、そのうち、お腹が空けば食べるわ」
 月乃は餌の方をちらりとも見ようとはしない。いつもならば、奥方が用意した餌をがっつくように食べるというのに。月乃にまで愛想を尽かされたような気分だった。
 この日はエイデンも他の戦士達と共にやって来ていた。時折向けられるその鋭い視線に、リズルは居心地の悪さを感じるのだった。
 宴が進んだが、月乃は一向に餌に興味を示そうとはしなかった。常にない行動に、リズルは不思議に思った。さすがに、エイラも不審に思ったのか、立ったついでにオルヴに何事かを訊ねていた。
「魚を、貰って食べたらしいわ」エイラは戻って来ると言った。「だから、あまり食べたくないのかもということだったわ」
 それよりも――とエイラは声を落とした。
「それよりも、あなたにオルヴから伝言よ」
 えっとリズルは思った。オルヴを見たが、蜜酒の杯を手にして他の者に笑っているばかりであった。
「話したい事があるから、館の裏で待っていて欲しいのですって。あの、石段の前で」
 リズルがどれ程あの石段を今では恐れているのか、オルヴは知らないのだ。
「行ってらっしゃいな、大丈夫よ、皆に気付かれる心配はないわ」
 リズルはエイラに礼を言った。
 館の裏は暗く、静かだった。月明かりを頼りにリズルは石段の前へ行った。
 波音が近かった。
 あのような事がなければ、今でも岩場はリズルのお気に入りの場所であっただろう。白い波頭が砕ける岩場は黒く光って見えた。
 待っても待っても、オルヴは来なかった。だが、館からはまだ、男達の笑い声が聞えて来ていた。座を離れる機会がなかなかないのであろうとリズルは思った、その時だった。
 どん、と背中に当たるものがあり、リズルは何とか足を踏み締めた。危うく石段から転げ落ちる所であった。
「オルヴは来ない」
 低く抑えた冷たいその声に、リズルはぞっとした。身体が震えた。
「どうして――」
「オルヴは来ない、と言ったの」エイラが言った。「あなたはここで死ぬの」
 身体が動かなかった。あの優しいエイラの面影はそこにはなかった。
 「どうして、エイラさま」
 声が震えた。
「わたしはオルヴと結婚するために、ここに引き取られたの。それを、月乃が懐いたという理由だけであなたに取られる訳にはいかないわ」
「鷲が相手を選ぶと言ったのは、あなただわ」
「そうよ、だから、月乃にも死んでもらうの。あなたが持って行った餌でね」
 それで月乃は食べようとはしなかったのだ。あの白子は、どの鷲よりも賢い。
「月乃をなくしたら、オルヴは――」
 鷲を亡くした戦士は、何者でもなくなってしまうとオルヴが言っていた事を思い出した。長く生きていられない、そうエイラも言わなかっただろうか。
「大丈夫よ、例え廃人になったとしても、わたしがちゃんとお世話しますもの」
 冷たい笑みがその顔に浮かんだ。
「だから、あなたは必要ないの。ここで死んでもらうはずだったのが、少し遅くなっただけよ。あの岩場はあなたのお気に入りでしょう」
 あの事故は仕組まれたものだったのだ。
 ――身辺にお気をつけを。
 エイデンの言葉は、まさにあの事を示していたのか。あれ程、エイラは兄を貶めるような事を言っていたが、本当は二人は共謀していたのだろうか。
「エイラ、やめろっ」
 エイデンの声がした。
「来ないで」
 エイラは兄の方を見ずに言った。「お兄さまにはがっかりだわ。なぜ、手伝ってはくださらないの」
 エイラの手がリズルの腕を摑んだ。その力に、リズルは小さく声を上げた。
「そんな事をしても、オルヴ殿はお前のものにはならない」
「月乃もいなくなれば、わたしのものだわ」
 ぎらぎらとした目でエイラはリズルを睨み付けていた。正気とは思えなかった。
「月乃は餌を食わない」
「この娘が運んだ物なら食べるはずだわ」
「それでも、だ」
「なら、早く片をつけるわ」
 エイラはぐいとリズルを石段の方へ押しやった。突き落とされないようにと、リズルは目を閉じ足を踏ん張った。食いしばった歯がぎりぎりと音を立てた。心の中でオルヴに助けを求めた。
 鷲の羽音が近付いて来た。鋭い悲鳴をエイラが上げ、リズルを放した。
 危うく平衡を崩しそうになるのをこらえた。
 恐る恐る目を開けると、月乃がエイラに襲いかかっていた。鉤爪がエイラの服の袖を切り裂き、血飛沫が上がった。
「月乃、エイラ」
 リズルはその場に、崩れるように座り込んでしまった。
 他にも鷲が飛んで来た。そして、エイラを襲い始めた。
 途切れることのない悲鳴に、館から人々が飛び出して来た。
 オルヴを始めとする戦士達が両腕を振り回して、エイラから鷲を引き離そうとしていた。
 やがて、恐慌の時間は終わった。
 鷲たちは大人しく主人の肩や屋根に止まった。
「大丈夫か」
 オルヴの両腕がリズルを支えた。
「一体、何があった」
「それは、私から説明を致します」
 エイデンが言った。地面に横たわるエイラの傍に座り込んでいた。エイラの姿は見るも無惨なものであった。血の塊にしか見えなかった。月乃の白い羽にも血が散っていた。鷲はそれが気持ち悪いのか、しきりに羽繕いしている。
「エイラは――」
 リズルは震え、掠れた声でエイデンに訊ねた。
「死にました」平坦な声でエイデンは言った。「報いです」
「とにかく中へ――」
 だが、リズルの身体は動かなかった。まるで足を地面に釘付けされたようであった。
 オルヴはリズルの身体を抱き上げると、館に戻った。
「リズルさん、血が」
 奥方が悲鳴を上げた。
「大丈夫、怪我はないようです」オルヴは言った。「洗い流して、服を着替えさせてあげて下さい」
 そのまま部屋に連れて行かれ、オルヴはリズルを寝台に横たえると出て行った。奥方が奴隷に指示して水盤を持って来させた。
 オルヴが蜜酒の杯を手に戻って来た時には、リズルは顔や手の血を拭き取られて夜着に着替えさせられていた。
 寝台に腰掛けると、オルヴは杯をリズルに渡した。
「飲んでから、話そう」
 リズルは大人しく従った。
「エイデンが、全てを話してくれた。エイラが君を殺そうとしたらしいな」
 リズルは頷き、オルヴは溜息をついて頭を抱えた。
「エイラがそのような事を考えていたとは、思わなかった。私の不明だ」
 オルヴのせいではなかった。それ程、エイラは巧みに自分の正体を隠していた。毎日共にいて、リズルも気付かなかったのだ。
「月乃の餌を犬にやったら、死んだ。エイラは月乃の餌に毒を仕込んでいたのだ――あれが(さか)しい鳥で良かった。君の危機に間に合って、良かった」
 だが、自分はあの時、月乃を呼ばなかった。心の中でオルヴを呼んだ。それを月乃は聞き取り、助けに来てくれたのか。
「リズル、君には色々と話さなければならない事がある」オルヴの言葉に、リズルはどきりとした。「エイラと私は、本当に何でもなかった。エイラが養女になったのは私が十二の時であったし、両親にもエイラを私の妻にと言う考えはなかった。確かに、子供の頃から美しくはあったが、私には妹でしかなかった。誓って、勘違いさせるような事を言いもしたりもしなかった。だが、エイラが私を慕っていた事は知っていた。それを放置していたのは私の責任だ」
 どのようにしてエイラがあのような考えに到ることになったのか分らない、とオルヴは言った。だが、リズルには分るような気もした。七歳で両親を失って兄とも引き離された少女がオルヴのような少年に出会ったとしたら、恋に落ちずにいられるだろうか。勘違いせずにいられるだろうか。
 オルヴは自分の魅力と残酷なまでの優しさを知らないのだ、とリズルは思った。
「私は君だけを愛している」
 オルヴは言った。「君の元婚約者に嫉妬するくらいに、君を愛している」
 その頬は僅かに紅潮していた。「私は自分がもっと抑制のきいた人間だと思っていた。だが、君の事となると別のようだ。わざと交易島の話を持ち出して君の反応を見ては嫉妬したりして、馬鹿みたいな事ばかりをしている。弟達にまで、嫉妬する程に」
「あなたを一目見た時から、わたしの心はあなたのものでしたのに」
 リズルは唇を噛んだ。
「私の心もだ」
 短く、オルヴは言った。
「でも、他の人々はわたしはあなたには幼すぎると思っていらっしゃるのではないのですか」
 オルヴは顔を上げてリズルを見た。緑の目が困惑したように瞬いた。
「他の者がどう言っているのかは私の埒外だ。私はありのままの君で良いと思っている。無理をする事はない。そのままの君を、私は愛しているのだから」
 リズルは思わずオルヴに抱きついた。
「オルヴさま、馬鹿なのはわたしも同じです。あなたを疑いました。あなたが、わたしに求婚して後悔なさっているのだと思っていました」
「そのような事がある訳がないだろう」
「でも、鷲が人を選ぶのだと聞きました。人ではなく鷲が」
「鷲の戦士は晩熟(おくて)だからな」オルヴはリズルの背を撫でて言った。「鷲の一押しがないとどうしても踏み切れぬのだよ」
 リズルはオルヴの匂いを思い切り吸い込んだ。香油の、鷲の、蜜酒の匂いが入り交じっていた。見上げると、優しい緑の目があった。砂色の髪と髭に囲まれた端正な顔があった。
 ゆっくりと、その顔が近付いて来た。
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