三日目、その八

文字数 6,695文字

私が生まれ育ったのは、真っ暗な塔の中。
 目を閉じても開いても真っ暗で、深い深い絶望の穴の底。気持ちを吐き出そうとしたらきっと、気が狂ってしまうほどの居場所。
 けれども王子様の前でだけは、正直な気持ちをさらけ出しても良かった。どれだけくだらない話をしても、王子様はお父様のように私を殴ったりはしない。お母様のように全く動かないまま、黙って見ているだけでもない。王子様はいつも出会うたび、真摯に私に向き合ってくれた。
 思い出されるのは出会ったばかりの頃の、ささやかで幸せな記憶。
「ねえ王子様、愛ってどんな味?」
「味? どうしてそんなことを聞くの?」
「昔お父様がこの塔の中で、私に隠れて味わっていたの。お母様の名前を呟きながら、お母様じゃない人を食べていて……。今までずっと話したこともなかったから、少しでもお父様のことが知りたいの」
「罪の味だよ」
 王子様は簡単な問題を解いたかのように言った。
「罪の味って、どんな味?」
「とても甘くて芳醇で……一度味わってしまえば忘れられなくなる味さ。僕も経験したから分かる」
「そうなの?」
「ああ。実際に食べてしまったことはないけどね」
 ひたすら興味津々に私は王子様に尋ねた。王子様のおかげで新しいことを学び、身につけることができる。まるで私の中の要素の一つが王子様のものになったかのようで、その感覚を抱けることが、いつも嬉しかった。
「僕にとってはね、恵花。君の存在こそが罪の味なんだ。決して君との関係性が罪だと言っているわけじゃないよ。それを貫くためならば、他の全てがどうでもよくなってしまうような……全てを優先し、何もかもを捧げてしまうような……。そんな破綻した思考を分かり切った上で抱き続けることが愛だと、僕は思うんだ」
 私のボロボロの手を優しく握ってくれる王子様。いつか目の前の愛しい人と共に外の世界へと出て行きたい。そう思っていたのに……。
「次はいつ会ってくれるの?」
 別れの時間が恋しくて尋ねると、王子様は微笑んでくれた。これまで以上に、優しい笑顔で。
「ねえ、……恵花」
 私の名前を、彼は呼んでくれた。
「いつか……いつか、一緒にここを出られたらいいのにね」
 そこで頭の中の映像は途切れた。まるで誰かに奪い取られたみたいに。暗闇の中、もはや何も見えない。
 ああ、私の王子様! どうして、どうして……!
 屋根裏にいるように言われて、夜に屋敷に忍び込んだ。眼鏡を掛けた女の人しか中にいなかったのが幸いした。王子様に褒めてもらうために、たとえ苦痛であっても狭く汚れた場所で、王子様が迎えに来てくれるのをずっと待っていたのに……。
「王子様!」
 視界にぼやけて映る愛しの姿に抱き着こうとした刹那、王子様は私の額に刃物を突き立てた。二日前に王子様が人を殺した時に使った刀と同じだった。容赦なく私の顔に、何度も、何度も。痛みよりも疑問の方が大きかった。どうして、どうして、と。
 約束の鍵を目の前に捨てられ、彼の口がぱくぱくと開いた。「初めからこうするつもりだった」と。
 怒りよりも悲しみの方が込み上げた。あなたも裏切るのね。塔に閉じ込めた時のお父様や、お母様みたいに。
 前に倒れ込んで動けないでいるうちに、王子様はさっさと出て行ってしまった。呪われてしまえと思わずにはいられない。家族も王子様も。そして、この街も。
 許せない、許せないと、恨みが私の中に降り積もっていく。意識が失われる中、血の色と同じ憎しみの赤が、私の体を染め上げて……。
 
「……そう。やはりとっくにあの子の存在に気付いていたのね。美しき人」
「昨日コレクションルームにてお話ししたことを覚えていますでしょうか」
 憔悴した表情の宍戸芳恵を前に、ツバキはあくまでも態度を変えることなく冷静に尋ねた。ただ服装は先程までの白いシャツから紺のタートルネックへと変わっている。首元から僅かに見える絞められた跡は、まだ完全に消えてはいないようだった。
「弟の彩史さんとの仲について尋ねた時です。二人姉弟であることを指摘した時、あなたの回答は遅れた。そこが疑問だったんです。家族構成は複雑な事情がない限り、簡単に答えられる類のもの。であるならば、本当は何か裏があるのではないのかと思いまして」
「認めましょう。……宍戸恵花。殺されたあの子は、確かに私の双子の妹です」
 芳恵と恵花。まさかの関係性に私は、ただツバキの隣で聞き入っていることしかできなかった。テーブルを挟んで相対する赤し国当主と探偵。応接室での対面は二日前と全く同じ状況にも関わらず、今では全く違う状況と化していた。明らかに疲れ切った様子の芳恵に、滔々とツバキが自らの考えを述べていく。
「赤木一族に降りかかった呪いを回避するため、彼らは当主の地位を宍戸浩之介に託した。けれども生まれてきた双子の片割れに呪いが受け継がれていた。奥さんが精神を病んでしまったのも仕方がありません。初めての愛する子どもだったのですから」
「愛する子どもだったかどうかはともかく、結果としてあの子が生まれた喜びよりも恐怖が勝ったのでしょう。今後もしも正式な後継ぎである男子が呪われて生まれたら、その責をきつく咎められると予想するのは容易。呪われた赤木の人間が切り捨てられていくのを、母はずっと見てきたはずですから」
「そして先代夫妻は恵花さんを「いない者」として扱った。加えてあなたや彩史さんもそれに従い、彼女を塔に閉じ込めた。元より反感を買っていた街の人々に弱みを見せないよう、体裁を守る目的もそこにはあったわけですね」
「結局は何処からか噂が漏れ、先代は対処に追われる形になりましたけれど。……愚かだと笑いますか? 私達のことを。けれども赤木の人間や両親は必死だったのです。自らの栄光を守るために」
「元々は神の子によって統治されていた場所を、侵した立場であったにもかかわらずですか」
 傲慢だと私は胸に抱いた不信や疑問をそのまま芳恵にぶつけた。彼女は疲れた笑顔を浮かべたまま首を横に振るだけで、肯定するわけでも言い訳をするわけでもなかった。腑に落ちなかったがツバキは私に構わず、さらに考えを夫人に向かって述べていく。
「当時の宍戸浩之介の判断について、特に意見することはありません。僕に統治者としての経験は全くありませんから、いくら大勢の人間が非道徳的だと非難しようが、それこそが最適解だったのかもしれない。
 けれどもそんな運命を定められた恵花さんに同情する人間がいた。しかも宍戸一族に一人。それこそがあなたの夫で一時期は当主にもなっていた、良平さんですね?」
 十年前の手記の内容を思い出す。「愛のためだ」と遺書に残して首を吊った宍戸良平。赤木道真と宍戸菊乃の父親。塔に閉じ込められた女の正体を知った今、「ああ」と私はその意味をようやく理解する。
「初めは同情の気持ちがあったのかもしれない。だけどそれが徐々に、愛情へと変化していった……」
「出会った当初からあの人は、お人好しな所がありました。それこそ他人に甘く、人の善意しか知らないような無垢さが、あの人の最大の魅力だったのです。……だからでしょうか。私への罪悪感から、彼が自死を選んだのは」
「あなたは知っていたのですか。秘匿とされた妹と自分の夫が、親しい関係にあったことは」
「ええ。当主となってからあの人は塔の中に入ることも許された。代々当主の部屋に引き継がれている鍵もありましたからね。そこで妹の存在を知ったのでしょう。それからは度々私の目を盗んで、塔に通うようになった。
 ですけどね、ツバキさん。私は少しも怒ってなどいなかったのですよ。だって彼らの関係といえば不倫とは到底程遠い、おままごとのような関係だったんですもの。ろくな教育も彼女は受けさせてもらえませんでした。学力も記憶力も大してありませんでしたし、恵花の考えは先々のことにまで及んでいなかったんですよ。
 本当に……私は大して気にもしていなかった。全てにおいて私より力の及ばない、彼女のことを」
 私はこの時目を見張った。血が滲むほどに芳恵が、自らの下唇を噛んでいたからだ。
 一方でツバキには既にその原因が分かっていた。
「良平さんが自殺を選択したことは到底、許すことができない。だってそうでしょう? 何故ならその結末は、彼があなたではなく恵花さんを選んだも同然だった。今後の人生をあなたと共にすることを拒んだに等しい。けれども恵花さんとは許されない関係だったために、彼は自らを裁いたのです。そして後に和室に施された重厚な扉は、夜な夜な誰もいない和室で愛する人の死を嘆く恵花さんの侵入を拒むためでもあった。それらの真相を、探偵が突き止めたんですね」
「あの二人が来た時はああする他に、私には選択肢がありませんでした」
「どうしてですか」と私が尋ねた。「最初から何もかもを探偵達に打ち明けて、秘密にしてもらうように交渉することも可能だったはずです」
「口にしたくもありませんでした」と顔を背けて彼女は言う。「口にするだけで……私の心は張り裂けそうだった」
 当時の芳恵や弟の彩史が口封じに探偵を殺めた理由は、赤し国の安寧以前に彼女の矜持や心情を守るためだったのかもしれない。しかし手段は非常に暴力的で、理解の得られないものだ。探偵助手が憎しみを募らせるのも頷ける。
 芳恵はそんな私と似たことを考えたのか、「彼からの裁きを受ける気持ちについては、昨日と全く変わりはございません」と言った。
「彼が今回の事件の犯人であるならば、私は全てを受け入れましょう。大切な方が突き止めていた真相がようやく分かったのです。ツバキさんが教えれば、さぞ喜ばれるのではございませんか」
「事件の犯人が十年前の探偵助手であると、今でもあなたは考えているのですか。先程僕達が隠された屋根裏にて見つけた、恵花さんの死についても」
「あるはずのない彼の手記が、塔の中から出てきたのがその証拠です。探偵の死を図書室のボヤ騒ぎと共に闇に葬ることができた時、私と彩史は大山の住職様の協力もあって、殆どのものをあの塔の中へ移動させたのです。中には怨念のようなものを感じて動かせなかったものもありましたが、特に私達が気にしたのは探偵の手記です。三人で中身の確認までしたのに、昨日塔にあったのは助手の手記だった。あんなものは一度も目にしたことがなかった。彩史が殺された時にすり替えられたに違いありません。それこそが彼の復讐の意思表示なのでしょう。彼は宍戸家の人間を皆殺しにしたいのです。次に会う時に菊乃の命だけは救ってくれるよう、頼むつもりではありますが」
「そんなシナリオは認めません。あなたの口から教えてくれませんか。その探偵助手の名前を」
「顔に似合わずしつこい男なのね。ツバキさん」
 ようやくこの時になって芳恵は微笑んだ。足を組んでソファに座り、それこそ初めてこの部屋で会った時と同様に。
「そういう男性が女性から嫌われるのは当然、分かっているでしょう? 誰の目から見ても魅力的に映るあなたなら尚更」
「……貴方の考えに少しでも変化があればと期待していたのですが、やはり無駄なのですか」
「ええそうね、あなたにとっては。でも、私にとっては無駄ではないわ」
「どういう意味です」
「あなたが愚直なまでに優しい人だと私は最後に知ることができた。でもツバキさん。その優しさは、もっとあなたが大切に想う人に使ってあげた方がいいと思うわ。サクマさんからも後でそう言っといて頂戴」
「僕にそのような相手はいませんよ」
「いることに気付いていない可能性だってあるわ。今後はプライベートにも気を付けておかないといけないわね」
 ツバキは右手をひらひらと振った。
「この話はやめましょう。……探偵助手の正体以外で、幾つかお伺いしても?」
「ええ。結構よ」
 そして話題は再び事件のことへと戻っていく。この時彼が嫌がる態度を取ったのは決して自らに話題が触れたからではなく、芳恵の諦めたように開き直る様子が許せなかったからだ。
「今僕があなたにお聞きしたい内容を大体の時系列に並べて、確かめさせて頂きます。まず初めに魔女殺害未遂についてです。あなた自身はこれを、誰が行ったことと考えておられますか。探偵助手と魔女との接点は現時点ではまだ挙げられない。犯行の方法から考えて容疑者として疑われるのは、やはり当日彼女と共に屋敷にいた、我々のうちの誰かです」
「……」
 芳恵はしばらくの時間黙り込んだ。そして、こんなことを言う。
「まず最初に言えることして、私ではありません。あなた方に提示できる証拠はありませんが、私のことは私が一番分かっております。自分が無実であることは、宍戸家当主の名に懸けても誓えますわ。
 あとはそうね……これが自分自身の助けとなるかは不明ですが、あなた方が屋敷を飛び出す時、玄関近くで宮田さんが電話をしていたでしょう?」
 私達は揃って頷いた。
「元々あれは柳さんが前もって医者に連絡しておくようにと彼女に頼んでいたからですが、その後に私も彼女にあることを頼みました。田上さんに連絡をするついでにと」
「それはいったいどのような」
「簡単なことです。「魔女の容体を早急に確かめ、そして教えろ」と。私の名前をチラつかせるようにとも伝えたら、後ですぐに彼は教えてくれたそうよ。昔から彼は私の忠実な下僕だったから。あなた方が病院にて聞いた内容と、全く同じことをね」
 今度はツバキが黙り込んだ番だった。今の話はいったい、どのような意味を内包していたのだろう。私も彼の隣で同様に考え込んでみたが、当然すぐに考えは閃かなかった。
「……ありがとうございます。次にこれは質問というよりは、お願いという形になるのですが」
「構いませんわ。何なりと」
「この後の僕達の事件の捜査についてですが、道真さんのお部屋と車の中をそれぞれ見せていただいてもよろしいでしょうか。生前彼が考えていたことに触れておきたいのです」
「それが事件と関係するというのですか?」
「それは実際に見てみないと分かりませんね。何もなければ僕達はただ、彼のプライベートを詮索しただけ、ということになります」
 そう言って飄々とツバキは肩を竦めた。しかし芳恵には最早それが、彼の特徴の一つなのだと理解している。
「どうぞお好きなように。鍵などは宮田さんに言って借りて下さいな。どうせあの子は……いえ、何でもありません」
「それではもう一つ」とツバキが発した時だった。微かに応接室の扉の向こうから物音が聞こえたのを、私は聞き逃さなかった。
「誰ですか⁉︎」
 遠くだったがあまりに怪しげに感じられた気配に、思わず私は扉に向かって声を荒げた。芳恵夫人もツバキも、初めは何のことか理解していないようだった。
「どうかしたかい」とのツバキの声も聞かず、私はすぐに扉を開けて廊下を素早く見渡した。
「まさか誰かが聞き耳を?」
「ああ。それも何だか堂々と言うよりかは、こっそりと、って感じがして……」
「あなた方が中にいると分かっていたなら、盗み聞きをしたくなる気持ちは分からないでもありません」
 芳恵はゆっくりと立ち上がり、上質な絨毯に足を滑らせながら言った。
「事件の犯人はまだ分かっていないのですから。少しでも情報が知りたいと思うのは決しておかしくはありませんわ」
「それはそうなんですけど、でもあれは……」
 そう言って私はもう一度、二階の廊下の先を見つめる。
「……」
 ツバキは一瞬思考してからやがて、芳恵に向かって振り返り言った。
「僕達は今からサクマが気付いた音の正体を探りに行きます。芳恵夫人、協力して頂きありがとうございました。最後に一つだけ、お伺いしても?」
「どうぞ」
 芳恵は最後に快諾した。しかし次の瞬間には、彼女の表情が冷たい氷のように凍てつく。
「昨日のアリバイについてです。あなた、午後から一人で何をしていたのです? コレクションルームにいらっしゃった以外の時間。特にそうですね……夕方に柳さんと、宮田さんの買い物のことでお話しした以降の時間帯だけでも構いません」
「……!」
 芳恵が小さく息を吸ったのを私は見逃さなかった。それが答えだとばかりにツバキはそれ以上のことは尋ねず、「失礼します」とだけ言って階段へと小走りに向かっていく。
「サクマ、急ごう」
 言われてすぐに私も、「あ、ああ」とだけ答えて彼の後をついて行く。階段を下りる手前、気になって私は芳恵の様子を振り返ったが、彼女は顔を真っ青にして固まったまま、応接室のすぐ前で微動だにしなかった。
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