二日目、その十二

文字数 4,447文字

「そういえばさっき言いかけていたことって?」
 軋む音の響く階段を登っている途中で突然ツバキに訊かれたために、私はなんのことかと目を瞬きさせた。
「和室の前で何か言いかけていただろ。自分のことなのにもう忘れたのかい」
 君って人間は、と露骨に呆れられたところで私はようやく思い出した。
「お前が扉を開けた時、ふと気付いたんだ。そういえば和室の襖を横にスライドさせる時、やけに芳恵さんが苦労していたなって」
 そう。いかにも重そうに見えたのだ。力を込めたタイミングとしてはワンテンポ遅れていて、襖が完全に開いた頃には政景と柳が振り向いていた。
「もしかしたらあそこ、普段からあまり使われていないんじゃないか? 開かずの間……と言うと物騒だけど。それか扉が重いせいで、音もあまり廊下の外には響かなかったとか……」
 最後あたりはしどろもどろだったが、この意見にツバキはやけに関心を示してくれた。
「だから犯行時、誰も物音に気付かなかった……。理屈としては決してあり得ないことではない。それに昨夜柳暁郎が和室の物音に関して発言を躊躇っていたことにも説明がつく。あの時彼は芳恵夫人に配慮して証言を慎んだのだろう。何しろあの場所で過去に夫が亡くなっていたのだからね。そのように仮定すると、新たに二点の疑問が浮かび上がってくる」
「まず一点目」
「僕の台詞を取るなよ。まあいいや……そもそもどうして、あの二間続きの和室にそんな設備が施されているのか」
「それにはやはり、芳恵さんの夫の自殺の件が?」
「いや、それはどうだろう……。十年前にあそこで首を吊った事実を訳あって無かったことにしようとするにしても、重い襖に替えるだなんて話が出てくるだろうか」
「加えてその旦那さんのことだけど、「この街の中で絶対に触れてはいけない」というほど隠されてもいないよな。彼が既に亡くなっていることは、赤し国について調べることが好きな柳さんだけじゃなく、政景さんも知っていた」
「紅葉さんもそうだ。友人である菊乃さんから直接教えてもらったと言っていた。明らかにされているのはまだ、表面上の事実だけなのかもしれない。もっとよく調べてみれば、彼らが隠していることを丸裸にできるのかもしれない。その手掛かりもこれから調べてみよう。
 そして二点目。犯人と被害者は事件当時、わざわざそんな場所で何をしていたのか」
「個別に何か話したいことがあったんじゃないのか? 廊下に音が響かないなら、秘密の会話には好都合だ」
「何を話すことがある? 時刻としては魔女が倒れた後だったんだ。余程の用事でもないと、双方が合意するに至らない」
「会話以外の行動だとするなら、それこそ不自然な話じゃないのか。人が一人倒れたばかりだってのに」
 ツバキは左右に首を振ったが、私の意見は変わらない。
「これがありきたりな群像劇なら、「何も行動を起こさなかった」というのが、もっとも自然なんだけどね。ただでさえ彼は……」
 言いながら疲れてきたのか、ツバキは前髪を掻き分けて額に手を当てた。「母親である芳恵夫人に、歯向かう立場を取った後だったんだから」
「魔女のことを巡って、か」
 大それた出来事が起きれば大抵の人間はその直後、野次馬本能でも働かない限りは大人しくしているものだろう。繊細な人間なら尚更だが、果たして道真がそうかと訊かれると私の中では「ノー」だ。魔女を救おうとした私達を助け、あの芳恵の怒りに対抗するのはおおよその精神力がなければできないだろう。しかしだからといって、彼が反対に大胆な行動に出たとも到底思えにくい。わずかな時間しか共にしなかった私の、極めて個人的な所感ではあるが。
「死人に口なし、だね」と諦めたようにツバキが言った。
「殺された彼はいったい、何を考えて和室になんか向かったんだろう」
 そんなことを話しているうちに、私達は図書室の前にいた。中に入るのは初めてだから、扉を開くまでは広さすらも計り知れない。
「昨夜大浴場へ向かった帰りに、少しだけ寄ってみたんだ」
 細く節の目立つ指でドアノブを掴んでからツバキが言う。「夜も更けていたから深入りはやめておいたけど、そこそこ広かったよ。それこそ、調べ甲斐のある蔵書の数だった」
「どんな本があったかまで見たのか?」
「いいや。下の本棚の軽く一周、簡単に歩いた程度さ」
「下の本棚?」
 中へ踏み入れるとツバキの背中越しに見えたそこは、まるで不思議な空間だった。
 正面に向かって四、五メートル先まで通路のような空間が続く。初めは天井が低く、背丈程の高さのあるマホガニー製の本棚がずらりと私達の左右に並んでいた。辺りは薄暗く窮屈に感じる。壁面には何故だか所々に煤の痕が残っていた。しかしやがてその圧迫感の真の理由を私は知ることになった。本棚の中を抜けると室内の一番奥に小さな階段があり、中二階へ上がることのできる構造となっていたのだ。すなわち先程までの低い天井は、中二階の空間のためだったのである。
 本棚の列が新たに壁面と同じクリームベージュの色へと変わり、吹き抜けの天井と併せて明るく生まれ変わった室内が私達を出迎えた。わずかな段差を経て行き着いた先には、まるで佇むかのように椅子が一脚だけ置かれてあった。先客がいなかったために照明は付いておらず、階段を上った先にある大きな窓から差し込むわずかな光が、漂う塵と共にその代わりとなっていた。
「なかなかに洒落ているね」と改めて辺りを見渡しながらツバキが言った。
「ああ。ドラマのオープニングに出てきそうなレイアウトだ。神秘的でもあるんだが、それにしても、何だか……」
 どこか、切なく感じられる。
「確かに、これまでの部屋とはがらりと雰囲気が異なるね。デザインした人間が異なるというよりかは、染み付いた時の流れや感触が違う。とでも言えばいいのかな」
 途中で黙り込んだ私の言葉を引き継ぎながら、ツバキは中央に置かれた椅子の背もたれをそっとなぞった。これまた煤だらけではあるが肘掛け付きの、至ってシンプルな木製のものだった。
「君の言わんとしていることは、少しばかり僕にも分かる気がするよ」
 空は昨日と全く同じ。夕日の茜色と曇り空の灰色の入り混じった、なんとも不気味な色に再び染まり始めている。まるで事件が起こる前兆、と、この街に来てから度々私は不快感を抱いていたが、不思議とこの室内にいるといくらか浄化されて感じられた。外にいる時よりも、単純に目に入る光景の規模が抑えられているせいだろうか。深く、深呼吸ができる。
「……ひとまず上に上がってみるかい」
「え?」
 考え事をしていてぼんやりとしていた私に、ツバキはにこりと微笑みかけた。
「こういうのってわくわくするだろ。何事もモチベーションというものを維持するためには、取り組みやすいところから手をつけた方がいいからね」
 いかにも面倒な言い方だけはしているが、要するに「面白そうだから早く上に行きたい」という意思表示だろうか。
「ほらサクマ、大丈夫だから」
「え。あ、おい」
 訳の分からぬまま私と彼の順番が入れ替わり、背中を押される。無邪気な好奇心を瞳に見え隠れさせる割には何故だか優しい表情で、ツバキは先に私を階上へ歩ませた。
「君ってばほんと、分かりやすいよね」
「何がだよ。俺にはさっぱり分かってないぞ」
「恐ろしい芳恵夫人には何も言えないくせに、いかにも穏やかで優しそうな政景さんの前では口数が増えるところとかさ」
「そ、それは……!」
 あまりに的確な指摘に、思わず私は口吃った。対してツバキはくすりと笑う。
「もし君が役者だったなら、とっくに廃業しているだろうね」
「悪かったな! どうせお前と比べれば、何もかもが不得手だよ」
「物語や文章を書くことは得意じゃないか」
「お前に見せたら文句ばっかり言うだろ。全部正論だけど」
「けれども尊敬はしているんだぜ? 夢を諦めず、這いつくばってでも必死に、前へ進んで生きようとしているところとかさ」
 突然の褒め言葉に驚いたが背後からであったため、ツバキの表情や様子は全く分からない。けれども直後に「ま、いつもは空回りしていることが多いけれど」と付け足したあたり、冗談半分で言ったのだろう。
 だから半ば自虐的になりつつ、私は言った。
「器用に生きているお前からすれば、さぞ滑稽に見えるだろうな」
「それは僕の台詞だよ」
「え?」
 その答え方に違和感を覚えた私は、階段の上ですぐさま振り返った。けれども彼は私の背中を押そうとしたまま、表情は見えないままだ。
「……ツバキ?」
「僕はもうとっくの昔に殺されて、死んでいるんだから」
 そして階上まで上りきってからは、各々で事件の足掛かりとなりそうな書物を片っ端から探すことになった。広さは約十畳ほどで、意外にもゆとりがある。もし私が子どもであったならば、この空間を秘密基地にでもしていただろうなと考えながら、頁を捲る時には特に先代宍戸浩之介や赤し国の歴史の記載に注意した。
「いくらか掻い摘んで読み進めるにしても、これだけ本が並んであったらかなりの時間がかかるぞ。さっき素通りしたけど、下にもかなり本があったからな」
「君が素通りしただけで、僕はちゃんと確認したさ。題名を見たかぎり、下の階に僕達の力になってくれるような書物はなかったよ。街で古くから栄えていた養蚕業や観光業、それに一風変わった食事文化に関するものが多かった。芳恵夫人の夫に関する記載も、どこかにあればいいんだけどね」
「ここの人達が隠したがっているという見方をするなら、どんなに探しても見つからないんじゃないのか? ここまで読んできた本も、都合の良い書き方になっているというか、どこか表現がありきたりというか……」
「他人の振り見て我が振り直せ。君にとっては良い機会だね。文章を書く際は、常に観客を飽きさせない表現を意識するといい」
「厳密には観客じゃなくて「読者」だけどな」
「おっとそうか。本来の僕の職業柄、言葉の表現につい癖が出てしまうな」
 そんなくだらないことを言い合いながら、ひとまず階上にある書物の斜め読みを終え、意見交換を行おうとした時だった。部屋の外から何人かの足音が聞こえ、こちらへと近付いてくる気配がしたのだ。
「……誰だろう」
「どうやら一階からやってくるようだね」
 屋敷の見取り図を思い浮かべれば、私達が今いる図書室は一階へと続く階段から最も近い位置にある。
 試しに隠れてみようかと、悪戯っぽい笑みを浮かべてツバキが提案した。
「気配を消せばこの場所は死角になっているし、まずいようなら何気無い振りをして階下へ下りればいい」
 そんなことをして大丈夫なのかと私は心配になったが、ツバキは既に声を小さく潜めている。諦めて私もそれに従うことに決めると、私達はこそこそと奥の本棚にへばり付いた。立体的に見るなら、図書室に入ってすぐの通路スペースの斜め上に私達がいることになる。
 やがて扉の開く音が響き、何人かが図書室へとやってきた。
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