二日目、その四

文字数 4,794文字

「それじゃあ紗夜、悪いけどここで待っててくれ、すぐに戻ってくるから」
 そう言って政景は私達にも手を振りながら足早に駆け出して行った。彼は「車を取ってくるから」と妹を近くの公園で待たせ、それまで私達も共に僅かな時間を潰してあげているといった具合である。
「ついでに彩史さんにも詳しい聞き込みが出来たら良かったんだけど、やっぱりそう都合よくはいかないね。まあ、あれでもかなり頑張ったほうかな。宍戸家の墓地に行くのも後回しだ」とツバキは言った。
「今の状況下では、特にこれといった用もなく敷地内をうろうろとするのも不謹慎だろうし……。僕達も彼らと別れてから、徒歩で街まで下りてみようか」
 すると紗夜が、「それなら途中まで兄の車に乗って行ってください」と親切に提案してくれたのだが、これは主に私が丁寧に辞退した。四人乗りとはいえ、ツバキはさておき二人を狭い軽自動車の車内にぎゅうぎゅう詰めにさせるのは、些か気が引けたからだ。
 公園はそこまで広くはなく、端から端までものの数十秒で歩けるほどであった。ケヤキやクヌギといった代表的な樹木が周りを囲い、紅葉のグラデーションをさりげなく見せながら、時折風に吹かれてサラサラと葉を揺らしている。遊具はブランコが二つと滑り台が一つ、あとは動物のかたどったスプリング遊具が誰かを待ち侘びるように寂しく佇んでいた。
「そういえば、さっきは何の花を見ていたんですか?」
 私は、ふと世間話でもするかのように紗夜に声を掛けた。
「塔の付近でですか? ヌスビトハギの花が可愛らしく咲いていたもので」
「ヌスビトハギ?」
「ええ、赤紫色の小さな花をつけるんですけど」
 名前を聞いただけではどういう花なのか、私にはちっとも分からなかった。一般的に名の知られた花でさえ、普段から名前を覚えられずにいることが多いのだから、風景の一部としてそっと道端に咲いている植物などは、よほど印象に残らない限り目に留まることはないだろう。けれども紗夜は日々の関心に薄い私に対しても、丁寧に説明をしてくれた。
「花は小さくてまばらにしか咲かないんですけど、それがかえって控えめで愛らしく見えてくるんです。あそこに咲いていたってことは、あまり日向が当たらない場所なのかも……。真ん中がくびれた瓢箪みたいな実をつけるんですよ」
 ツバキはその間私達から少し離れた場所で一人、静かに考え込むように煙草を吸っている。
「周りの道端に咲く植物についても、詳しいんですね」
「ええ。小さい頃から散歩をしては、見たことのない花を見るのが好きだったんです。季節が移ろう度に草花も表情を変えていくのが新鮮で、それで詳しくなって……。植物って、私にとってすごく魅力的なんです」
 紗夜はこれまで育ててきた草花を一つ一つ思い出しながら話をするかのように、そっと瞳を閉じて言った。
「植物って当然ですけれど、自分から声を上げることがないでしょう? 雨や、太陽や、生きるために必要なものを求める時でさえ、何も言わず、ただひたすらにじっと待って……。やがて花を咲かせて私達を癒してくれて、その先、種をつけるまでもずっと、何の見返りも求めようとしないんです。とても我慢強くて、献身的で……。そんなところが私は好きなんだと思います。
 サクマさんも知っているお花や樹で言うと私、桜とか牡丹とか、あとお花の椿なんかも好きです。花を咲かせた後、印象的に散ったり花を落としたり、悲しくも綺麗で……」
 そんな風に話す紗夜の表情は誰よりも穏やかだった。植物を愛でることの喜びが、幼い頃から彼女の心に染み渡っているのだろう。
「優しいんですね」と、私の口から意図せず言葉が出てきた。自分でも驚いたばかりでなく、紗夜も「え?」と口を手で覆ったため、私は酷く狼狽え、慌ててしまう。
「そんなことありません!」と赤面しながら私の発言を否定するのか、「ありがとうございます」と愛らしい笑みを浮かべるのか、どういった反応が返ってくるだろうかと、期待半分怯え半分で私は待ち構えたのだが……。
 紗夜の反応は、そのどちらでもなかった。「……違います」と声を発して、その一瞬、紗夜はその華奢な体や表情から全ての感情を失ったのだ。
「私、本当は酷く自分勝手で、底意地の悪い人間なんですよ」
 やがて政景の車が到着し、私達は誰もいない公園で秋津兄妹と別れた。去り際に政景は運転席の窓から、こちらに何度も頭を下げていて、真面目な人だなと一層私の印象に残った。
「一服の時間はもう済んだだろ? そろそろ歩くぞ」
 ポケット灰皿で煙草を揉み消したツバキに、私は二メートル弱のところから声を掛けた。「うん」とどこか素っ気ない反応が返ってきてから、私達はようやく公園を後にする。
「さっきまで何について考えてたんだよ。彼女に変な気を遣わせたりしやがって」
 さっきまで紗夜と話していた間、「私、もしかして何かいけないことをしてしまったのでしょうか」と私は彼女に言われてしまったのだ。当然紗夜がそんなことを言ったのは、公園で私達が政景を待つ間、ツバキが彼女とあまり会話をしなかったからであり、私からしてみれば、「愛らしい人を前になんて失礼な男なんだ」と会話の半ばでも注意したくなるものでだった。彼から紗夜に向かって唯一口を開いたことといえば、赤木道真の遺体発見時までの自身のアリバイについてのみ。そして彼女が答えた内容は、先程あらかじめ兄の政景から聞いていた内容と何ら変わりはなかった。
 ツバキは首元のストールを触りながら言った。
「色々とね。予期しないことが立て続けに起こったんで、頭の中を整理したかったのさ。彼女に悪いことをしているなとも思っていたよ」
「だったら後から考えても良かっただろ。二人が立ち去った後でもさ」
「やれやれ、分からないかなあ。考えやアイデアといった発想は、すぐに右から左へと流れていくものなんだよ。どれだけ「止まってくれ」とこちらが願ってもね。それがたとえ突飛な瞬間であっても、手に掴むチャンスは決して逃してはいけないのさ。おっとすまない! 怠惰で遅筆なひよっこ作家にはまだ理解が及ばなかったかな」
 ここぞとばかりに酷い言葉を連発してきた。集中していたことに文句を言われたのがご立腹だったらしい。彼の言い分も決して分からない訳ではないのが、それにしたって仕返しの程度が過ぎる。
「……まあ終わったことは仕方ない。彼女の前では次は気をつけろよ。で、そこまで考えて何か発見はあったのか?」
「いいや、殆どは断片的な事実を知ることができただけで、事件との繋がりについては何も見出せていないよ。けれどもさっきの塔で彩史さんが注意した時、僕には一つ気にかかったことがあってね」
「ねえサクマ」と、私の名前を呼んでから本題の内容を口にするのは、考える時に顎の縁をなぞるのと同様、彼の癖だった。子どもが親に構ってほしくて誘うような調子でも、勝手に迷子になりそうな飼い犬を呼び止める時の調子でもない素朴な一言ではあるが、私にとっては長い会話の始まりの合図でもあった。
「彼の言動、少しおかしくはなかったかい? 犯人がいるかもと言っておきながら、すぐに中を見ようとしなかった」
「道真さんが突然亡くなったんだ。親戚の人とかにも連絡をしないといけないし、葬儀も二日後に控えてる。時間的にも精神的にも、それどころじゃなかったんだろ」
「その割には、あんな普段から使用していない場所までわざわざ彼はやってきた。忙しくて堪らないなら屋敷の周辺をぐるっと見るだけで充分だろう?」
「道すがら、偶然うろちょろしている俺達の姿が見えたんだろ。気分転換に他人との会話がしたかったのかもしれない。普段から喋ってばかりいるお前こそ、あの人の気持ちが分かるんじゃないのか」
 と、私は彼の言い分を否定し、そして言葉を続けた。
「なあツバキ。今俺達が小さな島の中でもさらに閉鎖的な場所にいることを、もっと重要視した方がいいんじゃないか。あの人達はこの赤し国という街の、殆ど代表という立場なんだ。いわば権力者なんだから、人々の前でも堂々としていなくちゃならない。簡単に弱みを見せるわけにはいかないんじゃないのか? 現に昨日や今日だって、俺達は芳恵さんに言われて日中の行動を制限されている。道真さんの死を知った面々に宍戸家としての顔を立てるためにも、今後不審な出来事が発生するのはできる限り避けたい。そう言った心理が今のあの人達に働いていても、決しておかしくはないんじゃないか」
「だから何事も穏便に済ませたい。後に騒ぎになりそうなことにも今は目を瞑る、と? ふうん、君にしては珍しく冷静な分析じゃないか」
 ツバキは感心するように言った。
「けれどもねサクマ君。それなら尚のことある疑問が発生するんだよ」
「疑問? なんだよそれは」
「その土地の実質的な長として必要なことは、今君が言った「体裁」云々の他にも沢山あるだろう? 一つだけ抽出して述べるならね、それは結果としての「統治」さ。自分達が云わば「国の王」として君臨するなら、そのおかげで「盤石な国」が成り立っていることを民に示さなければならない。たとえ不測な事態が起こったとしても、騒ぎを大きくすることなく沈静化させ、民の間に蔓延った不安を迅速に取り除く……。つまり僕が言いたいのはね。今なら塔の中にいる犯人を捕まえて、一刻も早く「赤木道真殺害」という問題を解決できたかもしれないのに、どうして彩史さんはそのチャンスをみすみす「捨てた」のかという、この一点なんだよ。ねえサクマ。ここまで聞いても君は、「彼は忙しかったから」の一言で回答を済ませるつもりかい?」
「それは……」
「事件に対する向き合い方を皆に示す手間も省けて、運が良ければ何もかもが解決するかもしれないんだぜ? おまけに中に入るための根拠だってあった。君や紗夜さんが「人の声を聞いた」って発言したじゃないか。一人なら空耳だと思われても仕方がないけれども、そうじゃない。僕が彼の立場なら、普通なら怪しさを感じるだろうね。そこで犯人が万が一にでも見つかれば、憎き魔女の知り合いである僕達の世話だってしなくてもいいようになる。宍戸家の一員であるはずなのに、彼の物事の優先順位はどこか間違っていると思わないかい?」
 ツバキの綺麗な灰色の瞳を、私は食い入るように見つめた。確かにその通りだ、そう言う見方もできる。しかし、私の考え方も決して全てが間違っているとは思えなかった。微々たる可能性の一つとして、存在していてもおかしくはないはずだ。
「……じゃあ俺の回答がもしも間違っていたとして、お前ならどう答える? どうして彩史さんは塔の中に犯人がいるかもしれないのに、中に入ろうとしなかったんだ?」
 この私の問いに対して、「簡単だよ」とツバキはあっさり答えてみせた。
「塔の中に犯人はいない。いるはずがないって、彼には既に分かっていたからさ」
「だったら、さっき俺や彼女が聞いた声は?」
「犯人ではない「誰か」」
「⁉︎」
 愕然と私が目を見張る中で、ツバキは尚も煙草の赤いケースを片手で弄びながら隣で悠々と歩いていた。
「かつての牢獄だの墓標だのと言っていたけれど、実はまだ機能しているんじゃないのかい。自分達の権威を示すための「道具」として」
 そう言って彼は薄ら笑いを浮かべた。それは宍戸家の人々を見下すような嘲りが込められていたが、一方でどこか私に否定の言葉を求めているようでもあった。けれども私は否定しない。否定したくても、することができなかった。何故ならツバキの考えは、紛うことなき核心を衝いているようにも思えたからだ。
 先程の「声」が聞こえた状況が嫌でも思い返される。私は酷く混乱する頭を落ち着けようと、それからしばらくはツバキが何を話していても黙り込んでいた。 
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