二日目、その十五

文字数 2,020文字

 ああ疲れたと、宮田万奇は厨房の中央に無造作に置いた丸椅子に座りながら、ぼんやりと蛍光灯と虚空とを見上げていた。
 人が亡くなったのだ。それもただでさえ忙しく気の遣う、客人の来ている時に。
 葬儀の段取りから家事の至るところまで、使用人本来の仕事に加え、主人の為にと手伝わなければならない仕事は山のように存在する。元より目まぐるしく働くのが苦ではないとはいえ、一人でできる行動の範囲と体力の双方に限度があった。
 故に今、人の気配を感じない為に宮田は完全に発条の切れた人形のようになっていた。先程二階の自室で仮眠を取ったばかりだというのに。
 〈どこかで緊張の糸を解すことも、苦労する世の中を生きる上で重要なことなのだ〉
 休日に寄った本屋で立ち読みをした時に書かれてあった気がするが、結局購入しなかったなと宮田は不意に思い返した。
「二階の倉庫と客室。掃除に入るべきだったのか奥様に聞きそびれちゃったな……。あんなことがあった後だし……」
 〈サスペンスやミステリのジャンルもその対象に漏れない。事件が起こった後は現場の保存に努めるべきである〉
 宮田はテレビドラマやアニメをよく見る方で、この言葉も架空の世界の刑事が捜査の場面で言っていた。なおそのドラマは屋敷の主人に呼び出されたせいで、結局最後まで観ることはできなかったが。
 汚れていた眼鏡のレンズをエプロンの裾で拭き、「さ! お料理お料理!」と体中の気力を振り絞り意気込んだ。個人的には超極甘のカレーライスにしたいところだが、勿論そんなことは許されるはずもない。もっと状況に合ったレシピを考えなければ。
 暑さのピークは過ぎたとはいえ、やはりまだ冷奴は外せないだろうか。と、首を傾げながら思案している時だった。ほんの僅かにだが、建物全体が揺れた。そしてその後、裏庭へ続く戸口の向こう側から、何やらガヤガヤとした騒音。
「……?」
 何かあったのだろうか。
「宮田さん! いますか!」とその時、厨房の薄い扉が横にスライドした。客人の一人の佐久間稜一である。初めて屋敷に訪れた時は緊張した様子の彼だったが、今はどこか焦っているようにも見えた。彼はきっと今晩がどろどろのカレーライスであっても許してくれるタイプだろう。そんなことを心に浮かべながら彼女は尋ねた。
「サクマさん。どうしたんですか? そんなに慌てて」
「それが、菊乃さんが急に体調を崩されたみたいで……。何か飲み物が必要だったり、部屋まで連れて行ってあげた方がいいかもしれないと思って……」
「それは大変!」
 今朝から菊乃は食欲がなかった。それも当然だ。昨夜に実の兄の無惨な姿を見たのだから。
 性格は異なれど、赤木道真と宍戸菊乃は兄妹として仲が良いと言うよりは、相性が非常に良かった。宮田が使用人となった頃には既に二人は成人していたので、実家であるこのお屋敷に双方が揃うことは少なかった。けれども顔を合わせた時は、互いの状況を深く知るために多くの言葉を交わしていたのを覚えている。場所を問わず、ホールでも、遊戯室でも。その光景には和やかな雰囲気が伴っていた。幼少期からあの厳しい母親の下で育ったために、その苦労も二人でこれまで分かち合ってきたに違いない。同年代で且つ一人っ子の宮田は、それをよく羨ましい目で見ていた。今日の菊乃は、彼女なりにかなり無理をしていたのかもしれない。
「今、ツバキ達が様子を見てくれています。家事の途中で申し訳ないんですが、遊戯室まで来てくれませんか」
 元よりそのつもりだ。彼女はこの屋敷唯一の使用人なのだから。
「分かりました。すぐに行きましょう」
 ところがここで、ダン! と上階で大きく物音がした。驚きのあまり厨房にいた二人は目を見開く。次いでドタバタと随所で大きな足音が響き渡り、時々誰かの叫び声が響いた。
「今の音……何事ですか」
 宮田が呟くなか、サクマが先に厨房から廊下へと出て行った。そこで彼は衝撃の光景を目にしたのか、「待て! どこへ行くんだ!」と玄関に向かって大声を上げた。
 どうやら事態は一刻を争うのかもしれない。エプロンを脱ぐことすらやめて、宮田は玄関へ向かった彼の後を急いで追いかけた。
「おいっ!」
 サクマが門の外に向かって叫んだ。しかし彼の呼びかける声は悲しくも届かなかったらしい。
「サクマさん、どうかされたんですか⁉︎」
 今晩はもしかしたら本当にカレーライスになってしまうかもしれない。そのような直感を抱きながら、女使用人は尋ねた。
「いや、俺も訳が分からなくて……。ツバキが外へ飛び出して行ったのは見えたんです。さっきの足音を考えれば、まさか他の皆も……?」
「ええ⁉︎」
 日も沈みかけだというのに、いったい何が起こっているのか。
 途方に暮れる二人に追い討ちをかけるように、血相を変えて秋津紗夜が和室の並ぶ廊下から姿を見せた。
「サクマさん大変です! 菊乃さんが突然、叫び声を上げて外へと飛び出してしまって……!」
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