第7話
文字数 2,485文字
オン
リラは機嫌良くリョジュンの指に応えた。
鳴らしたのは先ほど弾いたロベルトの曲。しかしそれに少しずつ変化を加える。
早く、遅く、細やかに、おおらかに。
いつも練習部屋で、弟子の奏でる旋律に重ねていた別の旋律。その両方を自分の指だけで奏でる。
リョジュンの周りの全てが解け合って、音になって咲いてゆく。
今朝見た小さな雪の粒
金色に染まった北の山
軒から落ちる雨粒が奏でる小さな音
星の塔の豊かな響きで作る和音
塔から帰る道すがら見かけた夕日の色
子どもたちが歌い歩くロベルトの練習曲
石畳から立ち上る雨の匂い
遠くから切れ切れに流れてくる、たどたどしいリラの音色
リョジュンの日常にあるささやかな、けれどとても美しいものたちのことを、リラは余すことなく歌い上げる。
――ああ、なんて美しいんだろう
リラの音にくるまれる幸福に、全身が満たされてゆく。サルーガルに行った日から、リョジュンの中に押し込められてきた音たちが一斉にこぼれだして、幾重にも重なる旋律となって壮大な和音を紡ぎ出す。
いつしか旋律はロベルトの譜を離れて、リョジュンすらも聞いたことのないものへと変わっていた。しかしそれはどこか懐かしい旋律で、リョジュンはリラを弾きながら胸が締め付けられる思いがした。
――そうだ。僕はずっとこれが聞きたかったんだ
そうして余韻を残して音が去り、そこでリョジュンはようやく我に返った。
会場は静まりかえり、リョジュンが立ち上がっても拍手は響かなかった。
強烈な不安に駆られながらリョジュンがおずおずと腰を折ると、わずかな物音に続いて高らかに拍手が響いた。顔を上げると、ロイが立ち上がってなんだかすごい顔をして手を打ち鳴らしていた。それに我に返ったのか、ぱらぱらと拍手の数がふえてゆき、ついには嵐の中にでもいるかのように響き渡った。そして最前列にいた婦人が立ち上がって舞台の上によじ登ってきた。
リョジュンがあっけにとられてそれを見ていると、婦人は目元をせわしなくぬぐいながらリョジュンの手をにぎった。リョジュンはぎょっとして手を引こうとしたが、婦人はそれをぎゅっとにぎりしめて放さなかった。
「ありがとう! リラは好きだったけれど、こんなに感動したのは初めてよ! 名前を教えていただけないかしら」
あまりのことにリョジュンが口を開けたまま突っ立っていると、また数人の客が舞台によじ登ってきた。彼らもまた、リョジュンが聞いたことのないような言葉で彼の演奏を褒め称える。そして次々と客が舞台に登り始め、拍手と彼を賞賛する声に呑まれて立ちつくしているリョジュンを見かねて、支配人が彼を客から引き離し、舞台袖へと引いていった。
鳴りやまぬ拍手の中ただ呆然と舞台袖へ戻り、そこにいた人物を見た瞬間、リョジュンは体を凍り付かせた。
そこには燃えるような怒りに満ちたロベルトの瞳が待ちかまえていた。そしてその後ろに立つニイドはおかしそうに笑っていた。それにリョジュンは全てを悟った。罠だった。
ロベルトはリョジュンの襟をつかんで宿舎まで引きずっていき、彼をその中に押し込むと同時に彼を壁へ突き飛ばした。リョジュンは大きな音を立てて壁に打ち付けられてうめく。
「よくもこんなまねをしてくれたな! この恩知らずが!」
「申し訳ありません!」
ロベルトは再びリョジュンの襟をつかむと、彼を持ち上げるようにして締め上げた。
「何が気に入らないと言うんだ! リラも地位も名誉も与えてやっているではないか。それを、私をだますようなまねをしてまで、舞台で己の曲を披露しようなどと! 思い上がるな、ボンクラが!」
締め上げられて息ができずにもがくと、一瞬視界が白く光って何も見えなくなった。
気がつくとリョジュンは床に倒れ込んでいた。こめかみがひどく痛み、どうやら殴られたらしいと悟る。涙のにじむ目を何とか開くと、蝋燭の明かりを背にしているロベルトの姿は黒々として、その表情はよく見えなかったが、その手にリョジュンのリラがあることだけはわかった。
「せ、先生……」
「行き場のないお前をここまでにしてやったのはいったい誰だと思っている! お前のようなやつを! リラを弾くこと以外には何の役にもたたぬくせに! 恩を仇で返すとはこのことだ!」
そう言ってロベルトはリョジュンを何度も打った。彼の美しいリラで。
「申し訳ありません、もう、二度と、こんなことは……」
言いながら何とかリョジュンは起き上がり、床に手をついて額をこすりつけるようにして頭を下げる。
「当たり前だ! もう、二度とリラなど弾くな!」
その言葉にはっとして、リョジュンが弾かれたように顔を上げると、ロベルトはテーブルにあったナイフを手にしたところだった。その左の手にはリョジュンのリラがにぎられている。全身の血の気が引いた。
「先生!」
とっさに飛び出して、ロベルトの腕をつかむ。
「放せ! 愚か者!」
「先生! やめてください!」
「うるさい!」
ロベルトは力一杯腕を払い、その瞬間、リョジュンの左手に焼け付くような痛みがはしる。
「いっ――」
ぽたぽたと赤い雫がしたたる。
「もう二度とリラなど弾くな」
ロベルトはもう一度そう言って、赤く染まったナイフをにぎり直す。
「やめてください先生! お願いです! それだけは!」
リョジュンは赤く染まった両手を必死に伸ばしたが、間に合わなかった。
ブツッ
リラは、彼がこれまで聞いたこともないような醜い音をたてた。
呆然と立ちつくすリョジュンの足下に、ロベルトは彼のリラを放った。ごろんと音を響かせてリラは床でくるりと回った。それに飛びつくようにリョジュンは手を伸ばすが、その左手から落ちる雫がリラを汚し、あわてて手を引く。
リラの四本の弦は全て断ち切られていた。
リョジュンは全身の力が抜けて、その場によろよろとしゃがみ込んだ。それをロベルトは汚い物を見るような目で見て、汚れたナイフをテーブルに放った。
「三日の猶予をやる。その間に荷物をまとめてここを出て行け」
吐き捨てるように言い、ロベルトは部屋を出て行った。
リラは機嫌良くリョジュンの指に応えた。
鳴らしたのは先ほど弾いたロベルトの曲。しかしそれに少しずつ変化を加える。
早く、遅く、細やかに、おおらかに。
いつも練習部屋で、弟子の奏でる旋律に重ねていた別の旋律。その両方を自分の指だけで奏でる。
リョジュンの周りの全てが解け合って、音になって咲いてゆく。
今朝見た小さな雪の粒
金色に染まった北の山
軒から落ちる雨粒が奏でる小さな音
星の塔の豊かな響きで作る和音
塔から帰る道すがら見かけた夕日の色
子どもたちが歌い歩くロベルトの練習曲
石畳から立ち上る雨の匂い
遠くから切れ切れに流れてくる、たどたどしいリラの音色
リョジュンの日常にあるささやかな、けれどとても美しいものたちのことを、リラは余すことなく歌い上げる。
――ああ、なんて美しいんだろう
リラの音にくるまれる幸福に、全身が満たされてゆく。サルーガルに行った日から、リョジュンの中に押し込められてきた音たちが一斉にこぼれだして、幾重にも重なる旋律となって壮大な和音を紡ぎ出す。
いつしか旋律はロベルトの譜を離れて、リョジュンすらも聞いたことのないものへと変わっていた。しかしそれはどこか懐かしい旋律で、リョジュンはリラを弾きながら胸が締め付けられる思いがした。
――そうだ。僕はずっとこれが聞きたかったんだ
そうして余韻を残して音が去り、そこでリョジュンはようやく我に返った。
会場は静まりかえり、リョジュンが立ち上がっても拍手は響かなかった。
強烈な不安に駆られながらリョジュンがおずおずと腰を折ると、わずかな物音に続いて高らかに拍手が響いた。顔を上げると、ロイが立ち上がってなんだかすごい顔をして手を打ち鳴らしていた。それに我に返ったのか、ぱらぱらと拍手の数がふえてゆき、ついには嵐の中にでもいるかのように響き渡った。そして最前列にいた婦人が立ち上がって舞台の上によじ登ってきた。
リョジュンがあっけにとられてそれを見ていると、婦人は目元をせわしなくぬぐいながらリョジュンの手をにぎった。リョジュンはぎょっとして手を引こうとしたが、婦人はそれをぎゅっとにぎりしめて放さなかった。
「ありがとう! リラは好きだったけれど、こんなに感動したのは初めてよ! 名前を教えていただけないかしら」
あまりのことにリョジュンが口を開けたまま突っ立っていると、また数人の客が舞台によじ登ってきた。彼らもまた、リョジュンが聞いたことのないような言葉で彼の演奏を褒め称える。そして次々と客が舞台に登り始め、拍手と彼を賞賛する声に呑まれて立ちつくしているリョジュンを見かねて、支配人が彼を客から引き離し、舞台袖へと引いていった。
鳴りやまぬ拍手の中ただ呆然と舞台袖へ戻り、そこにいた人物を見た瞬間、リョジュンは体を凍り付かせた。
そこには燃えるような怒りに満ちたロベルトの瞳が待ちかまえていた。そしてその後ろに立つニイドはおかしそうに笑っていた。それにリョジュンは全てを悟った。罠だった。
ロベルトはリョジュンの襟をつかんで宿舎まで引きずっていき、彼をその中に押し込むと同時に彼を壁へ突き飛ばした。リョジュンは大きな音を立てて壁に打ち付けられてうめく。
「よくもこんなまねをしてくれたな! この恩知らずが!」
「申し訳ありません!」
ロベルトは再びリョジュンの襟をつかむと、彼を持ち上げるようにして締め上げた。
「何が気に入らないと言うんだ! リラも地位も名誉も与えてやっているではないか。それを、私をだますようなまねをしてまで、舞台で己の曲を披露しようなどと! 思い上がるな、ボンクラが!」
締め上げられて息ができずにもがくと、一瞬視界が白く光って何も見えなくなった。
気がつくとリョジュンは床に倒れ込んでいた。こめかみがひどく痛み、どうやら殴られたらしいと悟る。涙のにじむ目を何とか開くと、蝋燭の明かりを背にしているロベルトの姿は黒々として、その表情はよく見えなかったが、その手にリョジュンのリラがあることだけはわかった。
「せ、先生……」
「行き場のないお前をここまでにしてやったのはいったい誰だと思っている! お前のようなやつを! リラを弾くこと以外には何の役にもたたぬくせに! 恩を仇で返すとはこのことだ!」
そう言ってロベルトはリョジュンを何度も打った。彼の美しいリラで。
「申し訳ありません、もう、二度と、こんなことは……」
言いながら何とかリョジュンは起き上がり、床に手をついて額をこすりつけるようにして頭を下げる。
「当たり前だ! もう、二度とリラなど弾くな!」
その言葉にはっとして、リョジュンが弾かれたように顔を上げると、ロベルトはテーブルにあったナイフを手にしたところだった。その左の手にはリョジュンのリラがにぎられている。全身の血の気が引いた。
「先生!」
とっさに飛び出して、ロベルトの腕をつかむ。
「放せ! 愚か者!」
「先生! やめてください!」
「うるさい!」
ロベルトは力一杯腕を払い、その瞬間、リョジュンの左手に焼け付くような痛みがはしる。
「いっ――」
ぽたぽたと赤い雫がしたたる。
「もう二度とリラなど弾くな」
ロベルトはもう一度そう言って、赤く染まったナイフをにぎり直す。
「やめてください先生! お願いです! それだけは!」
リョジュンは赤く染まった両手を必死に伸ばしたが、間に合わなかった。
ブツッ
リラは、彼がこれまで聞いたこともないような醜い音をたてた。
呆然と立ちつくすリョジュンの足下に、ロベルトは彼のリラを放った。ごろんと音を響かせてリラは床でくるりと回った。それに飛びつくようにリョジュンは手を伸ばすが、その左手から落ちる雫がリラを汚し、あわてて手を引く。
リラの四本の弦は全て断ち切られていた。
リョジュンは全身の力が抜けて、その場によろよろとしゃがみ込んだ。それをロベルトは汚い物を見るような目で見て、汚れたナイフをテーブルに放った。
「三日の猶予をやる。その間に荷物をまとめてここを出て行け」
吐き捨てるように言い、ロベルトは部屋を出て行った。