三日目、その五

文字数 6,315文字

次に私達が宍戸菊乃の姿を見つけたのは、宍戸家の墓地だった。着くまでの道中で他の客人を見かけることもなく、私達は挨拶を交わしてから沈痛な面持ちをしていた彼女の元に近付いた。珍しく長く美しい黒髪を下ろした彼女が立っていたのは、宍戸浩之介の一つ隣の墓で、先代のものよりも明らかに小さかった。
「父の墓です」と菊乃は言った。
「私が中学生だった頃に父は亡くなりました。既にご存知かとは思いますが、和室で首を吊っていて……」
 私はただ黙って彼女の言葉に耳を傾けることしかできなかったが、ツバキは優しく寄り添うように接した。灰色の曇り空は穏やかながら、またいつ雨が降り出すとも分からない。
「子どもの頃となると、自身にとってはお辛い出来事だったのではありませんか」
 微笑みつつも彼の表情には慈悲の心が見えた。菊乃は静かに頷いた。
「私が第一発見者だったんです。最初に父の姿を見た時は、やけに首の曲がったカカシでも立っているのかと誤解して……そこから先の記憶は、当時も今も曖昧です。母が和室から動けなくなっていた私を引き離してくれたとだけ、後になって兄から聞きました」
「その道真さんも、同じく和室で亡くなられましたね。彼の死に方は決して自殺ではないと僕は考えているのですが」
「私も同じ気持ちです。兄の性格からしても絶対に有り得ません。……兄さんは私の何倍も精神が逞しくて、街の人からはふてぶてしくも頼り甲斐があるとよく言われてましたから」
 赤し国を訪れた初日のことを思い返す。母親の怒りも気にせず、魔女を助けるために病院の所在地を教えてくれたのも、その片鱗だったのかもしれない。
「彩史さんのことも残念でした」とツバキは言う。「事前に犯人を見つけられていれば、彼も殺されずに済んだかもしれない」
「そんなことは!」と声を上げて、その後に菊乃は首を振った。
「……元はと言えばツバキさん。私は昨日から時々、こんな風に考えているんです。全ては私達宍戸の家が悪いんじゃないかって。初代赤し国の当主で、私の祖父でもあった浩之介の時代から私達は誰かに恨まれていて、膨らみに膨らんだそれが、ついに弾けてしまったんじゃないかって」
「その「誰か」に思い当たる節などはございませんか。菊乃さんなりの考え方でも構いません」
「誰か……そうですね。やはり一番最初に浮かぶのは、この地に元から住んでいた「神の子」の一族でしょうか。でも……」
「でも?」
「既に私達は和解しているんです」
「どういうことですか」
 この彼女の言葉にツバキだけでなく、私でさえも怪訝に感じた。けれども菊乃は私達二人の反応を全く異様に感じていないのか、これまでと全く同じトーンで話し出す。
「叔父が結婚したことで両家はまとまりました。……いえ、それが形式上じゃないかと言われれば、それまでなのですが。しかしそれでも私達はいがみ合うことをやめて、赤し国のために互いに協力することに決まったんです」
「それはつまり……大山家が本来からこの地に住む「神の子」の一族だと?」
 恐る恐る尋ねる私に対し、「そうです」と菊乃は言った。あまりにあっさりと打ち明けられた事実を、どのように咀嚼すればいいのか私には分からなかった。彼女の証言をこのまま鵜呑みにするなら、これまでの大山の住職に対する印象が何もかも変わってくるではないか。
 そうして私が驚きを隠せない一方で、ツバキは尚も冷静だった。ほんの数秒だけ灰色の目を見開いていたが、やがてすぐに顎に手を当てて考える素振りを見せた。そして彼はその後も、自らが気になっていたことを菊乃に尋ねていく。
「……いいでしょう。他に、誰かから恨まれていると考える相手は思い浮かびませんか」
「かなり昔のことまで遡れば、宍戸浩之介が赤し国当主となるまでに争った権力者達も挙げることができます。ですが彼らもまた、今では街の人間として平穏な日々を過ごしていますし、宍戸家として顔を合わせる時も恨み言を吐かれたことはありません」
「大山家と同様、彼らの本心はさておき形式上は和解しているんですね」
「はい……そうです」
「失礼、決して皮肉のつもりではありません。あくまでも宍戸家として表明されている意見を、僕としても把握する必要がありました。今こうして正直に教えていただけたことに感謝しています」
 菊乃は口をつぐんで黙り込んだ。先程「和解した」と言ったばかりだが、人の視点によって事実と現実が異なることは当然彼女も分かっているのだろう。他人の心情の全てを把握することは、誰しもが不可能なことなのだから。
「十年前に屋敷を訪れた探偵と助手については如何ですか? あなたとは一日しか顔を合わせなかったそうですが、思い出せることがありましたら」
 ツバキは話題を変えたが、「ごめんなさい」と菊乃はすぐに首を振った。
「昨日母があの手記を見つけた後におかしなことを言い出してから、父の自殺を調べに来た二人のことを思い出そうとしました。けれどもやっぱり、背格好ぐらいしか記憶になくて」
「ちなみにその背格好というのは?」
「二人とも、サクマさんやツバキさんのような高身長ではなかったように思います。特に探偵の方は小柄でした。……私。これはただの直感なんですけど、何だか大切なことを忘れているような気がするんです。それこそ手記を書いた探偵助手の方に対して、申し訳ない気持ちがあって」
「お父様が亡くなられた理由に疑問を感じられたことはないのですか」
「それは……」
 言いにくそうに菊乃は言葉を濁し、そして父親の墓から一瞬目を背けた。
「……既に母が納得しているので、私も受け入れています。三年前、私が成人した時に母から、父の遺書を少しだけ見せてもらいました。不倫をした罪悪感から、父は自殺したのだと。母からもそのように聞かされたので、母自身もどこか気付いていたところがあったのだと思います。私は当時まだ中学生でしたが、もしかしたら兄は気付いていたのかも……」
「その時に相手の名前などは伺いませんでしたか」
「……いいえ。聞きたい気持ちも勿論有りましたが、母が口にしたくない様子だったので聞けませんでした。……母は昔から秘密主義なんです。外交的で人との交渉は普段から得意ですが、本当は心の底から信用しておらず、親戚や家族にも絶対にその胸の内を明かそうとしません」
 そしてしばらくの沈黙の後、菊乃は日々積み重なっていたであろう思いを涙と共に吐露した。
「私達家族って、いったい何なのでしょう。こういう時こそ力を合わせて、目の前の障壁にも立ち向かっていくべきだというのに……。協力しようと、歩み寄ろうとしても上手くいかない。同じ家族であるはずなのに私、母から「愛してる」って言われたこともないんですよ。兄もそうだったと思います。自分には本来の形としての温かな家族がない。不在している。壊れているって。……そんな事実がこの街で日々を過ごしていく上で、最も絶望を与えてくるんです。他の人にあるはずのものが、私にはない。街の人からもそのことを陰で囁かれているようで、理解してくれていた兄さんや、短い間でも私達家族のことを大切に思ってくれていた父がいないことが、今は酷く辛い……」
「心中お察しします。だから昨晩のあの時も、道真さんの姿を一人追いかけていたのですか」
「ええ。……馬鹿ですよね、ほんと。気がおかしくなったんじゃないかって言われても仕方ない。自分でもどうかしていたと思います。ありもしない人の姿を探すだなんて」
 複雑な環境や境遇によって苦しむ人は決して少なくはないだろう。表向きでは平常を装っていながらも、その内面は迷路のように入り組んでおり、この世のどんな問題よりも正しい道を選択することが難しい場合もある。
「彼女」もそうだった。
「菊乃さん。僕達は道真さんや彩史さんを死に至らしめた犯人を探すだけでなく、芳恵夫人を守るためにも事件を解き明かす必要があると思っています。……昨日あなたが体験した出来事を話していただき、僕達に協力してくれませんか」
「……はい、勿論です。もうこれ以上私は、家族が苦しむ姿を見たくありません」
 最後はツバキの真剣で暖かみのある言葉に、菊乃は頷いたようだった。二日目の朝から夜までの行動を、彼女は父親の墓が見守る中で静かに語っていく。
「朝は紅葉と遊戯室で別れた後、ホールで大山のおじ様に挨拶をしました。同じ街の中に住んでいる親族なので会う頻度は高いんですけど、状況が状況だけに改めて私の方から声を掛けた次第です。それから午前中は応接室で母の手伝いをしました。住職様と三人で葬儀の打ち合わせです。時々彩史叔父さんが顔を覗かせたんですけど手持ち無沙汰だったのか、応接室を行ったり来たりと繰り返して……。ついには母に「今はあなたに手伝えるようなことはなにもないから、部屋にでも篭っていなさい」と言われ、部屋に戻っていきました。少し可哀想でもあったんですけど、仕方がないですよね。だって叔父さん、普段からじっとしていることが苦手でしたから」
「それから以降で彩史さんを見かけることはありませんでしたか」
「そうですね……。おそらく見かけなかったか、見かけても気付かなかったかと思います。母が近くにいる時は叔父さん、いつも体を小さくして陰を潜めていますから」
 そして菊乃は打ち合わせを終えた後も芳恵の手伝いをしていたらしい。日々懇意にしている家への連絡や挨拶回りのため、当主の部屋と屋敷の外を行き来していた。
「特に母は宍戸家の中でも魔女と……堂島紫帆さんとの関係があまり良くなかったですから。この島で生きていく上で、魔女に借りを作るようなことがあってはならないと思っていました。携帯電話ですとか、その他もいろいろと」
 確かに私が六稜島に来た時も割と早くに、紫帆から青い携帯電話を受け取った。元々使っていたスマートフォンは、何故かすぐに駄目になってしまったのが懐かしい。
「街の権力者としての務めを果たす上では、かなり不便でしょうね。もっとも僕も魔女に借りを作りたくはありませんが。
 それで菊乃さん。あなたは午前の間は芳恵夫人の手伝いに勤しんでいた。そして午後からはようやく、自分の時間を取ることができたのですか?」
「ええ。母からは「やるべきことはひとまず全て片付いたわ。ありがとう」と言われました。なのでそれからは自分の部屋で紅葉と昼食を取って、好きに過ごしていました。紅葉はずっと嬉しそうで、きっと独りでいる間は寂しかったんだと思います。私と遊ぶためにせっかく街まで来てくれたのに……。
 ご飯を食べ終えた後は、一緒に厨房まで食器を運びに行きました。そこで宮田さんからコンタクトレンズが見つからないことを知って、特に予定もなかったので手伝うことにしたんです。そしたら偶然紗夜さんとも居合わせて、結局は三人で」
「それでしばらくの間コンタクトレンズを探していた、と。昨日紅葉さんから「手分けして探している」と伺いましたが、詳細を教えていただけますか」
「詳細と言っても大したことは……。ただの役割分担です。宮田さんには仕事に戻ってもらって、紅葉には外を、紗夜さんは二階、そして私はホール以外の一階を見て回りました。「ホールは既に探した」と宮田さんが仰ったので」
 昨日紅葉が言っていたことと相違はない。
「皆さんで夕方頃まで探しても、結局宮田さんのコンタクトレンズは見つからなかったわけですよね?」
「そうなんですサクマさん。「掃除をした時に埃と共に掃いてしまったんじゃないか」とか、「誰かが使用人に対する親切心で先に捨ててしまったのではないか」ですとか。いろいろと四人で考えましたけど、結局は何も分かりませんでした。紅葉が「迷宮入りだわ」と嘆いていたわ。その後は紗夜さんや宮田さんと別れて、私と紅葉で遊戯室へ」
「その捜索についてですが」と顎に手を当てて考えながらツバキが尋ねた。
「コンタクトレンズの他に気になるものを目にすることはありましたか? どんなことでも構いません」
「……いえ、私は特には」
 菊乃は少し考え込んでから慎重に答えた。
「恥ずかしながら、昨夜からかなり気が動転したので、本当のことを言えばあまり記憶に自信がないんです。決して誤魔化すつもりは全くなくて……本当にすみません」
「そう気落ちなさらないでください。もしかしたら遊戯室で紅葉さんと過ごしている間、彼女に何か話していたかもしれない。後で確かめてみましょう」
「ありがとうございます」
 菊乃が礼を述べた後、ツバキは彼女に政景の車の鍵を見つけた経緯について優しく説明を求めた。「話すのが心苦しくならない範囲で構いません」
「政景さんの車の鍵……」
 そう言うと菊乃は再び口を閉ざした。風が一瞬強く吹いたのに従って、彼女は「すみません」と言ってから、取り出したかんざしで簡単に髪をまとめあげる。この時初めて私は、菊乃が普段からかんざしを使ってお団子頭にしていることを知った。
「兄の姿を追いかけている途中に、暗い森の道で拾い上げたのは覚えています。その間に兄の姿はどんどん小さくなっていって……」
「失礼を承知で伺います。その道真さんの姿というのは本当に実在していたのでしょうか? もしもそうであるならば、その道真さんに似た姿は誰か他の人間だと推察できますが……」
 あの時街の人々は皆、水色と白をベースにした特殊な衣装を身に纏っていた。もしも菊乃が追いかけた人間が彼らとも私達とも異なっていたのならば、その道真らしき人影が犯行を行う前後の犯人だった可能性もあり得ることをツバキは指摘しているのだろう。
 すると菊乃はこれまでよりも曖昧ではあるが首を振った。
「いいえ……。きっと理想の映像を夜の光景に映しただけでしょう。そうでないとしても、きっと見間違いです。車の鍵を見つけたのも、見通しの悪い草木の茂みの中からでした。それに兄さんの後ろ姿もどこか落ち着いているようで……焦っている様子や不審なところは、何一つありませんでしたから。だからこそ私は必死になって、追いかけていたんだと思います」
「その暗き森の道というのは、塔の近くでしたか?」
「はい。その通りです」
 宍戸家の墓地に沈黙が訪れるなか、しばらくしてからツバキが私に視線を送る。「君から他に尋ねたいことはないか」と暗に尋ねているのだろう。考えも疑問も特に浮かばず私が静かに首を振ると、ツバキは「ありがとうございました」と言って、菊乃からの聞き取りを終えた。
「また何か思い出すようなことがあれば、どんな小さなことでも遠慮なく仰って下さい。先程の家族のことのような、感情的なものであっても構いません。僕でも隣にいるサクマにでも。僕達が今あなたに対してできることと言えば、お話を伺うことと、事件を少しでも早く解決することだと思っていますから」
 最後にツバキは菊乃の心に響くように長く言葉を伝えてから墓地を去った。彼女からは返事がなく、ツバキの声が聞こえていたのかそうでないのか、再び亡き父親の墓をひたすら見つめるだけだ。
「サクマ、行こう」
 ツバキに声を掛けられて、ようやく私はその場を離れることができた。しかし彼の背中を追いかけるまでの間、私は何度も墓地を振り返ってしまう。
「菊乃さん、大丈夫かな」
「やめとけよ。時に温かな優しさが、人の胸を刺すことだってあるんだ」
 ツバキがそんな風に私の心配を否定するのも珍しかった。彼が離れた場所から静かに煙草に火を付けるまでの間、「今にも再び、雨が彼女の頬を濡らせばいいのに」と、私は強く思わずにはいられなかった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み