二日目、その十一

文字数 8,760文字

「ふむ……これが名刀獅子夜叉か」
 ツバキは気難しそうに、じっくりと目的の刀を観察していた。赤木道真殺害の凶器を独自に明らかにしようとした政景がせっかく紹介してくれた物であるが、まだその見映えは探偵を十分に納得させるものではないようだ。慎重に慎重を重ね、彼はありとあらゆる方向からガラスケースを覗き込んでいる。
「部屋にあるものでもこの獅子夜叉だけ、鍵付きのケースの中に入っているのには理由があるのですか」
「ええ。先代当主でこの赤し国を繁栄に導いたとされる、宍戸浩之介の愛刀だったそうですよ。現当主の芳恵さんや彩史さんにとっては父親の形見でもあって、この屋敷にあるコレクションの中でも、最も手放したくない大切なものなのだとか。今ここで獅子夜叉を取り出すことも可能です」
「そうですか、では鍵を。……一目見た印象では、特段怪しい傷なんてものも見当たらないな。まあ、犯人がそんなものを残すような間抜けだったなら、僕も拍子抜けするけれど」
「ではこちらもどうぞ使ってください。よろしければサクマさんも」
 そう言って政景は大きめのポシェットの中から手袋を二人分取り出し、差し出した。どちらも普段の仕事で愛用しているものなのだろう。
「刀剣というものは、どれも基本的に皮脂が弱点なんです。錆の直接的な原因になるので、特に刀身の部分を素手で触るのは御法度とされています」
「ありがとうございます。あの、政景さん。一つお尋ねしたいんですが、そのガラスケースの鍵はいつも持ち歩いているんですか?」
 私が黒色の手袋をはめつつ尋ねると、政景は首を左右に振った。
「いいえ、必要がある時に芳恵さんに頼んで取りに行ってもらっています。なんでも一階西側の突き当たりの、当主専用の部屋にいつもは保管してあるのだとか。あそこは宍戸家以外の人間は、基本的に立ち入り禁止だそうです」
「立ち入り禁止……すなわち、部屋そのものにも鍵が掛かっていると?」
「ええ。ガラスケースの鍵についてはさらに限定されて、歴代当主しか所持を許されていないようです。ゆくゆく当主になる予定だった道真さんにはまだ与えられていなかったので、これまで存在した鍵は芳恵さんと先代の浩之介さんの分の二本、となりますね」
「先代がかつて持っていたとされる鍵は今、誰が持っているんですか」
「それが先代の生死が分からなくなったとされる火災の時に、鍵もどこかに消えてしまったようです。燃え滓になってしまったのではと言われているので、厳密に言うと今あるのは芳恵さんの持つ一本だけですね」
 政景は芳恵の以前に短期間だが当主であったらしい彼女の夫に関しては、あまり把握していないようだ。そのことを伝えると、彼は「そうなんですか⁉︎」と優しそうな目を大きく見開いた。
「初めて知りました。旦那さんの存在は認識していたのですが、まさか当主でもあったとは。……国の隠された王、と言う訳ですか。彼専用の獅子夜叉を取り出すための鍵がないことも、何か理由があるのでしょうね」
「簡単に思い浮かべられるものを挙げてみるならば、彼が婿入りで宍戸家にやってきたことですかね。元より彼は赤木一族の人間でもなかった」
「全く他所から来た方だった、というわけですか。確かにそれはあり得ますね。つくづくこちらの家は、長く密度の濃い歴史を歩んでいるようです。独自に調べていらっしゃる柳さんは大変ですよね。興味関心が始まりとはいえ、何度も何度もこの街や屋敷を訪れているんですから」
 私も見習わなければならない、まさに「継続」である。未完成のまま放置している小説の原稿がどれほど溜まっていることか。急に私は、本来の住処であるアパートが恋しくなった。
「そういえば先程柳さんから、宍戸浩之介の生涯についても話を伺いました。さっき政景さんが仰って下さった、書斎の火災についても熱心に調べ上げていましたね」
「私が話を聞いた時は、芳恵さんの旦那さんが亡くなられた出来事についても調べているみたいでしたよ。なんでも、今から十年前に起きたのだとか」
 庭の納屋にて紅葉が教えてくれた、和室での自殺のことだろう。発生した時期を私が記憶しておくと、ツバキが「最早仕事の域だね」と、私達の会話の隙間を縫うように呟いた。
 そこでふと、私は気になっていたことを口にする。
「そういえば柳さんって、何をしている人なんだろう……」
「職業、ですよね」と政景が賛同するように頷いた。「でしたら私も気になっていたことがあります。亡くなられた道真さんについてもですが、いったいどのような仕事をしていたのでしょう」
 柳暁郎は自分自身のことについて、「ふらふらしている」と言うだけで、具体的な内容はこれまではぐらかされてきた気がする。一方の赤木道真については昨晩、彩史が彼に「お前も早く身を固めろ」と茶化すように言っていた。妹の菊乃が音楽の教員として生計を立てていると、二人が遊戯室で話していた直後の場面だ。
「もしかすれば、いろんな仕事を転々としていたのかな」
「彩史さんは芳恵さんのお手伝いをしたり、義兄である大山さんのお手伝いをしているそうですよ。職業としては、どこにも属していないようなのですが……」
 要するに無職ということだろう。だがしかし作家志望でありながら未だフリーターである私とは異なり、彼はきちんと家の為に真面目に働いている。それも姉である芳恵も一応は認めている様子だった。
「道真さんが亡くなられてから、死人に口無しという言葉をひしひしと感じています。もちろん職業などは他のご家族から伺えば分かる話ではあるのですが、どうして殺されたのか、どんな思いで亡くなっていったのかと思うと、やむに病まれず……」
 眉を顰める政景を見ると、私まで居た堪れない気持ちになった。二十七という若さで、突然にその生の歩みを止められたのだ。よほど無念があったに違いない。
 しかし私達がそんな感傷に耽る一方で、同じ二十七歳のツバキは流されることなく平常通りだった。てきぱきとガラスケースの蓋を取り上げ、「このまま手袋で触れても問題ないのか」と政景に問う。「大丈夫ですよ」と了承を受けたところで、彼は鞘から刀身をゆっくりと引き抜いた。
 名刀獅子夜叉は刃渡りが約三十センチほどの短刀であった。獅子夜叉という名の印象からはかけ離れて小ぶりであり、納屋でのツバキとの会話がなければ、私のイメージはそれなりの長さの妖刀めいた代物になっていたことだろう。しかし何故だかその刀や鞘の纏う迫力は他の追随を許さぬほどで、おおよそ短刀だからといって侮ることのできない何かがあった。それは目の前の獅子夜叉が赤木道真の魂を屠った凶器だからか。それともはたまた、これまで話に聞いた宍戸家の怪しげな実態や、先代宍戸浩之介のミステリアスな過去が原因なのか。
 獅子夜叉そのものの様相も続けて観察してみると、黒き鞘の装飾は至ってシンプルで、己の権威を表すための装飾などは一切なかった。実用性に特化しているとも一方で言えるのだが、ここで私が意外に思ったのはこれまで散々街のあちこちで見てきた「赤」がどこにもないことだった。宍戸家の表札や自動車、そして墓地へ向かうまでにくぐった鳥居。そして「赤」は視覚だけに留まらない。街の人々に古くから伝わる歌にも「赤」は潜んでいたではないか。
 赤し国=宍戸家=赤という印象が頭の中で根強く残っていたために、宍戸浩之介が愛用していた刀には彩りそのものがないという事実に、私は違和感を抱いた。そしてツバキにそのことを指摘しようと思えば、彼は周囲の壁面に飾られた他のものを眺めながら、ぶつぶつと呟いていた。
「殺害現場の状況と照らし合わせると、刀の長さをクリアしているのはこの獅子夜叉だけか。犯人は銃器を選ばなかった。……政景さん。そういえばあなたは昨晩僕達が例の和室に到着した際にこう仰っていましたよね。殺害の凶器に関する話題になった時です。「コレクションルームに昔の刀はあるが、実用性は怪しい」と。鑑定のプロとしてお尋ねしますが、やはりこの室内にある刀の殆どは、凶器としての役には立たないのでしょうか」
「正直に言えば、そこの獅子夜叉以外についてはどれも難しいのではないかと思います。観賞用に人から譲られたものもありまして、いわば本来の刀としての役割を果たしていないのは勿論のこと、たとえ刀剣として健在であっても、古くに造られたものなので重量がかなり重く……。女性の方はおろか、男性の方でも意のままに扱うのは厳しいのではないでしょうか」
「なるほど、ありがとうございます」
 そしてツバキは再び、自分の思考世界へと没入していく。
「短時間の反抗であれば尚のこと、と言ったところか。あの時の被害者の裂傷は、「斬りつけた」というよりは「刺した」ような印象だった。概ねこいつの刃形ともぴったり一致している……」
 ツバキは今度は獅子夜叉を天井の明かりに翳した。刀身は先端に反りがあり、後は柄に向かって真っ直ぐに伸びている。政景によると、地上で抜刀する際の利便性や短刀の特質に合った反り方で、刺突にも適応しているらしい。一方で刀身の形状は菖蒲の葉に似ているとも彼は教えてくれたが、これがいまいち私にはピンとこなかった。後で彼の妹の紗夜に、植物のアヤメについて尋ねた方がいいのかもしれない。
 ようやくツバキが一息ついたところで私は、獅子夜叉の「色」について彼に指摘した。
「色……確かにそうだね。その点も十分気を付けなければいけないポイントなのかもしれない。直接事件に関係はなくともね」
「短時間の犯行なのに、犯人はわざわざこの刀をガラスケースから取り出したのか?」
「それも僕は不思議に思っているよ。傷の形状から考えれば、凶器は間違いなくこれだと断言したいところだけどね。惜しい、非常に惜しいんだ。よりにもよってこの刀だけが、鍵付きのケースの中に飾られているという事実がね」
「自由に獅子夜叉を取り出すことができるのは、ガラスケースの鍵を唯一持っている芳恵さんだけ。……政景さん」
 私は顔を上げて彼に尋ねた。
「この刀って事件が起こる以前からもこの状態だったんですか? たとえば以前に屋敷を訪れた時ですとか」
「全く同じです。貴重な物なので丁重に扱ってくださいと、特に彩史さんには念を押していましたから。品物の状態や特徴においては、どんなに小さな点も見落とさない自信がありますので、間違いありません」
「もしも鍵を芳恵夫人から借りることができたとしても、彼女のあの性格だ。信頼のある宍戸家の人間ぐらいにしか鍵は渡さないだろうね」
「サクマ」とツバキは私に声を掛けると、「犯人の動機とは種類は異なるけれど、これも矛盾なんだよ」と顰めっ面な表情を浮かべた。
「矛盾?」
「もしも宍戸家の中に犯人がいるなら、獅子夜叉を凶器に選ぶのは容疑者圏内を自分達へと狭めるようなものさ。それなら壁に掛けられた日本刀や、倉庫にあった鋸を取り出した方がまだマシだとも言える。
 犯人が宍戸家以外の者である場合もそうだ。獅子夜叉を凶器に選ぶのはデメリットがある。短時間で犯行を行うという課題があるにも関わらず、ガラスケースの中に飾られているからね。犯人が凶器としての実用性を重視したと考えても無理があるだろう。和室の天井に傷を残してでも、他の武器を使用した方が後の処分にも困らない。唯一大切な獅子夜叉が消失したとなれば、事件が起きなくても騒ぎになっただろうからね。
 即ち、獅子夜叉は事件の凶器に向いていない。しかし実際にはこいつが凶器として使われた可能性が最も高い」
「この刀が使われた理由を挙げるとするなら、かつての持ち主だった宍戸浩之介に何らかの思いがあった……とかか?」
「そう考えずにはいられないよ。犯行という台本にしては全くスムーズじゃない。「敢えて」と言えばいいのか、犯人の拘りが色濃く表現されている」
「拘り……」
 それ以上私が何も言えないでいると、ツバキは獅子夜叉を鞘に収めないままガラスケースの上に放置し、顎に手を当てながらしばらく黙り込んでしまった。これで何度目だろう。
 このまま彼を静かに見守るのも気まずいので、少しだけ離れて私は政景と会話することにした。
「そういえばあの塔で紗夜さんや私達のことを運命だと仰っていましたが、その考えは政景さん自身の職業柄、身に付いたものなんですか?」
「もしかしたらそうなのかもしれませんね。運命が存在するという前提のもと、創り上げられた絵画や骨董品の品々は多々ありますから」
 そして政景は嬉嬉として話し始めた。それこそ我がアパートの隣人に負けず劣らず、熱心に。
「政界や業界のトップクラスのお客様には特に多いんです。いつ周りの人間に貶められるかを警戒するが故に、不透明であるはずの未来がより良きものとなるよう、占いや風水を心の拠り所とする人間が。……ああいえ! 誓って彼らを馬鹿にするつもりはありません。ただ親しい人間よりも、運命を見通せると自称する人間を信頼するというのは、比較的数の少ない考えなんじゃないかと思うだけで」
「分かります。普通なら身近な人間に相談なりするだろうということですよね」
「ええそうです。不安な人々を救うため。言い方を変えるなら、そんな人々が「自分は救われた」と思いたいがため、でもあるのでしょうか。運命というものは生きていく上で必要な要素だと思いますし、商売や鑑定のお仕事を通じて、その出会いの一部を担っているとも思っています」
「人であろうと物であろうと、運命の出会いはある。ということですか」
「ええ、まったくその通りです」
 興味深く相槌を打てば、政景は人当たりの良い顔をさらに笑顔にした。特に好きな話題であることは勿論だが、大衆の美的感覚によって価値が決まる物を仕事道具とするのに愛嬌は必要不可欠なのだろう。実際に目の前にいる彼は、怪しい物を売りつけるセールスマンからはかけ離れて頼りになる印象を受けた。比較的フォーマルな服装も至って自然で爽やかである。まさに秋津政景にとって、古物商とは天職なのだろう。
「私がこの仕事に魅せられるのは、まさにその点なんですよ。訳あって持ち主の手元から離れることとなった素晴らしき品々を、適切だと思う相手へと繋いでいく。その責務を放棄すれば、せっかく古くから受け継がれてきた道筋が断たれてしまうわけですからね。いわば人と物の間の、キューピットの役割を果たしてもいるんです。物にはその相手にとって最良となる使い道と言うものが必ずしも存在します。お客様がようやく目的の品を手に入れた時の、安堵のような嬉しさが込み上げるような、あの表情が私には堪らない。まるで幸せをこの手に掴んだようで、「ああ、自分はこの仕事をしていて良かった」と強く思えるんです。そのためにも私達は品物の値段を決める上で、真の価値を見極めなければならない。本来の価値より低すぎても、ましてや高すぎてもいけないんです。鑑定は常にフェアに行わなければなりません。ただのえこ贔屓にならないためにも」
「でも中にはフェアに鑑定できない物もあるんじゃないですか? 私は人から人の手に渡ってきたと聞くと、どうしても呪いの人形や妖刀のような、後に身の破滅をもたらす物が紛れているのではと疑ってしまうのですが」
「勿論ありますよ。けれども必要とするお客様は熱烈な思いを持っていらっしゃるから、実際の真偽が不明でも真剣に相対しなければならない。手に入れることで一時の幸福や欲望を満たすためなら、彼らは後の不幸など構やしないんです。ある意味強くてタフですよね。そしてそのように求められた物は、作り上げられた当時も人々の願いの結晶であったことが大半なんです」
 いわば何も信用出来なくなった人間が突き詰めるところの、願望器の側面があるというわけか。それならば実際に効果はなくとも、手に入れるだけの価値や面白さはありそうだ。
「昔からそういったルーツを辿るのも私は好きでしたね。人がそこまでして何を願ったのか。各地に散らばった遺物を集めれば、人々の内なる願いや想いを多く図り知ることができるような気がして。……まあ、元々父親が古物商だったという、環境面での理由もあるんですけどね」
 早くに両親を亡くし、頼る親戚もいなくて苦労したが、今生きるのが楽しいのは仕事と妹のおかげだと政景は言う。だからこそ呪われた運命を跳ね除けて、妹には幸せになってほしいとも。
「これは私の母が亡くなる際に「必要がないから」と託してくれたものなんです」
 そう言って政景は、ポシェットの中から風呂敷を一つ取り出した。結び目を解いて現れたのは、木を削って作られた小ぶりの仮面である。
 ツバキも一瞬だけだがそれを見つめた。瞳を閉じた若い女を表した印象を受けたが、年季のせいで左目にあたる部分から亀裂が一本入っており、表情は眠っているようにも、はたまた死んでいるようにも感じられた。
「個人的には気に入っているのですが、お客様や仕事仲間からは総じて見た目が不評で……。骨董品以前に母の遺品でもあるので、私や紗夜にとっては非常に愛着のある大切な物なんですが、やはり人間それぞれで価値は異なりますよね。妥当なボーダーラインはどこにあるのか。数多の選択肢の中から答えを求めるのも、この仕事の面白さの一つでもあります」
 美術的価値の分からぬ私だが、十分に魅力があるように思えた。そして政景は仮面を風呂敷の中に仕舞い、ここまで語り尽くしたところで急に我に帰ったのか、「すみません! 長々と自分語りをしてしまって」と、恐縮するように身を縮めて私に頭を下げた。これに対して本人よりもさらに恐縮した私は「いえいえ!」と必死でこれを否定する。
「貴重なお話を伺えて良かったです。何より私自身、聞いていて興味深く感じられました」
「そうですか? それなら良かった。すみません、好きなことになるとつい熱中して話してしまって……」
 なんとも慎重な者同士の慎重な謙遜の仕方だった。お互いそれを打ち払うように遠慮がちに笑っていると、ふとツバキがとんでもないことをしているのが私の視界に入った。彼は真剣な表情のまま、なんと獅子夜叉のいかにも鋭利そうな刃を指でなぞろうとしているではないか。
「おいお前っ! 何しようとしてるんだよ!」
 慌てて私は近づくと、ツバキの右手を引っ掴んだ。政景から借りた手袋をしているので怪我をする恐れは少ないのだが、彼は「おっと」とおどけた声を発しただけで、危機感といった意識は欠片も感じられない。
「危ないだろ! 怪我でもしたらどうするんだ!」
 そう強く言うと、ツバキはむすっとしてすぐに反論した。
「気になることがあったからすぐに確かめようとしただけさ。君こそ、勝手に僕の腕をひったくったりして、却って怪我することがあったらどうするつもりだったんだい。目が離せない子どもじゃないんだからさ」
「正当化するな! 今のはお前が悪いだろ、集中し過ぎて向こうみずになってたくせに!」
「やる気を出せだの、集中し過ぎるなだの。注文の多い男が傍にいると面倒だなあ」
「なんだよその言い方は……!」
「ま、まあまあ二人とも! 落ち着いて!」
 ついさっきまで事件について話し合ってたのに、どちらか一方が機嫌を損ねるとすぐこの有様だ。争いごとを好まない政景に宥められでもしなければ、さらに文句を言い合っていたことだろう。
「……それで、なんであんなことをしようとしたんだよ」
 一呼吸置いて私が尋ねれば、ツバキはガラスケースの上に置いていた獅子夜叉の刀身を再び手に取って言った。
「君よりも政景さんの方が分かるかと思うけどね。この刀、少々粉っぽいんだよ」
「粉っぽい?」
「それにほら、これ……髪の毛だ。政景さん。確かめてくれませんか」
 そして獅子夜叉は探偵から鑑定家の手に渡る。政景は至近距離で短刀をじっと見つめると、「……確かに。遠目では気付きませんでした。これはおかしいですね」と首を捻った。
「粉については打粉と言って、刀身についた脂を拭い去るために使用する手入れ道具の一つなのですが、これでは打ち過ぎにあたります。砥石を細かくした粉でありますので、下手をすると刀に細かい傷が付く恐れがあるんですよ。それにしてもいったい、誰がこのような手入れを……」
「この髪の毛の主とかはどうでしょう。菊乃さんや紅葉さんよりも長いので、今屋敷にいる人間は該当しませんが、何か心当たりは?」
「いえ。他に同業者を招いたなんてことは、彩史さんからも聞いたことがありません。ガラスケースを開けるだなんて、余程のことがない限りはしないはずです」
「手入れ道具そのものは、元からこの屋敷にはあるのですか」
「はい。今見た限りこの室内にはなさそうだから、二階の倉庫かな……。すみませんツバキさん、サクマさん。私は今から手入れ道具を取ってきます。今持っている鞄には入っておりませんので……。失礼します」
 そう言って政景は獅子夜叉を丁寧にガラスケースの中へと戻すと、急いでコレクションルームを後にした。大切な骨董品が杜撰な状態となっていたのだから、彼がすぐさま動き出したのも無理はない。
「だけど、いったい誰がこんなことを……わざわざ犯人がやったのか……?」
「……」
 疑問符だらけで首を傾げた私だったが、これにツバキは何も答えず黙ったままだった。「彼の仕事を邪魔するわけにもいかないし、僕達もこの部屋を後にしようか」との提案を受け、特に反対する理由もなかった私は彼の後に続く。
「殺害現場はまたにしよう。いろいろと人目につくと不都合があるかもしれないからね」
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