第3話

文字数 3,275文字

***

 ロベルトの弟子で左手(ヨド)ともなれば、リラ弾きたちのあこがれの的だったが、リョジュンがその一人であるということは、あまり知られていなかった。門下生や左手(ヨド)は、それぞれにロベルトの紋章の入った腕章を付けているのだが、リョジュンの人となりがそうさせるのか、目立つ色にもかかわらず、周りの者はほとんどリョジュンのそれには気がつかなかった。以前舞台に立ったときなど、劇場の主は彼を雑用の少年と間違えたほどだった。
 人々の注目を集める腕章は、それを身につける者に誇りを与え、その誇りが彼らの態度を尊大にしたが、リョジュンはいつまでたってもそれになじむことがなかった。ひょろりとした体つきや、首の後ろでぞんざいに縛っている麦わら色の髪も、彼の頼りない雰囲気を助長していた。伸びた前髪の奥にある瞳は、(りょく)(ちゅう)(せき)のように(あお)く澄んでいたのに、彼はそれを知らないでいた。

 リョジュンはまた、小雨の降り続く中、大きな荷物を抱えて先を急いでいた。何のことはない、ロベルトに命じられて、酒の肴を買いにやらされたのである。ロベルトが飲み始めるのは日が暮れてからだったが、リョジュンはしきりに空を見上げては、少しも居場所をはっきりさせてくれない太陽を探していた。
「急がないと」
 リョジュンの一日は、雑用に始まり、雑用に終わることもめずらしくなかった。一度もリラに触れることのできない日、というのもよくあることだった。ロベルトにとってリョジュンは弟子ではなく、リラも弾ける使用人といった感じだった。
 門下生を五百人も従えているロベルトだが、彼自身がリラの弾き方を教えることなどまずない。リョジュンや他の兄弟子たちにしても、ロベルト手ずからリラの扱いを教えたことはなかったし、それを乞うこともまたなかった。
 そもそもリョジュンがロベルトの元を訪れた時には、まだ彼の弟子もニイドら兄弟子三人のみで、それも弟子というよりは子分と言った感じだった。
 その時すでにロベルトは、それなりの評価を受け、人気も出てきた頃で、それにあやかろうと集まってきたのがその三人だったのである。だからロベルトも真剣に彼らに技術を教えようとはしなかったし、三人もロベルトの技術を、見よう見まねで覚えていった。
 そこに自分が混じろうとは、その時のリョジュンには思いもよらぬことだった。元々リョジュンは下働きをするために彼の元を訪れたのだった。
 リョジュンが生まれたのは、カデンツという麦畑しかないような田舎で、彼の父はやはり麦を作っている農夫だった。しかし生まれつき足が悪かったリョジュンは、このままカデンツにいたところで、畑仕事が満足にできるわけでもないし、こんな田舎では他にできそうな仕事もないというので、八歳になったところでルーベンにやられたのだった。
 そうしてロベルトの所へやってきたわけだが、ここで何らかの手違いが生じていた。ロベルトは台所で使うために女の子を求めていたのだが、やってきたのは足の悪い見るからにひ弱そうな男の子。それでロベルトはその場で人買いとひと揉めした。
 手違いとはいえ、金を払ってここまで連れてきた子どもを、カデンツに戻すわけにもいかず、人買いに「人でなし」と罵られるに至って、ロベルトは不承不承リョジュンを引き取ることにしたのだった。そしてリョジュン自身、もうよく覚えていなかったが、何かのきっかけで、彼に音を正しく聞き分ける才能があることを知ったロベルトが、おもしろ半分にリョジュンにリラを持たせたのである。しかしロベルトの予想に反し、リョジュンはリラを瞬く間に覚えて、弾きこなしてしまったのだった。
 そんな経緯もあって、リョジュンはロベルトに、どんな雑用を言いつかっても文句も言わず何でもやった。リョジュン自身、そうするのは当たり前だと思っていたし、言ってみれば、リラを弾くことができるなら、その他のことなど彼にはどうでもよかったのだった。

 リョジュンはようやく目当ての建物を見つけ、息を弾ませながら足を速める。彼の目の前には、見上げるような石造りの塔が立っていて、星の紋章の描かれた旗が雨に濡れてうなだれていた。リョジュンは塔の足下にたどり着くと、軽く雨をはらって、その分厚い扉を開いた。
 古くて重い扉は耳障りな音を立て、それが何重にも響いて戻ってきた。中は、しんと静まりかえり、リョジュンの不規則な足音をも、幾重にも重ねて返してきた。
「坊や、また来たかい」
 奥の方からしわがれた声が響き、リョジュンはぬれた雨よけマントを、入り口に刺さっていた旗にかけると、荷物をいくつかそこへ置いて奥へと入っていった。
「また来ました」
 と、それだけ言って、リョジュンは不気味な笑い声をたてた星読みのばあさんに頭を下げると、その前を通り過ぎ、祭壇の前で膝をついた。その頭上には、天まで届きそうな空間が広がっており、そこには無数の不思議な金糸が、幾重にも連なって細かな文様を描き出している。その金糸の上を様々な色や形をした《星》と呼ばれる石がゆっくりと滑っていた。
 ここは星の塔と呼ばれる場所で、古くからこうして《星》を浮かべて動かしている。星の塔は町ごとにあり、昔から星読みがこの《星》の動きを読んで様々なことを占っているのだった。星読みはとても高等な技術が必要で、リョジュンには占いと星読みとが、どう違うのかわからないのだが、リョジュンが、占いと言うと、この星読みのばあさんはきまって機嫌が悪くなった。
 ここへ来るなら祈れ、とばあさんが言うので、リョジュンは素直に膝を折って手を合わせる。だが、その時に何を祈っていいのかよくわからず、いつもただこの場を借りることの感謝を心の中で繰り返した。
 それが終わると、リョジュンは古びた椅子に腰を下ろし、包みの中からリラを取り出して抱える。少し離れた場所で星読みのばあさんは、にやりと満足げに笑む。
 ロオン
 ひとつの音がみっつ返ってくる。
 それはとても美しい響きだった。いつだったか雨宿りにここへ寄って、この一音がみっつになる響きを見つけたのだった。
 リョジュンはその響きにじっと耳をすましていたが、みっつめの音が消えてなくなると、いつものように音を奏で始める。ロベルトのものではない音楽を。
 星の塔は分厚い石造りになっていて、音がよく響くが、外にもれることはない。そしてここにはいつも、この星読みのばあさんの姿しかなく、禁じられた曲を弾くにはうってつけの場所だった。
 ばあさんはリョジュンのリラを気に入ってくれ、彼がここでリラを弾いていることを秘密にすると約束してくれている。外では絶対に聞くことのできない左手(ヨド)が奏でる幻の曲を聴けるのを、ばあさんは楽しんでくれているようだった。
 幾重にも戻ってくる旋律に、新たな旋律を重ねる。響く音に弾む音を重ねて、塔の中をリョジュンの和音で満たす。それが遠のくとまた新たにロベルトのよく知られた旋律を奏で、返ってくる響きに自分の旋律を重ねて和音を作る。
――ああ、なんて美しいんだろう
 幾重にも音を重ねてリョジュンは最良の友と戯れる。いくらやっても飽きることがなかった。
 こうして時々雑用の合間に、ここへ寄るのはリョジュンの一番の楽しみなのだった。
「時間だよ」
 しわがれた声が和音を裂いて、はっと目を開く。
 最後の和音が、塔の奥へと吸い込まれるようにして消えていった。今まで音に満ちあふれていた心が、するするとしぼんでいくのがわかったが、リョジュンは黙ってリラを布にくるむ。これ以上長居してしまえば、怒鳴られるだけではすまない。
 塔には窓がひとつもなく、日が射さないため時間がよくわからなかったが、ばあさんはいつもこうして星を読んで時間を知らせてくれていた。たとえ日が射していたとしても、リラを弾くことに没頭しているリョジュンには、それに気づくことなどできないのだったが。
「またおいで」
「はい」
 短く言葉を交わし、リョジュンは星の塔を後にした。
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