一日目、その八

文字数 6,569文字

「お釈迦にしたことは勿論申し訳ないと思っとるよ。弁償費用は全部こっちで払わせてもらうから心配せんでほしい。どうしても今、この国から出ていかれるのは困るんよ」
 既に彩史の後ろをついて歩いていた集団はバラバラに散っていた。そして彩史は極めてあっさりと、私達の車を廃車にしたことを認めた。そしてそれが、自分達「宍戸」の意志であることも。
 私達は再び屋敷にいた。けれどもまだ、中には上がらせてもらえていない。土足の私達を見下ろす形で、やけに刺々しい視線を送る芳恵の表情が印象的だった。そんな彼女らのある種堂々とした態度に、私が驚きを隠せなかったのは言うまでもない。
「ここを出てはいけないのは、魔女が倒れたからですか」
 唾を飲んでから私が慎重に尋ねると、芳恵は即座に「いいえ」と答えた。
「もはやそれだけの話ではないのです。あなた達、あの娘を田上さんの所に送った後、どこで何をしていたのです」
「車の様子を見に行きました。まるでアリバイを疑われているかのようですね」
 こんな時でも全く物怖じしないツバキは大したものだった。けれどもそれは彼本来の生意気さが表に出始めている証拠でもあって、隣にいる私をはらはらさせる。
「これは皮肉でもなく単純な感想なのですが、ワンボックスの車をあそこまでの状態にするには時間を要したのではありませんか?」
 そして臆することもなく、ツバキは気になっていた疑問をぶつけていく。ここでも自分本位の性格が発揮されていた。彼の中では宍戸家の人々に上手く取り繕うよりも、自分の考えを構築することが最優先なのだろう。
「僕達が逃げられては困るからスピードも求められる。人数もそれなりに必要だったはずです。……僕の質問に、何かおかしなところでも?」
 ツバキの確かめるような言い草は、「重大な話があるならさっさと話せ」というあからさまな意志表明でもあった。これには流石の芳恵らも面食らったようである。
「そ、そうやな。まあ五、六人で頑張ってもらったんとちゃうか」
 姉の顔を伺いながら彩史が答えた。
「うちの宍戸の者が「こうしろ」言えば、ここのモンは大抵のことは何とかしてくれる。ただまあ、根っからの信奉者ってわけでもないんやけども」
「宍戸家そのものが大きな力を持っている。だから魔女と一緒にここを訪れた僕達の行動も街一帯で把握し、妨害することができた。そういうわけですか」
 そしてツバキは何やら考え込んだ一方で、それを見てようやく芳恵が声を発した。
「本当に……あなた方は何も知らないようですね」
 ツバキの視線が芳恵の方を向く。私は我慢の限界が近づき、ぶつけるように彼女に尋ねた。
「先程から何のことをおっしゃっているんですか! 人が一人死にそうになったこと以上に重大なことなんてないでしょう!」
「道真が何者かに殺されました」
「⁉︎」
 それはあまりに突然で、すぐには信じられなかった。赤木道真……先程彼は私達に、医者の場所を教えてくれたばかりではないか。
「道真さんが? ……いったい、どうして」
「そんなものが既に分かっているとでもお思いですか。ここは警察へも通報出来ない閉鎖された島。そのことはあなた方も「常識として」ご存知でしょう?」
「その為に僕達はここへ呼び戻されたと?」
「ええそうです」
 それから宍戸の主は断言した。
「赤木一族としてあの子に与えられる予定だった権力と莫大な財産、それが目当てであの子は殺されたに違いありません。あなた方はすぐにその犯人を見つけ出し、捕まえなさい!」
 未だ玄関にも上がらせてもらえない状況で、たった今彼女から何を命令されたのか。私には全くその意味を理解することができなかった。それほど先程から芳恵から与えられた衝撃というものは大きく、かろうじて受け入れるのにも手一杯である。
 ツバキが口を開いた。
「魔女を送り届けていた僕達に道真さんを殺すことはできない。容疑者圏内から外れているからこそ、事件を解決しろというわけですね」
「ええそうです。死にかけの小娘を抱えて、片手間に私の息子を殺しなどしないでしょう? 誰でも理解できることです。ツバキさん、今こそあなたの推理力が発揮される機会ではございませんこと?」
 芳恵の言い方は皮肉とも取れるほど挑戦的かつ高圧的であったが、当のツバキは微笑んだままだった。
「まだ事実をこの目で確かめていないことには、何とも申し上げられませんね」
 初めから衝撃を受けた私とは違って、彼はまだ少しも信じていないようだった。「信じ難いのは俺も一緒や」と彩史が言う。
「今屋敷ん中では絶賛パニック混乱中。ついさっきまでピンピンしていた道真君が、あんなことになるなんてな。断言するけど、あれは事故死や病死なんかじゃない。明らかに殺されとる」
「こちらの屋敷の中で殺されているんですね? ……では、実際に見せていただきましょうか」
「その……今、道真さんは?」
「道真の死体」とは現段階で言いたくなかった。多少の失礼を承知で、私は恐る恐る尋ねる。
「今はそのままにしています。けれど来るべき者がこちらに着き次第、すぐにでも」
「俺の嫁さんとこ、まあ、いわゆる「お義兄さん」な。お坊さんなんや。ここらからはちっくと離れたとこやけど、今日の内には来てくれはる」
「案内しましょう。……それなりの覚悟は勿論、できておられますね?」
 芳恵は眉をひそめて念を押した。これに対してツバキも私も黙って頷き、先に自室に戻った彩史と別れると芳恵の後に従った。
「他の皆さんは?」
「休まれるべき方も中にはいたので、今はそれぞれの部屋に。……貴方達も、案内が終われば暫くここに泊まることをおすすめします。勿論部屋や荷物は、触らずにそのままにしてありますので」
「おすすめすると言われても……」
 唯一の移動手段を廃車にされたのだから、今の私達には帰りようがなかった。
 芳恵が案内したのは、玄関のすぐ隣の部屋だった。二間の和室が連なっており、奥の角を曲がれば浴場へ続く廊下へと繋がっている。ぐっと力を込め、苦労して閉ざされた襖を芳恵が開けば、中には二人の人物がいた。
「おお。おかえりなさんな、お二人さん。帰りはかなり遠かったんじゃねえの」
「柳さん」
 廊下の灯りと室内の豆電球が照し出したのは、着物に身を包んだ柳とルームウェア姿の秋津政景だった。緊張の面持ちでその場にいた政景に対し、私達を出迎えた柳からは穏やかな雰囲気が感じられる。その様子は一見場違いにも思えたが、芳恵から厳しい目で見られてる中で心強くもあった。
「その、柳さん。先程は……」
「気にしない気にしない。あの時俺はちょっと外の空気を吸いたかっただけだから。な?」
 柳は私達を車に乗せたことについて、それ以上のことは口にしなかった。芳恵の動じない様子を伺うと、どうやら彼は屋敷に戻ってからも上手く誤魔化せたようだった。
「お二人と芳恵さん達が戻られるまで、柳さんと私でここを見張っていたんです」と政景が事情を説明する。「万が一誰かがこっそりここに忍び込んでも、すぐに捕まえられるように。……まあ、そんなことにはならないだろうと思ってはいましたが」
「そこの奥にいるのが……道真さんですか」
 ツバキが慎重に尋ねると、二人は揃って首を縦に振った。
「流石に女性に見張りをさせるのは酷だと思ってね。宮田さんも二階の使用人室に控えているよ。特に額の傷跡がざっくり開いちゃってる状態だから」
 咳払いをしてから、ツバキの後に続いて私も奥へと進む。芳恵は開けた入り口から、天井の低くなった室内を黙って見つめているだけだった。
 道真は二間の奥側の一室から床の間にかけて、もたれるように仰臥していた。わずかに前髪が隠してはいるが、刃物のようなもので切られた傷は幾つもあった。中から流れた血が鼻筋を通って滴った跡は、まるで涙のようである。本来は適度な閉塞感によって落ち着きのある空間であったはずなのに。無惨な光景は見るも明らかだった。光なく虚空を見つめた道真の瞳が、「どうして」と訴えかけているようにも見えた。
「まさかここに戻るまでに、こんなことが起きるなんてね」
 私にしか聞こえない程の声量で、ツバキは首を左右に振った。流石の彼も「やってられないよ」と沈痛な面持ちをしている。私も息が詰まり、その場に立ち尽くすだけで精一杯だった。
「僕達が屋敷を出てから、いったい何があったんですか」
「それはまず俺よりも、政景くんに答えてもらった方がスムーズかもな」
 ツバキの問いかけに柳はそう答えた。視線を向けられて、政景は一つずつ言葉を確かめるように説明する。
「堂島さんが倒れて騒然とした後、とにかく全員ホールから出るように芳恵さんに言われました。そして彩史さんからは「ひとまず自室で待っているように」と言われて……。そこから私達は別れて、彩史さんの言葉に従いました。道真さんもその時は勿論一緒です。芳恵さんとのことが気になっていたので、「大丈夫ですか」と小声で尋ねたら、「いいのいいの」と平気そうに仰っていて……」
 政景の言葉は続く。
「その後しばらくは……少なくとも私は何もせずに自分の部屋にいて、二十分かそこらが経った頃でしょうか。いなくなった道真さんを全員で探すことになって、私はずっと芳恵さんの傍にいました。そして彼女がここの襖を開けてみれば、こんなことになっていて……」
「二十分……そんなに僅かな時間で、道真さんは何者かに殺されたというのですか」
「あ、いえ。「少なくとも二十分」と思っていただいたほうがいいのでしょうか。私も部屋の中でずっと時計を見ていた訳ではないので、自信がないといいますか……」
 短時間で行われた殺人であることにツバキは違和感を抱いたようだが、その時間はまさしく私達が紫帆を病院へと連れて行っている間でもあり、まるでほんの一瞬の隙を突いたようだった。
 ツバキは室内全体に視線を巡らせて周囲に凶器がないことを確かめた後、道真の死体にそっと近づき、ハンカチ越しに彼の前髪を少しだけ掻き上げた。後で聞けば致命傷となったものは、額の中心の深々とした刺し傷だったという。彼のの後ろで私は傷跡の直視を避けるために目を逸らしつつ、二人に尋ねた。
「もしもここで道真さんが殺されたのだとしたら、その時の争う物音とか、叫び声とかが聞こえた筈ですよね? 大きなお屋敷と言っても、一つ屋根の下でしたら……。二人はそのような音とか、耳にはしませんでしたか?」
「すみません。私はそのような音は……」
「俺も同じだ。というよりそれについては一つ、別に説明しないといけないことがある」
「一つ別に……? それはいったい」
「それは俺なんかが言うより、後で宍戸の方々から言ってもらった方が良い気がするな。要するに、デリケートなことだよ」
「はあ……」
 何だか要領を得ない言い方ではあったが、それほどに重く秘された何かが宍戸家には存在するということだけは理解できた。先程芳恵の口から出てきた「赤木一族」という言葉もそうだ。あの時は言及しなかったが今も私は気にかけているし、きっとツバキも重要なキーワードして覚えていることだろう。
 芳恵の実の息子であるにも関わらず、道真は苗字を「赤木」と名乗っていた。そして一方で芳恵はこう断言したのだ。「道真が殺された動機は、彼が赤木一族として受け継ぐ予定にあった権力と財産である」と。
 これらには事件のあるなしに関わらず、宍戸家として重大な事情が関わっているのだろう。そのように考えるのは、普段は鈍感な私でもあまりに容易いことだった。けれども戸口にいたままの芳恵は、何も答えようとはしない。説明する機会は今ではないと考えているのだろうか。今ここにいる唯一の宍戸家の者が何も言わないのなら、私達にはどうすることもできなかった。柳はそれ以上口を開こうとはせず、政景は私達と同じく宍戸家のことをまだよく把握していないのか、しきりにきょろきょろと視線を動かすだけである。
「凶器がないのが不思議ですね。……まだ誰かが持っているのでしょうか」
「揉み合った形跡の所々に血の跡がある。不意に額を刺されてから抵抗したために、部屋自体はそこまで荒れていないのかもしれないね」
 死体の傍でしゃがみ込みながらツバキは、「刃物と聞いて、思い当たる場所はありますか?」と誰ともなく尋ねた。
「厨房は当然ながら、倉庫や庭の納屋にもありそうだな。斧やら包丁やら鋏やら」
「それならコレクションルームにもありますよ。昔の刀ですとか……。実用性があるかは怪しいところですが」
 そして柳や政景からそれぞれ意見が出てきたところで、芳恵がようやく口を開いた。
「確認はそこまでにしてよろしいですか。もう道真が生きていないことは、はっきりと分かったでしょう」
 いつまでも息子の遺体をじろじろと観察するな、という意味だろう。岩のようにじっとしていた彼女だが、内心は不快でたまらないのかもしれない。
「ええ、そうですね。失礼しました」
 彼女がいる手前、むやみやたらと押入れや床の間、さらには僅かに傾斜した畳の中心にあるのだろう掘り炬燵まで調べるわけにはいかなかった。芳恵の意見に抗うことなく、ツバキはすんなりと従う。柳と政景自身も見張りとしてここにいたのだから、私達がひとまずの調査を終えるなら、これ以上長居する用もないのだろう。五人で室内を出ると、芳恵はピシャリと遮断するかのように襖を閉めた。
「さあ、もう夜も更ける頃です。今日はここまでに致しましょう。……これからのことについては明日、皆様には伝えさせていただきます」
 事件の全容や犯人の行方について、これから宍戸家で話し合うのだろうか。いや、彼女達は赤し国の権力者だという。もっと多くの人間が、赤木道真の死のために人知れず集まるのだろうか。詳しい実情を知らないために全ては想像に過ぎないが、しばらくこの街から離れることができないという事実は酷く私の気分を沈ませた。なるべく早くここから逃げ出したい。そう思っているのは、まだこの街のどこかにいるはずの犯人も同じだろうか。
 芳恵の後ろ姿が廊下をしずしずと歩き、自らの部屋へ戻っていく。それと入れ違いに、手前の洋室扉からネグリジェ姿の菊乃が顔を覗かせた。先程までうなじが見えていた長い黒髪は下ろしており、顔色は真っ青である。
「ああ、お二方……おかえりなさい」
「ただいま戻りました。騒々しくしてすみません。お二人とも、部屋で休まれているのですか」
 心配そうにツバキが尋ねる。私がまともに菊乃と相対したのは、不幸なことにこの時が初めてだった。
「ええ、でも紅葉は私よりマシです。ここに来るまでの疲れも溜まっていたのか、こっくり寝入っちゃって。……それに比べて、私は」
「無理はなさらないで下さい。眠れない時はホットミルクがおすすめですよ」
「僕もよく飲みますから」とツバキが言った。次いで政景も彼女を労わった。
「そうです菊乃さん。今は体を休めて下さい。紗夜だって今夜は、かなりショックを受けたようですから」
「そうします。ありがとうございます。……本当に、どうしてなんでしょう。どうして兄さんが、よりにもよってあの部屋で……」
 そう言って菊乃は涙ぐんだ。家族を一人唐突に失ったのだから、その悲しみは計り知れないだろう。けれども「よりにもよってあの部屋で」とは、どういう意味なのだろうか。
「とにかくもう寝る時間だ。俺達もそろそろ部屋に戻るよ。ふあ……もう床に就く頃合だからな」
 今日一日の疲れが出てきたのか、欠伸を噛み殺しながら柳が言う。それを見て危うく私もつられるところだった。トラブルで今日は帰ることができなかった上に紫帆が倒れ、そしてこの屋敷内で死人が出たのだ。もはや事実を受け入れることに手一杯で、恐れや悲しみといった感情からも取り残された空虚な空間が胸に広がるばかりであった。
 のんびりとした柳の様子にかえって癒されたのか、この時ようやく菊乃は「ふふ」と小さく微笑んだ。
「お疲れのようですね。今日は皆さんもゆっくり休んで下さい。……それでは」
「おやすみなさい」とそれぞれの言葉を述べた後に菊乃が静かに扉を閉める。そしてその後は私達も、各自の部屋へ戻ったのだった。
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