三日目、その二

文字数 8,583文字

一頁ずつ、私は慎重に助手の手帳を捲っていき、そしてツバキの前で読み上げた。
「すぐに寝過ごしたことに気付いた俺は、急いで隣の相棒の部屋をノックした。だが返事はなかった……」
 ざあざあと窓の外でにわか雨が降る中、それは憂鬱と言っても仕方のない作業だった。
「途端に嫌な予感がした俺は、すぐさまその扉を開けた。安楽椅子はない。なら図書室だ……」
「……」
 ツバキはどうにか微笑みながらも悲しみの表情を浮かべ、視線をティーカップに落としている。
「自分が焦っているのを内心大袈裟だなと馬鹿にしながら、俺は相棒の名を呼んで図書室の扉を開けた。そしたら目の前に飛び込んできたのは、安楽椅子に座って頭から血を流している、相棒の姿だ……」
 所々涙で濡れた文字を読み上げるのに私は苦労した。かつての助手の思いを察すると胸が痛む。
「目撃した衝撃と、脳天を後ろから何かで殴られたのがほぼ同時だった。前のめりに倒れ、どうにかあいつの元へ這おうとしたものの気を失った時、微かに聞こえたのは宍戸芳恵と彩史の、揉めるような声だった。
 ……次に目を覚ました時には火が放たれていた。俺はともかく自力でそこから逃げるしかなかった。その時既に相棒が絶命していたことは、分かりきっていたから……」
「状況だけの判断になるけれども、二人のうちのどちらかは、探偵を殺す気などなかったのかもしれないね」
 ため息混じりにツバキが言った。
「宍戸家を守るため、一方が口封じを行った。事態の収拾に戸惑っているうち、後から来た助手に対しても口封じをせざるをえなくなった。後戻りはもはやできない。二人は彼らごと室内を燃やしてしまうことで、真相を揉み消そうとしたんだ」
「それが図書室のボヤ騒ぎと探偵が亡くなった背景だったのか……。火は案外早くに消すことができたんだな」
「助手が生きていることが分かって、対応を変えたんだろう。場所が場所だし、それ以上の追い討ちは流石の彼女達にもできなかったのかもしれない」
「結果相棒だった探偵を失って、口封じそのものも有耶無耶にされて……。悔しくて仕方がなかっただろうな。だけどそこまでして芳恵さんや彩史さんが隠そうとしたことは、結局何だったんだ? 夫の良平さんが自殺したことに間違いはなかったんだろ?」
「十年前の彼がそこに記したとおりさ。「半分失敗した」という事実は、当主になったばかりの浩之介夫妻にとって受け入れ難いものだったんだよ」
 ツバキは私が読み上げた手記の内容だけで、おおよその見当がついたらしい。一方で私は手記の中の助手と同様、首を傾げてひたすらに考えを巡らせていた。
 その間も彼は喋り続ける。
「けれどもこの探偵助手が現在の一連の事件の犯人だったとしても、納得できない部分は多々ある。大山彩史の殺害の動機については理解できたさ。次の標的として宍戸芳恵を狙うことだってね。しかし一方で、赤木道真殺害については? この手記だけで考えると、彼らとの関係性は滞在中の五日間、極めて希薄だ」
「芳恵さんの子どもについては冒頭に記述があるだけで、道真さんの名前すら出てこなかったからな」
「菊乃さんも当時は課外活動で屋敷から離れたみたいだから、彼らとは一日しか顔を合わせていない」
「十年も時が経っているからな。菊乃さんが果たして覚えているかどうか……」
 私達だけで今からその探偵助手を探すにしても、手掛かり無しではやはり無理があるだろう。
「そうだツバキ、大山の住職はどうだ。あの人なら当時の二人の名前や顔は覚えているはずだろ」
「無駄さ、はぐらかすに決まっているよ」
「……聞いてみなきゃ分からない」
 少しでも彼の役に立とうと思った末の提案だっただけに私はむきになったが、それでもツバキは首を縦には振らなかった。
「十年前、悪事を傍観していたと彼自身が語っていた。昨日の夕方、あの図書室でね。表現する感情に差はあれど、彼も芳恵夫人と同じだよ。犯した罪を認める一方で、彼らに関する情報を第三者である僕達に打ち明けるつもりはない。あればあの時に必ず言っていただろうしね。手記には記載がないけれど探偵が殺されたあの時、住職も夫人達と共に図書室にいたのかもしれない」
「それなら尚更、探偵と助手を葬ろうとしたのは宍戸家の総意だったことになるじゃないか!」
 テーブルに拳を叩きつけた拍子に、ティースプーンが床に落ちた。私は腹が立って仕方がなかった。嫌な事実から目を背けるために他人を巻き込むなどと、理不尽かつ横暴な振る舞いにも程がある。
「そこまで大事なのかよ。街の歴史と、家の地位を守ることが……!」
「……」
 しばらく沈黙してから、やがてツバキは口を開いた。
「サクマ。今君は正義に溢れ、怒りに感情を震わせているようだけど……」
「何だよ。冷静になれって言いたいのか?」
「僕達がこの街に足を踏み入れてから三日目。屋敷内からは二人も死者が出た。二人とも宍戸家の人間だ。君はこれも彼らの「自業自得」だと言うのかい」
 灰色の瞳に正面から見つめられ、瞬時に悲惨な光景が思い出された。
「僕はこの手記の中に出てくるような、正真正銘の探偵なんかじゃない。けれどもね、この舞台の一人の登場人物として、僕なりに理解できることもある。いいかいサクマ。いかに正当な動機があったとしても、罪は罪だ。たとえ誰だろうとどんな理由があろうと、僕達は全てを公平に判断した上で、間違っていると言い張らなければならないんだよ。勝手に舞台に上げられて、正体の掴めない謎に立ち向かう羽目になってしまったとしてもね。
 今回の事件においても僕はその主張を曲げるつもりはないし、これからも貫いていけることを願っている。君がそんな僕についてくるかどうかはさておくとして、これこそが僕の導き出した信念なんだ。バラバラに殺されて終えた人生の果てに……僕は罪を作り上げた者を許すわけにはいかないんだよ。たとえ、何があってもね」
「それに」と彼は続けて、優しく微笑んでから言った。
「脈々と続いてきた歴史の中で、この街に住む人々はありとあらゆる関係性に苦しめられてきた。神の子、街の人々、赤木一族、そして宍戸家……。彼らはずっと恨み、恨まれの攻防に身を置き続けてきたんだ。どちらが発端だとかは今は考えないようにしよう。その結果がこの現実に繋がっているとするならば、君が怒る対象となっている彼らもまた被害者さ。どんな物事も表裏一体。あくまでも僕達は公平に、全てを見通さなければならない。さもなければ」
 ツバキはティースプーンを拾い上げ、そして私に差し出しながら真剣な表情で言った。
「間違った物語は永遠に続く。誰しもが苦しみに囚われ続けるような舞台なんて、いったい誰が喜ぶんだい」
「……」
 いかなる理由があろうとも、罪を犯した者を認めてはいけない。これまでも、そしてこれからも。二年前の死から蘇り、そして現在を生きる美しき探偵は、この街に蔓延る深刻な事態に終止符を打たなければと考え、次の一手をひたすら模索しているのだろう。
「ところでサクマ君、魔女は君に何か言っていたかな」
 それはすなわちツバキの優しさでもあった。普段は自己中心的であっても、心の奥底では人を思いやる気持ちがあるから、たとえ困難に陥っても皆のために動くことができるのだ。今だって彼は気持ちをさっぱりと切り替え、いつもの微笑みを顔に浮かべたまま、私の返事を静かに待ってくれていた。
 私はありのままを落ち着いて彼に説明することにした。探偵としても人間としても、とても敵わない男だと思った。
「ツバキ」
「うん?」
「……悪かったよ」
「構わないさ。それで、彼女は?」
 朝食は芳恵が「食欲がない」との理由からホールに集められての食事は控えられ、各々がそれぞれの部屋で宮田に配膳されたものを頂くことになっていた。美味しそうなトーストエッグだ。
「当たり前だけど、紫帆は気まずそうな感じだったな。車を壊されて、毒も盛られたんだ。芳恵さんに対して疑り深くなるのも仕方がないだろう。それに無事だったとはいえ、続けて放火にまで遭ったんだから……」
「……果たしてそれだけなのかねえ」
「え?」
「彼女は君に対して気まずかったんじゃないのかい」
 意味が分からないと私はツバキに言った。
「どうして紫帆が俺に対して気まずくなるんだよ。そんなわけがないだろ。俺は何もしてないし、ただあいつの状況を聞いて驚いたぐらいだ。……沈んだ様子のあいつに、それぐらいしかできなかった」
 そう言うとツバキは突然、ふふと笑い出した。
「な、何だよ! どうしてそこで笑うんだよ!」
「いやなに、さっきから様々な感情を見せてくれるなと思ってね。情緒不安定だと疑われても仕方ない忙しなさだよ。昨晩だって君、様子がおかしかったし……」
「あれはびっくりしただけだ! それで今は寝起きなんだよ! 紫帆の電話があったせいで、途中で起こされたし……」
「それならこの後少し休みなよ。しばらく僕も戻らないようにするからさ」
「結構だ! お前の余計な親切に甘えるつもりはないし、お前に除け者にされる筋合いもない」
「僕はそんなつもりで言った訳ではないのだけれど……」
「ほらツバキ、それよりもだ!」
 彼はそれでもまだ腑に落ちない点があったようだが、それすら遮って私は先を促した。これ以上の迷惑になることだけは避けたかったのだ。
「昨日の彩史さんについて振り返るぞ。確認だが、あれは絶対に殺人だ。流石に彩史さん一人で逆さ吊りの準備をしたり、事故でああなったりはしない。そうだろ」
「ああ、そこは君の言う通りだね。彼は何者かに殺された。それもかなりの殺意を持って」
「その犯人の候補の中に、十年前の探偵助手がいる。全てはこの手記が塔の中にあったことが始まりだ」
「勿論僕は他の可能性もまだ捨ててはいないけどね。屋敷の中にいる人間を完全に信用しろだなんて、無責任なことは言わないさ。犯人像をより明確にするためにも、この街に来てから起こった全ての出来事を振り返ってみる必要がある。ここまで調べてきた情報整理のためにもね」
 ティーカップに注がれた紅茶を一口飲んでから、彼は言った。
「まずは魔女についてだ。未遂になったとはいえ、彼女が殺されそうになったことに間違いはないのだから、これについても真相を求めるべきだ。誰がどうやって、彼女に毒を盛ったのか。昨夕図書室では、彩史さんが芳恵夫人を疑っているみたいに言っていたけれど、あながちそのように考えるのも正しいとは思う」
「お前も、やっぱり芳恵夫人がやったと考えているのか?」
「あくまでも「動機の点で考えるなら」かな。実際の犯行については、屋敷の中にいた誰もが可能だろう。反対に言えば、例の探偵助手がやったという可能性は極めて低い。毒殺じゃあ実際に彼女が倒れたかどうかさえ、遠くから把握することのできない不確実なものだし、今のところ魔女と探偵助手の関係性については皆無だ」
 そして次に、とツバキは進める。「道真さん殺害について」
「額についた傷から、凶器の有力候補になっているのは宍戸浩之介のかつての愛刀「獅子夜叉」だよな」
「そうだね。しかしここで躓いてしまうのは、獅子夜叉が収められている場所についてさ。あのガラスケースの鍵は常に当主の部屋に仕舞われていて、しかもその当主の部屋自体の鍵が、芳恵夫人の持つものしか現存していない。犯人がこの屋敷内にいようといなかろうと、必ずこの問題が高い壁として立ちはだかったはずさ。コレクションルームの扉に強引な侵入の痕跡は一切なかったからね。この事件については、魔女を病院へ運びに屋敷を出た僕と君だけがシロだ。……ああそれから、僕達を手伝って車を出してくれた柳暁郎も」
「だけど……」ど私は言葉を濁して彼に異を唱えた。
「宮田さんが言っていただろ。柳さんはもっと早く屋敷に戻ることもできたって。そうして時間を作って、あの短時間の犯行を行うことも……」
「可能だね」とツバキは簡単に認めた。「けれども事実は違うよ。彼は「他のこと」をしていた」
「昨日と一緒でその点はやけに自信があるんだな。その「他のこと」って、いったい何なんだよ?」
 気になったので尋ねると、この時のツバキは珍しく複雑な表情を浮かべた。
「前に君に言った時とは、かなり状況が変わってしまってね。……サクマ、もう少しだけ待ってくれないか。すぐに明らかになる」
 いつもなら適当な言い訳をペラペラと述べては私の尋ねる意識を削ごうとしてくるのだが、ツバキが正面からはっきりと断ってくるのは珍しいことだった。私はコーヒーと共に、納得がいかない部分を強引に飲み干すことにする。根掘り葉掘り聞きたいのは山々だが、ここは彼を信じるべきだろう。誠実なツバキに私は今まで、裏切られたこともなかった。
「分かった。……だけど気になるから、いつかは教えてくれよ」
 ありがとう、とツバキは心の底から感謝した。
「心配しなくても、その時になったら君には傍にいてもらうよ。大したことはない。黙っておこうとか、そういうつもりも毛頭ないんだ。さて、次に……そうだね、何から話そうかな」
「大山彩史の殺害について、手帳以外のことも考えてみないか」
「いいのかい」
「いいって、何がだよ?」
「朝食時に話すのもどうかと思ってね」
 そう言いながら再度不思議なことに、彼は私に了承を求めてきた。
「朝っぱらからこんなに悲しい手記を読ませておいて、今更だろ」と私が答えると、「それもそうか」とツバキは笑った。加えて私としては、昨日のあの惨状を分析することで、精神的な負担を少しでも軽くしたいという個人的な考えもあった。
「それなら存分に語ろうか。昨夜の状況を改めて整理するとこうだ。大山彩史は足首をロープで繋がれた上で、高き天井から吊り下げられた灯りと繋がった状態で見つかった。自殺でそのような形を取るのは決して不可能だけれど、殺人であるなら犯人が一人でも方法としては簡単だ。実践的かどうかはさておくとしてね。塔内部の壁面をぐるりと巡っていた螺旋階段をひたすらに上り、明かりとの距離が近くなったところでコードに手を伸ばして掴んでしまえば、明かりそのものを手繰り寄せることは容易だ。事実あの螺旋階段は屋上に集結するかのよう、に徐々に中心へ向かっていた」
「屋上……ってことは、あの階段は最終的には外と繋がっているのか?」
「そうらしい。使用人の宮田万奇、それに現当主の宍戸芳恵によればね。殆ど口を開こうとしなかった彼女も、その点についてはすんなり教えてくれたよ」
 その言葉の奥底には、「他のことも同じ調子で教えてくれればいいのに」という芳恵に対する不満も存分に込められていた。ツバキらしいと言えばその通りだ。
「実際の死体の様子については、顔面を鈍器か何かで何度も殴られ、流血による失血死が一番の原因だろうね。近くで見てみれば殴打の跡の他にも擦り切れたような傷があり、凶器には鋭さもある程度は備わっていたと考えられる。そうだな……今思い浮かぶ物で当てはまるものは、昨夕に納屋の中で見かけたシャベルかな。要するにありきたりな物だよ。赤木道真の時とは違ってね」
「そういえばあの逆さ吊りに使われたロープだけど、あんな長さをどうやって犯人は準備したんだ?」
「覚えていないかいサクマ君? ロープなら車上荒らしに遭った宍戸家のあの赤い車に明るいうちは積まれてあったし、納屋にも仕舞われていたぜ。車内の様子を厳密に覚えている訳ではないけれど、昨夜秋津政景と駐車場に行った時にロープの長さが事件前後で短くなっていた。わざわざガラスまで割ってあったんだから、きっとそっちを使ったんだろう。……けれどもこれだと犯行に疑問が出てくる」
「シャベルは納屋。ロープと発炎筒はそれぞれの車にあったものを使った……。何だかちぐはぐな動き方だな」
「発炎筒だけに絞ると、秋津政景が探していた車の鍵は犯人に意図して使われたか、偶然彼が落としたものを拾い上げた線もある。ほんの思いつきと嫌がらせに、犯人は彼の車にあったものを利用することを閃いたのかもしれない。塔に僕達を集める手段なら他にも山ほどあるからね。例えば灯油のポリタンクを塔の芝生に撒き散らして、火をつけるとかさ」
 犯人が野蛮な思考の持ち主じゃなくて良かったなと、燃え盛る炎と卒塔婆のような塔を想像しながら私は思った。
「わざわざ宍戸家の敷地内に侵入して、荒らした車内からロープを手に入れる……。駐車場は決して見晴らしが悪いわけではないし、俺達に目撃される恐れも充分にあったはずだろ」
「裏門から外に出るまでの通り道にもなっているからね」
「そんなにロープが欲しかったなら、いかにも揃っていそうな納屋から探した方が手っ取り早かったんじゃないのか?」
「そうだね。それも犯人の拘りだったのかもしれない」
「また拘りか」と私は頭を抱えた。
「一つ他に僕が重要じゃないかと考えているのは、昨夜の事件が起こった当時、獅子夜叉を政景さんが持っていたことだね。打粉が何者かによって多分に付けられていたために、彼は急遽あの刀を持ち出した。誰が付けたのかという謎もあるけれど、これによって犯人は獅子夜叉を使用することが不可能になった。秋津政景自身が犯人である場合を除いてね。
 尤も根本的なことから考えるなら、赤木道真の事件と今回の事件にはそれぞれ別の犯人が存在することだって考えられる。一人の犯人がこれまでの全ての悪事を行ったとするなら、これまた短時間で広い範囲を移動しなければならないからね」
「昨日までは共犯の線は薄いって考えていたよな。二人も犯人がいたなら、そもそも道真さんが殺された時のような急拵えの犯行はしないはずだって」
「そうだね。僕は今でも一応、その意見を覆すつもりはないよ。「無自覚な協力者」がいる可能性は否定しないけれど」
「無自覚な協力者?」
「要するに、犯人のうちの一人が悪事を働いていると全く意識していない場合だよ。単なる仕事か何かの手伝いだと信じて、犯罪の片棒を担がされているパターンさ」
「それは厄介だな。協力者本人が無自覚なら、嘘を見抜くことすらできないじゃないか」
「とは言うものの、一つ目の事件については、あまりに衝動的だと考えられる部分が多かった。きっと殺人を犯したのは一人だけだと思うよ」 
「いろいろとキリがないな。塔に残された探偵助手の手記で、事件の全体像を少しでも掴んだと思ったのに」
 思わずぼやいてしまったが、その気持ちに同調するようにツバキは肩をすくめた。
「むしろあの手記のみを考えると、僕にはあれが犯人のミスリードであるような気がしてならないね。あんなに特別な曰く付きの塔に一冊の手帳。まるで見つけて下さいと言わんばかりだよ。しかしそう考えると引っ掛かかるのが芳恵夫人だ。さも全ての事件について彼女は理解を示した様子だった。あそこまで何もかもを受け入れたのがやっぱり僕には理解できないし、彼女が納得した結果、連続した二つの殺人事件の犯人は一人だけだと周囲に示されたようにも見える」
「昨日はあんなに自分で問い詰めたくせに、却って受け入れられたことに戸惑っているのか?」
「……彼女の性格上、もっと激した反論を期待していた」
 ツバキは顔を顰めると罰が悪そうに部屋の窓を開け、窓枠を背もたれにしながら煙草を一本胸ポケットから取り出した。軽口のつもりだったのだが、思った以上に彼の心に響いてしまったようだ。探偵を支える立場として間違った発言をしたと私は少し後悔した。
 煙を上空に吐いてからツバキは言う。
「予期できない事態に遭遇した場合、誰しもがなんらかの理由を付けて正当化し、自身を納得させようとする。事実が起こった後からいくらでもね。大抵の人間はそれを無様だと笑うけれども、その行為を禁ずることは決してできない。何故ならその行為は、ある種自分の身を守ることに繋がっているからね。
 けれどもあの時の芳恵夫人はそうはしなかった。心の底から衝撃を受け、そしてすぐに最悪の事実を認めた。自身に対する殺害予告だよ。死にたがりでもないのに、未来の被害者としてそんな宣言をするのは極めて異常だ。常に意志が強く頑固だった芳恵夫人なら尚更だ。塔に残されていたこの手帳が、余程彼女には堪えたんだよ。探偵助手が近くにいるという事実が、真相を知る者として恐ろしく響いたんだ」
 チュンチュンと、雀の鳴き声が聴こえる。いつの間にか雨は止んでいた。ツバキの隣に並び、窓から空を見上げてみれば、少し離れた屋根の近くに彼らの巣がある。
「古くからこの街に伝わる歌。そしてあの不可思議な祭り。それに……今見ているこの光景だってそうだ」
「え?」
 光景の意味だけはよく分からなかった。
「たとえ少しずつであったとしても、僕達は前に進まなければならない。……ましてや予告された殺人だなんて、見過ごすわけにはいかないよ」
 理解の及ばない部分もあったが、ツバキはこれ以上何者かによる被害が生まれることを望んでいなかった。意を決したように彼は上空を飛び回る雀から視線を逸らすと、やがては煙草の箱を元の胸ポケットにしまってから言った。
「そろそろ出掛けようか。食べ終えた朝食を片付けるついでに」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み