二日目、その十三

文字数 10,514文字

「……」
 突然現れた来訪者は、誰も全く口を開こうとしない。正体が気になり、痺れを切らして手摺となる柵の隙間からほんの少しだけ顔を覗かせてみる。ツバキはそんな私に対し無言で肩をすくめながら、その後ろで様子を伺った。 
 やってきたのは彩史と大山の坊主だった。
「……上手く状況が掴めませんが」
 開口一番は意外にも住職の方で、日々の読経で鍛えられた低音が深く重厚感を伴って室内に響く。
「あなたの甥の道真氏が死ぬ前に、六稜島の魔女が倒れた。というのですね」
「え、ええ。はい、そうなんですよ」
「その女性の容態は」
「命に別状はないようでして。街の者から聞いたのでこれは事実です。うん」
 彩史の回答は、今は亡き医師の見解とも一致していた。嫌な顔をするかと思ったが南方系の顔をした男はそうでもなく、ただ目の前の大男の感情の機微を読み取るのに必死なようだった。「まあ人間、健康が一番ですよね」と、やや的外れな発言もあったが、これも義兄へのコミュニケーションのつもりなのだろうか。
「左様ですか」と、大山の坊主は五条袈裟の身だしなみを整えながら言った。
「それで、彼に与えられるはずだったもの全てについては如何です」
「と、申しますと……」
 すると細目であった住職は突然、ジロリと彩史を睨み付けた。その瞬間は、盗み見ていた私でさえ引き攣る気配を肌に感じたほどである。
「そなたが我々の元へ婿入りする際、交わした約束をもうお忘れか!」
 問い質す声は恐ろしく、辺りの空気を一瞬にして冷やしてしまうほどだった。ひぃっ! と彩史が声を上げて身をすくめるのに対し、大山の坊主は言葉を続ける。
「赤し国当主の立場は古くからの慣習により、より年長である男児が継ぐもの。本来ならば先代宍戸浩之介の後、そなたに地位と財産が譲られる予定だった。この意味が分かるか」
「そ、それはつまり。当主が大山彩史へ……宍戸家から大山家に変わる。ということですよね」
 違うと住職は左右に首を振った。
「なんとも軽々しく嘆かわしい。そのような言い方では大山家が他の有力な一族と同様、宍戸の権力の横取りを狙っているようではないか。我々は真に赤し国やその民草の行く末を案じ、日々尽力してきたというのに」
 つらつらと説法のように滑らかに坊主の言葉は流れていくが、注意してその内容や声の抑揚を吟味すれば、その実は皮肉に溢れている。「申し訳ございません!」と大山はすぐさま頭を下げた。
「やはりそなたは宍戸の人間。我々に対してもあの当主に対しても、そうやって常々従うのみであるな」
「じ、自分としてはその、本当に、どうすることもできず……!」
「そなたの姉の言葉を覚えているか。「赤木一族存続のため、息子道真を養子に入れることにした。それ故、次の当主は本来の後継者たる赤木。赤木道真である。しかし彼はまだ幼い。よってその親である私が、道真が成人し、当主となる意志を表明するまでの間、代理としてこれを務めることとする」。……これまで重ねてきた苦労が日の目を見るはずであったのに。この時の我々の無念が分かるか」
「ええそれは! あなた様の仰る通りです。他の一族が力を失い次々に没落していくなか、大山家は数少ない生き残りという立場でもありますから」
「……」
 男の沈黙がやけに重々しい。私が彩史の立場なら、即刻この部屋から逃げ出したいと思ったことだろう。全く予想もしていなかった展開に、高みの見物ではあれど戸惑うばかりであった。
 トントンと肩をつつかれ、静かに振り向く。ツバキが人差し指を口元に当て、どこからくすねてきたのか走り書きしたメモを見せてきた。
 〈宍戸家は「神の子」や街の人々だけでなく、他の権力者一族からも恨みを買っていたらしい〉
 文字まで綺麗なのかこいつは。と一番に思ったことが声に出ていたのか、「そうじゃない」と私は即座に頭をはたかれた。渋々私がそれを受け入れていると、「そなた自身は如何に感じたのだ?」と階下で坊主は彩史に問うた。
「不満はなかったのか? 本来であれば彼女の夫が亡くなった時、次にこの地の王となるはずだったのだぞ。実の姉にああまでして正しき継承を妨害され、その上今も手足としてこき使われている。悔しくはないのか?」
「……!」
 言葉を発しない代わりに、カッと目が見開かれる。そしてついに我慢の限界が来たのか、これまでの感情を爆発させるように、強く握り拳を作って彩史は大声を上げ始めた。
「はっきりと言ってやりたい気持ちはありましたよ! あの時は勿論今だって! でも最近は分からないんですわ! ヨシちゃんの考えていることが!
 昨夜起きた魔女の殺害未遂のことだってそうです。犯人は絶対ヨシちゃんでしょう! 当主としても個人としてもあの娘のことが嫌いで、すぐに使用人からグラスを奪ってまで近付いて行ったんですから!勿論魔女が倒れた後は、何もかも手伝うつもりでいましたよ。完全にヨシちゃんがやったんやと確信しましたからね。宍戸家の方針としても、厄介な存在であるのは確かですし。
 それなのにヨシちゃんは何も言ってこなかった。それどころか昨日は近付くなという圧すら感じて、後を追うこともできなかったんや。姉は変わってしもた。何でも一人で考えるようになってしもた。それが全く間違っているとは言いませんけどねえ、それもこれも全部、あの時からですよ……!」
 大山の坊主は表情一つ変えず、瞳を閉じて彩史の感情の吐露を堂々と聞き入れている。一方で私はというと、「あの時」とは果たしていつのことなのか、緊張して聞き入っていた。
「あんたもあの場におったから分かってるでしょう! 旦那さんが亡くなって、それを調べるために、あの二人が屋敷にわざわざやって来たあの日から……! 誇り高き宍戸家は、何もかもおかしくなってしもたんや!」
 彩史は肩を上下させていた。もはや坊主が主張する隙すら与えず、興奮状態にあるようだった。しかしそうなってしまうほどの出来事とはいったい何なのか。芳恵の夫が自殺した以降、別の事件が宍戸家に起こったのだろうか。
「よりにもよってこの部屋で話をしよう言うたんも、あの時の罪悪感を思い出させるためですか。相変わらずタチが悪いですな! あんただって全部分かっておきながら、傍観していたくせに!」
 そこまで言うとようやく彩史は落ち着きを取り戻してきたのか、住職が一言も発せず、揺らがない様子を見て再び身をすくめた。しばらく男が何かを言うのを待っていたが、やがてそれもないと判断したのか、
「……失礼しました。ひとまず今後の国の在り方については、自分も頑張ってヨシちゃんに伝えておきますから」
 そう言って、逃げ出すように素早く図書室を去っていった。
 残ったのは大山の坊主一人だけだった。彩史の主張があってからは今朝の様子と同様に静かに黙りこくっていた。しかしやがて彼は長い長い息を吐くと、重厚な声で一言発した。
「……そんなところで盗み聞きとは如何なものか」
 ばれていたのかと私がぎょっとする一方で、ツバキは隠し通しもせずにあっさりと立ち上がり、階段を降りて坊主の前に姿を見せた。私も慌ててながら、尚且つ恐る恐る彼の後に続いた。
「お気付きだったんですね。いかにも重大なお話のようでしたので、邪魔にならないようにと挨拶を控えていたのですが」
 恭しくもそんなことを言ってのけるツバキの根性に、良くも悪くも感心した。
「こんな所で何をしていたんです」
「勿論、事件解決のための調査ですよ。赤し国成立の歴史について、参考になりそうな書物がないか調べていました。ここは蔵書がいっぱいありますね。一部はごっそりと抜かれてありましたが」
 そう言って彼は中二階部分の本棚の隅を指差した。他の蔵書の幅から推測してみるに、五、六冊ほどだろうか。きっと私が柳暁郎と初めて会った時、運ぶのを手伝ったものに違いない。
「大山さんこそ、どうしてこの図書室で彩史さんとお話されようとしたんです。二人きりになる目的なら、もっと適した場所が屋敷内にはあったでしょうに」
「確固たる目的を持って、部屋に入ったわけではありません」
 重厚な声で朗々と語るように大山は言った。
「訃報の連絡や葬儀社への連絡等、葬儀に向けた打ち合わせ兼ねて話していたが、徐々に込み入ったことを義弟が話し出したために、視界に入ったこの部屋へ流れで入ったまでのこと」
「それは遺産相続ですとか遺言とか、そういったものも含まれるのですか。その、とても下世話なことを尋ねて恐縮ではありますが……」
 先程の彩史との会話の様子を盗み聞いていたせいで、大山の坊主に対する私の印象は、「酷くおっかない人」に変化してしまっていた。一方で当の彼は私の人見知り独特の言葉尻を、赤木道真に関わる財産の具体的な金額を聞きたがっていると勘違いしたらしい。「一億です」との発言を耳にした時、私は非常に驚いた。
「一億⁉︎」
「街の人々が噂していた額のちょうど二倍だね。それだけ一人で手に入れば、当分は贅沢な生活を送ることができる」
 一方でツバキは全く金額に対する反応を示すことなく、住職に尋ねた。
「先程強く仰っていた通り、大山家の立場としては彩史さんが当主となることが理想なのですか」
「これもゆくゆくは我が掌に掬い上げられた、あまねく者たちを救うため。仏に仕える身としても、果たさなければならぬ救済への道なのです」
「都合のいい言い方をされますね。要するに権力者としての地位や富は、是が非でも自分達のものにしたい。そういうわけですか」
「私にとっては宍戸の者こそ、限られた手の届かない者なのです。誰しも全ての者を救うことはできますまい。諸行無常の世の中であるならば、それは尚更」
「ツバキ」と私は相方に注意した。相手が悟りの境地に努める者とはいえ、煽るような発言にも程がある。むしろよくこの状況でそんな態度に出られるなと半ば呆れてもいた。
 自らの身の安全や経済的な余裕がなければ、他者に構う暇がなくなってしまうのは仕方のないことだろう。残酷ではあるが、これが社会で生きる上で味わう真理の一つでもある。
「そうですか」
 ツバキが呟くまでに僅かな間があったが、少しは私の忠告を聞き入れてくれた結果かもしれない。それから私は意を決して、大山の坊主に再度尋ねてみた。
「先程話を聞いてしまった手前なのですが、彩史さんが大山家に婿入りして苗字を変えることになったのは、やはりそちらの意向だったのですか」
「ええ。我々から求めました。見合いで両者が顔を合わせた時から既に話には上っていましたが、婚姻を結ぶ際に改めて申し入れを」
「その……よくそれを宍戸家の方は了承しましたね。代々赤し国の当主は男性が継ぐことになっていて、その数が少なくなるようなことは彼らにとって避けたいことだったのではありませんか? 家のことを誇りに思う芳恵さんなら尚更、彩史さんが大山家に入ることを許さなかったと思うのですが、いったいどうやって……?」
「……」
 私達と会話して初めての沈黙だった。不思議に思う一方でツバキが尋ねる。
「彩史さんが婿入りすることになった当時の赤し国当主は、どなただったのですか」
「先代浩之介です。その後すぐに彼は火の海の中、行方知れずとなりましたが」
「それではあなたに伺いたいことがあります。生きていた当時の宍戸浩之介についてです。彼はある時を境に家族にすら心を閉ざし、街の人々にも酷い暴力を与えていたらしいのですが、その詳細について確認させてはもらえませんか。というのもまだ漠然とではありますが、ようやく僕もいろいろな出来事を把握し始めたんですよ。様々な人の協力や、この図書室の資料も含めて」
 そしてツバキはいつの間にか手に取っていた本のある頁を広げ、該当する箇所を指差した。
「宍戸浩之介が精神を病んだ原因についてですが、やはり愛する妻を亡くしたことによる喪失感が最も大きかったようです。彼女は料理が得意だったそうで、次第に彼は精神を病んだことでその「味覚」すらも失っていった。妻の愛を感じる術を完全に失って、そこからさらに狂っていったそうなんですよ。一説には自らが感じられる「味」を求めて食に対する見聞を広め、晩年は妻の愛をもう一度味わうために、愛をくれた形の象徴たる人体まで喰らうようになっていったとか」
 隣で耳にし、想像するだけでも恐ろしい光景だった。妻への寂寞の情が妄執へと変貌した結果、塔で拷問を受けることになった人々がさらに恐ろしい末路を歩むことになっていたとは。
「どうしてそこまで彼は追い詰められていったのでしょう。愛する妻一人を亡くしましたが、彼には二人の子どもがまだ残っていたというのに。大山さん。これについて何か、記憶にあることはございませんか。
 当の宍戸浩之介の奥さんのことでも構いません。彼女は彩史さんを産んで亡くなる以前、既に精神を病んでいたそうですが、彼女がそのような状態に陥ったのは果たしていつ、どんな理由があったのか」
「……」
「行方不明となった宍戸浩之介本人から、何か聞いてはいませんか」
 またも沈黙。把握していないからなのか、それとも却って把握しているからなのか。判断がつかないと思ったが、しかし住職は今度は口を開いた。
「然るべき罰であり、呪いだ」
「呪い?」
 片眉を上げてツバキが聞き返す。
「宍戸浩之介が赤木一族を助け、そして彼らが赤し国を統治した後、赤木一族にある災難が降り掛かった。古き時代であったため、権力ある地位は男にしか継ぐことができない。にも関わらず、それ以降の彼らには女子しか生まれなかったのだ。それも炎で炙られたように、醜悪な顔をして」
「それには何か原因はなかったんですか? 例えば、遺伝性のものだったとか……」
 私の問いに、住職は静かに顔を振る。
「当時の一族と宍戸浩之介は国にいたありとあらゆる医者に、それこそ脅してでも徹底的な調査を強いたという。しかし結論は何も導かれなかった。挙げ句に娘達は一族から忌み嫌われ、切り捨てられ、家族ごと遠方へと追いやられたのだ。同じ血の通った者であったにもかかわらず。……やがて数の少なくなっていった一族は、当主の地位を宍戸浩之介に譲った」
「男子が生まれなかっただけでなく、そのような背景で彼らは表舞台から姿を消していったのですね。けれどもその呪いとやらが、宍戸浩之介の妻が精神を病んだこととどういう関係が?」
「その奥さんも元々、赤木一族の娘だったんですよね」
 私はさっきまで読んでいた本の頁を捲りつつ尋ねた。「まさかその奥さん自身も、生まれた時に既に呪いの影響を受けていたとか……?」
「いいえ。宍戸浩之介の妻については、呪いが散見された時期よりも以前に生まれています。美しき夫妻として当時は有名で、彼らは同年代だったようですから」
「実家や親戚の人間がそんな目に遭っていたのを他人事として捉えられず、彼女は悲しんだのか……。それとも順番……。呪いを回避したはいいものの、芳恵夫人の後に、待望の男児である彩史さんが生まれたことが問題だったのか……? いや、どちらも理由に無理がある……」
 ツバキは自らが発した内容を吟味しながら考え込んでいる。
「一族の者は呪いのことを受け、さらに期待したのでしょうな。極めて優秀な世継ぎが生まれることに」
「そうして赤し国当主は赤木から宍戸へと移り変わっていき、芳恵夫人も彩史さんも至って健康な状態で生まれた。それは今の二人を見ても明らかだ。となると……。
 大山さん。宍戸浩之介の妻が精神を病んだ時、既に芳恵夫人はいらっしゃったのですか」
「……生まれたばかりだったと聞いている」
「そしてその時宍戸浩之介は、既に赤し国の当主として人々に認められていた。そうなんですね?」
 坊主は無言で頷いた。私はツバキのまるで念を押すような尋ね方に違和感を覚えたが、今はその真意を尋ねることはできない。代わりに私は「お詳しいんですね」と大山の坊主に声を掛けた。
「私はこの地に生まれ、この地に育てられました。近隣や国の各家で読経を行い巡っていくうちに、家庭の者や同業の者から様々な話を耳にすることもありました」
「そうするとやはり、赤し国の人々は宍戸家に対して良い印象を抱いていないのでしょうか」
「ちょうど半分、といったところでしょうか。私自身宍戸と深い関係を持つため、大きな声では言えずにいるという者も中にはいるでしょうが。
 悪く言う者の大半は、先程述べた呪いについて「自業自得だ」と言っております。そもそも赤木一族や宍戸浩之介は、この地の権力者になる気などなかった。むしろこの国を捨て、島からも出ようとしていたのですから」
「島って、六稜島をですか⁉︎」
 思わぬ話の展開に私は驚いた。「彼らは昔からここに住んでいたんですよね? 後には当主にまでなったのに、本来いた場所を手放そうとしていただなんて、いったいどんな理由が……」
「さあ?」と彼は首を傾げた。それはまるで、わざとらしく。
「それは当の彼らにしか分かるまい。……分かりたくもない」
 これまで聞いてきた赤し国の歴史と同様に、何か大きく重大な理由があるのではないか。そう思わせるような表情が、住職の顔に浮かんでいるように感じられた。
 さて、と彼は言葉を続ける。「日も暮れてきた。そろそろ私もこの屋敷を出、読経に務めなければ」
 中央の椅子を背後から照らす窓から、大柄な男は物憂げに外の様子を眺めた。屋根と空以外には何も見えない。そして彼はどこか私にちぐはぐな印象を与えたまま、勝手に図書室を出て行こうとする。
「待ってください」と、それをツバキが止めた。
「彩史さんが去り際に言っていましたよね。芳恵夫人どころか宍戸家自体が予想のできないものへと変貌してしまったのは、芳恵夫人の夫が自殺なされた出来事について「ある二人」が屋敷を訪れたからだと。……その二人とは何者だったのですか」
 すると坊主はその袈裟姿に似合わず、ふふと笑ってみせた。
「今のあなた方のような、好奇心旺盛な方達でしたよ。けれども彼らは本物の「探偵」と「助手」だった。……ついこの間のことが、やけに遠く感じられる」
「⁉︎」
 私が目を見張る中、ツバキは警戒するように男を凝視した。しかし彼はその次には、これまでで最も悲しい表情を浮かべてみせた。
「この国は古くから呪われている。……土地も、人々の心も」
「最後に一つだけ」と尚も立ち去り際にツバキが尋ねた。
「大山さん。昨夜あなたはどこで何をしていましたか」
 この質問に私は非常に驚いた。それは即ち、昨夜の事件に対するツバキの疑いの中に、大山の坊主を含める意があったからだ。しかしそんなことは他所に、男は表情を変えずに答えた。
「寺社にて、念仏を唱えておりました」
「時刻を教えてください。回答や周囲の存在の有無によっては、魔女や道真さんの事件の容疑者圏内からあなたを外すことも可能かもしれない」
「夕日が沈んでから日が変わるまで。……ずっと、一人でした」
「やけに長時間ですね。……何か、大切な行事でも行っていたんですか」
 大変な仕事だなと思いながら私が訊く。
「苦しみからの救済を願うときはいつもこうですよ。特に昨日唱えていたのは、私の抱える罪が為」
「それはいったいどういう」と私の言葉を遮り、ツバキが言い放つ。
「それはたった今教えてくださった、「二人」が訪れた出来事と関係がありますか」
 すると坊主は厳かに、そして静かに頷いた。
「あれこそ、宍戸家が最も償わなければならない罪……。現当主の宍戸芳恵、大山彩史。そして他でもない私も、その汚れた罪の中に名を連ねている。彼らへの贖罪は今後の全てを尽くしたとしても、一生拭い去ることなどできないのだ。
 先程あなたは私に「都合がいい」と仰りましたね。その通り。何故なら私は既に、罪を一つ犯しているからだ。義弟が言った言葉のまま、「傍観」という罪を」
「……そうですか。ありがとうございます」
 さすがのツバキでもこれ以上は引き止められないと察知したのか、男の粛々とした後ろ姿を私と共に見送った。
「もしも今回の一連の事件と関わりがあるならば、また伺うこともあるかもしれませんので、その点はご容赦を」
「ええ。承知致しました」
 しかしここでふとした出来事があった。大山の坊主がその頑強な手でドアノブを握りしめた時、扉が思うように動かなかったのだ。
 私やツバキが不思議に思うなか、扉の向こうから声が聞こえた。
「おーい、誰かいるのか? もし中にいるなら悪いけど慎重に開けてくれないか。読み終わったものを戻しに来たんだ」
「柳さんだ」と一番に気付いたのは私だった。「すみません! すぐに開けます!」
「お、その声はサクマ君か」
 私の反応に従うように、大山の坊主がゆっくりと扉を開けた。「よいしょ」と中に入ってきた着物姿の男は、かなり背の高い住職の姿を見ても驚くことがなかった。いつもの流れるような人当たりの良い態度も、私達と話していた時と特段変わらない。
「おやおやこれは、ありがとうございます。大山の住職殿」
「……何とも哀れなことよ」
 苦労して本の山を両手に抱えた柳をそのように評したのか、ようやくとも言いたげに住職は図書室を出て行った。
「ようお二人さん、捜査は順調に進んでいるかい? あ、そういやサクマ君。さっきは大丈夫だったか?」
「え?」
「ほらあれだ。墓地にいる間に、いつの間にか走り出しちまっただろ。そこの「美しき人」が、やけにあんたのことを心配していたぜ?」
「やけに、とは大袈裟ですね」
 斜に構えた態度でツバキがこれを否定した。
「近くにいると思って見れば、忽然と姿を消していたので驚いただけですよ。彼は普段から報告、連絡、相談もできないような男でして」
「ふうん。ま、本人が言うならそういうことにしておこうかな」
「柳さん、その時はすみませんでした。ご心配をお掛けして」
 申し訳なく思い私は頭を下げたが、「大丈夫大丈夫」と柳は手をひらひらとさせた。
「いやなに、無事ならそれでいいんだ。俺に比べりゃ可愛いもんだよ。俺なんか四六時中フラフラしている上に、寄り道までしちまうんだから。墓地で「宮田さんに買い物を頼まれてた」って言っただろ? あれをすっかり忘れててさ。急いで屋敷に戻ったら、ホールで宮田さんにこってり叱られたよ。「晩ご飯が間に合いません!」ってさ」
 からからと悪戯っ子のように笑いながら柳は言った。聞けば彼が屋敷に泊まる時は、よくあることらしい。けれども結果的には頼まれごとを必ずこなし、主人への説明とお詫びも宮田にさせるのではなく彼自身がしたというのだから、根はやはりちゃんとした責任感のある人物なのだろう。
 柳は抱えていた本の山をひとまず床の上に置くと、「そういえば」と再び何かを思い出したかのように丸い狐目を見開いた。
「つい今しがた遊戯室を覗いてみたら菊乃ちゃんのピアノに合わせて、二つくくりのお嬢ちゃんが歌っていたんだ。この街に昔からある子ども遊びの歌なんだが、どこかメロディーに聞き覚えがあってな。ガキの頃によく俺も遊んでいたような、ありふれた民謡だった気がするが……」
「図書室からは全く聴こえませんでした。赤し国には昔からさまざまな歌があるんですね」
「誰かから教えてもらえたか? 殆どは街の歴史と深く結びついているんだ。もしかすれば事件を謎を解く鍵になるかもしれない。……ところでツバキ君。菊乃ちゃんから聞いたんだが君、音楽に詳しいらしいじゃないか」
 柳がそのように言うと、彼は眉を顰めて修正しようとした。
「昨夜のパガニーニのことを言っているならそれは誤解ですよ。学生時代に映画予告で耳にした曲を、偶然にも菊乃さんが弾いていたに過ぎない」
 ツバキにしては随分と言い訳がましく感じたが、要するにそこまで音楽に通じている訳ではないと言いたいのだろう。
「まあまあちょいと聴いてきて、後で感想を教えてくれよ。ついでに言うとあのお二人さん。あんたが遊戯室に来ないかなあ、なんてことを言ってたぜ。モテる男は良いねえ」
 半ば揶揄うように言ったあたり、柳が伝えたかったのはそのことだったらしい。「それならご期待に応えないわけにはいきませんね」とツバキは扉へと向かいかけたが、その足取りがやや重いことを柳は見逃さなかった。
「おや、乗り気じゃないのかい?」
「いいえ。僕にしては珍しく判断に迷いが生じただけです。これまで見聞きしたことを基に、一度ここで思考を整理しておくべきか、とも思ったんですが」
「ふうん。……それなら先に俺とサクマ君で行ってきてやるよ。後から君も来る、と加えて伝えておいてやる」
「いいんですか」
「ああ。代わりにそれらを、あそこに戻しておいてくれるならな」
 柳は床に置かれた書物と中二階の本棚の空いたスペースを交互に指差した。
「もちろんお望みならサクマ君も残ってくれて構わないぜ? 捜査の邪魔はしたくねえからな」
「いえ、私も行きます。ちょうど気分転換がしたかったので」
 先程の大山の坊主との会話で重かった空気から抜け出したかったのもあるが、ツバキの邪魔をしたくないというも理由の一つだった。彼が考えをまとめる際は一人でいたいタイプであるということは、これまでの経験から理解している。
「よし、じゃあ決まりだ」
 ぱん、と明るい調子で柳が両手を叩いた。
「それじゃあ行こう。ツバキ君、助手君のことは俺に任せてくれ」と柳は先に私を扉へ向かわせた。そして立ち去り際、柳は彼に提案した。
「そうだ。ゆっくり考えるなら、一脚しかないその椅子にでも腰掛けたらどうだ?」
 これに対しツバキは「いえ」と首を左右に振った。初めに私と共に図書室に足を踏み入れた時と同様、彼は椅子の背もたれに手を触れ、暫く考え込んでいる。まるでその瞬間、彼と椅子の周囲だけ時が止まってしまったかのようだった。
 やがて真剣な表情を浮かべて彼は言った。
「この椅子ですが、何故だか座ってはいけないように感じられて……」

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