第13章・疑念

文字数 17,946文字

 鷲の島での日々は退屈とは程遠かった。奥方はリズルを片時も離したがらなかったが、その生活から学ぶ事も多かった。人の使い方や家政の管理など、母が行っているのを見てはいたが、学ばなかった事も多かった。本来ならば学んでいなければならない事だったのかもしれないが、その間、リズルは狩りなどをして敬遠していた。そのつけを支払う時だった。
 奥方とエイラは晴れ着に刺繍をしながら、リズルに様々な事を語った。大抵は家族の話であったが、その中から、アルヴィとエイラが、エルグとリズルが同じ年齢である事が分った。正戦士なのだから十八にはなっているのは当然だが、エルグの子供っぽい仕種からは、リズルは弟達の事しか思い浮かべなかった。末っ子故に、なのだろうかと思わずにはいられなかった。
 オルヴは忙しいらしく、乗馬に誘ってくれたのはあの一度きりであった。族長集会が近付いているというのもあるだろう、長い時間族長や部族の重鎮と思しき人々と部屋にこもる日々が続いていた。リズルにとっては面白くはなかったが、仕事なのだから我慢するしかなかった。その代わり、と言ってはおかしいかもしれないが、月乃が側にいた。
 月乃は非常に大人しく静かに、何時までもリズルの側でオルヴの帰りを待っていた。鋭い眼光と巨大で印象的な色にも拘わらず、リズルはつい、その存在を忘れそうになった。それ程に、リズルといる時の月乃は大人しかった。だが、奥方もエイラもそれを見て、こんなに大人しい月乃は見た事がない、と言うのだった。リズルの知る月乃は穏やかな性格であったが、ここの人々の印象は異なっている用だった。
「やはり、月乃に選ばれたのね」
 エイラはそう言ったが、リズルは複雑な気分だった。自分はオルヴに選ばれたと今でも思っていた。それが、月乃に選ばれた事で皆が納得している。
「可愛らしい人ですもの、オルヴだって気に入らないはずがないわ」
 奥方も言った。全ては海鷲の選択によって決められるのか。では、この島では戦士の結婚を親同士が決めるという事は有り得ないのか。その事を問うと、奥方は笑った。
「鷲が決めるまで放って置くのが普通だわ。無理に決めても、鷲がお相手に懐かなくては仕方のない事ですもの。その代わり、鷲が選べば奴隷でも戦士の奥方になれるのよ」
 やはり、全て鷲が中心なのだ。周りが気に入ろうが気に入るまいが、鷲が決めた事ならば仕方がないという訳なのだろう。
 リズルは納得出来なかった。だが、その事を誰にも――オルヴにも言う事が出来なかった。オルヴは人前では、常に丁寧で穏やかな口調を崩さない。高笑いを聞いたのも、交易島と乗馬の時だけだった。もっと聞いていたと思ったが、リズルに対する態度はまるで、鷲が決めたので仕方なく婚約者にしたという感じがして仕方がなかった。森でのオルヴにはそのような事は感じなかっただけに、リズルは混乱した。どちらが本当のオルヴなのかと問われれば、交易島で仲間と酒を酌み交わしていた時の姿だと答えるだろう。だから、森でのオルヴが本当なのだと。しかし、毎日の中で顔を合わせるオルヴと接していると、つい、あれは夢であったのかと思われた。
 リズルは身分としては客人であったが、手伝える事は全て手伝った。婚約者であるからには、一家の女主人のやり方を何とかして習得せねばならなかったし、またそうする事で苦手な裁縫からも解放された。
 ようやく襯衣(しゃつ)が終わり、()に掛かった。こちらは自分の乗馬用に縫った事があったのでまだ楽だった。だが、オルヴの長い脚に、縫う距離は自分の倍に感じられる程であった。また、その結び紐を作るのも細かくて大変だった。
 一式出来あがると、オルヴは大層、喜んだ。それを偽りだと言える者はいないだろう。それらは新生活の為に取っておく事になった。
 それから間もなく、族長集会への船が出る日が来た。
「オルヴは後継者だから、族長と共にでかけられるのよ」
 エイラが言った。「アルヴィとエルグも、後学のために今回は行くらしいわ」
 族長の息子達が集会に参加するのは珍しい事ではない。リズルの島で集会が行われた際にも、何人もの他島の族長の息子達がいたと言う。どういった人々なのかは、十三歳と子供であったリズルは集会に近付く事を禁じられていたので知らなかったが、もう、オルヴは正戦士として参加をしていたはずである。母の厳しい監視の目がなければ、弟達に手が掛からなければ、こっそりと見に行って出会えていたのかもしれない。だが、そうはならなかった。それも運命の女神の采配なのか。
「島へ来て間もないというのにもう集会だなんて、リズルさんはがっかりでしょう」エイラは言った。「占い師が、あなたが長くここにいた方が良い結果になると言ったと聞いたわ」
「ええ」
 リズルは答えた。「集会の後でも時間はあると思いますのに」
「でも、わたくしは大歓迎よ」奥方が言った。「待ちに待ったお嫁さんなんですもの」
 エイラは笑った。「お養母(かあ)さまったら、本当にやきもきしていらしたから」
「月乃のことを考えるとね…あれは本当に、オルヴにべったりで、他の人を寄せつけなかったから」
「あなたの前だけよ、リズルさん、月乃が大人しいのは」
 エイラが揶揄うように言った。
「でも、よかったわ。こんなに可愛らしい人で。月乃のような人だったらどうしようかと思っていたのよ」
 見かけはリズルは大人しく見えるようだった。交易島の領主夫妻や娘達も、そう思って疑わなかった。それはある意味、大いなる利点かもしれなかったが、この島で自分を偽って生きて行くのは嫌だった。ここは北海だ、中つ海ではない。もっと自由に生きられる筈だった。
「わたしは大人しくはありません」
 リズルは小さな声で言った。
「大人しい必要なんて、ないのよ」奥方がリズルの手を取った。「そういう意味ではないのよ、ごめんなさいね、誤解させてしまって」
「そうよ、月乃はとにかく、自分に近付こうとする鷲には容赦しないし、人間に対してもそうなのよ。少し、凶暴なの。オルヴはあんなに穏やかな人なのに」
「鷲の悪口とは聞き捨てなりませんな」
 苦笑しながらオルヴが近付いて来た。他の者も一緒であった。
「あら、でも、月乃に関してはどなたか、反論できまして」
 エイラの言葉に、皆は笑った。
「ほら、ご覧なさい」
 オルヴは困ったような笑みを浮かべた。
「凶暴だなんて、思った事もないのだが」
「それはあなただからですよ」奥方も言った。「わたくし、今でも月乃が側にいると緊張してしまうのですもの」
 奥方の言葉にリズルは不思議に思った。鷲は家族には我慢をすると言ったのではなかっただろうか。月乃はその我慢をしないのであろうか。
「リズル殿、月乃を撫でてやっては頂けませんか」オルヴが言った。「そうしたら皆も、月乃が凶暴ではない事を納得するでしょう」
「いやいや、それは危険というもの」一人が言った。「あなたの婚約者殿には心許しても、我々にはどうだか」
 何がおかしいのか、皆がまた笑った。
「えらい言われ様だな」オルヴが、肩から首を伸ばした月乃の顔を撫でた。「行って来い」
 月乃はいつものようにリズルの側に飛んで来た。美しい白い姿と赤い目に、リズルは思わず手を延べてその首筋を撫でた。皆が一瞬、息を詰め、そしてほっと吐き出すのが分った。
「何も恐ろしくはありませんわ」
 リズルはオルヴを見て微笑んだ。
「それはそうでしょう」先程の男が言った。「リズル殿を選んだのは月乃なのですから」
 その言い方にリズルは傷付いた。鷲の戦士も同じような考えなのだ。
「失敬な、私の婚約者だ。月乃のではない」
 オルヴの茶化したような言い方にも、リズルの心は晴れなかった。
 あの時、月乃が自分を見ていなければ、オルヴは自分に気付かずに通り過ぎたのだろうか。
 自分が恋しているのはオルヴだ。確かに美しいが、月乃ではない。そして、オルヴにも月乃を通してではない、リズル本人を見て欲しかった。今迄は、そうだと疑いもしなかった。だが、海鷲の戦士が鷲の選択を第一に考えているのならば、オルヴとてそうでないと誰が言い切る事が出来るだろうか。リズルには出来なかった。
 我知らず、リズルは胸の前で拳を握り締めていた。
「さ、我が婚約者殿をいじめるのはその位にしてもらおうか」
 オルヴの言葉に、皆は族長の許に向かった。後に残ったオルヴはリズルの側に近寄り、そっと腕に触れて囁いた。
「気にしては、いけませんよ」
 何を気にすると言うのだろうか。ここで抱き締めて言ってくれるのならばまだしも、飽くまでも礼儀正しい婚約者の態度を崩さない。そんなオルヴの心がリズルには分らなかった。
 二日後にはオルヴ達は集会へ出発だった。それなのに、このような思いを抱いたままで待たなくてはならないのは辛かった。半月近く帰っては来ないのだ。もし、オルヴが集会に訪れた先でエイラのように美しい娘に出会ったとしたら、どうなるのだろうか。
 確かに、自分は奥方からも「可愛らしい」と言われる程に十八にしては大人っぽくはない。身体つきも平坦だし、エイラのような女らしい人と較べるとまるで子供だ。いや、胸などは十六になったトーヴァにも負けるのではないだろうか。
 そう思うと落ち込むばかりだった。母は長身ではあったが女らしい。一体誰に似たのかと恨めしく思った。本当は、男として生まれて来る筈だったのではないかと疑う程であった。
 もし、男として産まれて来たのならば、自由を満喫していただろう。あのような形で交易島へ行く事もなく、オルヴに恋をする事もなかっただろう。
 だが、それは不可能だった。女に生まれ、オルヴと出会ってしまったからには、女としての人生を全うせねばならない。今更、オルヴと別れて生きる事は出来なかった。これが、自分に課せられた運命なのか。オルヴが誰か他の女に心魅かれるのではないかと、脅えながら生きなくてはならないのか。
 それが、多くの人を傷付けてきた自分への罰なのか。
 リズルは痛む胸を押えた。



 集会へと族長船が出発する日、リズルは見送りに浜へ奥方とエイラと共に出た。奥方がアルヴィとエルグにさまざまな注意を与えている間に、リズルはオルヴの許へ向かった。
「手を出して、ください」
 不思議そうにオルヴが手を差し出すと、リズルは自分の髪を編んで作った腕輪を、オルヴの手首に無事に帰るようにと言う呪文と共に結びつけた。
「帰って来られたら、切ります」
「有難う」
 オルヴは微笑んだ。その顔は優しく、リズルは思わず目を逸らせた。
「月乃にも」
 リズルはオルヴの肩に止まっている月乃の脚にも髪を結びつけた。月乃は何度も頷くように頭を上下させた。
「月乃も礼を言っている」
 笑ったオルヴの顔に、リズルも微笑んだ。こんなにも優しいのは、本当に自分に恋してくれているからなのだろうか、それとも、月乃の気持ちに応えているだけなのだろうか。リズルには分らなかった。
「貴女のお祖父様にお目に掛かるでしょう。何か、伝言があれば――」
「元気でいますとだけ、お伝えください」
 リズルは言った。祖父にも誰にも、もう心配も迷惑も掛けたくはなかった。交易島では自分の感情で、もう少しで密約を破棄される所だったのかもしれない。もう十八歳なのだ。軽率な真似は避けなくてはならない。
 不審そうにオルヴはリズルを見ていたが、奥方が話しかけて来たのでそちらに注意を向け、リズルはほっとした。
 やがて、そのまま話す事はなくオルヴ達は乗船した。船が押し出されると引き潮に乗り、あっと言う間に見えなくなってしまった。あっけないものだった。この辺りは潮の流れが急なようだった。
「オルヴとは、何を話していたの」
 エイラが訊ねて来た。
「祖父に会うだろうから、その伝言をお願いしたのです」
「あなたのお祖父さまは確か――」
「北の涯の島の海狼(かいろう)です」
「ああ、それで――」奥方が話に加わった。「こちらで集会が行われた際にも、もちろんいらっしゃいましたわ。月乃もそう言えば、それほど嫌ってはいなかったわ」
「海鷲は海神の眷属(けんぞく)だ、と祖父が言っておりました。それに、過去に北の涯の族長家から、唯一お嫁に出たのがこの鷲の島だとも聞いております」
「まあ、そうだったのね」奥方が言った。「では、遠いところでオルヴとあなたの血はつながっているのですわね」
 そう考えると不思議だった。何世代も前に、自分とオルヴとの血が繋がっていたとは。それはとても薄いものになってしまっているだろうが、確かに、二人の間には同じ北の涯の島の血が流れているのだ。
 集会からオルヴ達が帰って来るまでは、奥方が族長の代理を務める事になっていた。その横について、リズルは奥方が集落や部族の問題や相談を片付けてゆく姿を間近に学んだ。
「族長の判断をあおがなくてはならないほどのことは、めったに起こらないわ」エイラが言った。「もし、そういう問題が起これば、取り敢えず保留にしておいてお帰りを待つのよ」
 割合にのんびりとしている、とリズルは思った。島では伯母である族長の奥方が全てを仕切っていると言っても過言ではなかった。どのような問題も族長の帰りを待つという事はない。一応の族長代理はリズルの父であったが、全ては伯母の手にあった。またそれを父も自分の身に降りかからぬ限り容認していた。半月を長いと見るか短いと見るかの違いであろう。
 実に些細な問題でも、当人達にとっては大問題の場合もある。特にこの時期に問題となるのは、羊や山羊が土地の境界線を越えたというものであった。他人の羊が自分の境界内で出産した場合の所有権も、よく揉める問題のようであった。
「毎年毎年、よくもこりずに同じ問題がおこるものだわ」奥方は溜息をついて言った。「いい加減、自分たちで解決してほしいものだけど」
「やはり、族長の判断をあおぎたいのでしょう」エイラが言った。「自分たちでどうにかするよりも、納得がいきますもの」
「そうだとしてもねえ」奥方はリズルを見た。「覚悟しておいてね、リズルさん。何でもかんでも、持ち込まれますわよ」
 大きな問題がないというのは平和な事であった。族長の帰りを待つというのは、余程の事態のようだった。
 長いと思った半月は、そういった揉め事の解決などであっと言う間に過ぎていった。それでも族長船は帰らない。満月の日から十日間が集会である。そこから帰りの航海で四日から五日。行きの分を見積もってもそろそろ帰って来ても良い頃だとリズルは月を見ながらじりじりとして待った。
 どこかで嵐に遭ったりはしていないか。何か、集会で突発的な事件でも起こったのではないかと不安になった。もう我慢の限界だと思った頃に、ようやく、船が戻って来た。
 リズル達が報せを受けて浜へと出た時には、既にそこは興奮した集落の人々で埋め尽くされていた。
 族長船が浜に上がり、積荷船は桟橋に付けられた。
 最初に姿を見せたのは族長の碧鷲(へきしゅう)ヴェリダスだった。そして、リズルの待ちわびたオルヴ。
 ヴェリダスが肩に鷲の碧王を据えて下船すると、リズルは胸に両手を当てて腰を沈めた。族長はリズルとエイラに頷くと、奥方を抱擁した。
 オルヴは月乃を据えていたが、エイラに頷き、リズルには微笑んだ。
「お帰りなさいませ」
 リズルは言った。オルヴが無事に帰って来たという安堵で涙が出そうだった。自分は泣き虫ではなかったはずなのにと、リズルは思った。
「只今戻りました。変わりはない様で、安心致しました。凪に捕まって難儀しました」
 変わりはないのだろうか。リズルは思った。ここ数日は心配であまり食事も喉を通らなかったというのに。
「オルヴさまも」
 リズルはまともにオルヴの顔を見る事が出来なかった。そして、奥方に声を掛けたオルヴの横顔をそっと盗み見た。やはり、何も変わったようには見えなかった。ほっとすると同時に、リズルは何故、オルヴの目を見る事が出来ないのかと思わずにはいられなかった。
 久し振りに見るオルヴの顔は眩しかった。何故か砂色の髪と髭も緑の目も、全てが眩しく感じられた。
 月乃がリズルを見て尾羽を振った。その仕種が滑稽に思えてリズルは少し、微笑んだ。
「月乃はご機嫌ね」
 エイラは言った。「ああして尾羽を振るのは、機嫌の良い証拠よ」
 リズルは鷲については何も知らないままの自分に気付いた。オルヴが留守の間にも少しは学んでおくべきだったのかもしれないと、今更ながらに思った。
 一通りの帰還の挨拶が済んだところで、皆は族長の館に戻った。そこでは既に宴会の準備が調えられていた。館を出る前にエイラか奥方が指示したものらしかった。リズルは逸る心で一杯で、そこまで気が回らなかった。
「リズル殿」オルヴが声を掛けてきた。「この御守りはどうすれば良いのだろうか」
 リズルは慌てて鋏を取り出し、オルヴの手首に巻いた自分の髪を切った。そして、月乃の分も。
「神に感謝を。凪以外は、全ては順調だった」
 オルヴは言い、リズルの手にした髪の腕輪に唇付けた。
「わたしはこれを海に流して参りますわ」
 リズルは言い、身を翻した。そして、まだ人々のいる浜を避けて館の裏の石段から反対側の岩場へと急いだ。そこで海神への感謝を口にすると、そっと海に流した。鷲神を最高神とするこの島では海神の立ち位置は分らなかった。だが、海は何処までも繋がっている。感謝の言葉は伝わったはずだ。
 急いで館に戻ると、宴会が始まろうとしているところだった。何とかエイラの横の席に滑り込むと、リズルはほっとした。後継者の許嫁が集会からの帰り船の宴に遅れたとあっては、恥曝しも良い所だ。リズルだけなら良いが、オルヴに恥をかかせるのはとんでもなかった。
 女席でリズルは時折、オルヴの視線を感じた。自分を何の為に見ているのかは分らなかったが、それは居心地の良いものではなかった。
 宴はいつ果てるともなく続き、女達は頃合いを見て家に戻って行った。そして、リズル達もそれぞれの部屋に引き上げた。その事にも気付かぬかのように、男達の饗宴は続いていた。
 翌朝、リズルが起きて広間に行くと、そこではオルヴが一人で朝餉を摂っていた。麦を山羊の乳で炊いて蜂蜜を垂らした粥で、北海では馴染みの朝の食事であったが、リズルがオルヴがそれを食べているところを見るのは初めてだった。
「おはようございます」
 リズルが言うと、オルヴは微笑んだ。
「お早う」
「昨夜はこちらにお泊まりだったのですか」
「ああ――」オルヴは顎髭を撫でた。「たまには良かろうと思って。弟達もいたのだが、あっと言う間に平らげて出て行った。せめて、母に挨拶をしてからと行ったのだが…」
「男の子はそういうものでしょう」
 リズルは自分の弟達を思い出して言った。
「アルヴィなどは二十歳なのだから、もう少し礼を尽くすべきだと思うのだがね。二日酔いの姿を母には見られたくはなかったらしい」
 オルヴは笑った。そこへ台所で働く奴隷が、リズルの粥を持って来た。
「ご一緒しても――」
「唯論」
 オルヴは微笑んだ。
「月乃はいないのですか」
「月乃は外の訓練場にいると思う」
「いつも、そこで眠るのですか」
「いや」オルヴは真剣な目でリズルを見た。「私と一緒だ。所帯を持ったら、同じ寝室を使う」
 海鷲を家の中で飼うなどとは信じられなかった。
「私と月乃は同体だと思って欲しい。私の意思は月乃の意思、月乃の意思は私の意思だ」
 その言葉に、リズルは「鷲が妻となる女性を選ぶ」という言葉を思い出さずにはいられなかった。やはり、オルヴは月乃が自分を選んだから婚約したのだろうか。それが、月乃の意思だったから。
「大丈夫、月乃は君にはでれでれのようだから、心配する事はない」オルヴは言った。「それに、屋内では無闇に飛んだりはしないから」
 心配はしていなかったが、リズルは頷き、粥を口に運んだ。
 暫く二人は黙って食べた。
「集会で――」
 突然、オルヴが口を開いた。「集会で、海狼殿にお目にかかった」
「祖父に」
「ああ、君に宜しくという事だった」
 リズルは涙が出そうだった。祖父はこの結婚が幸せなものになると信じているのだろう。何しろ、運命と出会ったのである。そして、オルヴは誰から見ても素晴らしい人だ。リズルが煩悶しているとは思わないだろう。
「元気そうでしたか」
「他のどの族長よりも若々しくいられた」
 リズルはほっとした。他の族長達はもう、海に出て戦う事はなくなっている。だが、祖父は齢七十にして未だに戦いの先陣を切るのだと聞いていた。
「私も、あのようになりたい」オルヴはぽつりと言った。「生涯、海に出られたらどれほど幸運なのだろうか」
 海鷲の戦士でもあるオルヴも、やはり海の人なのだ。リズルとしてはある程度の年齢になれば戦士を引退する、今の族長達のようであって貰いたかった。
「ところで」とオルヴは話題を変えた。粥を掻き回すその表情はどこか硬かった。「集会で交易島の噂を聞いた」
 交易島。リズルはどきりとした。
「交易島の後継者が夏の終わりに結婚したと、商人が言っていた」
 イースが結婚した。それは喜ばしい事だったが…。
「どなたと」
「気になるのか」
 オルヴがリズルを見た。
「気になるというほどではありませんが――」
 愛による結婚なのかどうかは気になるところであった。
 オルヴは再び粥に目を落とした。もうとっくに冷めている筈だった。
「同じ交易島の娘だそうだ。その娘の婚約者が亡くなったとかで、急遽、決められたものらしい」
 婚約中の娘なら何人もいた。その内の一人なのだろうか。
「大陸での争い事は良く分らんが、何かあったようだな。その男も大陸の領主の跡取りであったと言うから。毒殺という噂もあるそうだ」
 大陸の領主の跡取りと言えば、一人しか思い浮かばなかった。
 ディルス。
 あのディルスが毒殺されたのか。そのような恨みを受ける人には思えなかった。
 リズルは顔から血の気が引くのが分った。
「商人の話だからな、何処まで本当の事か分らんがな」
 音を立ててオルヴが匙を置いた。リズルははっとしてオルヴを見た。その顔は無表情で、目はリズルを見てはいなかった。
「では、私は戦士の館に戻る」
 慌てて立ち上がろうとしたリズルをオルヴは目で制した。
 そのまま、リズルはオルヴを見送るしかなかった。


 リズルはどうして良いのか分らなかった。
 あの時、オルヴは怒っているようにも見えた。同時に、リズルに関心をなくしたようにも。
 そうなのだとすれば、自分はどうすればよかったのだろうか。交易島の話に、思わず乗ってしまったのが悪かったのか。イースに、或いは交易島に未練があると思われたのだろうか。それとも、別の何かが原因だったのか。
 罠にはまった気分だった。あれは、オルヴの仕掛けた罠だったのだろうか。
 自分と月乃を受け入れるかどうかを訊ねる、試験だったのだろうか。
 リズルには分らなかった。
 イースとアリアの結婚を聞いて心が動いた訳ではなかった。二人が幸せならばそれで構わない事だ。だが、あの気持ちの良い人だと思っていたディルスの死は衝撃だった。毒という、卑怯な手で殺されたとあっては猶更だった。
 だが、それをオルヴに伝える術はなかった。
 言ったところでどうなるだろう。オルヴはディルスを知らないのだ。勘違いされるのが落ちだろう。そのような危険は冒したくなかった。
 オルヴを追い掛けたかった。その腕を引き、何か自分が間違いを犯したのか訊ねたかった。
 一瞬前までの幸せな気持ちが、微塵もなく砕けてしまった。
 リズルは泣きたかった。食事を残すと、意を決してオルヴの後を追った。鷲の訓練場にはだが、既にその姿はなく、リズルは立ち尽くした。
「オルヴ殿はご不在ですか」
 突然の背後からの声に、リズルは飛び上がらんばかりに愕いた。リズルが振り向くと、赤っぽい金髪に青い眼の非常に端正な戦士が立っていた。だが、その眼光は鋭かった。
「これは失礼、愕かせてしまいましたか」
 男は非礼を詫びた。男はリズルに、誰かを思い起こさせた。
「オルヴさまは、たった今、出られたところだと思います」
 リズルは平静を保ちながら言った。
「行き違いになったかな」男は呟いた。オルヴと同じくらいの年齢のようであった。「では、失礼致します」
 男は去った。リズルはほっと溜息をついた。あの男には、どこかリズルを緊張させる雰囲気があった。
「まあ、リズルさん、こんなところでどうなさったの」
 奥方の声がした。見ると、族長と奥方が碧王を連れて来たところだった。
「オルヴさまがいらしていましたので」
「それで見送ってくれたのね。ありがとう」
 そうではなかったのだが、リズルは黙っている事にした。余計な事は言わない方が良い。
「では、お館さま、わたくしはこれで」奥方は族長に言った。「リズルさん、参りましょう」
 リズルは軽く腰を沈めて族長の前を辞した。
「本当にもう、これだから男の子はつまらないのよ」奥方は言った。「挨拶もなしだなんて」
 オルヴはそうではなかったのだが、その事もリズルは黙っていた。そうでないと、全てを説明する羽目になりそうだった。
「オルヴさまに使いの方がいらっしゃいましたから、何か急ぎの事でもあったのではないでしょうか」
「急ぐにしても、一言あってもよいとは思うのだけど」奥方は溜息をついた。「まあ、オルヴはその点はねえ、下の二人とは違っているのだけれど、オルヴはあなたに集会からのお土産は渡したのかしら」
「――いいえ」
「あの子ったら」
 奥方は少し苛立ったようだった。「忘れないように用意するよう言ったのに」
「わたしは、かまいません」
「あなたは本当に、物わかりのいい子だけど、だめよ」奥方はリズルの手を取った。「時にはわがままを言うのも必要よ、特に鈍いうちの男連中には」
 オルヴを鈍いとは思わなかった。自分の方がずっとがさつで鈍い。しっかりとオルヴを傷付けてしまったではないか。
「今日、姿を見せたら言ってやらなくてはね」
 奥方は言ったが、リズルは微笑む事しか出来なかった。
 その日はオルヴが姿を見せる事はなかった。だが、次の日、兄弟と揃って夕餉に向かう事になった。それぞれが母親とエイラに土産を渡し、リズルも族長と二人から北の涯の島の物と思しき肩掛けを送られた。
「オルヴ、あなたは」
 奥方が鋭く言った。
「いやだなあ、母上」エルグが揶揄うように言った。「兄上はリズル殿には二人きりの時に渡したいとお考えでしょうに」
「あら、まあ」
 奥方は頬に手を当てて困ったように言った。族長が笑った。
「さて、オルヴ、これで逃げられなくなったな」
 渋々といった様子でオルヴは腰の小物入れから耳飾りを取り出した。少し大きめの真珠だった。形は歪であったが、この大きさでは仕方がなかった。これだけでも相当な値打ちものだ。
「まあ、素敵」エイラが言った。「リズルさん、着けてみては」
 リズルはオルヴから耳飾りを受け取り、両耳に着けてみた。ゆらゆらと揺れる真珠は少し重く、冷たかった。
「お似合いだわ」
 奥方が手を組み合わせて言った。「オルヴの見立てに間違いはないわね」
 リズルは頬が赤くなるのを感じながら、オルヴに礼を言った。それをオルヴは礼儀正しく受けた。
「兄上も堅苦しい」エルグが言った。「許嫁なのですから、もう少し打ち解けても宜しいのでは」
「オルヴはあなたとは違うのです」
 奥方がぴしゃりと言った。「リズルさんはまだ、預かりのお嬢さんなんですからね」
 そうだ、許嫁とは言うものの、身分は預かりなのだ。二人きりになるのを避けるというのも、そこから来ているのだろう。リズルは改めて思った。だからこそ、オルヴは丁寧な仕種や言葉遣いを崩さないのだろう、と。
「つまらないなあ」
「リズルさんはあなたの遊び相手ではないのですよ、エルグ」
 奥方は言った。
「でも月乃の遊び相手でしょう」月乃の名に、リズルは食事の手を止めた。「なら、我々だって遊戯盤の相手くらいは――」
「駄目だ」
 オルヴが言った。
「リズル殿には、まだ私もお相手をして頂いた事がない」
 ならば、今夜にでも駒を並べましょうという事にはならなかった。オルヴは族長と話し合いがあるのだ。せめてその間だけでも、エルグやアルヴィと遊戯盤を囲む事ができるのならば嬉しかったのだが、オルヴが許さない以上は仕方がなかった。リズルはつまらないと思った。
「それなら、父上との話し合いが終わるまで、我々の勝負をご覧になりますか」
 アルヴィが言ったが、オルヴがそれを制した。
「そんな夜更かしに若い娘さんを誘うのは感心しないな」
 奥方もそうだと言いたげに頷き、リズルはがっかりした。遊戯盤の勝負を見ているだけでも楽しいものなのに、それさえも禁じられるとは。夜更かしとは程遠い時間であるのに。
 エルグもアルヴィも不満そうだったが、一番不満なのは自分だとリズルは思った。遊戯盤は駒を動かすのも見るのも大好きだった。それさえも楽しめないとは、交易島にいた時分を思い起こさせた。
 話題は結局、遊戯盤から集会の話へと変わった。そこからリズルは伯父が元気な事も知った。
 食事が終わるとリズルは部屋に辞するしかなかった。エイラは兄弟と共に暫く話をしていると言い、リズルは一人で部屋に向かった。
 寂しかった。
 オルヴが一つ屋根の下にいて族長と話し、その弟達は遊戯盤で遊んでいるというのに、自分はもう部屋に下がって寝る準備をしなくてはならない。こっそり嫁入り道具に忍び込ませた書物を読むのも飽きてしまった。この島にどれ程の書物があるのかはまだリズルは知らなかったが、オルヴは女が書を読むのを敬遠する人でなければ良いと思った。そのような事も知らずに、ただ、恋しいの一事だけでリズルは鷲の島に来たのだ。それを早まったとは思わなかったが、それでも、もっと相手の事を知るべきなのだと思わずにはいられなかった。自分はオルヴの好みの食べ物も知らない。オルヴもそうだろう。
 互いに何も知らなくても結婚して、それなりに仲良く生活して行ける事は、従兄の結婚からも分っていた。だが、余りにも違いが大きすぎるとどうなのだろうか。
 オルヴは今は礼儀を重んじているが、結婚すれば変わるのだろうか。あの二人きりの時のように気軽に話しかけ、快活に笑うオルヴを間近で見たかった。人前では、どうしてもオルヴは丁寧な仕種や口調を崩さない。
 部屋に戻ると、リズルは一粒、涙をこぼした。
 この島でも孤独だった。オルヴを怒らせてしまったようだし、皆の仲間にも入れて貰えない。これがオルヴを怒らせてしまった罰ならそれでいい。だが、ずっと続くのならば耐えられない。それは、つまり、オルヴの恋が冷めたという事になるから。
 月乃が如何に自分を慕ってくれようとも、リズルはオルヴの心が欲しかった。鷲の意思に縛られるのではなく、自らの意思で共にいたいと思って欲しかった。
 オルヴは、月乃の意思を尊重してリズルと結婚するだろう。その生活はどうなるのだろうか。交易島でイースに感じた時と同じように、互いの立場を呪い続ける事になるのだろうか。リズルは決して振り向くことのない背中に向かって、愛しい思いを発し続けなくてはならないのだろうか。
 将来への展望が、揺らいだ。
 幸せな結婚をして、慎ましくも幸福な家庭を築く事を思い描いてこの島へ渡った。だが、やはり神々はリズルをお赦しにはならなかったのか。オルヴはリズルに腹を立て、その想いは冷めようとしているのかもしれない。月乃の意思と自らの意思との相違に気付いたのかもしれない。
 そうなのだとすれば、自分はどうすれば良いのだろうか。もう、島へ帰る事は出来ない。オルヴと離れて生きる事など考えられなかった。運命の女神の采配によって出会った人である。オルヴが帰れと言うのならばともかく、そうでないならばいつかは受け入れて貰えるのではないかと思った。運命はそんなに簡単な物ではないという事は知ってはいても、そう願わずにいられなかった。
 翌日のリズルはぼんやりとしていて、オルヴの靴下の目を落としてしまい、随分とほどかなくてはならなかった。編物は同じ事の繰り返しが多いので多少は気もそぞろでも大丈夫であったが、目を落としてしまっては仕方がなかった。取り敢えずほどいた毛糸を巻き直して、リズルは気分転換に外へ出る事にした。
 初夏の空気はまだ冷たかったが、気持ちが良かった。リズルは族長の館の周囲を歩く事にした。族長の館は厩舎や鷲の訓練場だけではなく、家畜小屋や鶏小屋も含めると結構な広さがあったので、ここに来て日の浅いリズルは充分に楽しめた。家畜小屋へ子羊を見に行こうが、誰も気にしなかったからだ。訓練場では時に族長が自らの鷲、碧王を飛ばせている事もあったが、殆どは早朝に行われている為、リズルは自由に行き来することが出来た。
 碧王はリズルを家族の一員と認めたようであった。そして、アルヴィやエルグの鷲もリズルを受け入れてくれた。その様子は月乃とは異なっていたが、どの鷲もリズルには小首を傾げてみせるなど、どこか愛らしい仕種をした。
 鷲達に受け入れて貰えるだけでも有り難かった。それだけでも充分に幸せを感じなくてはならないとリズルは思った。嫌々ながらに受け入れているのではない事は明白であったからだ。
 リズルが訓練場を歩いていると、一本の木の枝に鷲が止まっている事に気付いた。その近くに主人がいるという印なのだが、碧王ではなかった。碧王ならば、リズルを認めると少し翼を上げるものだ。
 誰かいるのかと不審に思った時、突然、エイラの声がした。
「もう、たくさんだわ」
 普段らしからぬその大きな声に、リズルは愕いた。何かあったのかと声のした方を見ると、エイラと一人の戦士がいた。戦士はエイラの腕を摑んでいた。
「エイラさま」
 思わずリズルは声を掛けた。二人の様子が逼迫した物に見えたからだ。
「リズルさま」
 エイラの声は固かった。そして、男の腕を振り払った。男は、あの赤っぽい金髪の眼光の鋭い戦士であった。二人を見た瞬間、どこかで見た事があるという印象が鮮明になった。エイラだ。では、この男は、エイラの兄なのか。
「もう、行ってちょうだい」
 エイラが強い口調で言い、男はむっとしたような顔になった。そして片手を上げて鷲を呼ぶとエイラを睨み付けた。鋭い目が、益々厳しくなる。
 男――エイデンはすっと身を離すと、リズルの方へ向かって歩き始めた。
「身辺にお気を付けを」
 ぼそりとすれ違いざまにエイデンはそう言った。リズルは愕いてエイデンを見たが、後も振り返らずに去った。その鷲は、姿が見えなくなるまでリズルを見つめていた。
「あれが、わたしの兄のエイデンよ」
 エイラがリズルに近寄って来て言った。「恐ろしい目をしているでしょう」
「何をしにいらしたの、こんなところで」
 兄であるならば、正面から来て会えば良いものをとリズルは思った。
「例の話よ」エイラは肩を竦めた。「わたしとオルヴの」
 エイラの兄は、エイラとオルヴとの結婚を望んでいたという話だった。
「まだ、諦めてはいないらしいのよ」
 去り際のエイデンの言葉にリズルはぞっとした。あの男は、何を企んでいるのだろうか。
「それに、わたしにあなたの事を集落の人どう思っているのかを言いに来たの」
 どう思われているのかは、リズルも気になるところであった。何しろ、オルヴはこの島の後継者なのだ。人々の関心も当然だろう。
「あなたはオルヴには子供すぎる、と言うのよ。全く、もう」
 エイラは溜息をついたが、リズルはどきりとした。それは常々感じている事だったからだ。
「あなたの外見の可愛らしさと中身は別物だと言っても、分らないのよ。あなたは見かけよりも大人だし、オルヴの奥方としての覚悟も出来ていると伝えたのだけど…人がどう思おうと、気にしないで」
 リズルはエイラの言葉を有り難いと思った。だが、人々がそう思っているという事実は変わらない。夏至祭までの期間に、リズルは自分がオルヴの妻として相応しいという事を人々に――エイデンに証明しなくてはならない。
 皆に認めて貰えるようにするには何をどのようにすれば良いのか、リズルには皆目見当がつかなかった。出来る事といえば、奥方に付いてそのやり方を真似る程度だ。それならば誰にでも出来る。そういう事ではないのだろう。
 だが、自分の姿形は変えようもない。せめて母のように長身でありさえすれば、何かが変わったのかもしれないとも思う。それは、ない物ねだりだった。
 結局、その日はオルヴの靴下を片方編んだだけで終わってしまった。オルヴはリズルとエイラが訓練場で話している間に来て帰ったらしく、会う事も一目見る事すらも出来なかった。
 寂しい、とまたリズルは思った。
 こんなに近くにいるのに、オルヴの心は遠かった。何を考えているのかも、リズルに対してどのような想いを(いだ)いているのかも計り知れなかった。
 恋しい人がいるから、一人で輿入れするのも大丈夫だと思った。だが、それは間違いだったようだ。エイラとは時間が経てばヴィリアと同じような関係になれそうであったが、今はまだ違う。大抵の島から島への輿入れは、乳母や気心の知れた奴隷を数人連れて行くものだ。リズルの家では奴隷を解放してしまう為に、そのような者はいなかった。子育ても母がイズリグなどの手を借りながらでも一人で何とかして来た。心を打ち明けられる友人もいぬままに、母もあの島に来たのだ。同じ条件なのに自分は寂しいと思ってしまうのは、やはり子供だからだろうか。リズルには分らなかった。
 部族の人々に認めて貰うには、もっと成長しなくてはならない。外見はどうしようもないが、せめて内面は大人だと言われるようになりたかった。それには、一々、評判などに心を惑わされてはならないのではないかと思うのだった。


 靴下が編み上がると、いよいよ鷲の島の刺繍を教えて貰う時が来た。その材料を見て、リズルは愕いた。
 鷲の羽だった。
「羽の軸を使うのよ」
 エイラは言った。二人は、大量の塵がでるという事で屋外の石に座って羽のいらない部分を切った。
「次には軸を平たく潰して裂いてゆくの」
 エイラは石で羽軸(うじく)を叩いた。そして、くたくたになったそれを根元から裂いていった。すると、少し硬くはあったが平たい糸のようなものが出来た。
「革には、釘なんかであらかじめ穴を開けておくのよ」
 これは練習用だから、とエイラはリズルに端革を渡してくれた。そこには既に穴が開いていた。
「これをお手本にするといいわ」
 そう言って渡されたのは、端革と同じくらいの大きさの革で、既に刺繍がしてあった。
「こういう糸だから、どうしても具体的な文様は刺せないのだけど、一応、意味はあるのよ」
 これは安全を祈願する物。これは鷲神…と、エイラは幾何学紋様の一つ一つについて語ってくれた。刺し方は糸の刺繍と変わりはなかったが、余り柔軟性のない糸であったので、最初はリズルも苦労した。だが、刺し慣れてくると、こちらの方がやりやすいとさえ感じた。
「どれも古くから伝わる文様で、新しい物はないわ。色も単調だし」
 エイラも革に刺繍をしながら言った。夏至祭までにアルヴィとエルグの肩当てや籠手を新調すると言うのだ。族長と新郎であるオルヴの分は奥方の仕事らしい。
「だから、一度憶えてしまえば後は組み合わせだけ。とても簡単でしょう」
 気負いが徐々に消えて行くのが分った。リズルには、色とりどりの刺繍よりもこちらの方が性に合っている様だった。
「でもね、これだけは大事だから憶えていて欲しいの。必ず、持ち主の鷲の羽を使う事よ。それ以外のはだめ。不吉だと言われているわ」
「では、この材料はどうしたらよいのでしょう」
「鷲の主人が換羽(とや)の時に持ってくるわ。換羽というのは、年に二回、鷲の羽が抜け替わる時の事よ。その時には体力を消耗してしまって暗くて狭い鳥小屋(とや)に療養で一時的に入れる事もあるから、とや、と言うの」
 知らない事ばかりだった。鶏や家鴨に換羽があったとしても、リズルはそれに気付かないままに来てしまっていた。自分は鳥を飼いながら、何を見てきたのだろうと思わずにはいられなかった。家畜と鷲とは違うのかもしれないが、年に二度、夏の始まりと終わりに抜けた羽がどっと増えていたのは確かだった。
「何をしているのですか」
 頭上からの声に、リズルは思わず針を落としそうになった。オルヴだ。
「刺繍ですか」
 オルヴはリズルとエイラに微笑みかけた。もう、怒ってはいないようでリズルはほっとした。
「ええ、リズルさんに羽の刺繍をお教えしていました」
「夏至祭の、ですか」
 リズルは赤くなって俯いた。今日始めたばかりでそれは無理だ。
「それはお養母さまのお仕事です」エイラは笑った。「リズルさんは今日はまだ手習いですわ」
「それは残念」
 オルヴの言葉に、リズルは思わずその顔を見た。優しい顔と共に月乃が目に入った。
「月乃も一緒なのですね」
 エイラの言葉に、オルヴは笑った。
「こいつ、ここに来ればリズル殿に遊んで貰えると思っているのか、最近はずっとこうしている」
「他の鷲たちはひと安心でしょうね」
 エイラも笑った。何てお似合いなのだろうかとリズルは思った。これなら、エイデンが二人を結婚させようというのも分らないでもない。二人が並ぶと交易島で見た肖像画のように美しい。
「月乃は気が強いから、他の鷲に喧嘩を売ってばかりで困っていたのですよ」
 オルヴの言葉に、リズルはぎこちなく微笑んだ。実の妹のように育ったとは言え、こんなにも美しい人がいて、オルヴは何も感じないのだろうか。身近にいるからこそ、気付かないのか…。
「貴女がいらして、月乃は貴女をばかり探していますから私の側を離れず、他の者は大助かりですよ」
 オルヴは笑った。二人でいた時のような高笑いではなかったが、それでもこの人の笑いを聞けるのは嬉しかった。月乃がオルヴの関心事の中心であるにしても、そこに自分が絡んで来ると幸せに思うのだった。不機嫌であったり腹を立てたこの人は見たくはなかった。
 本当にそのような事が可能だろうか。
 リズルの胸は痛んだ。もう既に、自分はこの人に不愉快な思いをさせたし、これから一生を共にしてゆく中で、ずっと上機嫌でいるという事が本当に可能なのだろうか。
 オルヴは機嫌良くエイラと話している。月乃はじっとリズルを見ていた。
 月乃の事は好きだ。だが、それはオルヴに対する感情とは当然ながら違う。
「オルヴ殿」
 聞き知った声がしてリズルはどきりとした。エイデンだ。
「こちらにいらしたのですか。お館様がお呼びです」
「ああ――つい長居をしてしまった」
 オルヴはリズルに微笑みかけた。「紹介しておこう」
「リズル殿は既に私を御存知です」
 エイデンは言った。
「そうか、だが、一つ付け加えておこう」オルヴは言った。「エイデンは私の片腕でもある」
 世界がぐるりと回転したように思えた。片腕、というには、それだけ信頼を置いているという事だ。オルヴはエイラの話を知らないのだろうか。エイラにしても、そのような事は話しづらいだろうが、エイデンの策に気付かぬ程に信頼しているのか。
「オルヴさまのこと、よろしくお願いいたします、エイデンどの」
 何も知らないふりをして、それだけを言うのが精一杯であった。
 エイデンは胸に手を当てて会釈した。
「こいつは目つきが悪いので恐ろしく見えますが、大丈夫、噛み付きはしませんから」
 オルヴの言葉にエイデンは笑ったが、リズルは笑えなかった。エイラも同様のようであった。
「さ、では父のところへ参ろう」オルヴは言った。「では、後程」
 二人の姿が見えなくなると、リズルはそっと溜息をついた。
「朝の気分がだいなしになってしまいましたわね」エイラが言った。「申し訳ないわ」
「あなたが謝ることではありません、エイラさま」
 リズルは言った。エイラに罪はない。「でも、エイデンどのはオルヴさまの腹心でしたのね」
「ええ、そうおっしゃってくださっているわ。でも――」エイラは言い淀んだ。「オルヴは兄の本当の姿を知らないから」
 リズルは胸騒ぎがした。
 身辺に気を付けるようにというエイデンの言葉。
 オルヴの腹心であるという事。
 その本心をオルヴが知らないであろう事。
 自分はどうなってしまうのだろうかとリズルは思った。
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