二日目、その五

文字数 8,024文字

「にゃあ」という間抜けな鳴き声が張り詰めた鼓膜にのんびりと響いたのは、私達がバス停に向かってゆっくりと石畳の街道を下っていた時だった。
 おや、と先に気付いたのは私で、ツバキなんかは少し一瞥しただけですぐに通り越して行ってしまう。白、茶、黒の毛が特徴の、典型的な三毛猫だった。灰色の空の下、規律よく並べて建てられた黒い街灯のうちの一つの傍にうずくまるようにして、じっと私達を見つめていた。周囲には高く聳える建物の土壁の他に、密集して竹林が生えていた。三毛猫は首輪もつけていなかったことから、野良猫だろうかと私はすぐに見当をつけた。
「見ろよツバキ、顔が丸々としてて可愛いぞ」
 日常を生きてきて必ず一度は尋ねられるであろう「犬派か猫派か」。生まれてこの方「猫派」だと即答してきた私は、そのふくよかで愛らしい姿を見てすぐにツバキに声を掛けた。魅力的なものに出会えた時、人は大抵周囲にそのことを伝えたくなるものなのだ。たとえそれが、見るからに興味関心のなさそうな青年であっても。
「ほら、堂々としていて逃げ出す様子もない。どっちだろう。オスかな、メスかな?」
「三毛猫は遺伝の都合上、殆どがメスだろ」
「そうだっけ? ……相変わらず、お前は何事にも詳しいな」
「たまたま知っていただけだよ。それよりもね、遊ぶなら程々にしなよ。どうせ連れて帰ってやれないんだから」
「分かってるよ。それに、「魔女に話を聞く時間がなくなる」とも言いたいんだろ?」
「その通りさ、よくお分かりで」
 ツバキのそんな皮肉も特に気にせず、私は道のほとりに生えていた猫じゃらしを一本むしり取った。その日の夜に秋津紗夜に教えてもらったのだが、猫じゃらしの正確な名称はエノコログサと言って、漢字では「狗尾草」と書くらしい。かつては犬の尻尾に見立てられていた点は、私にとって新たな発見だった。
「ほら、おいでおいで」と猫じゃらしを持って構い出した私に、三毛猫はのっそりのっそりとこちらへ近付いた。猫じゃらしをゆらゆらと目の前で振ると、黄色くて大きな瞳はすぐに捉えて前足を伸ばしてくる。突如として赤し国に現れた癒しに、私は思わず口角が緩んでしまう。
 餌になりそうな物を持っていなくて申し訳ないと思いながら、続けて私はしゃがんで猫じゃらしを振り続けた。
「おーいサクマ、僕は先に行くよ」と小さくツバキの声がしたがお構いなしだった。ようやく三毛猫が目の前の人間に慣れて目を輝かせたところで、私は心の中で大きくガッツポーズをする。
 しかしそんな私のすぐ横を、三毛猫はすぐさま素通りしてトタトタと駆けて行った。何処へ向かうのかと振り向けば、なんと離れたところにいたツバキの足元へまっしぐらに擦り寄るではないか。
「うわっ! こら、餌や遊び道具なんて持ってないぞ僕は」
 黒のスラリとしたスラックスの裾に突然擦り寄られて、ツバキは驚き戸惑っていた。やがて彼が仕方なしに喉を撫でて甘やかしてやると三毛猫はゴロゴロと鳴き声を上げ、野良猫としての威厳や矜恃もなく体いっぱいに喜びを表現している。「にゃお〜ん」と長く鳴き、先程聞いたよりも幾分か高揚した調子だった。
 ……懸命に構う人間を無視して、動物すら美青年がお好みなのか。
 私はたちまちに虚しくなった。そして真顔で立ち上がると、「おい、何とかしてくれよ」と言ってくるツバキに対して「知るか」と冷たく一蹴した。
「どうして君が不機嫌になるのさ。猫が猫じゃらしに飽きることだってあるだろう? 彼女達は気まぐれな動物なんだから」
「俺が今傷付いたのはそういうことじゃない」
「はあ?」
 ツバキは私の態度の意味がよく分かっていないようだった。私の怒る姿を眺めた後は、再び自らの足元を見つめて何やら考え込んでいるようだった。これだから生まれ持っての美丈夫は! と私は一転して心の底で大きく毒づいた。
 そしてその後は何事もなく歩き進めていくと、私達は商店街に到着した。この時は曇り空も本来の青さを取り戻していき、半透明のアーケードの下でいくつもの店舗が左右に並んでいた。坂を下る途中、遠くから通りの景色を見下ろしていた時はまるでジオラマのようだったが、いざ足を踏み入れるとその規模は日本の都市部にある広域型商店街と何ら変わりない。やはり宍戸家の人々が言っていたように、赤し国は「村」ではなく「街」なのだと私は改めて感じさせられた。
 バス停はもはや目と鼻の先である。私達は店に寄り道することなく、商店街を少し道なりに歩くとすぐに左へと曲がった。商店街の道から殆ど直結して灰色のコンクリート製の商業ビルへ続き、その入り口を通り抜けていくとバスターミナルが見えた。ビル内にも一応何店舗か店が構えてあったが、どれも営業時間外なのかひっそりとしていた。そばの階段の先には、古ぼけたスナックの立て看板が小さく見えていただけだった。
「ショッピングモール行きは……あった。ここに並べばいいんだな」
 時刻表と睨めっこしながら、私はお気に入りの腕時計で時間を調べた。青いカカシの腕を模した時計の針の位置を確かめると、十分と経たぬ間にバスはこちらに到着してくれそうだ。
「さすがに本数が少ないね。一時間も待つ羽目にならなくて良かったよ」
「ここに住むなら車は必須だな。病院へ向かうとなれば尚更だ。まあ、今回は急ぐ用事でもないけど」
 列に並びながら私達がそんなことを話していると、不意に低い男の歌声が聴こえた。あまりに大きな音だったので辺りを見渡せば、背を丸めた老人がバス停から不自然に離れたところでぽつんと立っている。私は彼が大音量で歌謡曲のラジオでも聞いているのかと思ったが、そうではなかった。老人は一人朗々と、お経を響かせるかのように歌を歌っていたのだ。
 歌は始めから終わりまで音階が総じて低く、おまけにリズムはあまりにも遅かったために、歌詞を聞き取るのは容易ではなかった。けれどもその歌の印象はあまりにも強烈で、しばらく私の耳からメロディーが離れることはなかった。
「おお恐ろしい恐ろしい。宍戸の者がまた死んだ」
 嘆くようにそう言ったのは、私の後ろに並んでいた別の老人だった。高齢者用の手押し車を支えにし、彼もまた歌を歌う老人と同様に背中が丸まっていた。どこか買い物へと向かう途中のようだ。
「あの方が歌っている歌は何なのですか」
 まだ詳細な歌詞が分かっていなかった私達は、その老人に尋ねた。どこか物々しく心をざわつかせる音色に、いち早くその意味を知りたくなったからだ。
「ああ、それは」と老人はこちらが何者なのか尋ね返すことなく答えた。
「この地に昔から伝わっとる歌ですな。それこそわしがあんたらみたいな歳の頃から、じんわりじんわりと村に伝わっていって……」
 サイズの合わない入れ歯に苦労しながらも、老人は案外すらすらと喋る。この人が若かった頃、赤し国はまだ「小さな山村」であったのだろう。
「当主様方に何かがあると、皆ああして歌いますのじゃ。「呪われとる呪われとる。この村には災厄が降り積もっとるから、鎮めなければ鎮めなければ」……とな。ところでおたくら、観光客なんか」
「そうです」と息をするようにツバキは微笑みながら嘘をついた。
「おおう、そうかそうか。でしたら災難じゃったな。昨日の大雨のせいで、しばらく街の出入りはできんくなってしもうて」
「そうなんですか⁉︎」
 初めて聞いた事実だったために私は驚いた。話を伺えば東西の道路の両方ともが、山の土砂崩れにより塞がれてしまったのだという。「もはや芳恵夫人が今朝方言っていた街の人々の包囲網をくぐり抜けることが出来たとしても、脱出は不可能ということか」と、隣でツバキが小さく呟いた。
「お爺さん。よろしければ僕達にその歌を教えてくださいませんか。観光で訪れた者として、僕達はこの赤し国のことを少しでも多く知りたいんです」
 ツバキがそう頼み込むと、老人は満面の笑みを浮かべて「おう、ええよええよ」と快諾してくれた。「こんな綺麗な方に頼まれるんなら特別じゃ。どうぞどうぞ、ゆっくり観光していきんしゃい」
「ところでお名前は」と名前を尋ねられ、「ツバキです」と彼はすんなり答えた。「おうおう、椿とはええ名前じゃのう。おぬしによう似合っとる」と老人は何度も頷いた。
 そして何故だか老人は、次に私に鋭い視線を向けた。「あんたは連れかいな」
「え、ええ。まあ、そうですけど……」
 私がそれに戸惑いながら答えると彼は言った。
「こんなべっぴんな嫁さん、大切にせにゃならんよ。あんたはもうちょい有り難みを味わったほうがええ」
「は?」
 私は口をあんぐりと開けた。いくら見目麗しい容姿をしているとはいえ、「僕」という一人称で男の声をしたツバキのことを、老人は女だと完全に思い込んでいたのだ。
 そして立て続けに彼は尋ねた。
「あんた、もうプロポーズはしたんかいな」
「いやいやいや待ってください! 始めから何もかもが間違ってます! 嫁さん以前にこいつは男で……!」
 そう言って困り果てる私を制したのはツバキ本人だった。
「いいよサクマ、ご老人相手にいちいち訂正するのも面倒だろ。僕は昔から慣れているから」
「昔からって、お前の中では常々あることなのか⁉︎」
「まあね。……いや、その話はまた後にしよう。話が逸れてしまう」
 そして話を戻してツバキが歌について尋ねると、老人は「そうじゃったそうじゃった」と、親切に私達に教えてくれた。

 白き無垢たる神の地を
 おかして染めるは赤き獅子
 その咎を生みし罪人に
 永遠なる傷跡を
 その咎を受けし神の子に
 永遠なる安らぎを

 私達から少し離れた位置にいる老人は、周りも気にせず何度も繰り返し歌を歌い続けている。
「なかなか厳かで聴き手の心に訴えかけるような歌ですね」
 本心なのか適当なのかよく分からないが、ツバキはそう評した。「呪いや災厄を鎮めるための歌にしては、前半の歌詞に不穏な響きも感じられますが」
「ええ、ええ。そう仰るのも最もですじゃ。と言うのもですな、今こそ赤し国は平穏そのものじゃが、一昔前は皆争うようにこの地を手に入れようと、それはそれは躍起になっていたんですじゃ」
「そういえば、初めにそんなことを当主様が言っていたけれど……」とツバキは首を傾げながら呟いた。彼が今言わんとしていることは、私にも分かる。
「その様子がこの歌に込められている、というのですか? これでは全員が上を目指した競争というより、まるで……」
「醜い侵略に取られかねない。というより、そのように街の人々には語り継がれてしまっている。「白き無垢たる神の地」が今の「赤し国」だとすると」
「赤き獅子、というのは、宍戸家のこと……?」
「いいや、それだけの意味ではないような気がする」
 そしてツバキは意を決したかのように尋ねた。
「すみませんお爺さん。あなたは「赤木」という一族の存在をどこかで聞いたことがありませんか」
「赤木……それは……」
「昨日亡くなられた赤木道真さんの苗字でもありますよね? 元々は宍戸家の人間だと伺っているのですが、どうして彼が赤木の名を名乗っていたのか、ご存じではありませんか」
 するとそれまで協力的だった老人は、途端に「おう……おおう……」と嘆くような言葉を漏らし始めた。
「それは……それは口にするのも恐ろしい。呪われた一族ですじゃ。神の怒りを……神の怒りを買ったがために自らの数を減らしていき、そして滅んでいったのじゃ。ゆくゆくは宍戸の当主様方も……」
 そしてそれ以降、老人は黙りこくってしまった。
「……具体的な詳細までは分からなかったけれど。話を聞いて歌の内容と総合してみるに、元々この場所には別の統治者がいたようだね」
「神の子……の部分だよな。宍戸家でも赤木一族でもない、全く別の先祖のことを指しているのか?」
「そうだね。むしろ彼らは、この歌でいう所の、「罪人」にあたるんじゃないのかい」
 そこで私は思い出した。昨日の夜、あの恐ろしいサイレンが鳴り響いた時に、彩史が言っていた言葉を。
 びっくりしましたやろ? このサイレン。本っ当に不謹慎ですわ。
「宮田さんから聞いた話の内容に真実味が感じられてきたね。赤し国の人々は大きな力を持つ宍戸家に忠実な一方で、どこか心の底から彼らを崇拝してはいない。古くから伝わる歌を聞けば単純明快さ。むしろ彼らの不幸を喜んでいる節がある。歌を聴いた初めは近くで人が一人死んだにも関わらず、純粋に人の心として「どうしてなのか」と思っていた。でも今は、「だからこそ」というのが僕の答えとなりつつあるよ。あの塔についてもそうだけれど、彼らが真に正しい権力者ではないという事実が、大きな理由として存在しているのかもしれない」
 ツバキは考える素振りを見せた。
「それなら今回赤木道真が殺されたのは、……宍戸芳恵の息子が殺されたのは、街の人々にとっては喜ぶべき出来事だったのかもしれない」
「それはつまり……」
「ああ。「神の子を思えば」の話さ。赤し国に古くから伝わる歌、非常にミステリアスじゃないか。これももしかすれば、今回の事件に関係があるのかもしれない」
 後で魔女に聞こう、とツバキは言った。
「当事者よりも多少は客観的な説明ができるだろ。一応彼女はこの複雑な思考入り乱れる街をも内包した、「島の統治者」なんだから」
 やがて私達の乗るバスが到着した。車体は事前に私が予想していたとおり赤のカラーリングだったが、すでに長い時を経て古くなってきているのか、所々に白い擦れ傷のようなものも見られた。
 一番後ろの席に座ると、今度は別のお婆さんが前の席から声を掛けてきた。余程よそ者の存在が珍しいのだろう。先程まで一人歌っていた老人は結局どのバスにも乗ろうとせず、同じ場所に立ち尽くしたまま、虚空に向かって不気味な歌をいまだに大声で歌い続けている。
「ところでお二人さん、これからどこへ行かれますんじゃ」
 ツバキはこの町で唯一の医者の名前を上げ、その近辺を目指していると言った。
「ほう、田上さんとこかいな。そういえばあそこ、噂では魔女を匿っとるという噂で持ちきりなんですよ。魔女を知っておりますかな。それこそ宍戸様が、化け物のように酷く嫌っておるという女子でして」
 もう噂になっているのか! と思わず声に出しそうになったが、隣からツバキに足を蹴られて何とか踏み留まった。今の観光客という立場を、ついつい忘れてしまいそうになる。
「……おい、俺が悪いけどもう少し加減しろよ」
「何を言っているんだい? つい足が滑っただけだよ」
 絶対に嘘だ。
「えっと……それは初耳です。その田上さんという医者は、もし噂通りだったら周囲から白い目で見られてしまうんですか?」
「そりゃそうですじゃ。何てったって、宍戸様のご意向に背くことをしとりますからな。田上さんの所は昔から、宍戸様のご命令やご指示には一つ返事で受けとったはずなのに……。長あい長あい付き合いなんですぞ。あたしゃが一度飲みに行った時には、「生涯宍戸派じゃ!」と言っとったんじゃが」
 一度医者の姿を見たことがあるから断言できるのだが、恐らく「生涯宍戸派」は公言していても、「宍戸派じゃ!」とは言っていないに違いない。昨夜紫帆を病院まで運んだ時の光景を思い浮かべながら、次に目の前の老婦人を見て私はそんなことを思っていた。ところがその後、そのどうでもいいような考えが一気に吹き飛ぶほどの事件が起こったのである。
「弱っとる女子を見て、あの人もつい情に絆されたんかねえ。優しいと言うべきなんか、裏切り者と言うべきなんか」
 それはささやかながら私達にとっては非常に衝撃的だった。赤木道真殺害のような大事の騒ぎには至らなかったが、それでもこの時点で人が一人死んだのだ。風に流されるようにその出来事は私達の滞在中に街に溶け込んだが、しかしこの物語を綴る上では決して忘れてはならない謎であり、ツバキだけは最後までこの事件の追及を続けたのである。
 それは、私達がバスを降りて魔女こと堂島紫帆の元へ向かった際に初めて遭遇した。紫帆が毒を盛られ、急遽転がり込むように身を寄せることとなった個人病院「田上医院」。
 すぐ真上の晴れ上がった空とは裏腹に、建物の存在していた場所は焼け野原となり、その姿は既に跡形もなくなっていたのだ。

灰色の空の下、彼女は祈りを捧げていた。たった一人、眼前に広がる湖に花束を供え、細く美しい指を組み合わせ。
 只一人静かに、何も言葉を発することもない。
 彼女が祈りを捧げている間、小さく人里離れた墓地に人影はなかった。ただ季節外れにも身を切るような秋の風が、今にも倒れそうな身体に襲い掛かるばかりである。
 まるで責任を問うように。恨みと憎しみをぶつけるように。
 彼女は目の前の光景と虚空に向けて、祈りを捧げるしか他に術がなかった。その行為は着実に彼女の精神を痛めつけているが、それでも彼女はすぐにその場を立ち去ろうとしない。
 まるでそれが、自分自身への罰であるかのように。そうしなければ、彼女はあまりにも自分が薄情者に感じられたのだろう。
「……お祈りは終わった?」
 聞き慣れた男の声に彼女はすぐさま振り向く。静かな場所に足を踏み入れ、こちらへ歩いてきたのは唯一の肉親である兄だった。彼は憐憫の情を顔に浮かべ、妹を心の底から心配しているようだった。
「兄様……」
「大丈夫だよ。いつかきっと、君は必ず幸せになれる。昨日はあんなことがあったけれど、君は何も悪くない。だって、何も関係がないんだから」
 はにかむように彼は笑った。きっと冗談半分、そして本気半分なんだろう。兄が自分のことを真剣に想ってくれていることは十分に伝わる。妹である自分を励まそうとしているのだ。ただしそんな彼の眉の見事な八の字が、彼女にとっては可笑しくてたまらなかった。生まれて共に育ってから、この兄は過度な心配性なのだ。
 少女は目に涙を浮かべて満面の笑みを見せた。
「ありがとう。……兄様はいつも優しくしてくれるのね」
「当たり前だろ。家族なんだから」
「だったら寂しい? もしも私が近い将来、お嫁に行ったりなんてしたら」
「勿論だよ」
 兄は今度は自然に笑った。
「けど……お前が不幸になるのを日々祈ってるわけじゃない」
「そう。……ありがとう」
 彼女はようやく立ち上がり、兄の元へと歩みを進めた。何度か湿った地面を踏みしめ、そしてもう一度、彼女は先程までの光景を振り返った。
 空に陽の光が降り注ぐことはない。むしろ黒々とした塊のような雲が、幾重にも重なって灰色の空をさらに覆いつくそうとしていた。彼女の願いを叶えるつもりなど毛頭ないかのようだ。
 心に巣食う不安が、さらに冗長される気配すら感じた。何十にも浮かぶ人々の表情が、二人を睨み付けるようでもあった。兄妹であるからなのか、抱く感情も偶然同じ。
 逃げられなどしない。解放されるわけがない。お前達が呪縛から解き放たれることなど、決して訪れない。
 幻聴であろうと分かっていても、つい耳にこびりつく。暫くの間は付き合っていかなければならないだろう。しかし二人はそれぞれ意にも介さないように振舞った。
 目の前の家族をこれ以上、心配させるわけにはいかない。
「行きましょう兄様。……お待たせしてごめんなさい」
「いいよ。お前よりむしろ、自分がそうしたかったんだから」
 彼から差し伸べられた手を、妹は割れ物に触れるようにそっと握る。そして二人はここまで乗ってきた車を停めた駐車場へと向かった。雨に降られないよう、早足で目的地へと向かう。
「……それにしても」と妹が呟いた。
「いったい誰が、あんな酷いことを……」
「……」
 彼は言葉を探すかのように暫く黙り込んだが、やがて口を開く。
「きっと何とかしてくれるよ。あの二人が」
 いつの間にか、風は止んでいた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み