二日目

文字数 12,342文字

寝ている間、何度も寝返りを打ち、螺旋のように巡る昨日の光景から頭を切り離そうと試みたが、一日目の夜は思ったように寝付くことができなかった。風雨により吹き荒ぶ木々の揺れ、そして遠く響くサイレンの音は、窓を閉めていても睡眠を妨げる敏感な要因となっていた。
 ベッドに潜り込むまでの出来事が、瞼の裏に像を結ぶ。四人で階段を上りながら、自信なさげに零していたのは秋津政景だった。
「私達も部屋に戻りましょうか。……菊乃さんには強がりましたが、私も今夜は十分な休息が取れるかどうか分かりません」
 赤し国を訪れた古物商兼鑑定家も、今夜は仕事のことなど頭から抜けてしまったことだろう。けれども彼の終始穏やかな雰囲気は、この非常事態でも損なわれはしなかった。「道真の部屋は元々、どこにあったのか」というツバキの突然の質問にも、彼はすぐに答えてくれた。
「私の部屋の隣、廊下の突き当たりです。彩史さん以外の男性陣は全員、二階に部屋が割り当てられているようですね」
「政景君。良かったら部屋、交換しようか?」
 そう提案したのは柳暁郎である。
「もし気になって寝れないなら、俺はそういうの慣れてるからさ」
「お気遣い有難うございます、柳さん。でも大丈夫です、きっと。何も考えずに寝るようにしますので」
「そうかい。まあ、揃って一列に俺やサクマくん達の部屋もあるからな。大声の一つでも上げてくれりゃあ、すぐに駆けつけてやれるさ」
 そんな会話をしつつ、私達は部屋へ戻ったはずだ。
 そしてあの会話は、ツバキと二人きりとなってどれほど時間が経った後のことだっただろう。
「それじゃあ、僕は浴場に行ってくるから」
 これに対し、「部屋に浴室があるのに、この状況でも屋敷内をうろつくのか」と私は苦言を呈したが、彼は「むしろ今だからだよ」と平然と言った。
「今なら利用者はほとんどいない。分かっているだろうサクマ? こういう時、僕はあまり人目に付くわけにはいかないんだよ」
 そう言いながらツバキは黒のストールを外し、肩を竦めた拍子に袖口があらわになった。手首や足首といった複数の関節、そして彼の首元には、縫合の跡がいくつもある。元々二年前に死んだ人間であるために、まだ暑さの残る季節で薄着を選べないのは苦労があることだろう。「寒がりだから平気さ」と、本人は常々言っているが。
「先に休んでくれていて構わないよ。部屋には静かに入るから」
 そう言って彼はさっさと部屋を出ていき、一方で私は寝支度を始めた。普段から部屋が真っ暗でないと眠れない私は、豆電球の一つも付けることなくベッドに入り込んだ。
 その後、ツバキがいつ戻ってきたのかは分からない。頭の中でサイレンの音が輪唱のように響き合う中、途切れ途切れに私は奇妙な夢を見ていた。
 迷い込むように訪れたこの赤し国の中を歩いていたら、突然に見知った顔が目の前に現れた。数少ない親友であるアイハラだ。私は彼を捜すために六稜島までやってきた訳なのだが、夢の中の彼は、まだ出会って間もない頃の学生服の姿だった。高校の入学式の時、急に向こうから話しかけてきたのが懐かしい。
「なあサクマ! ………!」
 元気いっぱいに喋り出す彼だが、何を伝えようとしているのかはさっぱり分からない。そもそもどうして彼が今この場所にいるのかというのも謎だったが、夢とは総じてそういうものであるはずだ。
 そう楽観的に考えていた夢の中の私だが、次のアイハラの言葉に全身の毛が逆立った。
「なんであの子って、死んだんだろな?」
 まるで天気の話題でもするかのように、彼が明るく尋ねてきたせいか。それとも現実で赤木道真が何者かに殺されたことを、夢の中で突きつけられたからか。それとももっと他に何か、私は何か大切なことを……。
 しかしその瞬間、私は恐怖のあまり思わず飛び起きてしまった。「うわあ!」と声まであげてしまったように思う。
 ハッとして隣を見てみると、
「……」
 どうやらかなり驚かせてしまったらしい。ツバキが元より大きな瞳をさらに丸くして、まるで威嚇された小動物のように固まったまま、起き上がってじっとこちらを見つめていた。
「わ、悪い。変な夢を見たんだ」
「ああ、そう……。何もないならいいけれど」
 揶揄わずにそっとしておいたあたり、「変な奴」だと距離を取られたのかもしれない。そしてツバキが再び寝始めて以降、私は完全に目が冴えてしまった。夢の続きに戻ることもできず、自分が恐怖を抱いた根本的な理由を追うこともできない。消化不良の状態のまま、やがて夢の記憶は消え去っていき、私はベッドに横になったまま、朝が来るのを待つ羽目になった。
 そして朝が訪れた。
 人口七千の赤し国にとって、事件に対する驚きは非常に大きかったらしい。街では宍戸の屋敷で彼が殺されたことについて、道で人々がすれ違う度に「おお恐ろしい」という声がわき起こっていた。余程のビッグニュースとして街中を席巻していたのは言うまでもない。もっとも私が実際にその様子を伺えたのは、屋敷のある丘を下りて宍戸の敷地から離れてからだった。
 無論私には今すぐにでもこの場から逃げ出したい気持ちは大いにあったし、共に事件に巻き込まれたツバキも同じだっただろう。けれども紫帆が屋敷内で倒れた一件があるせいで、「では私達は無関係なので」と理由を捏ねて街を脱出するのはもはや不可能だった。魔女を嫌うこの赤し国なら、それは尚のことだろう。
「昨日から早急に、この国の者達には警戒態勢を敷かせてあります。形式上は異なるとはいえ、私の息子……。宍戸家の一員でもあった道真が、この世から突然いなくなってしまったのですから」
 ホールにて宍戸家の人々と客人は一同に集められた。隅に使用人の宮田も控えているなかで、芳恵は内容に反して淡々と言葉を述べていった。その様子は、「堂々としていた」とも言うべきなのだろうか。心の傷を少しも明らかにせず当主としてあろうとする姿に、私は感心と共に憐れみの念を抱いていた。
「ですが彼らの話を聞く限り、昨日はこの赤し国からは誰も外へ出てはいない。それどころか、動物の一匹すら逃げ出してはいないと言うのです。……突然の来訪者は勿論ありましたが」
 そう言って芳恵は一瞬、奥にひっそりといる私達二人をちらと見た。
「ともかく彼らが真実を述べていることは、赤し国を代表してこの私が証明いたします。彼らは私達の前では一片の嘘もつくことができない……。よって犯人は未だ、この国にいるのです」
 そして芳恵は言った。道真を殺害した犯人が捕まるまで、客人達にはここで安全に過ごしてもらうこと。そしてそれまでの衣食住は、宍戸家が全て保証すること。
 客人に配慮した優しい提案にも聞こえるが、それは裏を返せば、「容疑者圏内から外れるまで、決してこの場所から離れてはならない」という命令でもあった。反対する人はいるだろうかと辺りを見渡したが、意義を唱える者は誰一人いなかった。
 話す芳恵を見つめたまま、動じる様子のない柳暁郎。顔面蒼白の菊乃とは反対に、ニコニコしながら彼女の傍にいる紅葉。そして昨日よりは緊張気味だが、変わらずソファに姿勢良く座った秋津政景と紗夜……。
 彼らは今の状況をどのように感じ、どのように考えているのだろう。犯人の行方に対する推測を巡らしているのか、それとも事件当夜の自分の行動を頭の中で振り返っているのか。はたまた今このホール内にいる人間の中に、犯人がいるのではないかと疑っているのか。
 そんな想像をしても、実際の彼らの考えが透けて見えるわけではない。空想好き特有の意味のない妄想まで混じらないよう、私はそれ以上のことは慎んだ。一方で今の私が何よりも気になっていたのは、
「……」
 仁王立ちのまま、これまで一言も口を開かず黙っている、大山の坊主だった。
 大山彩史の義兄にあたる人物で、赤し国にある小さな寺にて住職をしていた。歳は六十手前とのことだが、身長は同じ壁際にいたツバキどころか私よりも高く、そして横幅も非常に大きくがっしりとしている。日々鍛えているかのような筋骨隆々の腕は、長い袖から先しか見えずとも明らかで、全体的なシルエットからしても体格が良いことがはっきりと分かった。僧侶特有の黒の法衣に五条袈裟。そして禿頭でなければ、全く違う類の人間に見えたことだろう。
 私は終始隣のツバキを挟んで、この男の様子を逐一伺うように努めていた。しかしその好奇心を裏切るように大山の坊主は行動を起こすことなく、私達と同様に芳恵の言葉に聞き入るのみだった。
「なんだか拍子抜けだ、とでも思っていたんだろう?」
 ホールでの芳恵の説明が終わり、それぞれが自由に各々の時間を過ごし始めた頃に、ツバキが声を掛けた。正直に言えば図星だ。私は素直に認めた。
「あんなに厳つい人だったから、もしも破天荒なことをしだしたらとヒヤヒヤしたよ」
「ただ単に住職としての務めを果たしに来るのが当然じゃないのかい。赤木道真が亡くなって、そのために親戚筋から彼は呼ばれたんだから」
「あの人も、この街では権力者に含まれるんだろうな……。確か、彩史さんの奥さんのお兄さんだったよな」
「そうだね。苗字は違えど宍戸家の関係者だ。下の名前は分からないけれど、「大山のお坊さん」と呼んでも差し支えないだろう」
「名前ね……。お前と一緒だな」
「僕の場合、「ツバキ」は偽名かもしれないぜ?」
「本名だ、って初めて会った時に言ってただろ」
「なんだ、覚えてたのか。君はどうでもいいところで記憶力が良いんだから」
 その時、不意に私は視線を感じた。厨房へ向かいかけた宮田が、心配そうな表情を浮かべてこちらを見ている。ツバキもそれに気付いたのか、いつもの微笑みを浮かべながら近付いた。
「今日は眼鏡なんですね。非常にお似合いです」
「え? あ、はい。そうなんです。昨日コンタクトレンズをどこかで落としてしまったみたいで……でも、ありがとうございます」
 確かに今日の彼女は赤いフレームの眼鏡を掛けていた。誰もが認めるような美男子に褒められ、使用人は両頬を染める。
「昨日は前もって病院に連絡を入れていただき、ありがとうございました。お陰でスムーズに彼女を診ていただくことができましたよ」
「いえいえ! 所詮私は柳さんに頼まれて電話しただけに過ぎませんから。お礼は柳さんに言ってください! ……ところでお二人は今から聞き込みですとか、その……道真様が亡くなった事件について、情報収集をなさるのですか」
「ええ、そのつもりです」
 宮田の躊躇いがちな質問に対しても、ツバキは平然と答えた。
「ここにいる以上、持ちうる能力を遺憾無く発揮するべきだと言われましたからね。元より僕はこういうことに消極的なのですが、さぼっていると隣の男からも何か言われそうで」
「お前が最初からやる気を出せば、文句なんて言わないんだよ」
 近くにいる腐れ縁ながら、周りの期待に応えるように追い立てる役割にも慣れている。
「その……くれぐれも街の人に話を聞く際は、注意したほうがいいと思います」
「というと?」
 宮田はホール内をきょろきょろ見渡し、次に私達二人を見てから言った。
「私、赤し国の出身で、この街はいわば「地元」なんですけど……。ここに仕えている以上は宍戸家の方々、特に奥様には逆らえません。私達が下手なことや怪しいことをすれば、どんなに恐ろしく怒られることか……。ですのでお二人が奥様の言うことを聞かれるのは、とても良いことだと思うのですが……」
「何か気をつけるべきことがあるんですか?」
 私の問いかけに、宮田は小さく頷いた。
「この街で宍戸家はまるで王様のように、尊敬の念で崇められていますが……そう思っていない方も中には多くおられて……」
「ふうん、それは意外だね。熱烈なファンばかりだと思っていたよ。何せ僕達をここに留めるために、レンタカーを廃車にする手伝いまでしたんだから」
「え?」
「とはいえ、気を付けておきます。街の人間によって、意見は様々だということですね。……ところで宮田さん。あなたは道真さんが殺された今回の事件について、何か僕達にとって謎を解くためのヒントになりそうな、そんな手掛かりをご存じではありませんか」
 宮田の驚きも無視してツバキは尋ねた。
「どのように感じられたか、だけでも構いません。考えを巡らせるきっかけが、今は少しでも欲しいんです」
「事件のこと……やはり道真様は、何者かに殺されたんですよね」
「その可能性が極めて高いです」
 宮田はしばらく俯き、黙り込んでからぽつりと呟いた。
「私はあの時……道真様の遺体を皆で見つけるまでは厨房にいました。裏の戸口とホールへの扉以外は窓もない部屋なので、道真様本人や怪しい人影は見ていないかと……」
「それまでに変な物音が聞こえた、ということもありませんでしたか」
「食事の片付けのためにホールを行き来することはありましたけど……ええ、特には。柳さんが戻ってこられた時の車の音とか、菊乃さん達がこちらへ来られた時の足音ですとか、そういったものは聞こえました」
 そしてこの時に私達は、宮田から当時の屋敷内の状況を大まかに教えてもらうに至った。ホールの片付けを命じられている間に柳が戻ってきたこと。そしてその後、菊乃達が道真を探しに厨房を訪れたこと……。
「足音については、その後厨房に顔を覗かせたことから誰のものか分かった、という認識でよろしいですか? その中に道真さんは勿論含まれてはいなかった」
「え、ええ。そうです」
「つまりは宮田さん。あなたが道真さんを最後に見たのも、僕達と殆ど同じということですね? 僕達が屋敷を飛び出して、後に残り全員がホールを出た時が最後だった。ちなみにその時は道真さんと芳恵夫人で、一触即発の状況にはならなかったんですか? 特に芳恵夫人はカンカンに怒っていたのでしょう?」
「ええ。でも道真様は全く意に介さないといった様子で、堂々としていて……。奥様もお客様や他の家族が大勢いる中で、感情を露わにするのは憚られたのではないかと思います。奥様は人目を非常に気にする方ですので」
「それでも息子が魔女の味方をするのは許せず、後になってから血眼になって探し回った、と。……それにしても被害に遭った彼女は、死にかけても嫌われ続ける存在なんだね。どんな風に人と関わればそんな末恐ろしいことになるんだか」
「お前も気をつけた方がいいんじゃないのか」
「失敬な。僕はあいつと違って、柔軟に人を選んで対応しているさ」
「それって「人を選んだ結果」、俺には杜撰な対応で済ましてるってことか?」
 ツバキは返事をしない代わりに肩をすくめた。私が睨みつけるなか、宮田は尋ねてきた。
「あの、お二人は道真様の事件だけでなく、魔女と呼ばれる方の……堂島紫帆さんが昨夜倒れられたことについても、お調べになるんですよね?」
「え、ええ。そのつもりです」
 私が答えると、宮田は私達を交互に見てから、そして不安げに視線を足下の絨毯へ移した。何か答えにくいことがあるのだろうかと思った私だったが、その様子を見てツバキは優しく彼女に微笑んでみせた。
「ご心配なさらずとも、あなたが犯人であると最初から疑ってかかったりはしませんよ。確かにあなたは使用人という立場上、被害者に毒を盛ることのできる可能性を大きく持っている。けれども僕はむしろ、犯人がそれを利用して事に及んだのではないかと思っています。自分自身が最も疑われない状況下でこそ、犯行は行われやすいものですからね。僕が犯人であったとしてもそうします。ですので宮田さん、あなたが緊張なさることは何一つありません」
「ツバキさん……」
「君だってそう思うだろう? サクマ」
 同感だったので、すぐに私は頷いた。裏の裏をついて、宮田が敢えて自分が疑われる状況で犯行に及んだ可能性も完全には捨てきれないが、それによって得られるメリットは極めて低く、意味がないと思えたからだ。
 そんな私達二人を見て、宮田は心の底から安堵したようだ。ツバキはこれを最初の目的としていたのかもしれない。相手に安心感を与えることで、より多くの情報を彼女の口から聞き出すのだ。
「彼女があんなことになって、さぞ驚いたことでしょう。何しろ血を吐いて倒れたのですから。……あのワインは、昨日のためにわざわざ用意していたものだったのですか?」
 昨夜の芳恵の挨拶を私は思い出した。
 宍戸家にとって素晴らしき「大成の日」。赤し国の成立記念日でございます。
 いつかは正真正銘、この宍戸の名こそが、文字通りの「主」として認められる日が来るのです。
 ……「文字通りの「主」として認められる」とは、いったいどういう意味なのだろう。
「ええそうです。毎年の赤し国が成立した日になると、あのような乾杯をすることになっています。奥様が当主になられてから、あのような催しを行うことになったそうで、基本的にはご家族の方だけで今まで行ってきたそうです。お客様がおられる時は、一緒に祝っていただく……といった形で」
「なるほど。これは既に分かりきっていたことかもしれませんが、やはり宍戸家の方々はご自分の先祖や家族を非常に大切にされているのですね。僕達も見習わないといけないな」
「家や社会を無視して辺境の島にいるのも、本来ならば許されないことなのかもな」
 もっとも私は行方知れずの友を探してこの地にいるし、何なら彼はこの島を最終として本来の人生を終えてしまっているのだが。
「それでは人数分のグラスに飲み物を注いでいったのも、使用人である宮田さんの役目だったわけですね」
「それが仕事ですから。当然の作業として、毎年と同じように注いでいったつもりです。紅葉さんだけ未成年でしたので、その分のグラスだけ混ざらないように注意をして」
「そして次に、あなたは紅葉さん以外の分のグラスを配っていった」
「あ、いえ。それが……」
 と、予期せぬことに宮田がこれを否定する。
「毎年はそうなんですが、昨日だけは違いました。奥様が「自分が配るから」と言って、お盆ごと引き取ってくださったんです」
「芳恵夫人が?」
 これは新たな情報だった。私達がグラスを受け取った時には、リレーのように次から次へと盆が人の手に渡っていっていたため、途中で誰かが宮田の苦労に気を利かせたのかと思っていたのだ。
「つまりグラスを渡し始めた一番の始まりは芳恵夫人だったと、そういうわけですね」
「ええ。ですので私はその後どのように皆様がグラスを取っていかれたのかを知らなくて……。お食事の用意もしなければなりませんでしたから」
「じゃあ宮田さん。あなたが食事の用意をするのに厨房に戻る間際、お盆を持った芳恵夫人が誰のもとに向かったのかだけでも覚えていませんか? せめて最初に誰がグラスを受け取ったのかだけでも……」
「そうだね。そこから数珠繋ぎに辿っていけば、グラスを取った順番が分かる」
 ところがこれに対する宮田の答えは意外なものだった。
「それなら、奥様は真っ先に堂島さんの方へ向かって行きました」
「紫帆の元へ?」
「はい。隣の彩史様の目の前を通り過ぎて、ホールの隅へと。周囲はあの方の他にお客様はおられなかったので、間違いないと思います」
 不思議に思う私に対し、ツバキも全く同じ疑念を抱いたのか口元に手を当てて考え込んだ。もし紫帆がその時に既に毒の入ったグラスを受け取ったと考えるなら、それを引き当てる確率は未成年の紅葉を除いた人数分の一。つまりは十一分の一である。
「宮田さんも自分の分のグラスは手に取られたんですよね?」
「はい。初めの乾杯だけは、使用人も参加するのが通例ですので。最後に残っていたものを」
「そのグラスやボトルを今、拝見することはできますか?」
「ええ、可能です」と宮田が答えたので、すぐさま私達は厨房に向かった。柳が彼女に頼んだおかげで、洗われずに済んだものだ。床下収納の引き出しをわざわざ開けてもらい、宮田は中から当時のお盆ごとそっと取り上げた。私とツバキの二人がかりで不審な点はないか、ワイングラスを一つ一つ、床に落として割れたものは破片の隅々に至るまで、穴が開くほど見つめていく。見る角度を変えて、厨房の電気に透かしもしてみたが、指紋以外におかしな付着物も見当たらなかった。ボトルも同様で特にこれといった違和感はない。グラスにはどれも飲まれた跡があり、口が付けられていないものは一つとして見当たらなかった。
「実はボトルそのものに毒が入っていて、紫帆が真っ先に飲んで倒れたために、他の皆は飲まずに済んだというわけでもなさそうだな」
「そうだね。あの時にワイングラスに口を付けただけで、飲んだふりをしている者も特にはいなかった。あからさまな演技をしていれば僕がすぐに見抜いたはずさ。もしも毒の入ったボトルから全てのグラスにワインが注がれたなら、今頃は全員が病院送りにされているよ」
「それなら紫帆が手に取ったワインにだけ、毒が含まれていたことになる」
「十一分の一……そんな確率を、彼女は引き当てたというのかい?」
 ツバキは納得がいっていないようで、再び口元に手を当てて考え込み始めた。
「ワイングラスはどれも等しく同じ形……魔女が一番最初にグラスを取った可能性が高い……」
「宮田さん。この割れたワイングラスはどなたが飲んでいたものですか」
「菊乃さんです」
 私の問いかけに宮田はすぐに答えたが、ここでツバキがある疑問を口にした。
「……サクマとの話の途中に失礼。あなたが柳さんと菊乃さんを敬称で呼んでいないのは、彼らからそれでも構わないと言われたからですか」
「あ、はい。すみません! 大変失礼致しました。お客様の前で……」
「お気になさらず。あなたの使用人としての振る舞いが気になった訳ではありません。僕は元より舞台上の些細な台詞が気になる人間でして」
 自称元演出家として、ツバキは各登場人物の関係性も気になっているようだ。
「……柳さんは元から親しげな方で、初めてお会いした時に開口一番に言われました。菊乃さんとは何回か屋敷でお世話させて頂いているうちに、「私達殆ど同い年なんだから、言葉遣いとかあまり気にしないで」と、奥様に叱られてばかりの私に、優しくして下さって……」
「そうですか。確かに芳恵夫人は時々、気難しそうに見える時がありますね。使用人として勤める立場であるなら、その苦労は他の方々よりも多くあるのでしょう。常でなくとも理解してくれる人が近くにいるというのは幸せなことだ」
 ツバキの言う通りだった。苦しみを分かち合うことができない孤独ほど、自分自身を深く追い詰める厄介なものはないだろう。屋敷にいる一部の人物の内面が窺えたところで、私達はワイングラスの配られた順番について、ひとまずの結論を下すことにした。
「やっぱりここは直接紫帆に聞き出すのが一番じゃないか? もしかすれば倒れる寸前に、ほくそ笑む犯人の姿を見た可能性だってゼロじゃないんだろ」
「ここで様々な状況を考えてみても、彼女の証言によって覆る可能性もあるわけだからね。……宮田さん、ありがとうございました。もしもグラスをこのまま残しておくことが家事などに支障をきたすようでしたら、彼の携帯電話で写真を撮らせてもらってから、片付けていただいても構いませんが」
「いえ! 問題はございません。同じものはまだまだ食器棚にありますので」
 宮田は笑顔で答えてくれた。これからも事あるごとに事件について何度も聞くことを詫びつつ、私は他にも気になっていたことを尋ねた。
「宮田さん。その、紫帆が飲んだのかもしれない毒物についてですが、何か心当たりなどあったりはしませんか。いえ、その! 私も決して私も宮田さんを疑っているわけではなく、紫帆が倒れた直接的な原因を知りたくて……」
 コミュニケーションが苦手な私はツバキのようにスムーズな質問ができず、その気はないのにどこか言い訳がましくなってしまう。けれども宮田は決してそんなことは気にせず、普段通りに答えてくれた。
「毒、ということは人に害があるもの……薬品とか、そういう感じの物ってことですよね?」
「え、ええ。まあ大抵。おそらくは、きっと……」
「自信がないのが丸分かりだな」
 ツバキの発言を無視して、私は宮田の回答を待った。
「そうですね……薬品と聞いて私がすぐに思い当たるのは、殺虫剤とか虫除けスプレーでしょうか。花壇の植え替えですとか掃除ですとか、外で何か作業をする時には必要不可欠だったので、肥料や培養土を買うついでに買っていますね。いろいろと用心して買うことも多く、特に納屋には大量にあると思います。しまいきれない分については、二階の倉庫にも」
「今までの時期でしたら確かに使う機会は多かったと思いますけど……でも、年中ずっと必要なものでもありませんよね? ご家庭によってはストックしておくものなんでしょうか」
 あまりピンと来なかったので私に、宮田は眼鏡を掛け直しながら訳を説明してくれた。
「実は私、虫が大の苦手で……暑い季節はどうも落ち着かないんです。あ、あとネズミもです! どこに現れるか全然、予想もつかないでしょう? もしも刺されたり噛まれたりなんてしたら、後が怖いですし、撃退できるものがないと立ち向かうこともできませんし……」
 もしかしたらこの使用人は害虫や野生の動物と鉢合わせになる度に、戦に臨む覚悟をしているのかもしれない。
「だから、そういったものは常に在庫がないと私、不安になるんです。でも、いつも彩史様に怒られてしまって……」
「彩史さんが?」
 芳恵よりは温厚な印象があったために、これは私にとって少し意外だった。すると宮田は普段からの鬱憤が溜まっていたのか、やや崩れた言葉遣いで同意を得るために言葉を捲し立てていく。
「そうなんです。彩史様ったら「自然のものは自然のままに任せるのがなんぼ」とか言うんですよ。そういう問題じゃないですよね? 虫とかネズミが触れたかもしれない野菜とか果物ですとか、お客様に出すのは論外として、絶対に食べたくないでしょう? 奥様はその点については特に何も言わないんですけど、彩史様はそこら辺がずぼらというか、かなり大雑把なんです。もう少し細やかに考えてほしいというか、受け流す余裕があるなら代わりに退治してほしいくらいで……」
「その薬品類が大量に残ってあることは、他の宍戸家の方々もご存知なのですか?」
 私が宮田の勢いに窮しているなか、ツバキが隙を見て質問を加えた。
「ええ。屋敷の人間全員が知っているばかりでなく、一度中を見てみれば他所の人でもすぐに分かると思います。私ったら本当によく買いすぎちゃうから……」
 宮田は自分のことながら困り果てたように笑い、そして今度は彼女の方から尋ねてきた。
「病院は田上さんのところが一番近いですけど、それでもかなり遠くに感じられたんじゃないですか? 広い街だとは言っても、ここは田舎ですので」
 これに対して私が答える。
「そうですね。柳さんにはかなり無茶をしてもらって、車を飛ばしてもらいました」
 あの時のスピードを思い返しながら、やはり申し訳なさの拭えない私だったが、
「そうだったんですね? それは初めて知りました」
 宮田のこの発言にすぐさま反応したらしい。ツバキが即座に口を開いた。
「普段ならもう少し時間がかかるんですよね?」
「ええ。信号が多いので、片道でだいたい三十分ほどは。……柳さんもそれぐらいの時刻に戻ってこられましたから、私、そこまで急いだなんて知らなくて」
「彼が戻ってきた時刻に、違和感がなかった?」
「え、ええ……」
 彼女の証言によると、柳は私達と共に屋敷を出てから約五十分後の八時十分に戻ってきたらしい。往復で割れば片道二十五分という計算だ。
「……ふうん、そうでしたか」
 ツバキがそう言ったのも無理はない。私達の所感では、あの時病院に着くまでに経過したのは十五分。つまり柳は私達を病院に送り届けた後、三十五分も掛けて屋敷に戻ったということになる。宮田の言う通り片道三十分の道のりなら、五分の誤差など許容範囲に入るのかもしれない。けれども逆を言えば行きと同様、スピードを出せば柳はもっと早くに屋敷に戻れたとも考えられる。私達を助けてくれた彼を、すすんで疑いたくはないが……。
「ありがとうございました。ずっと使用人である貴方をここに留まらせていては、これからの家事雑務に支障が出ますね。長々と付き合わせてすみませんでした」
「い、いえ! そんな! 大丈夫です私なんかのことは……。お客様のお役に立つことも、使用人の務めなので」
 多少の謙遜も含まれるのか、過度に恐縮しながら宮田は言った。
「そうですか。ではまた、お手隙の時に話を聞かせてください。……ちなみに、今からは何を?」
「奥様に頼まれて、敷地一帯のお掃除を。三日後に控えたお葬式までの準備をしなければなりませんし、街から様々な方が訪れるのに備えなければなりませんので……」
 今朝は基本的に客人は敷地の外に出ているよう、先程の芳恵の説明で私達は直々に頼まれている。
「敷地一帯……というと、かなり広くないですか?」
 短時間に一人で行えるのかと、私は多少心配になった。
「お気遣いありがとうございます。大丈夫ですよサクマ様。屋敷周りは日常から行なっておりますし、奥様もその点は理解して、そこまで念入りにしろとまでは申し付けられていないので。墓地だけはここから少し歩くので、正直に言うと手間が掛かるんですけど……」
「墓地……そんなものまで敷地の中にあるんですか」
「ええ、代々宍戸に関わる方々が埋葬されていて……って、まあ! もうこんな時間!」
「サクマ君、そろそろ宮田さんへの質問攻めはやめなよ。彼女が困っているじゃないか」
 一番最初に質問を始めたのはお前だろ、という言葉を私はぐっと堪えた。
「すみません。それじゃあ失礼します」
「申し訳ございません。もしよろしければ、実際に辺りの様子を確かめられてからお出掛けなさっても大丈夫ですよ。葬儀の関係者も早くには来られないと思いますし、私も向こうへ行くまでに他にやる事もありますので……」
「そうさせていただきます。……ああ、あと! 今後は僕達も「さん」付けで構いませんので。ねえサクマ」
 こういう細かな気配りができるところは流石である。私も隣で頷くと宮田は恥ずかしそうに頭を下げ、「ありがとうございます……!」と小声で礼を言った。
 そして私達はひとまず屋敷を後にした。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み