第9章・北海の戦士

文字数 19,654文字

 夏を何とか乗り切ったと思ったのは、少し風の向きが変わった頃だった。
 リズルは、そろそろ一人で街に忍び出ようと思った。まだまだ薄荷水は手許から離せなかったが、北海の商人がいる今であれば、薄い金色の髪を見られても大丈夫だろうと踏んだ。初めて街に出た時にはミアに結い上げて貰ったが、今回は一人で出ようというのだ、ミアの手は借りられない。何を意図しているのか、あの娘は見抜いてしまうかもしれないし、そうなると厄介であった。
 夫人の動向を窺い、厨房が空になるのを待つ。それは時には永遠に続くようにも感じられた。そして、外での自由はあっと言う間だった。ミアと行った広場まで行くと、一渡り辺りを見回して帰るだけだった。店番を交代して一息つきに来た北海の商人の娘に見えれば良いと思った。案の定、誰もリズルを不審な目で見る者はいなかった。夏の盛りも過ぎて、北海の戦士達が来る時期も過ぎていた事は、少々寂しかったが仕方なかった。
 一度、一人で出ることに成功してしまうと、怖い物はなくなってしまった。日中は暑さが苦手で休んでいるリズルを誰も煩わせなかったし、裏口は鍵を掛けられる事もなく、人目を避けるのは夫人とシエラが留守の間は簡単な事であった。使用人に厳しいシエラの目がなくなると、途端に城砦内の空気が緩むようだった。身体は怠かったが、外へ出られるという気力で持たせていた。
 それから二度三度とリズルは勝手な外出を繰り返した。それが危険な行為であるとは分ってはいたが、冬になれば自由にはならないだろうという事もあった。その前に、つかの間の自由を味わいたかった。街は活気に満ちており、空気が停滞しているような城砦とは全く異なっていた。何をするというのでもなかったが、それで良かった。大事を取って、北海の商人達が店を連ねている所には近寄らなかった。知り合いにでも出会ったら

であったので、道中も気遣った。
 そうして街で鋭気を養ったリズルは、まだ完全とは言えなかったが、訪問を再開する事となった。最初はアリアの家だった。
「ようこそ、リズルさま」アリアの母は両手を広げて歓迎してくれた。「ご不例であったとお伺いしておりましたが、すっかりと良くなられたようで喜ばしいかぎりですわ。最初の訪問先に我が家を選んでいただけるなんて、本当に光栄です」
 アリアや他の娘達は夏の暑さなど関係ないようであった。皆元気で、夏の盛りを過ぎてからは時折、領主家に訪問してくれていた。アリアの母はアリアの結婚支度の為に来る事はなかったが、アリア自身は良く来てくれた。
「ご心配をおかけいたしました」
 リズルは軽く膝を沈め、娘達の中に加わった。
「リズルさま、もうお加減はよろしいの」
「ええ、少しなら外に出てもよいと医師にも言われましたので」
 アリアにリズルは微笑みかけた。本当は何度も外に忍び出ているのに、この娘達はそのような事は夢にも思わないだろう。いや、大体にしてからが、ここの女性達は街へ出たいなどとは思わないのであろう。
「大変でしたわね。刺繍の方も余り進まなくてこれからでしょう」
 フェリアが言った。
「それはわたくしもご同様だわ」
 アリアが笑った。「結婚前には、誰しもそうなるもののようですわ」
 結婚。
 そう、季節が一つ終わるのは、それだけ結婚へと近付いたという事なのだ。だが、リズルとイースの間には相も変わらず穏やかではない空気が流れているのだった。暑気あたりの一件から、リズルは少しはイースの事を見直しかけたが、やはり態度は変わらず、顔を合わせればそれまでのように嫌味な事を言われるばかりであったので、半ば諦めかけていた。どうすればあの男と共に快適に暮らして行けるのかを考えても、先が全く見えなかった。
「そうそう、結婚と言いましたら…」
 誰かが言い、再び、リズルには無意味な会話が始まった。雑談も少しなら良いが、毎日のように何時間もとなると、気が滅入った。それなのに、娘達は十年一日の如く同じ話題を繰り返している。夏の間、誰とも会わない時期のあったリズルだが、簡単に話題にはついて行けたし、余り良くないことであろうが、それなりに聞いている

をする方法も身に着けた。
 最早、あの自由はなくなったのだ、とリズルは思った。具合が悪い事を利用して、とは思ったが、ずっとここで生きて行くためには必要な方法であったのだと自分を納得させていた。来年にはもう、その機会はあるまい。そして、自分もひと冬を過ごせば北海に対しても諦めがつくであろう。こうして失ってみると、その自由は非常に貴重なものであった。ただ街をうろつくだけであったが、人々の声や外気を自分がそれ程までに必要としているとは思わなかった。だが、それともお別れだった。
 日々は過ぎて行き、再びかつての日常が戻って来た。闘技は相変わらずどこが楽しいのか理解できなかったが、鷹狩りでは隼を追い掛ける楽しみがあった。嵐号を始めとする領主家の白隼は、リズルに慣れつつあるようだった。イースのいない時など、鷹匠はリズルの手に隼を据えさせてくれた。まだ、隼を使う事はできなかったが、その内、訊ねてみようと思っていた。
 夏もすっかり影をひそめようという頃、リズルは朝の日課となってしまった港の風景を眺めている内に、他とは違う船を見付けた。
 せり上がった舳先と艫、喫水が浅く、大きな一枚帆のその船にリズルの目は釘付けになった。間違いなかった。北海の船だ。その周囲には鳥が舞い、鷲の島からの船と知れた。
 遠征の帰りだ、とリズルにはすぐに分った。早い事には早いが、実入りが良かったのであろう。そして、この島で奴隷を売って島へと帰るのだろう。
 リズルは船の動きを見逃したくはなかった。北海の船だというだけで、リズルの心は躍った。停泊しているのは、恐らく今夜のみ。策を弄してでもこの光景をずっと見ていたかった。
「お嬢さま、お目ざめでしょうか」
 ミアが部屋の前で言う声がした。リズルは慌てて寝床に潜り込んだ。
「お嬢さま、どうかなさいましたか」
 不審そうにミアが部屋に入って来る音がした。リズルは唸って見せた。
「少し、頭痛がするの」
「まあ、それはいけません」
「今日はこのままずっと寝ているから、皆さまにはそう伝えてちょうだい。朝食はいらないわ。一人にしておいてほしいの」
 リズルは如何にも辛そうに言った。
 ミアが下がると、リズルは再び窓に齧り付いた。船はリズルのいる部屋から最も近い桟橋につけられた。海鷲達が空を舞い、戦士達が忙しく立ち働いているのが見えた。奴隷と(おぼ)しき人々も乗っている。あの人々を奴隷市場へ連れて行き、奪った金品で足りぬ分の食糧を買えば、ここでの用はお終いだ。本来ならば夕刻にでも出航できるが、港の管理者が夕刻以降の入船出船(いりぶねでぶね)を許さないのだという事を思い出した。それでこの島で一泊する事になるのだ。
 リズルは冒険は好きであったが、それは、自分が遠征に行きたいかどうかというのとは無関係であった。遠征へ行けば、好むと好まざるに関わらず人を殺す事になる。それが出来なければ臆病者とそしられるのだ。男達は遠征を冒険だと言うが、そこがリズルとは異なっていた。リズルというのは(いにしえ)の女戦士の名だが、自分の部族を護る為の戦いであるならば、人を殺める事も致し方ないと思った。だが、遠征は如何に食糧の為とは言え、戦い慣れない人々への奇襲である。そして、その人々を奴隷に取る。力の強い者が勝つのがこの世の道理であるが、無辜の人々を殺すのが良い事なのかどうか、リズルには分らなかった。生きる為には仕方がない。人はそう言う。しかし、リズルの島ではもう、殆ど遠征による食糧確保は必要ないのではないかと思われた。他の島ではどうなのだろうか。祖父の島では、今でも厳しい冬には多くの死者が出るというが、最涯ての島であるが故に、それは仕方のない事に思われた。それに、祖父達は自分達とはやり方が違うと聞いた。
 鷲の島はどうなのだろう。西の涯の島は、リズルにとっては世界の果てのように思われた。集会の際に訪れた鷲の戦士達が巨大な海鷲を自由に駆り、時には腕や肩に据えている姿は、子供心にも近寄り難く思われた。また、鷲神を信仰するという意味でも特別な一族でもあった。
 その戦士達が交易島へやって来た。
 リズルはわくわくしながら外の光景を見た。鷲達は帆柱や竜頭に止まっている。
 鷲の戦士達は、その立ち居振る舞いも他の島の戦士達に較べて丁寧で、その点でも若い娘達に人気があった。同じ丁寧でも、どこかよそよそしい北の涯の戦士達とは違う。鷲の戦士は晩熟(おくて)だから、と父は笑ったものだった。鷲と共に成長するから、正戦士になったところでようやく、大人になる準備が整ったようなものだ、と。
 その意味は未だにリズルには分らなかったが、神秘的な一族だという認識があった。その意味では祖父の一族に劣らぬであろう。
 リズルはじっとしていられなくなった。午後になれば――と思った。午後になれば、こっそりと部屋を抜け出す事も出来る。もっと間近にあの戦士達を見る事が出来る。
 衣装箱から、夏の北海の服を取り出してみた。袖はぴったりとしているし、身体の線も出ない服だ。嫁入り道具なので深紅であったが、案外とこの街では目立たなかった。今迄、これを着て街をうろついても、誰も気には留めなかった。街の女達の服装はリズルのとそう大差なかったからだ。この島での身分のある者とそうでない者との差を、リズルははっきりと知った。北海の商人達はぎりぎりまでこの島にいるので、もう暫くはこの服で外に出られる。万が一、戦士達に見付かっても、どこかの商人の娘だと思ってくれるだろう。出来る限り見付からないように行動するつもりであったが、何隻もの戦士達の船が着いたのだ、そう上手く行くとは限らない。それでも、父がそうであったように、交易島にまで家族で危険を冒して商売にやってくる者に対しては敬意を払うであろうから、心配は少なかった。問題は、何処の誰だという事になった時だ。
 じりじりとしながら、リズルは機会を窺った。
 頭痛を理由に午後の訪問も部屋に人が入ることも拒否したのに、こっそりと抜け出すのには罪悪感が当然、つきまとった。母に知られれば叱られるだろう。お仕置きも待っているだろう。だが、北海への思いがそれをねじ伏せた。この機会を逃しては、二度と北海の者を間近で見る事はなかろう。恐らく、一生。
 夫人とシエラの出発する物音がし、やがて城砦は静まり返った。リズルは急いで着替えると、そっと部屋を出た。


 街の雰囲気がいつもと異なっている事に、リズルはすぐに気付いた。北海の戦士達の船が到着したからかもしれないと思った。賑わいには変わりはなかったが、何処とはなく緊張した空気が流れていた。最早、あの族長の幼い子供達の事件はこの島では忘れられているであろう。だが、北海の戦士達は毎年のようにこの地に血腥さを持ち込むのだ。交易島の人々にとっては、北海人は商売の相手ではあっても野蛮な海賊でしかないだろう。また、ここを訪れている大陸の者にとっては仇敵だ。
 しかも、今回は海鷲を連れた戦士達だ。頭上には普段この島で見ることのない巨大な海鷲が飛び、人々の心は不安になっているのかもしれない。
 リズルはすっかり馴染みとなった通りを歩いた。人でごった返し、誰もリズルの事は気にしない。南溟の商人と擦れ違った。大陸からきたと思しき男達もいる。誰もリズルの事を気にかけない。そして――
 前から歩いて来たのは、他の者達よりも頭一つ分くらい背の高い三人の北海の戦士達だった。
 中つ海の人々に較べて薄い色の髪や髭はきちんと整えられ、身なりは清潔で遠征帰りとは思えない。だが、確かに、戦士達は今朝の船でやって来たのだ。そこだけが、人の数が少ないように見えた。それもそのはず、三人の肩にはそれぞれ鷲が止まっている。人々は遠巻きにその姿を眺めていた。
 隼は神経質な為、人前に出すにも頭巾が欠かせないが、鷲は頭巾も被せずに肩に大人しく据えられている。その堂々たる姿と共に、リズルの目を引いたのは一人の男の鷲だった。純白で赤い目。白子だ。主人である男は砂色の髪をして細身であった。歳の頃はヴィリアの長兄よりも上だろうかと思われた。
 瞬間、二人の目が合った。
 緑の目。
 リズルはどきりとした。二人の視線がぶつかり合った。隠れなくては、と思った。だが、身体が動かなかった。ただ、男の視線に囚われていた。そして、白子の鷲も自分の方を見ている事に気付いた。
 人々に押されて逃げる事が出来ず、リズルは男の視線を受け続けた。そして、すれ違いざまに男の口が少し、動いた。だが、すぐに横の男が話し掛けてリズルから視線が外れた。その隙に、リズルは人混みに紛れた。早く一人になりたいと思った。
 急ぎ、城砦に戻った。
 見付かった。
 リズルは思った。そして、部屋に戻ると着替える事も忘れて床に座り込んだ。身体ががくがくと震えた。
 見付かってしまった。遂に。
 心臓がばくばくと音を立てていた。
 もう、逃げられない。
 何から、ともう一人のリズルが訊ねる。
 全てから。
 リズルの目に涙が湧いて来た。それを留める術も知らず、リズルは涙を流した。
 何故、自分は嘘をついて城砦に残ったのだろうか。その罰がこれなのか。人目を盗んで勝手に城砦を抜け出して来た罰なのか。
 あの男は、運命だった。


 夫人とシエラが帰って来た物音にも気付かず、リズルはただ床に座り込んで静かに涙を流していた。
 遂に出会ったというのに、自分は身動きが取れない。相手に自分の存在を知らせる事も出来なければ、想いを伝える事も出来ない。
 運命に出会うのが、これ程苦しいものだとは思わなかった。一瞬だった。全ては一瞬の間に起こった。二人の視線が交錯したあの時、澄んだ緑の目が自分を見たその瞬間に、リズルの心は全てあの男に持って行かれてしまった。
 砂色の髪を後ろで束ね、祖父と同じような柔らかそうな口元と顎の髭をしていた。穏やかな顔付きで近寄り難さはなかった。
 鷲の島の戦士。それも白子の鷲の主人(あるじ)
 結婚はしているのだろうか、それとも、まだ独り身なのだろうか。
 考えても詮ない事が次々と心に浮かんだ。
 自分の未来は閉ざされてしまっているのに、どうしてあの男の事をこんなにも気にしなくてはならないのだろうか。だが、どうしてもその面影は心から消えてなくならなかった。
 これが、恋。
 リズルは知った。
 今までこのような想いは、他の男には抱いたことがなかった。祖父や父を慕う気持ちとも違う。ヴィリアの兄達への感情とも異なっていた。思うだけで苦しく、切なくなる、北海や故郷に対する想いとも通じるものもある。だが、違う。
 あの男が仲間に向けていたのと同じ笑みを、自分に向けてくれたらどうだろう。あの時、男は何を言おうとしたのだろうか。
 そういった事ばかりが頭の中をぐるぐると駆け巡り、リズルを混乱させた。
 自分にはイースという婚約者がいる。結婚することによって、北海と交易島との安泰がもたらされる。
 だから、他の男の事は考えては駄目だ。
 そう思えば思う程に、男の緑の目が忘れられなくなった。
 「お嬢さま」
 扉の前でミアの声がした。
「おかげんはいかがでしょうか。お夕食は召し上がれますか」
「いいえ」
 リズルは涙声を悟られないようにと思いながら言った。「いいえ、結構よ。このまま、休ませて」
「薬湯をお持ちいたしましょうか」
「だいぶん、よくなったから大丈夫よ」
 ミアが去る気配がした。リズルは立ち上がり、窓辺へ赴いた。
 外はもう、暮れかけており、港はかがり火で照らされていた。例の鷲頭船(しゅうとうせん)――鷲の島の船は竜の代わりに鷲が彫られている為にそう呼ばれる――の舳先と艫にも角灯(かんてら)が点っていた。奴隷達の姿は既にない。見張りの男達がいるのみである。
 あの人は見張りだろうか。
 ふとリズルは思った。
 見張りでなければ、今はあの広場で夕餉を摂っている頃だろうか。そして、夜半まで酒を飲むのだろうか。
 いけない事とは知りつつも、リズルの心はあの男から離れなかった。
 何故、今なのか。人を騙してこっそりと息抜きをしていた事への神々の罰なのか。
 リズルは硝子に手を当てた。
 手が届きそうなのに届かない。これが島であったならば、簡単に探せたであろうに。どれ程の競争者がいても、負けはしなかったであろうに。この恋は、始まる前から終わっていたのだ。
 イースが憎いとは思わなかった。確かに、イースが自分を妻にと望まなければこのような事態には陥ってはいなかった。四年先の島での集会で出会えた筈だ。だが、イースも望まぬ婚約をしてしまったのだ。互いに罰を受けたに過ぎない。
 あの男が既に結婚している可能性もあった。それならば、諦められるだろうか。
 リズルには分らなかった。
 諦める、と心に決めたはずであった。
 ――全てが遅くなってから運命の人に出会ったとしたら。
 ディルスの言葉が甦った。あの時、自分は何と答えただろうか。運命の人であるならば、困らせるような事は言わない、そう答えはしなかったか。ディルスはそれに対して、正論だが違う、と言いはしなかったか。
 そう、正論である事と心とは違う。その事をリズルは身をもって知った。とてつもなく苦い思いと共に。
 砂色の髪と緑の目の男の面影は、心のずっと深い所へしまい込んでしまわなくてはならない。決して、振り返ってはならない。
 リズルの心は痛んだ。
 運命は残酷だ。相手は自分の事などもう、憶えてもいまい。ただ擦れ違った北海の娘というだけだ。北の涯の血を引くリズルは運命を知っている。だが、相手はそのような物がある事を知るまい。そして、男よりも女の方がそう言った事には敏感であるというではないか。
 せめて、相手の心に何らかの印象を残しているのならば、諦められるかもしれない。だが――
 あの一瞬で、自分はあの男の心に何かを残せただろうか。後々まで、どこか優しい甘やかな思い出となることが出来れば良かったが、それも、あれだけの短い時間では無理だ。
 唇を噛んでリズルは船を見た。


 結局、リズルが選んだのは、夜が更けてから城砦を出る事だった。誰もいなくなった大広間も厨房もまだ熱気があったが、外の夜風は涼しかった。
 無人となった通りを一人で小走りに抜け、リズルは広場の様子をそっと窺った。
 北海の男達が集い、酒を呑んでいたが、中には膝に女を乗せている者達もいた。リズルはあの男を探した。かがり火に砂色の髪も他の薄い髪色とは区別がつかなかったが、細身の身体と身に着けていた縞の胴着とは特徴的であった。
 どうしても、もう一度あの男の姿を見たかった。今度はじっくりと目と心に焼き付けたかった。そして、それはイースとの生活での小さな慰めになるだろうと思った。希望の灯りではないにしても、自分も人を愛する事が出来るのだという証、運命がこの世に生きているのだという苦くも甘やかな思い出として。
 あの男は仲間と共に笑顔で杯を傾けていた。鷲はいない。広場を囲む建物の屋根に、大きな生き物達の影が見えた。その中に、白いものがあった。あの白子だ。
 何か楽しい話でもしているのか、男が膝を叩き、声を立てて笑った。その声は、広場の喧騒を通じてもリズルには聞えた。思ったよりも深い声だった。それも祖父を思い起こさせた。
 ふと、男が視線を彷徨わせ、リズルの方を見た。
 見付かった、とリズルは身を翻した。男達の膝に乗っていた女達と、同類と思われたくはなかった。
 道を半ばまで走っただろうか。
「待て」
 鋭い声がリズルの脚を止めた。
 身体が震えた。俯き、リズルは、ここに来てしまった事を後悔した。だが、もう遅かった。自分はどうしてこうも間違った道ばかりを選んでしまうのだろうか。
「君は――」深い声は言った。「君は、北海の者だな」
 リズルは頷いた。身体の震えが止まらなかった。心臓も破裂しそうだった。
「こんな夜更けに一人歩きは危険だ。使いで遅くなったのか」
 思いがけない言葉に、リズルは思わず顔を上げた。あの男の優しい顔があった。
「君は昼間の…」
 愕いたように男が言った。
 憶えていてくれた。
 リズルの心は躍った。あの一瞬を、この人も憶えていてくれたのだ。
「ともかく、酔っ払いも多いし夜警もいる。送って行くから――」
 そう言った先から、誰かが角灯を手に向こうからやって来るのが見えた。
「夜警だ」
 男はリズルの腕を引いた。そして、近くの家の納屋に押し込んだ。自分も入って来ると男は黙るように仕種でリズルに伝えて来た。暗がりの中で、二人は息をひそめた。
 こつこつという靴音が通りに響いた。
 角灯の灯りが、納屋の壁板の隙間から差し込んだ。
 やがて、それは通り過ぎ、靴音も消えていった。
 ほっと溜息をつくと男はリズルを見た。
「夜警の事を知らない訳でもなかろうに」男は言った。「危険な遊びを楽しむ年頃でもないだろう」
「ごめんなさい」
 リズルは何とか言った。
「叱っているんじゃない」
「わたし」リズルは男を見て言った。緑の目も、暗がりでは色は分らなかった。「わたし、北海の人が懐かしくて」
 言い訳としては良く出来たと思った。
「北海の者なら他にもこの島にいるだろう。まあ、顔ぶれは変わらないだろうがな」
 リズルは首を振った。どうすれば良いのか、何を言えば良いのか、本人を前にして分らなくなっていた。
「無事に故郷に帰りたいと思うのなら、酔っ払いのいるこのような時間にはうろつかない事だ。娼婦と勘違いされるぞ」
「しょうふ…」
 それが何であるのか、リズルには理解出来なかった。
「それも知らないとは、とんだお嬢様だな」男はリズルの腕を引いた。「少しは懲りなくては駄目だな」
 え、と思う暇もなく、リズルは男の腕の中にいた。そして唇を塞がれた。
 抗う事も出来ずに、リズルは目を閉じて男に身を預けた。ただただ、この時間が続いて欲しいと思った。男からは葡萄酒の香りがした。
 唇が離れると、リズルは恐る恐る目を開けた。男は真剣な顔でリズルを見る眼ていた。
「君の事が頭から離れなかった」
 男の言葉に、リズルは信じられない思いでいた。「再び出会ったのも、鷲神のお導きかもしれない」
 違う、これは罰なのだ、とリズルは思った。自分に課せられた罰なのだ、と。
「泣かないで」
 男が言い、リズルの頬に唇付けた。知らず、リズルは涙を流していた。
「懲らしめなんかではない、私は君に恋した」
 腕が、リズルを抱き締めた。「ああ、そうだ。あの瞬間に、私は恋に落ちた」
 信じられなかった。この人も、自分と同じ気持ちでいたのだ。そのような奇跡が起こって良いはずがなかった。運命の女神は、自分だけでなく、何の罪もないこの人さえも過酷な運命に晒そうと言うのか。それとも、この人は婚姻の女神に背いたのか。
「何を泣く。私は今すぐにでも、君の家に行って結婚の申し込みをしたい位だというのに」
 酔っ払い共では立会人にはなれないからなと、小さく男は笑った。婚姻の女神に背いたのではないにしても、この人との恋に始まりは有り得ない。
 男はリズルの顔を胸に押し付けた。心臓の鼓動が高鳴っているのをリズルは聞いた。
 この人は大人なのだ。自分よりもずっと大人なのだ。
 リズルは思った。出会ってすぐにせよ、求婚の立会人の事まで考えていてくれている。だが、自分はそれに応える事は出来ない。
 涙がおさまると、男はリズルを胸から離した。
「名は、何と言う」
 答える事が出来なくて、リズルは首を振った。そして、腕を思い切り突っ張って男を突き飛ばした。不意を突かれた男はふらつき、藁で足を滑らせた。
「ごめんなさい」
 リズルはそう言うと納屋を飛び出した。そして、後ろを振り返らずに城砦への道を走った。
 どうすれば良かったのか、自分でも分らなかった。唯、逃げたかった。真実を話す勇気もなく、その場から逃げる事しか出来なかった。
 城砦に戻ると、裏口の木戸で呼吸を整えた。涙が再び流れた。自ら運命を諦めなくてはならなかったのだ。それは自分の責任であった。勝手な行動を繰り返した自分の責任だった。
 部屋へ戻ると、リズルは声を殺して泣いた。もう二度と会う事のない人だった。互いに同じ思いでいたとしても、決して許されない関係だった。相手が真剣であればある程に、早くに終わらせなくてはならない関係でもあった。それを、諦める、と祖父には偉そうに言いながら、未練がましい行動をしてしまった。運命の人を困らせるような事はしないと言いながらも自分のした事は、何だ。
 あのまま死んでしまえたら良かったのに。
 リズルはそう思った。



 目醒めると瞼が重かった。泣きながら眠ってしまったらしく、酷い顔になっていそうだった。それでもリズルは起き上がると真っ先に港を見た。まだ、鷲頭船は停泊していた。神々に感謝の祈りを口にすると、リズルはミアが入って来るのをじりじりとしながら待った。ようやく来たミアがリズルの顔を見て愕くのを無視して、朝の支度を始めて貰った。
 冷水で顔を洗い、絹で顔を擦ると大分、ましになった。朝餉は欲しくはなかったが、今日も姿を見せない訳にはいかなかった。それでなくとも、暑気あたりの時には夫人に随分と迷惑をかけたのだ。仮病で押し切る事は出来なかった。
 食事の席では、三人はリズルの異変に気付かないようであった。その事を有り難く思いながら、リズルは終始俯いて麵麭を口に運んだ。
 食事の後、部屋に戻ると、まだあの船はいた。だが、今しも出航しそうな様子であった。
 リズルは慌ててシエラを探した。そして、言った。
「城壁に行きたいのですが、鍵の管理は誰が」
 不審げにシエラはリズルを見た。
「わたくしですが」
「では、城壁に行く扉を開けてください」
 有無を言わさぬ調子で言うと、シエラは気おされたように頷いた。リズルはシエラの後について城壁へと上る扉へ行った。
「ひと渡り、散歩してきますから、戻ったら声をかけるわ」
 付いて来て欲しくないという事を言外に臭わせてリズルは言った。すると愕いた事にシエラは黙って引き下がった。
 城壁に行くと、リズルは港を探した。ようやく見付けた時には、船は出航する所であった。
 五隻の鷲の島の軍船(いくさぶね)と一隻の積荷船とが港を出て行く。鷲達が空を舞っていた。
 と、その内の一羽が城砦の方に向かって飛んで来た。
 あの白子だ。
 リズルは気付き、どきりとした。
 あの人の鷲だ。
 青空に白く大きく、鷲は近付いて来た。そして、城壁に降り立った。
 小首を傾げ、赤い目でじっとリズルを見つめた。
 ――どうして帰らないの。
 そう、その目は言っているようにリズルには思えた。
「どうしても、帰れないの」
 リズルは鷲に向かって言った。そして、髪をほどき、編み込まれた青い平紐を手にした。
「あの人に渡して。わたしたちは出会ってはいけなかったの。これは終わりの印」
 リズルは鷲の脚に平紐を結びつけた。隼の何倍もの大きさの鷲であったが、何故か恐ろしくはなかった。
 鷲は、一声高く鳴くと、再び空へと舞い上がり、主人の元へと飛び去った。
 リズルはそれをじっと眺めていた。これで、終わったのだ。


 鷲が飛び去り、船が視界から消えると、リズルは髪を編み直し、少しふらつく脚で城壁を降りた。シエラに用が済んだ事を伝えると、普段のように居間に向かった。
 全てが終わったという思いからか、心が動かなかった。夫人に遅れた詫びを言い、刺繍の準備を始めた。ゆっくりとではあったが、針を動かし、夫人との会話も問題なくこなせた。
 それが少しの自信となり、午後の訪問にも不安なく同行する事が出来た。
「昨日、北海の者たちが港に着いたことをご存じかしら」
 リリアナがリズルに言った。「いくらこの島では剣を抜かない事ことになっているといっても、信用できませんもの。後で知って、ぞっとしましたわ」
「これからはしばらく、家でおとなしくしていなくてはならないかもしれませんわね」アリアも言った。「万が一のことを考えますと、その方が安全でしょう」
 北海の戦士というだけで、こんなにも嫌われるのかとリズルは思った。元より、それを口に出してはならない事は分っている。だが、自分の生まれ育った地の人々が悪く言われるのを聞くのは、さすがに辛かった。そして、あの優しい緑の目が浮かぶのだった。あの優しさは、同じ北海人に対してだけなのだろうか。本当にリズルが大陸の北の者であったならば、あの優しさもなかったのだろうか。
 リズルはその思いを振り払った。
「あら、リズルさま、お顔色が悪うございましてよ」
 アリアが言った。「北海の者の話は止めにしましょう。リズルさまが怖がっていらっしゃるわ」
 そうではないのだが、話が変わるのは有り難かった。自分の顔色が悪くなっている事にも気付かなかった。
「アリアさま、お輿入れの準備はずいぶんと進みまして」
「いいえ、まだまだこれからですわ」
 皆の話題はアリアの結婚へ移った。何を用意して行くのか、結婚式に着る衣装はどのような物なのか。
 本来ならば、リズルも結婚に向けてヴィリアとそのような話をしていたのかもしれない。持参財と結納財の披露目を行っていたのかもしれない。
 その相手がイースではなく、あの男であったならばどれ程良かったであろうか。
 イースの事が嫌いという訳ではない。イースはイースで良い人なのだろうと、暑気あたりの一件で思うようになっていた。だが、それは恋でも愛でもないというだけだ。それは残念な事であったが、それ以上の関係にはなれそうにないと夏の間に思い至った。
 アリアはにこやかに皆に話している。
 だが、その心は如何ばかりなものかとリズルは思った。本当に好きでもない人と結婚しなくてはならない気持ちは良く理解出来る。リズルは思った。アリアには本当に好きな人はいるのだろうか。だとしたら、アリアの心は何と強いのだろうか。好きな人に思いを伝えることなく――恐らく、それは「はしたない」事であろうから――他の男の元へ嫁ぐというのに、笑顔を絶やさない。家族だけの時にはどうかは分らなかったが、アリアは立派だった。
 自分もそのように振る舞わなくてはならないのだとリズルは思った。自分の気持ちを押し殺して微笑む事ならば、交易島へ来てからずっと上手になった。例え運命の人と別れを告げてもこうしていられるのだ。明日になれば、もっと上手に振る舞えるだろう。その次の日には更に。
 泣きたくなれば夜に泣けば良いだけの事。そして次の日には全てを忘れて微笑めば良いのだ。
 リズルは皆の話を微笑みを浮かべながら聞いた。お喋りに夢中な娘達は、リズルがたった一日で変わってしまった事には気付きもしないであろう。運命に出会い、そして別れた。そのような事を知る由もなく、その必要もない。ヴィリアがいてくれたらと、これ程強く思った事はなかった。ミアでもない誰でもない、ヴィリアだ。何でも話せた友人、心の全てを互いに知り尽くしていた友人。それをこの島で得るのは不可能であった。
 自分がここでは呪われた北海人である事は、イースの言葉から知った。そればかりではない。リズルが書物庫から持ち出した歴史書でも北海の事を良く書いている物は全くなかった。襲われる側の人間からしてみるとそれは当然の事であろうが、北海に人々が住み始める前――まだ北海人が一つ所に住んでいた頃の事からして好意的ではなかった。イースがかつて口にしたように、神の怒りによってそれまで住んでいた地が死の地となり、北海に逃げて来たと言うのだ。
 リズルの知る北海の歴史とは大きく異なっていた。それは天上での神々の戦いによる余波であった。それにより地が揺れ、山が爆発し、海が押し寄せた。それ故に、新天地として北海を求めたのだ。神々の戦いはやがて治ったが、人の住める地ではなくなっていたそれまでの故郷を捨てざるを得なかった、と。
 どちらの神々の物語が正しいのか、リズルには分らなかった。だが、北海の神々を心の底では信じている事に変わりはなかった。
 その信仰が、こちらの神の怒りに触れたのであろうか。
 それとも、信じていた神々を否定しなくてはならない事が、北海の神々を怒らせたのか。
 どっちつかずのリズルには、相応しい罰だったのかもしれない。
 城砦へ戻り、夕餉を済ませて一人になっても、涙は一向に流れはしなかった。胸の苦しい思いがなくなった訳ではなかったのだが、昨日とは異なり涙は一滴も出なかった。
 あの白子の鷲に託した思いを、あの人は受け取ってくれただろうか。リズルの正体を知ってくれただろうか。そして、全てを理解してくれただろうか。
 リズルは寝台に横になり、とりとめもなくそのような事を考えていた。
 理解して貰えたからどうだというのだ。自分は、あの人を傷付けただけだ。憎まれても仕方のない事をしでかしてしまったのだ。
 好きな人には嫌われたくはなかった。それが、例え始まる前に終わってしまった関係であっても。
 今頃は、船の上であの鷲の脚に結わえた平紐の意味を考えているのかもしれない。誰かが自分の方を見ていて、何事かを男に言っているのかもしれない。
 名も知らぬ人であった。
 それで良かった。
 名を知ってしまったなら、以後リズルはそれに取り憑かれる事になるだろう。消息を知りたくなるだろう。
 それならばいっその事、知らない方が良いのだ。
 今は鮮やかな面影も、いつかはぼんやりとした思い出に変わる。それまでの辛抱だった。その頃には、自分はイースと結婚してそれなりの家庭を築いている事だろう。
 イースと家庭を築く、という考えにリズルはどきりとした。それが何を意味するのか知らない訳ではない。本当に運命を――あの人を想いながらそのような事が可能なのか、リズルには分らなかった。北海でも、全ての娘が好きな男と結ばれる訳ではない。父親の決めた相手と結婚する事の方が多い。そのような者達は、どのようにして自分の想いを断ち切ってきたのか。それとも、運命の人と思えるような人とは出会ってはいないのか。
 リズルはぶるっと身体を震わせた。
 このような事態に陥ったのも、全て自分の責任だった。それとも、これも運命の女神の采配なのか。だとすれば、何と残酷な事だろう。
 まんじりともせずに、リズルは夜明けを迎えた。
 ミアがやって来たが、リズルが寝ずにいた事には気付かぬようであった。朝餉は欲しくはなかったが支度が終わると大広間へ降り、麵麭も乾酪も取らず発酵乳だけを口にした。リズルだけは、葡萄酒よりも発酵乳を好む事から、暑さがなくなった頃になってもそれを続けさせて貰っていた。それをしてイースは子供じみているのと言うが、気にしなかった。
 大人なのは、あの人のような男を言うのだとリズルは思った。
 何を思い、考えても結局はあの(ひと)に行き着いてしまう。それではいけない。
 刺繍をして訪問をこなし、冬になる前の鷹狩りの話をアリアとし、他の娘とは冬の間の楽しみについて話した。
 大陸の内地、という(てい)は取っているが、本当は北海の事であった。皆が集まって詩人の詩を聞き、物語をする。船が出ない為に冬の間ずっと滞在し続ける他島の客人の話を聞いたり、織物の模様の絵解きで楽しむ、と言った具合であった。
 皆はそれを興味深げに聞いていた。こちらの冬はそれ程雪はないので、屋内に何日も閉じ込められる事もなければ、海は荒れる時もあるので船は少なくはなるが交易が中止されることはないと言うのだ。
 冬でも人の往来が絶えないというのは羨ましかった。また、だからこそこの島は裕福なのだとも思った。
 夕餉になっても食欲は戻らなかった。リズルはそっと肉を足許の犬にやった。犬の腹に収まる方が、イースのようにぐちゃぐちゃにして残すよりはずっと良いと思った。
 夜も眠りが浅かった。そして、次第に何も感じず、何も思わないようになって来た。あれ程好きであった鷹や乗馬にも興味を失い、書を紐解く事もなくなった。あるのは、ただあの男の面影のみであった。そればかりは、何をしようと何を思おうと消える事がなかった。
 そんな日が、どの位続いただろうか。リズルが窓から港に目をやると、良く知った狼頭船が見えた。
 お祖父さま。
 リズルはがばと窓に齧り付いた。祖父の船だ。北の涯の一族でも、祖父だけが狼を船首の象徴としている。
 それまで何処で堰き止められていたのであろうか、涙が止めどなく流れた。
 ミアが入って来た事にも気付かず、リズルは港と船を見ていた。
「お嬢さま、お加減でも悪いのでしょうか」
 愕いたようにミアが言った。
「お祖父さまの船だわ」リズルはミアに言った。「あれは、お祖父さまの船よ」
 ミアが側に来て窓を覗き込むのが分った。
「あれは、お祖父さまだわ」銀色の髪の人物を船上に見付け、リズルは言った。「なんて事なの」
「あの方がお嬢さまの…」
 ミアの声にリズルははっとした。自分が北海の者である事は、この城砦では公然の秘密かもしれないが、口に出してはならない事であったのだ。しかし――
「会いたい」リズルはミアの腕を摑んだ。「会いたいの」
 困ったようにミアはリズルを見た。
「落ち着いてください。今、朝餉を持って参りますので」
 ミアが去るとリズルは再び窓の外を見た。祖父が自分の方を見はしないか、自分に気付いてはくれまいかと儚い望みを胸に見つめた。だが、銀色の髪の祖父は城砦の方に顔を向けようとせず、そのまま船を下りた。
 涙が止まらなかった。祖父からも忘れ去られてしまったかのような印象を受けた。
 食事を持ってミアがやって来た時も、リズルは声も立てずに泣いていた。ミアが何か言っているのは分ったが、その言葉が理解出来なかった。
 泣き止もうと思っても、涙は止まってはくれなかった。自分と北海を繋ぐ全てが切れてしまったように思えた。祖父にとっては自分は最早、孫ではなく交易島の住人なのだろう。いなくなった者をいつまでも哀しむ訳にはいかない。祖父は族長なのだから。
 どの位の時間が過ぎたのだろうか。手つかずの朝餉をミアが下げ、夕餉を持って来た。だが、リズルは手を付ける気にはならなかった。止まったと思ってはすぐに涙が流れ、自分でもどうしようもない程であった。
 哀しい。懐かしい。愛しい。
 そう言った感情の全てが、一気に押し寄せて来ていた。
「お嬢さま、何かお召し上がりになりませんと――」
 ミアは言ったが、リズルは(こうべ)を振った。
「いいえ、何も欲しくはないの。北海へ帰りたいだけなの」
 自分が何を言っているかも、もう定かではなかった。「北海へ帰して」
 そう、北海。愛しい、懐かしい北海へと戻りたかった。許されぬ事であったが、全てを壊しても構わないと思う程に、その気持ちは強かった。
 ミアが部屋を出て行った事さえリズルは気付かなかった。
「何をしている」
 どの位そうしていたのであろう、思いがけない声に、リズルは振り向いた。
「夕餉も食べないつもりか」
 イースが部屋にずかずかと入ってきた。
「何を…」
 リズルはイースに文句を言おうと思ったが、言葉にならなかった。
「この部屋を与えたのは間違いだったようだな」
 イースは窓辺へと近付くと、リズルを窓から引き剥がし分厚い綴織を降ろした。
「何をするの」
 リズルは綴織を上げようとしたが、イースの手が腕を摑み、リズルを寝台に放り投げた。如何に痩せているとはいえ、そこは男の力であった。
「最近は殆ど食べてはいないだろう、死にたいのか」
「あなたには関係ないわ」
 リズルの目には、今度は悔し涙が流れた。起き上がり、イースに向かって行ったが、簡単にねじ伏せられてしまった。
「力が入っていないではないか」イースが言った。「見ろ、腕も骨と皮だ」
 リズルは暴れた。だが、正直、何日も碌に食べてはいない身体に力はなかった。
「北海に帰りたいのか」
 イースがぽつりと言い、リズルは抵抗するのを止めた。
「この間も北海からの船が来たな」リズルはぎくりとした。まさか、イースは抜け出した事を知っているのだろうか。「あの時、お前は出航を見送っていたな」
「なぜ、わたしだと思うのです」
「港から見えた。夏至祭でもないのに城壁に上ろうという者はそうはいない。それに、シエラに確認済みだ」
 何をしても、イースの掌の上のような気がして来た。力も抜けた。何も答える気が起きなかった。
「だんまりならそれも良かろう」
 イースは抵抗しなくなったリズルを放した。それでも、リズルは起き上がらなかった。いや、起き上がれなかった。全く力が入らなかったのだ。
「それ程北海に帰りたいのか」ぽつりとイースが言った。「あの者達は呪われていると言うのに」
 呪われてなんかいない、そうリズルは言おうとした。だが、声が出なかった。
「呪われた異教徒共とは、折角縁が切れるというのに、お前はまだ、北海に帰りたいと思うのか」
「あなたは、自分の一族が呪われていると言われて、捨てることができて」
 ようやくの事でリズルは言った。イースは怯んだようであったが、高圧的な態度は崩さなかった。
「私の事ではない、お前の事だ。北海を捨てて我々の中に入れ、と言っているのだ」
「あなたには、そんなことを言うことはできないわ」
 涙が再び流れて来た。
「泣くな」
 鋭い一言と共に唇を塞がれた。リズルは暴れた。渾身の力を込めて、イースの胸を押した。
 違う。
 あの人の唇とは違う。
 ようやくイースは唇を離したが、その目には傷付いたものがあるようにリズルには思えた。リズルは唇を擦った。あの人の思い出が穢されるような気がした。
「お前の事が好きだった」イースは言った。「お前の事が、好きだ」
 その言葉にリズルの身体は凍り付いたように動かなくなった。
 今、イースは自分を好きだと言ったのか。
 あれ程、嫌な事を言っておきながら、自分の事を好きだ、と。
「あなたの事は嫌いじゃないわ」
 ややあってリズルは言った。それは、真実だ。イースの目に光が点ったが、希望を持たせてはいけないと思った。
「でも――」リズルは言った。「でも、恋じゃない。愛でもないわ」
 再び涙がこぼれた。自分はどれ程の人を傷付ければ済むのだろうか。人を傷付けるために自分は産まれて来たのか。
 イースはリズルを凝視した。そして、無言のままに部屋を去った。
 リズルは顔を手で覆って泣いた。
 泣きながら眠りに落ちてしまったらしく、何人もの人の話し声がする事にリズルは気付いた。瞼を開けようにもどうにも重く、持ち上がらなかった。その声は、どこか遠くで聞えるようであった。そのような筈はないと思いながらも、リズルはそこに祖父の声を聞き取った。
 これは、夢なのだ。
 祖父が城砦に来るはずがなかった。
 そうであったら良いという願望が、夢となって現れたものだ。何と優しい夢だろうか。リズルは泣いた。そして、再び深い眠りについた。


 波の音と揺れる床に気付いたのは、それからどれ程の時間が経ってからであろうか。
 リズルが目を開けると、そこは天幕の中であった。夜着はそのままだ。身体は毛布にくるまれていた。
 ここは、どこだろう。
 床が軋み、左右に揺れる。
 リズルは立ち上がって天幕の入り口に手を掛けた。
 明るい光がリズルの目を射た。
「起きたか」
 リズルが眩しさに目をしばたかせていると、懐かしい声がした。
「お祖父さま」
 愕いてリズルは声の方を見た。そこには、銀色の髪を風に靡かせた祖父が立っていた。
「丸一日、眠っていたから心配したぞ」
 そう言って祖父、海狼(かいろう)ベルクリフは笑った。
「一体、これは――」
 リズルは混乱した。ここは、祖父の船だ。そして、自分は今、海の上にいる。
「事情は追々、話すとしよう。今は、休め」
 祖父は言った。「それとも、腹が減ったか」
 リズルは赤くなった。もう何日も碌に食べてはいなかったが。そのことも祖父に見抜かれているのか。
「粥を用意させよう。中で待っていると良い」
 リズルは大人しくその言葉に従った。言う事をきいていれば、その内、祖父が事情を話してくれるであろう事は分っていた。祖父に対する信頼は絶対であった。
 ぼんやりとリズル天幕の中を見回した。祖父の長櫃と共に、自分の物もある事に気付いた。そちらへ歩み、中を見てみると、北海から交易島へ持って行った物がそのまま入っていた。
 やがて、粥を手にした祖父が入って来た。
「急ぐな、ゆっくりと食え」
 優しい微笑みを浮かべた祖父はリズルを安心させた。リズルは粥の器を手にすると、自分がどれ程空腹なのかを思い知った。
 祖父の言うようにゆっくりと食べるのは至難の業であったが、出来る限りがっつかないようにした。
「さて、では、何から話そう」
 祖父が言った。
「わたしは、お祖父さまの船にいるのですね」
「その通りだ」
「でも、なぜ」
 顎髭をしごきながら、祖父は言葉を選んでいるようであった。
「お前は、島へ帰るのだ」
 やがて祖父が口にした言葉に、リズルは信じられない思いであった。「最早、何も案ずる事はない。お前は島へ戻る」
「でも、それでは北海が…」
「それも心配ない」
 祖父はきっぱりと言った。「お前が島に戻る事で変わる事は何もない」
「わたし、お祖父さまが城砦にいらした夢を見ました。これも、夢なのでしょうか」
 リズルは急に不安になった。そんなに都合の良い事が起こる筈がない。
「夢ではない。全て現実に起こった事だ」祖父はリズルを胸に抱き寄せた。「順を追って話そう」
 リズルは目を閉じて全てを祖父に委ねたかったが、そっとその胸に手を置き、姿勢を正した。
「大丈夫ですわ、お祖父さま、わたし、覚悟はできていますから」
 何度、その台詞を自分に対して発したであろうか。そしてその度に、自分の覚悟の甘さに絶望しなかったか。
「そのように構える事はない、だが、疲れたならすぐに休め」
 リズルは頷いた。
「我々は交易島にいた」祖父は語り始めた。「その夜半だった、突然、イース殿が訪ねて来られた」
 イースが。
「イース殿は、お前を北海に連れて帰って欲しいと私に頼まれた。お前付きの娘から、私がお前の祖父だとお聞きになったらしい。何故なのかを私は訊ねた。すると、お前が北海に帰りたい思いの余り体調を崩していると言うではないか。私は城砦には入れぬと言うと、イース殿は便宜を図ると仰言って下さった。そこで、私はお前に会いに行った。お前は眠っていた。だが、痩せて、しかも顔は泣き腫らしていた。このまま交易島に置いていても生命の危険があるだろうとイース殿は仰言った。そこで、私は領主殿とも話した。お前を北海に戻すとな。そして、この事は我々の関係に何等影響を及ぼさぬ事も確認した」
「それで、わたしはこの船に――」
「そうだ」
 リズルは溜息をついた。祖父は再びリズルを抱き寄せた。
「イース殿は、本当にお前を愛しておられたのだな」祖父は言った。「だから、お前を帰して下さった」
 もう涸れたと思っていた涙が湧き上がって来た。それ程の深い愛情を、イースが自分に抱いていたとは思わなかった。
「お前は――出会ってしまったのだな」
 その言葉に、リズルは愕いて祖父の顔を見た。
「私には分る。お前は、運命と出会ってしまったのだな。偽りを述べるな」
 祖父には嘘はつけない。
「大丈夫だ」祖父はリズルの頭を抱え、胸に押し付けた。「大丈夫だ。恥じる事ではない」
 暫く、リズルは祖父にしがみついていた。鳴き声は、荒くなった波音が消してくれた。
「わたしは馬鹿な子供だったんです」リズルは言った。「全ての人を傷付けて――」
「私には、お前が最も傷付いているように思えるぞ」
 祖父はリズルの髪を撫でた。「もう、済んだ事だ。何も言うな。お前はこれから、その運命を探し、幸せになるが良い」
 リズルは(かぶり)を振った。女の身で、どうにかなるとは思わなかった。鷲の戦士だとは知っていても、集会に参加しに来る戦士であるかも分らない。それに、島で集会が行われるのは四年後だ。とてもではないが、それまで独り身を通す人ではあるまい。
 数日の船旅であったが、祖父は常にリズルの側にいてくれた。
 そして、島に着いた時、リズルは母の姿を群衆の中に見出した。時ならぬ北の涯の族長船の到来に、物見高い人々が集まって来たのだろう。誰かが、母に告げたに相違なかった。
 最初は信じられないという顔をしていた母が、両手を広げてリズルの方に駆けて来た。その腕に包まれた時、始めてリズルは自分が北海へ帰ってきたのだと実感した。
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